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悪魔の王のお嫁様  作者: 塩野谷 夜人
魔王の災厄編
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91.水際の攻防2

 倒れこんだまま私を殺せ、魔王を縊れと笑う男に、メイヴは静かに口を開く。


「わたしは、幻想を愛していたのね」


 胸の奥が締め付けられるほどに、静かな声だった。それでも、男はメイヴの名前すら呼ばない。あの力を使えとか、出し惜しみするな一掃しろとか叫んでいる。

 メイヴはそんな男を見て悲しそうに目を細めた。それから、メイヴはぽつぽつと後悔を乗せて語る。


「悪魔の王はあなたと違って、愛されし子を悲しませぬよう、とても大切に守っている。愛されし子はわたしと違って、悪魔の王を苦しませぬよう、とても大切に守っている」


 わたしはあなたを苦しませてしまったのね、とメイヴは消えそうな声で呟いた。メイヴの声が苦しくて、私は唇を噛む。


「お願い、愛されし子。どうか、私を呼んでちょうだい」


 メイヴの声に応えて、私は即座に彼女の名前を呼んだ。噛み締めるようにメイヴと呼べば、彼女は愛おしそうに目を細めて、涙を零す。たまらずに、私はもう一度メイヴと呼んだ。これはとても大切な、彼女の名前だ。メイヴの涙を指で拭うと、嬉しそうに微笑んで私に抱き着く。


「ありがとう、愛されし子。わたしが愛した人は、もう、ここにはいないわ」


 ざり、と音がして、男がジラルダークの方を向いた。最後の一つも、呆気なく魔王様に潰されてしまったようだ。男は転がるように駆けて、光を失った魔方陣に手を伸ばす。


「貴様、この陣がどれほど貴重なものか分かっているのか!」


 冷えた目で、ジラルダークは足元の男を見た。無造作に男を蹴り飛ばして、ジラルダークは吐き捨てるように言う。


「精霊も満足に使役できん塵屑が、何を喚く」


 男に見せつけるように、ジラルダークは宙に魔方陣を描いた。足元にあるものよりも精密で小型のものだ。床に転がる男は、限界まで目を見開いてその魔方陣を見ている。驚きに、というよりも魔方陣のその一片たりとも見逃すものかという執念に、背筋を寒いものが走った。この人は、メイヴが魔方陣に関わる精霊だから愛していたのかと、殴りかかりたくなる。


「精霊の王よ。欲と権力に目が眩んで、力も録に使えぬ塵を如何とするか」


「消してしまいましょう。余計な力は、人の目を狂わせるわ」


 メイヴは、私から腕を離して宙に浮いた。その体は、今までにないほどに青白く光っている。


「王っ……、こいつが、精霊の王だと!?」


「ここに残る研究もすべて、消えてしまうがいいわ。愛した記憶は、大切に閉じ込めておくから」


 メイヴの悲しい声に、私は目を伏せた。身に余る力を持って、変わってしまったのだろうか。少なくとも、今、私の目の前に、メイヴの愛した人はいない。


「せめて、わたしの名前がもうあなたの口から零れないものだと、分かってくれるだけでよかったのに」


 今のメイヴの契約者は私だ。他の誰にも、メイヴの名前は呼べない。それにすら、気付かなかった。光に飲み込まれる一瞬、男が口を開く。それはただ死の恐怖に叫んだものか、それとももう呼べない名前を象ったのかは、私には分からなかった。


 光の洪水が収まると、男も、魔方陣も、それどころか部屋も、何も残っていない。足元は瓦礫の山だ。見上げると、抉られたように城の内部が露出していた。


「愛されし子、ありがとう。少しだけ、泣かせてね」


 ふわりと私の胸元に顔を寄せて、メイヴが言う。私は何も言わずに、彼女の頭を抱え込んだ。メイヴの髪に頬を擦り寄せると、腕の中のメイヴは声を殺して涙を零す。オレンジ色の首飾りが、悲しい音を立てた。ジラルダークは音もなく歩み寄ってくると、私の頭を緩やかに撫でる。零れそうになる涙は、メイヴのものだ。


 どのくらいそうしていただろう。崩れた城の一角にいる私たちのところへ、ニンゲンの兵士たちが剣を抜かずに歩いてきた。その奥、華美な服を纏った壮年の男性が立っている。戦う様子を見せない彼らに、ジラルダークは軽く口元を吊り上げた。


「漸くお出ましか。ニンゲンの王よ」


「お前が、魔王か」


「左様。我が、貴様らの恐れる悪魔を統べる王だ」


 皇帝、なのだろう。壮年の男性は険しい顔でジラルダークを見ていた。それをどこ吹く風とばかりに鼻で笑って、ジラルダークは軽く片手を上げる。


 瞬間、周囲の景色が変わった。私の目の前には、跪く十二魔神と領主さんたち、補佐官さんたちと悪魔の兵士たちが少し、それにヴァシュタルとアサギナの兵もいる。その中心に、戸惑うニンゲンの兵士がいた。一変した状況に皇帝は慌てたそぶりを見せずに視線を左右に走らせる。私の隣にはメイヴと、玉座の前に立ったジラルダークがいた。


 あ、ここ、見覚えがあると思ったら、魔王召喚の間か。赤い絨毯に、髑髏のランプ、うん、間違いない。


 って、え、悪魔城まで飛んできたのか!


 ジラルダークは、優雅に玉座に腰を下ろして、その長い足を組んだ。肘掛けにもたれるように腕を預けて、妖艶な笑みを浮かべる。

 ここに連れてこられた時には気付かなかったけど、ここの髑髏ランプの照明は計算され尽くしていた。ジラルダークの顔には黒く影が出ているのに、表情は暗闇にくっきりと浮かぶ。彼の赤い瞳も、揺らめく炎に映し出されて狂気めいた輝きを醸し出していた。お伽噺の魔王は、現実の恐怖となってニンゲンの前に降臨している。


「楽にせよ。ああ、ニンゲンは我に膝をつかずとも構わぬ」


 えらく尊大に、ジラルダークがフェンチス帝に言った。戸惑う兵士は動くこともできずに皇帝を見る。


「……魔王の力で景色を変えたのか、それとも、移動をしたのか?」


「汚らしく崩れた城では話す気にもなれぬ。わざわざお前の抱える兵ごと我が居城に案内してやったのだ、深く感謝をするがいい」


 崩したのは魔王様だけどね、と心の中で突っ込んでおく。私は無表情のまま、ジラルダークと皇帝のやり取りを見ていた。


「自身の懐まで我々を引き込んで何を望む、魔王」


「さあて。喰らうニンゲンの味に飽いた故、お前の首を寄越せとでも所望するか」


 八重歯を見せて笑うジラルダークに、皇帝が眉間にしわを寄せる。抵抗しようにも、魔王に隙は無いし、そもそもニンゲンの力では傷も満足に与えられない。しかも、ここは悪魔城だという。ニンゲンにとって悪魔城の外は瘴気渦巻く危険地帯だ。逃げるのも分が悪い。沈黙してこちらを注意深く窺う皇帝は、そんなことでも考えてそうだ。


「まあ、差し出されてもいらぬが。我に悪食の趣味はない」


「……茶化すな。これ以上、我が国も犠牲者を出したくない」


 必死に、皇帝はジラルダークの真意を窺っているようだった。ジラルダークはくつくつと喉を鳴らしてニンゲンを嘲笑って見せる。


「まるで我が悪魔も犠牲になったように言う。おかしなことだ」


「刃も矢も通らぬ悪魔を、どう傷つけよと申すか」


「なんと脆弱な。その様でよく、膝を折りもせず我に口を聞けるものだ。ニンゲンの神経には感心しきりだぞ」


 呆れたように、どこか芝居めいたような物言いで、ジラルダークが笑った。彼の赤い瞳は、濡れたように輝いて目の前の獲物を狙っている。


「魔王の力があれば、人の国の全てをその支配下に置けるだろう。屈せと申すか」


「いらぬ。貴様の国はニンゲン臭くて敵わん。跡形も残らず燃やして更地にした方がまだ幾ばくか有用だ」


 肩を竦めて言うジラルダークに、皇帝はぐっと堪えたようだった。皇帝の額には青筋が立っている。

 いじめる気満々だったのだろう、皇帝の表情を見てジラルダークはようやく笑みを収めた。緩やかに指をさした先には、ヴァシュタルとアサギナの兵がいる。


「貴様の国はいらぬが、獣の国の土地は我が領土とする。今この時より先、指の一本でも触れてみろ。辿って喉元まで喰らいつくすぞ」


「……アサギナを横取りしたいと」


「これは異なことを言う。高々三万の悪魔に蹂躙される百万の塵が、獣の国を獲れたとでも?面白い戯言だな、微塵も笑えぬ」


「何故、今になってアサギナを欲すか、魔王」


「ははははは、ニンゲンとは王となっても斯くも愚鈍か」


 ひとしきり笑って完全に笑みを消すと、ジラルダークは玉座から皇帝を見下した。ぐいっと顎を上げたせいで、凄まじく悪人面になっている。さすが、魔王様。こういう魔王様ばっかり見ていたんだったら、最初に十二魔神に紹介されたときの反応も妥当だと、今になって思った。ヴァシュタルも、甘々な魔王様見てびっくりするのかな。


「凡愚なニンゲンよ。貴様は今、誰と口を利いている。貴様の目の前にいる我は、優しく教えを説く善良な魔王だとでも思うのか?」


 なるべく表情を押し殺しているけれど、皇帝の握り締める手は白く色を失っていた。そりゃあ屈辱だろう。今が好機だと隣国に攻め込んだってことは、温めていた戦力のほとんどをつぎ込んだんじゃないだろうか。それを、さらりと潰されて、狙っていた国すら笑いながら奪われたのだ。

 けれども、もう、どうしようもない。この赤い目の魔王に睨まれたならば、無事ではいられないのだから。


「分かった。我がフェンチスは、アサギナから手を引くと約束しよう。それで、我が国からは兵を引いてくれるか」


「ああ、よかろう。寛大な魔王に伏して礼を述べるがいい」


 ただし、とジラルダークは低く声を響かせて、皇帝をその赤い目で射抜いた。


「歯向かうもの、我が悪魔に危害を加えうるもの、その気配を少しでも匂わせたならば、魔王は寛大ではいられぬと覚えておけ。いかに欺こうと、魔王の目は誤魔化せぬぞ」


 息の詰まる威圧感を漂わせて、ジラルダークが言う。それまで怯んだ様子を見せなかった皇帝も、ジラルダークの威嚇に一歩足を引いた。皇帝の様子を確認して、ジラルダークは飽きたように玉座へ体を預ける。


「もうよい、下がれ」


 言いながら、ぱちん、とジラルダークが指を鳴らすと、皇帝とフェンチスの兵士は悪魔召喚の間から消えた。あっちの城に飛ばされたのだろう。


 これで、一応の決着はついたのだろうか。帝国のニンゲンも、ここまで脅されれば手を出してこないだろう。緊迫した空気が少し緩むのを感じて、私もいつの間にか詰めていた息を吐きだす。


 後にこの戦争が、ニンゲンの世では魔王の災厄と呼ばれる歴史的分岐点になるなんて、今の私には考えも及ばなかった。

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