89.悪魔の罪
【ジラルダーク】
アサギナに陣を敷いて二日目の夜、カルロッタの率いる悪魔軍が帝国兵の捕虜を伴って合流した。こちらは殲滅したが、帝国の皇帝への交渉材料として幾人か抑えさせている。グステルフの方も順調らしい。手応えがない、と嘆くほどには余裕があるようだ。
ゆらゆらと揺蕩う魔法の炎を眺めながら、俺は腕の中の温もりに頬を寄せる。さしたる抵抗もせずに、愛らしい温もりは俺の胸に頬を付けた。恥じらっているのだろう、俺の腕を軽く抓ることも忘れない。可愛らしい抗議に、俺は頬を緩めた。
今、この陣の天幕の中には俺とカナエしかいない。アサギナとフェンチスの戦に切り込んだ初日、さして俺がやるべきこともないからと城に帰ろうとしたら、補給部隊を指揮していたダイスケに咎められたのだ。どうせここも城と変わらず安全なのだから連れてきてしまえ、と。戦場から魔王がいなくなるよりはマシだと言っていた。カナエを戦場に連れてくることに躊躇いはあったが、一人寝の寂しさに耐えきれるはずもない。
一度城に戻って寝室に入ると、いつもは寝ている時間だというのにカナエは起きていた。一人だと寝にくくて、などと可愛らしいことを言われては、連れてこないわけにはいくまい。置いて戦場に戻るなど、論外だ。
城に連れてきた当初、カナエは一人ですやすやと寝ていたのを覚えている。それだけカナエの心を奪えたのだと思うと、堪らない愉悦だった。
「アサギナの人たち、やっぱり悪魔を怖がってるんだね」
最近、カナエは指先で俺の髪をいじることに執心しているらしい。くるくると人差し指に巻き付けながら、時折、軽く引き寄せられた。応じて顔を寄せると、カナエは蕾が花開くように笑う。軽く、そばにあったカナエの額に口付けた。
「今までは、積極的に関わらなかったからな。ニンゲンは、悪魔の容姿が異質に映るらしい。変化の術に富んだ者でなければ、すぐに悪魔として敵視される」
「東洋人と西洋人、みたいなものなのかな」
俺の膝の上でゆるゆると足を揺らしながら、カナエがもたれかかってくる。飽きることなく俺の髪をいじっている指先に口付ければ、ここは二人きりだからだろう、カナエは逃げずに俺の唇を指先でなぞった。
「ねぇ、ジルは、アサギナの人たちに悪魔のことを知ってもらいたい?」
「それは、難しい問題だ。国を成してからは悪魔の保護を優先していた。積極的にニンゲンの、悪魔への認識を正していたわけではないが、一朝一夕で変わるものとも思えぬ」
「そっか……。ヴァシュタルを見る限りだと本能で怖がってる部分もありそうだし。例えは悪いけど、日本人にしてみたらゴキとかゲジゲジとかみたいなものなのかなぁ」
「ゴキ、ゲジゲジ……、ああ、害虫だったか?」
前に、ダイスケから聞いた覚えがある。一匹見たら三十匹、と言っていたか。生理的嫌悪感を催す虫らしい。
「そんなことまで知ってるのか、魔王様。自分たちをアレに例えるのもちょっと、ううん、あれだけども、そのくらいの認識でいたほうがよさそうだね」
複雑そうな表情で、カナエが言う。
「この世界のニンゲンは、常に俺たちの敵でいた」
俺たちは今まで、ニンゲンに対しては消極的だった。悪魔を、同じ人間として認識させようと思ったことがないわけではない。だが、優先すべきはニンゲンに虐殺される悪魔の、同族の保護だった。
悪魔と呼ばれて数十年虐げられるうち、誰もニンゲンの国に住みたいと言わなくなった。言葉を尽くそうにも、対面すれば命を狙われる。ニンゲンに紛れ込もうとしたところで、悪魔と認識される明確な基準が分からない。いっそ悪魔だけの国があればいいと、数百年の昔に思った。きっかけはエミリエンヌだったが、そうでなくとも逃げ回るだけでは決壊寸前だっただろう。
「きっと俺は未だ、ニンゲンが憎いのだと思う」
「……うん」
「見知らぬ世界に来て、何の罪過もなく命を狙われる。訳も分からずに逃げる中、それを苦に死を選んだ友もいた。不意打ちの襲撃に、幾人も、数え切れぬほど無力に仲間を見送った」
ふとカナエの腕が、俯き語る俺の頭を抱いた。甘い香りに包まれて、俺は緩く瞼を伏せる。褪せることのない記憶が、脳裏によぎった。
自ら死を選択した友の顔は、今も鮮明に浮かぶ。死を選んだことを責められるような環境ではなかった。支えようにも、支える俺たちが不安定だった。何度、この世界を憎んだか知れない。元の世界に返せと、居もしない神に祈ったことすらあった。それでも、この世界は非情だった。
「だからこそ、今も、俺は悪魔が……、世界を超えて放り出された人々だけが、幸福であればいいと思っている。悪魔の王としてはそれでいいのかもしれないが、全く褒められたものではないな」
苦く笑う俺の言葉に、カナエは俺の頭を抱えたまま首を振った。彼女の押し殺した息が、俺の髪をくすぐる。
「すまない。久々にニンゲンに深く関わったからか、愚痴が過ぎた」
「そんなことない。そんなこと、ないよ、ジル」
カナエの声が震えていた。ああ、泣かせたくなどないのに、俺は何をしているんだ。この世界にきて弱音を吐いたことも悲観に暮れて泣いたこともないカナエを、結婚式のあの日から俺だけが泣かせてしまっている。
「ジルの心を聞けて、私は嬉しいよ。ジルは優しいから、今、ヴァシュタルを助けてるじゃない。ニンゲンが嫌いなら、あの時、私を呼ばすにヴァシュタルをどうにでもできたでしょう」
カナエの腕に軽く触れて、彼女の胸から顔を上げた。カナエの目尻に溜まった涙を、唇で受け止める。カナエは俺の頬を指先で撫でて微笑んだ。
「ねえ、ジルが悪魔を守ってくれたから、私は何の苦労もなくジルに会えたんだよ。今も、ジルの作ったシステムのお陰で、守られてる悪魔がいるんだよ。この世界が今の悪魔にとって優しいのは、ジルたちの苦しみの上にあるんだよ」
だから、とカナエは俺の額に自身の額をつける。暖かな感触に、俺は目を細めた。
「少しでも、ジルの苦しみをちょうだい。私は、名ばかりじゃなくて、ジルの奥さんになりたいから」
これほど俺の心を抱いているというのに、カナエはまだ足りないという。吐き捨てたい醜い感情がせり上がってきた。
「俺は、アサギナの落城を聞いてもどうでもいいと思っていた。放っておけば滅びるアサギナも、それを侵略するフェンチスも。ただ、フェンチスがアサギナの力を飲み込めば、獣人の能力を利用するだろう。それが、最悪の方向に転べば国が乱されると考えた。だから、支配するニンゲンの国はどこでもよかった」
獣人の能力は、その元となる獣に由来する。使いようによっては、例え魔法が使えなくともそこそこの戦力になるだろう。魔法を得手とするからこそ分かるのかもしれないが、獣人の能力の優秀さにいつニンゲンが気付くか知れない。となれば、悪魔の王として不安要素は摘んでおくに越したことはなかった。
そう本心を漏らしても、カナエはただ俺の言葉に静かに耳を傾ける。それが心地よくて、俺の口は止められなかった。
「悪魔の力は、もうニンゲンに対抗できるものではない。ニンゲンの国を統合したとことで、数で押せるものではないと示せればそれでよかった。そんな折、ヴァシュタルが現れた。あれを利用すれば、アサギナを支配下に置くのも容易い、……と思ったんだがな」
「ヴァシュタルは、ジルほど王様として振舞うのに慣れてなかったもんね」
笑うカナエに、俺も喉を鳴らして笑う。じゃれるようにカナエの唇に舌を這わせると、カナエは俺の口の端に口付けてきた。
「まだまだ、俺には及ばぬ」
「ふふっ、じゃあジルが先輩として教えてあげなきゃ」
「吠え癖のある犬は好かぬのだがな」
「そんなこと言って。拾った以上、ちゃんと面倒見るって決めてるくせに」
カナエが悪戯に笑んで俺の頬をつつく。ああ、見透かされていたか。カナエにならば、思惑を看破されても全く嫌な気がしない。どこか、胸の奥がくすぐられるような気分になるだけだ。
「カナエ」
肩にかけられているストールの中へ手を忍ばせると、カナエの頬が赤く染まる。だめ、と漏れるか細い声が、余計に俺を煽った。甘く震える唇を声ごと塞いで、カナエの華奢な体を抱き込む。形ばかりの抵抗すら出来ずに俺の腕の中で溶けるカナエを、俺は存分に堪能した。
◆◇◆◇◆◇
まだ熱の残る華奢な体を抱きながら、俺は天幕の入口へ視線を向ける。腕の中のカナエは、ワンピースの上に俺のマントを羽織って眠っていた。眠りを妨げぬように、カナエに睡眠の魔法をかけておく。
「今、少しいいか、魔王」
「構わん、入れ」
来たのはヴァシュタルだった。入るなり、腕の中のカナエを見てたじろぐ。ヴァシュタルの視線から隠すように、羽織らせていたマントでカナエの体を包んだ。
「何用か」
「あ、ああ。その、しばらくの間、アサギナの代表にはルベルトを据えることになった」
「そうか」
現段階では妥当、といったところか。ルベルトはアサギナ国軍の生き残りのうち、最も位が高く人望もある。この二日、アサギナの民の動向を窺っていたが、思ったよりは悪魔への反抗が少なかった。悪魔に逆らってもどうにもならないと、ルベルトが手を回したのだろう。
ヴァシュタルは、何度か言い淀んで、視線を泳がせた。俺は特に何も言わずにその様子を眺める。
数呼吸分置いて、ヴァシュタルはその場に跪いた。
「俺に、王としての考えを教え、て、ください」
俺はわざとらしく片眉を上げてヴァシュタルを見下ろす。跪いて俺を見上げていたヴァシュタルは、ぎこちない動きで頭を垂れた。
「頼む……、いや、お願い、します」
「敬語もまともに使えぬ奴を一から鍛えろと?我に何の得がある」
「っ……そ、れは……」
頭を垂れたまま、ヴァシュタルが唇を噛む。一国の王に対して、ましてや恐怖の象徴である魔王に対して、交換条件も用意していないのか。喰いつきやすい餌も用意してやったというのにな。やれやれ、頭の痛い問題はまだ片付きそうにない。
「……跪けば飼ってやると言ったのは、我だったな。よかろう、邪魔にならん程度に我の傍に侍ることを許す」
「!」
「一つ一つ丁寧に教えてやる義理はない。使えぬままならば己が器の問題だ」
ああ、そうだ。俺の傍に置いて、エミリエンヌ辺りに扱かせよう。顔を上げたヴァシュタルに、俺は軽く顎をしゃくってみせた。
「下がれ」
ヴァシュタルは、聞き逃すほどに小さな声で礼を言って天幕を出ていく。完全にその気配が遠ざかったのを確認してから、俺は長く息を吐いた。腕の中のやわらかい存在に顔を埋めて、瞼を下ろす。
どうか、許してくれ。お前たちを死に追いやったニンゲンに与する俺を、どうか。
届かない懺悔の言葉を何度も吐いて、俺は長い夜を過ごすのだった。




