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悪魔の王のお嫁様  作者: 塩野谷 夜人
魔王の災厄編
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83.白狼の逃避行1

※残酷な表現があります。苦手な方はご注意ください。







【???】


 がらがらと崩れ落ちる瓦礫を掻き分けて、俺は目の前に広がる光景に息を飲む。悪夢のような景色は、地下深く閉じられた俺の世界が崩れていくようだった。鼻につく酷い臭いに、俺は胃の奥から競り上がるものを堪えきれない。したたか吐いて、揺れる視界のまま歩き出した。

 埃と、血と、焦げた獣の臭い。ぐしゃりと足元で潰れた赤は、何だったのか。気付いてしまう前に、俺は駆け出す。


 一体、何が。 


 何がどうなっていやがる。


 兵はどうした。女王は何をしている。ここは、俺の知る場所なのか。


 崩れた瓦礫の、どこからどこまでが、玉座の間だったのか。玉座にある首のないそれは、俺の、母、か?


 吐き出せるものは何もなかった。胃液だけが喉を焼く。迫る炎が、欠けた玉座を飲み込もうとしていた。

 噎せながら、玉座に向かう。血の臭いと、埃の臭いと、胃液の臭いと、混じっていても、何度忘れようとしても、知っている。


 これは、俺の、母だ。


「あ、ぁ……」


 がらがらに掠れた声で、俺は、何を呼ぼうとしたのか。膝をついて血濡れた母に手を伸ばしても、もう、二度と届かない。ざわ、と体の内側が疼いた。溢れだす黒を、止める手段が浮かばない。


 飲まれる。


「が、ッアアアアアアアアアアア!」


 咆哮を上げて、全身に駆け巡る引き裂かれるような熱を逃がした。ぐう、と喉が鳴く。複数の足音が、こちらへ向かってくるのが聞こえた。俺は、牙を剥き出しにして地面を蹴る。瓦礫の海にいたのは、見覚えのない鎧を纏った兵士たちだった。獣の血が、色濃く残っている。


 そうか。お前たちが、やったのか。お前たちが、俺を解放したのか。


 鉄の鎧を爪で裂いて、喉元に喰らいつく。上がる血飛沫に、本能が笑った。次を、次をと俺を急き立てる。


「魔物が出たぞ!増援を呼べ!」


「ぎゃああああ!」


「魔物め!邪魔をするな!」


 俺は、魔物か。


 そうだ。俺は魔物だ。人を食らう、化け物だ。お前は化け物だと、地下牢に閉じ込めたのだ。俺の、母が。


「化け物と、そう呼んだ貴様が死ぬのか!」


 牙を濡らす血を撒き散らして叫んでも、玉座の母は答えない。


「俺は化け物か!閉じて蓋をしなきゃならねぇ存在か!」


 答えない。それはそうだ、母には首がないのだ。


「お前の、……お前の子だろう!」


 鬱陶しく纏わりつく人間を噛み殺しながら、俺は叫ぶ。こと切れた兵をぐしゃりと床に叩きつけて、俺は天を仰いだ。俺の咆哮に、瓦礫が、崩れていく。


 堅牢を誇っていたはずの城が、崩れていく。


「貴様の国のためじゃなかったのか!なんだ、このザマは!答えろ!」


 玉座の上に、がらがらと崩れる。広がる赤に、血が沸騰した。


「答えろよォォォォォ!!」


 あれほど欲した温もりは、もう、どこにもない。壊れてしまった。どこを探しても、二度と、俺には与えられない。希望すら、消えた。



◆◇◆◇◆◇



 どれほどの時間を瓦礫の中で過ごしただろうか。気付けば俺は、次々と送りこまれる兵から逃げていた。その過程で、奴らが帝国の兵だと知る。国は今、瀕死だった。


 城から逃げ出して町に辿り着いても、状況は城内とさほど変わらない。崩れた家や店の山と、人と獣の死体の山ばかりが続いていた。

 辛うじて生き残っていた人も、俺を見ると逃げ出す。俺はもう、獣とも魔物ともつかない姿をしていた。人型に戻ろうにも、残された体力では維持することすらできない。


 力の入らない四つ足で地面を掻いて、街道から逸れるように山奥へと進む。途中で何匹か魔物を見かけたが、奴らは俺を見ても襲い掛かってこなかった。突きつけられた事実に、笑いが込み上げてくる。


 俺はもう、人じゃない。魔物の仲間なのだと思い知らされた。


 いっそ、魔物として生きてやろうか。生きて、いけるのか、俺は。もう何年も、城の地下牢しか記憶にない。外の世界など、夢物語だった。


 歩みを止めて、俺は冷たい地面に伏せる。ここは、埃の臭いも、血の臭いも、獣の臭いもしなかった。ただあるのは、故郷の臭いだけだ。心地いい悲しみに、残っていた気力も尽きる。

 がさりと草が揺れた。近くにいたのだろうか、一匹の魔物が俺に寄ってくる。逃げることもせずに、俺は地に伏したまま近付く魔物を見ていた。


 目と鼻の先程に近付いた魔物は、俺にくるりと背を向ける。数歩、どこかへ向かって歩いて、振り返った。また数歩歩いて、振り返る。何だ?ついてこい、とでも言いたいのだろうか。


 軋む体を起こして、俺は魔物に歩み寄った。歩き出した俺を確認した魔物は、今度は止まらずに俺の先を歩く。


 どこまで行くんだ、とうんざりし始めた頃、奇妙な感覚に襲われた。全身が力に満ちるような、虫唾が走るような、両極端な感覚に吐きそうになる。気付けばそこに魔物の姿はなかった。闇の中、俺は必死に足掻く。


「がっ……は、」


 ようやく呼吸ができるようになって気付いた。ここは、どこだ。見知らぬ臭いに溢れている。何だ、俺はどこにいる?そんなに歩いたのか?馬鹿な、国を出るほどの体力は、俺にはもう残っていなかった。


 鼻を利かせて辺りを見回していると、不意に、圧し潰されそうな強烈な威圧感が襲ってくる。心臓が痛いほどに鼓動を刻んだ。逃げろ逃げろと本能が警鐘を鳴らす。

 逃げたい、のに、震える足に力が入らなかった。がくがくと揺れるばかりで、言うことを聞かない。しまいには、力が抜けてへたり込んでしまった。


 情けなくて泣けてくる。化け物の癖に、俺は無力だ。


 全身に冷や水を浴びせるような威圧感を持った何かは、どんどんこちらへ近付いてくる。俺にできるのは、草むらに伏せて息を殺して、ただただ見つからないことを祈るばかりだ。こんな俺が化け物だと。笑えてくる。

 がちがちと歯が音を立てた。恐怖で死にそうだ。気でも失えたら楽になれるのに、と現実から逃げても、あの威圧感からは逃げられない。


 やがて、一つの黒い影が空から降ってきた。息も詰まるほどの圧迫感に、顔を上げることすらできない。


 ざく、と草が鳴いた。俺の方へ近付いてきている。もう、見つかってる。殺される。見逃されるはずがない。


 ───ああ、俺はここで、死ぬのか。


 冥土の土産だ、何に殺されるのか、一目見て、地獄に行こう。震える視界をどうにか持ち上げると、そこにいたのは、闇の化身だった。


 黒く顔にかかる髪に、長い体躯、全身は闇に溶け込んでいる。赤い瞳は、鋭く細められて俺を見ていた。立ち上る魔力は、目に見えそうなほどに濃い。


 遠い昔、物語に聞いた存在を思い出した。


「ま、……まお、う…………」


 まさか、そんな。魔王なんて、物語の中だけの存在だ。その、はずだ。悪魔は、進化した魔物の成れの果て、だろう?


「……言葉を操る魔物、か?それにしては……」


 低く、腹に重く響く声だった。魔王は緩く首を傾けて俺を見る。その視線だけで死にそうだ。ああ、魔王も人の言葉を喋るのか。


 よくよく見てみれば、魔王は人と同じように服を纏っていた。魔王が着ているのは、見たこともないような服だ。闇に溶けそうなほど黒いマントが、風に揺らめく。


 一歩、魔王が足を踏み出す。反射的に、全身が跳ね上がった。魔王にしてみれば、俺など道端の塵に等しい存在だろう。だというのに、魔王は歩みを止めた。俺をじっと見て、何かを考えるように口元に手を当てる。それは、ひどく人間臭い仕草だった。


 赤い瞳を流れるように動かして、追って顔を上る。空を仰いだ魔王は、纏う威圧感が虚構に思えるほどやわらかな笑みを称えた。


「わざわざすまない」


「ううん。どうしたの、ジル」


 鈴のような音色が、天から降ってくる。


 澄んだ空色の布を纏った女が、侍女を伴ってふわりと姿を現した。栗色の髪が揺れて、花の香りが溢れる。こちらも物語に聞いたことがあった。あれは天使だ。

 今、俺の目の前には、魔王と天使がいる。夢か、これは。俺は気が触れたのか。こんな馬鹿げた夢を見るほどに、俺は追い詰められていたのか。


「少々気にかかることがあってな。だが、恐らく俺では近寄れん」


 魔王の言葉に、天使がこちらを見た。黒色の瞳が、怯えて震える俺の視線と混じる。情けない姿を見ても、天使はくすりとも笑わなかった。


「魔王様、怖いもんねぇ」


「他の魔物が寄らぬように魔力を解放しているだけだ」


 どこか不服そうに、魔王が言う。天使は、魔王の低い声も、潰されそうな威圧感も全く意に介した様子はなかった。むしろ、魔王を見上げて笑っている。

 天使に纏わりついていた侍女……、いや、侍女ではないのかもしれない。侍女の割には、態度がおかしい。妖精のような女が、天使の手を撫でた。


「念のため、ね。愛されし子」


「ありがと、───」


「捕まえたら、一度戻ろう。魔力がなければ、こいつも怯えぬかもしれん。ダイスケ辺りでも呼んでみるか」


「うん、分かった」


 頷いて、天使が近寄ってくる。俺は、逃げだすことも、駆け寄ることもできなかった。ただ、天使の瞳を見つめていた。


「怖くないよ、大丈夫」


 やさしい音色が、震える俺を暖かく包む。そっと触れた手が暖かくて、今まで知りえた何よりも暖かくて、俺は体を震わせた。大丈夫、と甘く囁きながら、俺の背を撫でる。


 その心地よさに安堵して、俺は意識を手放した。

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