75.風の精霊
普段はのんびりとした和風の庭園は今、物々しい雰囲気に包まれていた。私の目にも映る、夕暮れの庭園を覆う半透明のキューブが恐らくは結界なんだろう。キューブの四隅にそれぞれ、ボータレイさん、トパッティオさん、トゥオモさんにリータさんがいる。ボータレイさんのところに向かうと、何か言いたげに、でも何も言わずに少し空間を開けてくれた。
ジラルダークとメイヴと共に結界の中に入って、私は拳を握る。メイヴの……精霊の力がどんなものなのか、私には分からない。けれど、それでエミリエンヌが救えるのなら、ビビってる場合じゃない。
「カナエ、精霊の王に自身を防御させるように命じてくれ」
「分かった」
「可能であれば、そのままカナエを連れて逃げてくれ、精霊の王」
ジラルダークの言葉に、メイヴはにっこりと笑った。くるりと私とジラルダークの周りを舞って、メイヴが私の正面に浮かぶ。
「さあ、愛されし子。わたしを呼んで」
よし……。ええと、私を守ってほしい、って願いながら呼ぶんだよね。できれば、私だけじゃなくて、ジラルダークも守ってほしいけど……。
そう思ってメイヴを見上げると、彼女はやさしく目を細めて頷いた。大丈夫よ、と言ってくれてるみたいだ。
「メイヴ、お願い」
瞬間、メイヴの体が青白く発光した。眩しくて思わず目を閉じると、次いで息の詰まるような突風が吹き荒れる。
飛ばされそう、と思ったら、花の香りだけを残して突風が止んだ。
恐る恐る目を開くと、目の前が真っ赤に染まっている。そこに、ジラルダークが剣を抜いて立っていた。彼の体は、私と同じように青い光に包まれていた。風は感じないけれど、周りの木や草がものすごい勢いで揺れているから、これはメイヴの防御の効果なのだろう。するりと肩に腕を回されて顔を上げると、ごく至近距離にメイヴの整った顔があった。
「赤い風の子、怒らないで、声を聞いて」
真っ赤な塊に、メイヴが呼びかける。どん、と何かがぶつかる音が目の前で響いた。ジラルダークが、双剣を振って赤い塊を切り裂く。
「退け、精霊の王!」
「憎い」
頭の中を掻きむしるような、かさついた灼けた声が響いた。赤い塊の中心から漏れ聞こえてきてる。思わず頭を押さえると、私の手にメイヴの手が重なった。
「ニンゲン、王、捕らえた」
「違うわ。全てわたしが悪いのよ。赤い風の子、悲しまないで。わたしの声を、聞いて」
「滅ぼす」
ごう、と風が鳴ったと思ったら、視界がものすごい勢いでぶれる。浮遊感があって初めて、宙に浮いていると気付いた。メイヴと一緒に、空を飛んでるらしい。
私がいた場所が抉れているから、攻撃を避けてくれたのだろう。ジラルダークが私たちを見上げて息を吐いたように見える。
赤い塊は嵐のように渦巻いて、私たちを飲み込まんばかりに膨張していた。どうすればいい。どうしたら、止められる?私の考えに呼応するように、メイヴが口を開く。
「あの子の力を削らないと、声を聞いてもらえなそうだわ」
「戦うなら、私は逃げてた方がいい?」
「いいえ、ここでわたしを呼んで、愛されし子。悪魔の王とわたしで、赤い風の子を抑えるわ。ここからなら、よく見えるでしょう?」
「うん、そうだね」
確かに、正面から捉えるよりも、こうして俯瞰して見たほうが全体を把握しやすい。メイヴは私の周りを体をぐるりと回ってから、ジラルダークのそばに降り立った。
「退けと言ったはずだ」
「赤い風の子が悲しんでいるのはわたしのせいよ。償いたいの」
ジラルダークは、メイヴを睨みつけながら迫りくる赤い塊をひらりと避ける。と同時に剣を薙いで塊を切り裂いた。
赤い塊は、ぐにゃりと歪んでからまた、ぐるぐると渦巻き始める。攻撃が通っているのだろうか。風を切っているようで、手応えがあるようには感じられなかった。
「憎い、ニンゲン」
乾ききった声は、耳に入れるだけで息苦しい。これが、精霊の声なのか。メイヴとは全然違う響きだ。
「駄目よ、飲まれては駄目」
メイヴはそう言いながら、赤い塊を抱き締めるかのように両手を広げた。赤い塊の起こす渦が、メイヴの体を切り裂いていく。
「メイヴ!」
叫ぶと、メイヴの体が青く光った。いつの間にか渦の背後に移動していたジラルダークが、渦を何度も斬りつける。
「あああああ憎い、ニンゲン、滅ぼす!」
「くっ……!」
「ああっ!」
赤い塊が叫んで、ジラルダークとメイヴが弾き飛ばされた。ジラルダークは衝撃を剣で受け流して、メイヴは吹き飛ばされた勢いのまま空中でぐるりと回転する。
「分からず屋ね」
「動きを止めるぞ、引きずり出せ」
そう言って、ジラルダークが赤い塊に手をかざした。すると、ジラルダークが刻んでいた剣の軌跡が白く輝く。白く瞬く軌跡は、赤い塊を締め付けるように凝縮していった。な、何、この技!?
「!!」
赤い塊の、あの灼けた声が息を飲む。メイヴが、私を見上げた。力をちょうだい、と言われているようだ。
「頑張って、メイヴ!」
「ありがとう、愛されし子」
微笑んで、メイヴは白い軌跡ごと赤い塊を抱き締めた。まるで体内に取り込むように、メイヴはきつくその塊を抱き込む。
「赤い風の子、聞いて。わたしはここにいるわ」
「…………王……」
「そう、わたしよ。もう大丈夫、ニンゲンを憎まなくていいの。殺された子たちも、もう一度生まれるわ」
「生まれ、る……」
「また会えるのよ。大丈夫、あなたが悲しむことはないの。わたしの大切な子。赤い風の子。悲しまないで、わたしはここにいるわ」
あれだけ激しく渦巻いていた赤い塊が、メイヴの声に鎮まっていく。緩やかになっていく風に、メイヴはほっと息をついた。
「心配をかけてごめんなさい、赤い風の子」
「王……、尊き王……」
メイヴの腕の中には、サッカーボール大の赤い光が残っている。ジラルダークの魔法のようなものも、いつの間にか消えていた。
渦が収まったのを見届けて、ジラルダークがこっちに飛んでくる。ジラルダークに抱き寄せられると、さっきまでのふわふわとした浮遊感がなくなった。メイヴの魔法が消えたのかな。そのまま、ジラルダークは私を抱えて着地する。
「愛されし子、悪魔の王、ありがとう」
「お前にはまだ聞きたいことがあるが、まずはお前の精霊たちを落ち着かせて来い。我が后の声はどこであろうと届くだろう?」
私を横抱きにしたまま言うジラルダークに、メイヴは楽しそうに笑った。
「やさしいのね」
「こちらも、色々とごたついたからな」
言いながら、ジラルダークはメイヴに背を向けて歩き出す。張られていた結界は既に解かれていて、ボータレイさんたちがこちらを見ていた。
「行ってくるわ、愛されし子。また後でね」
メイヴはそう言って、花の香りを残して消える。ジラルダークに抱えられたまま、私は彼の顔を見上げた。今の戦いのせいだけじゃないだろう、彼がこんなに険しい顔をしているのは。
「ボータレイ」
結界を張っていた四人が待つところまで歩いてきて、ジラルダークは口を開く。他の三人に遅れて、ボータレイさんが表情を隠すように跪いた。
「俺は俺の命を粗末にはしない。国の要としても、だ。その上で、最も確実な方法をとる。俺は、悪魔の王だからな」
私を抱くジラルダークの腕に力がこもる。私は皆に気づかれないように、そっとジラルダークの服を掴んだ。
「異論があるならば、俺を超えろ」
「……かしこまりました」
「トゥオモ、魔神と領主を広間に集めよ」
「承知いたしました」
流れるように指示をして、ジラルダークは再び歩き出す。まっすぐ前を見つめたまま暫く歩いて、ジラルダークは口を開いた。
「お前を巻き込みたくはなかったのだがな……」
「私じゃ役に立てないかもしれないけど、魔王様の奥さんになったんだから、覚悟の上だよ」
ぎゅっとジラルダークの服を掴んで、私は彼の横顔を見つめる。ようやく、ジラルダークは私に視線を向けた。どこか苦しそうな表情に、私は服から手を放してジラルダークの頬に指を伸ばす。
「ジル?」
そのまま、背中にあった腕に力を込めて引き寄せられると、噛みつくようなキスが落ちてきた。抵抗せずに受け入れて、私はジラルダークの肩に腕を回す。
どうしたんだろう。何を不安に思ってるんだろう。その不安を、少しでも取り除ければいいのに。
私は、ジラルダークの力強い腕に抱かれながら、そう願った。




