74.精霊の王
あの子は夢の終わりに、私に告げた。彼女の名前は、メイヴだ、と。その名前を、私はゆっくりと唇に乗せる。
「メイヴ」
呼ぶと、花の香りが辺りを包んだ。ふんわりと風が吹いて、やがて青白い人影を作る。夢と同じように、青白い人影は段々と色付いていった。きれいな白い髪に、陶磁器のような肌、桜色の瞳に、濡れた緋色の唇。長いまつ毛は、もう涙に濡れていない。
「呼んでくれたのね、ありがとう」
綻ぶように微笑んで、メイヴはふわふわと空中を泳いだ。
「おいおい……、オレにも見えるぞ」
いつの間にか腰の刀の柄に手を置いていた大介くんが、目を見開いて言う。リータさんも、剣に手をかけたまま呆然としていた。ジラルダークは私をかばうように立って、油断なくメイヴの動きを注視してる。
そんな三人の警戒をどこ吹く風とばかりに、メイヴは私へと手を伸ばした。惹かれるように、私も手を伸ばす。
「もう、泣いてない?」
「ええ、愛されし子。わたしはもう大丈夫よ」
メイヴは桜色の瞳を細めて、私の指先に触れた。ジラルダークの張った結界が、ぱちりと瞬く。
「ふふふ、いいわね。愛されているの。とても素敵だわ」
結界に弾かれたのに、メイヴは嬉しそうに微笑んだ。それから、音もなく地面に足を降ろしてジラルダークに向き合う。
「あなたが悪魔の王ね」
「ああ」
「迷惑をかけてしまってごめんなさい。わたしの子が暴走しているの」
「止めることはできるのか」
ジラルダークの言葉に、メイヴは悲しそうに首を振った。胸元のオレンジの首飾りがちゃりと音を立てる。
「難しい、と思うわ。声が届かないの。ニンゲンに殺された沢山の仲間の思いを、吸ってしまったみたい」
「……そうか。お前は、俺たちを連れてその精霊のところまで行けるか」
「ええ、それが愛されし子の望みであれば」
そう言って、メイヴは私を見た。ジラルダークは、少し腕を上げてメイヴの視線から遮るように私を背後にかばう。
「代償は何だ、精霊の王」
ジラルダークが、メイヴに鋭く尋ねた。メイヴはさらさらと長い髪を揺らしながら首を振る。
「愛されし子から何かを奪うつもりはないわ」
「何故、我が后を選んだ」
「生まれ変わりたくなかったのに、わたしを生まれ変わらせようとした子供たちがいたの。あなたたちを襲ってしまった子よ」
メイヴは悲しそうに俯いて、胸を抑えた。
「逃げようとして、そこで見つけたの。とてもきれいな白を纏った愛されし子」
あの赤い空間に見えた、青白い影。あれはメイヴだったんだ。そういえば、夢の中でもウエディングドレスを着てたな、私。メイヴはそれに惹かれてきたのか。
「聞こえるわけがないと思っていた。けれど、愛されし子はわたしの声を追ってくれた。悲しみを掬い上げてくれた」
「そんな……」
私は、そんな御大層なことをしてない。ただ、メイヴの話を聞いて、自分勝手に慰めただけだ。
「言葉だけでも、一緒にいてくれてとても嬉しかったわ。愛されし子のそばは、とても心地いいの。悪魔の王、あなたもそうでしょう?」
聞かれたジラルダークの表情は、私からは窺えない。けれど、私をかばう手に力が込められたのは分かった。
「力は戻っているのか。転生をしたのであろう?」
ジラルダークの低い声が響く。メイヴは不思議そうに首を傾げて、何か思いついたのか、ああ、と呟いた。
「力を失わずに転生できるのよ。愛されし子と、最上位の契約を交わしたから」
「えっ?!」
さ、最上位?最上位の契約って何?ていうか、いつの間に?
「愛されし子の負担になるつもりはないの」
「そういうことか……」
納得したように、ジラルダークの声から鋭さが消えた。最上位の契約とやら、後で誰かに聞いてみよう。
と、廊下からいくつか足音が聞こえて部屋の襖が開いた。トゥオモさんとボータレイさん、それにノエとミスカだ。ノエとミスカは、メイヴの姿を見て驚いたように体を硬直させる。
ジラルダークが、魔法で指示を出してるのだろう。私をかばっていない方の手を口元に当てていた。
「もう一つ確認だ。アサギナの王城を落としたのはお前か?」
その言葉に、メイヴは長いまつ毛を伏せる。そうよ、と小さく彼女は頷いた。メイヴの許されない罪は、やっぱりこのことだったんだ。
「トゥオモ、エミリエンヌの様子は?」
「意識を失っておりますが、精霊からは何もされておりませぬ」
「精霊は、王の復活に気づいたか?」
「いえ、こちらに向かう様子もありませんな」
「わたしが力を使わなければ、あの子が居場所を知ることはないと思うわ。あなたたちを襲った赤い風の子は、心が乱れてしまっているもの」
傅いて答えるトゥオモさんの言葉を、メイヴが補足する。その精霊は、たくさんの仲間が殺されてしまって、その思いを吸って、暴走していると言っていた。どれだけ苦しいかと考えると、胸がぎゅっと詰まる。
「愛されし子……」
メイヴが、ふわりと宙に浮いて私のそばにきた。触れずに、私を抱き締めるよう腕を伸ばす。包まれる花の香りに、私は詰めていた息を吐いた。
「ノエ、ミスカ。二人にはエミリエンヌを連れ戻す任を命ずる」
「上位精霊は如何するつもりでござるか」
大介くんの言葉に、ジラルダークが振り向く。私を見て、それから大介くんへと視線を向けた。
「こちらに誘き寄せ、俺が迎え撃つ」
「陛下!」
「国への被害を最小限に収める。口答えは許さぬ」
咎めるような声を上げたボータレイさんを、ジラルダークは鋭く制した。
「トゥオモ、ボータレイ、リータ=レーナ。トパッティオを含めて庭園に結界を張れ。ダイスケ、カルロッタの軍と合流しろ。万一の時は、民の誘導を最優先させろ」
魔王然とした物言いに、何故か渋々といった様子でボータレイさんは跪く。ジラルダークはそれから小さく呟いた。元より勝算のない賭けはしない、と。
「行け」
ジラルダークの声に、みんな素早く動き出す。残されたのは、ジラルダークと私、それにメイヴだ。
「精霊の王、我が后の守りは頼めるか」
「当然よ。愛されし子は何をもってしても守るわ」
自信満々に頷いて、メイヴは私の頬に指先を触れさせる。いつの間にかジラルダークの張った結界は解けていたらしい、メイヴの指は弾かれなかった。
「カナエ、すまない。お前を巻き込んでしまうが……」
「ううん、それは全然構わないよ」
話の聞いている限りだと、私がメイヴにお願いして力を使わせて、メイヴの居場所を精霊に知らせるのだろう。そして、誘き寄せた精霊をジラルダークが迎え撃つ。その隙に、ノエとミスカがエミリエンヌを救い出す、って作戦だと思う。
この考えで合ってるかとジラルダークに尋ねると、彼は微笑んで頷いた。大きな手が、よしよしと私の頭を撫でる。
「望みを込めて、わたしの名を呼んでね、愛されし子」
「うん、頑張る。っていうか、最上位の契約って何?」
「ふふふ」
メイヴは私の質問に楽しそうに笑った。けれど、答えてくれない。ジラルダークを見上げると、彼は肩をすくめた。
「最上位の契約とは、隷属契約だ。カナエからは何もせずとも、カナエの意思を汲んで精霊が力を使う」
「それ以上は駄目よ、悪魔の王。愛されし子に少しでも長く呼ばれたいもの」
メイヴの言葉に、ジラルダークが溜め息をつく。れ、隷属って穏やかじゃないな。奴隷ってこと、だよね……?少しでも長く呼ばれたいって、名前を?それとも、召喚してほしいってこと?
「難しく考えてはいけないわ、愛されし子。この契約があっても、わたしは自由に動けるのよ、大丈夫」
「そ、そうなの……?」
言いくるめられてるような気がしなくもないけれど、メイヴは嬉しそうに笑っているから大丈夫、なのかな。ジラルダークも、特に口を挟んでこないし。
「用意ができたようだ。行こう、カナエ」
「うん」
差し出されたジラルダークの手を取って、私たちは庭園に向かう。エミリエンヌを取り戻して、苦しんでる精霊を何とかするんだ。