72.純白の花嫁
呼びかけられた気がした。どこか、遠くの方から、とてもか細い声で。どこだろうと周りに意識を向けると、そこは色とりどりの花が咲き乱れる野原だった。気持ちのいい日の光の下で、私は佇んでる。
ここは、どこだろう。すごくきれいで、すごく心地のいい場所だ。
また、誰かの声が聞こえた。ような、気がする。きょろきょろと辺りを見渡しても、それらしい人影はなかった。声が聞こえてくる気がする方向へ歩き出そうとして、服を踏んでつんのめった。
足元をみると、ふわりとした白いスカートが見える。ああ、ドレスを着てるのか。動きにくいな、もう。
ぐいっとスカートを持ち上げて、私は声の聞こえる方へ歩いた。名前を呼ばれているような気もするし、おーい、ってただ呼ばれているだけのような気もする。誰だろう。私の知っている人だろうか。
なるべく花を踏まないようにしてるけれど、それでもこれだけ群生してると難しい。大股で体重をかけすぎないように、と思っていたら、いつの間にか小走りのようになってしまった。
「…………」
薄っすらと、それでもさっきよりは聞こえるようになってきた。呼んでると思ったけれど、これはもしかすると、泣いているのかもしれない。
こんなところで、どうして泣いているのだろう。こんなに気持ちのいい場所なのに。ピクニックに打って付けだよ、ここ。人生さ、悲しいこともあるけれど、楽しいこともあるんだよ。悲しいことばっかりなら、楽しいことを見つけて、一緒に楽しもうよ。こんなにいい天気で、こんなにきれいなところなんだから。泣いてちゃもったいないよ。今、行くから。とてつもない悲しいことなら、一緒に愚痴って、すっきりしようよ。
花畑の中、見つけたのはオレンジ色の首飾りだった。
そっと右手で拾い上げると、まるで触れた場所から溢れるように感情が流れ込んでくる。落とさないように胸の中に抱き込んで、押し寄せてくる思いを噛み締めた。
この首飾りを貰ってとても嬉しかったこと。一緒にいれて楽しかったこと。首飾りをくれた人に恋をしていたこと。愛し合ったこと。とてもとても幸せで、幸せすぎて、泣きたくなったこと。
その人から、悲しいお願いをされたこと。
役に立てるならと、精一杯頑張ってしまったこと。褒めてもらって嬉しいのに、苦しかったこと。自分の幸せが、誰かの悲しみの上にあったこと。その人の幸せが、自分の悲しみの上にあったこと。自分の目の前に広がる悲しさに気付いて、息ができなくなってしまったこと。
消えてしまいたい、と、涙交じりの声が聞こえた。
誰かの不幸に気付かずに自分の幸福だけを追い求めてしまったこと。案じてくれる声を鬱陶しいと思ってしまったこと。自分は純白だと思い込んでいたこと。首飾りだけが唯一無二の繋がりで、他をぞんざいに扱ってしまったこと。沢山の思いを、踏みにじってしまったこと。そうして出来上がった、目の前を染める赤い色。
「許されないの」
どこかで見た青白い人影が色を持って、私の前に現れた。きれいな白い髪に、陶磁器のような肌、桜色の瞳に、濡れた緋色の唇。長いまつ毛は、涙に濡れている。
彼女は私の右手の中にある首飾りを、私の手ごと握った。はたはたと、その上に涙が落ちてくる。
「どうして?」
「許されない、許されるはずがない」
しなやかな髪が乱れるほどに首を振って、彼女は私の胸元に、抱え込んでる首飾りのところに顔を埋めた。
「自分の悪いところ、そんなに気付ける人って中々いないよ」
自分のせいで誰かを悲しませてしまった、誰かの思いを踏みにじってしまった、なんてきっと私には気付けない。そりゃさ、目の前で訴えられたら分かるだろうけど。
「大好きだったんだね」
この首飾りをくれた人のことを、盲目になってしまうほどに愛してたんだ。その気持ちが、彼女の苦しみになってしまった。
「沢山の命が、奪われてしまった」
「あなたの力で?」
「そう。わたしの力。あんな風に使ってはいけない力」
好きな人に喜んでもらいたい。好きな人が幸せであってほしい。その気持ちは、痛いほどに分かる。
「だから、消えたい?」
「許されないわ、許されない。消えてしまうしかないじゃない」
私の胸元から顔を上げて、彼女は苦悶の表情で私を見上げた。風に緩やかに流れる白い髪を、私はそっと撫でる。
「償うのは、ダメかな」
「償えるはずないわ、こんな、わたしの命一つで……」
言って、彼女は私から視線を逸らした。さわさわと花を揺らす風が心地いい。この心地よさも、今の彼女は感じられないんだ。それは、私が彼女ほど真剣に、自分自身を見つめられていないからなのかもしれない。
「償いきれなくても、それならそれで、いいじゃない」
「え……?」
「私はね、あなたはとても立派だと思う。自分の罪を自覚して、とても苦しんでるじゃない。もしもね、私があなたの立場で、私の幸せを脅かす誰かを排除できる力を持っていたら、私はきっと、あなたほど苦しむことなくその力を使ってしまうよ」
大好きな人を守りたい。それが、誰かの悲しみに繋がっているのだとしても、迷わない。この世界の中で、私の守りたい人は決まっているから。
悪魔と、ニンゲンと。どちらをとるかと言われたら、今の私ならば迷わずに悪魔をとる。この世界のニンゲンにだって、私が日本で暮らしていた時のような様々な感情があるだろう。だって彼らも、人間、なのだから。
「だから、争いがなくならないんだろうね。駄目なことだと思うけれど、それでも私は、やっぱり私の大好きな人を守りたいよ」
「沢山の、罪のない人を、殺してしまっても?」
「その人たちが、私の守りたい人の脅威になるのなら」
言って、私は苦笑いを浮かべた。
「極端かもしれないけれどね。私は、私の大事な人を傷つけられたくない。私は、盲目だったあなたと同じだと思うよ」
私の言葉に、彼女は髪を撫でる私の手を取って、ゆるやかに首を傾げる。頬擦りするように私の掌を頬で撫でて、涙の滲む瞳をこちらに向けた。儚さを感じる仕草にせっつかれるように、私は口を開く。
「ねえ、消えたら、償えないよ」
「消えることが、何よりの罰よ」
「そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。だって、もし、あなた自身に怒っている人がいたとしてあなたがいなくなってしまったら、その人の怒りは誰が受け止めるの。あなたが消えたら、その人の怒りはなくなるの?」
私の言葉に、彼女はきれいな桜色の瞳を見開いた。震える濡れた緋色の唇が、何度か開閉する。
「それを受け止めるのは、わたし、だわ。消えない、もの」
「じゃあ、生きなきゃだね」
「生きていて、いいの」
縋るような、懇願するような、耳に入れるだけで呼吸が苦しくなるような声に、私は深呼吸をした。透けるような青空と、色とりどりの花畑の中で、私は頷く。
「私が決めていいなら、生きてって言うよ」
「生きるの、わたしが」
「うん」
「わたし、沢山のニンゲンを、殺したわ」
「私、あんまりこの世界のニンゲンにいい感情持ってないけど、あなたが気に病むのなら、一緒に謝りに行くよ」
「わたしと一緒にきたら、あなたもニンゲンに殺されてしまうわよ」
「そこで殺されちゃったらそこまでだけど、私、まだ死にたくないから足掻くよ。謝りながら、足掻きまくるよ」
「足掻いて逃げても、わたし、また謝りに行かないとだわ」
「そしたらまた、あなたと一緒に、殺されない程度に謝りに行く」
「わたしに死んでほしいって、きっと言われるわ」
「じゃあそれ以外で、って私がお願いする」
顔を見合わせて、私と彼女はくすくすと笑う。それから、彼女はその桜色の瞳一杯に涙を溜めて、きれいな笑みを浮かべた。菩薩様のような、女神さまのような、心の奥底があったかくなるような笑顔だ。
「わたし、酷いことをしたのに、あの人が大好きで、それを後悔したくないの。でも、それがつらいの。わたしを心配してくれた人が、あの人を酷い人だというの。わたしは、つらくて、くるしくて、かなしかったけれど、それでも、それでも大好きなの」
私は、泣き笑いの表情の彼女を抱き締めた。そもそも、私はこの世界にくるまで、恋愛レベル1のパンピーだ。そんな私の胸が、彼女の思いを聞いただけで張り裂けるように苦しい。
彼女は、私の胸の中で、ぐすぐすと鼻をすすりながら笑う。
「わたし、あいしていたのよ、あのひとを」
これだけは分かる。恋愛レベルとか、そんなんじゃない。
「あなたの思いは、絶対に嘘じゃない。誰かを好きになって、その人のために自分を投げ打ってまで一生懸命になるって、ちょっとやそっとじゃできないよ」
「あのひとも、なかまも、こどもたちも、あいしていたかったの。あいしていたはずなのに、いつのまにか、わすれてしまったの。だから、きえたかったのね」
彼女の細い指が、私の首筋をたどって、後頭部をなぞる。彼女よりも通りの悪い髪の毛に、繊細な指が絡んだ。
「ありがとう」
「私は、自分勝手なこと言っただけだよ」
「それでも、わたしは嬉しいわ」
儚い微笑みは、何よりも綺麗に輝いている。
「ここへ来てくれてありがとう。あなただから、来れたのね」
それから、彼女は私に抱き着いてくる。ふんわりと香る花の匂いが心地よくて、微睡むように意識が霞んだ。
「あなたに、わたしの名前をあげる。起きたらきっと、わたしを呼んでちょうだい」
薄れていく意識の中、彼女の声を聞いた、気がした。




