67.祝福の声
第三者視点
その日、ジャパン領は上を下への大騒ぎであった。普段は適当な領主のお陰で、比較的手の空きやすい侍女や衛兵も、この日ばかりは慌ただしく城内を行き来する。まさかの当領地で魔王と妃が結婚式を執り行うとは、誰も予想していなかっただろう。
領主の居城より程近い教会で式を挙げた後、魔王とその妃はお披露目のために領内を回るという。通りすがりの侍女が見かけた衛兵は、見たこともない緊張した面持ちで周囲を警戒していた。
「お后様のメイクが終わったわ。ドレスを用意して頂戴」
妃のドレスアップを一手に任されている補佐官が、普段であれば流している長い髪を一括りにして言う。かけられた声に頷いて、侍女は慎重にドレスを運んだ。
「お后様、すごく綺麗よ。見惚れないでね」
ふふ、と意地悪く笑って、補佐官は退出する。領内にいる民の半分は、この補佐官が男性であると知らないのではないだろうか。さすがに侍女たちは知っているが、時折、女である自分よりも女らしい補佐官に何とも言えない、負けたような気分になる。
「もう、レイさんたらさっきから褒めすぎですよ」
ドレスを手に妃の元へ向かうと、妃は可愛らしく唇を尖らせていた。その仕草だけでも愛らしい。ジャパン領に一週間ほど前から逗留している彼女の元へ何度か食事を運んだことがあるが、こうして化粧をして髪を結っているとまた普段とは違う雰囲気を醸し出していた。
「失礼いたします、お后様。お着換えのお手伝いをさせていただきます」
「お手数おかけします、よろしくお願いしますね」
頭を垂れた侍女に、妃は微笑んでお辞儀する。気さくな妃に、いつの間にか入っていた肩の力が抜けた。
妃が選んだのは、控えめにフリルがあしらわれたAラインのドレスだった。サテンのリボンが胸元や腰に付けられており、いいアクセントとして効いている。スカート部分にはクリスタルやパールも配され、妃が纏うとまるで魔王に生贄にでも出される姫君のようだ。
ドレスを纏った妃が、確かめるように自身の体を捻りながら眺める。くるり、と鏡の前でゆるやかな一回転をすると、日の光を反射してドレスがきらきらと輝いた。
「お美しいですわ……」
着付けが終わって、思わず侍女の口から零れる。目の前にいるのは悪魔などではなく天使だわ、と呟くと、周囲の侍女が賛同した。
「お、大袈裟ですよ……」
恥ずかしそうに縮こまる妃に、侍女たちはくすくすと笑みを零す。ここ数日、ほとんど魔王が付きっきりだったのも納得がいくというものだ。魔王は彼一人で威圧感を与え、何人たりとも寄せ付けない雰囲気を出すことができる。しかし、この后は侍女ですら可愛がりたいと思うほどに隙だらけだ。褒められて赤面して小さくなる妃を、魔王でなくとも抱きしめたいと思ってしまうだろう。魔王は、全力でこの可愛らしい妃を守っていたのだ。
「終わったかしら?」
「あ、はい、レイさんどうぞ」
妃の声を待って入ってきた補佐官は、この短時間に着替えてきたらしく、紺色のスーツを身に纏い、髪も綺麗に結われていた。
「綺麗ねぇ、カナエちゃん。よく似合うわぁ」
「ひえええ、レイさんがイケメン……!」
「何言ってるのよ。ああそうだ、陛下もついでに着付けてきたわ。控室で“待て”させてるけど、どうする?」
「ああ、その光景が目に浮かぶようです」
妃は花弁が揺らぐようなやわらかい笑みを浮かべる。ほう、と侍女のうちからうっとりとした溜め息が漏れ聞こえた。
「あんまり待たせても可哀想ですね」
「たまにはいいんじゃないの?まあ、陛下のことだから、あんまり待たせるとこっちに来ちゃいそうだけれど」
「さすがにそれは……。無いとも言えませんから、陛下のところに行きますよ」
「じゃあ、アタシがエスコートしてあげるわ。さ、お手をどうぞ、お姫様」
「い、イケメンは正義……!」
補佐官に連れられて妃が退室した後、暫く侍女たちは魔法にでも中てられたかのようにぼんやりとその背を見送っていた。
「なんて、お可愛らしい……」
「ええ、このお役目を頂けて幸せでしたわ……」
口々に妃の感想を述べている中、年嵩の侍女がぱんぱんと手を叩いて侍女たちに発破をかける。今日はまだまだ仕事があるのだ。こんなところで時間を食っている場合ではない。
「さ!お后様のために、最高の式を用意して差し上げないとね!」
「ええ!」
領主仕込みの、着物を乱さぬ速足を駆使して散らばっていく侍女を、館の廊下で警備をしていた城付きの衛兵が見送る。控室付近に控えていた彼は、先程の妃の姿を脳裏で反芻して緩む口元を引き締めた。
まるで蝶のような妃が補佐官に連れられて控室に入っていったのはつい先程のことだ。補佐官は式の準備のためにすぐ退室していたから、今、控室の中には魔王と妃、それに部屋付きの侍女がいるだけだった。
「ちょ、ダメですって、陛下!」
「お前のこの姿を民に晒せと言うのか……。幾人が惑わされるとこか……」
「へっ……、もう、ジル!」
控室の中からは、魔王と妃がじゃれ合う声が漏れ聞こえてくる。あの可憐な妃を表に出すまいと魔王が頑張っているようだが、それは無理な相談というものだ。常日頃の威厳など全く感じられなかったが、魔王とて一人の男である。あれだけ可愛らしい妃を、妻を前にしては、骨の一つも抜かれるだろう。
「全く……、陛下ったら、また御后様を困らせてらっしゃるのね」
「はっはっは!今日はめでたい席だ!陛下も無礼講であろう!」
「……楽しみ……ですねぇ……」
「お后様、早く見たいー!」
「お后様、早く会いたいー!」
「ああ、ほら、はしゃぐでないよ」
続々と廊下を抜けてやってきたのは、魔王が誇る魔神の集団だった。人形のような少女は、腰に手を当ててぷりぷりと怒っている。色白の陽気な吸血鬼は、色白を通り越して青白い幽鬼の背を叩きながら快活に笑っていた。精霊を引き連れた双子が走り回るのを、蛇を頭に連れた美女が諫める。騒がしいとばかりに、その後を他の魔神たちがついて歩いていた。
衛兵は緊張しきりでその場に跪いた。魔王ですらほとんど見かけたことはなかったというのに、魔神が勢ぞろいしてこちらに向かってきているなど、衛兵にとってみては心臓に悪いことこの上ない。
「ご苦労様、陛下と奥方様はこちらにいらっしゃるのかしら?」
妖艶な美女が、衛兵に声をかける。衛兵は、声が上擦らないように細心の注意を払いながら頷いた。そうありがとう、と美女が微笑むとドレスの胸元に流れる紫苑の髪が艶やかに揺れる。
紫苑の髪の美女は、衛兵のいたすぐそばの扉を控えめにノックした。
「カナエ様、ベーゼアです。ただいま参りました」
「陛下、あまりカナエ様を困らせないで下さいまし」
「ベーゼア、エミリ!それに皆も!いらっしゃい!どうぞ、入ってって、ほら、放してってば、魔王様!」
「ああ、カナエ様……、なんて愛らしい……」
妖艶な美女は恍惚と呟く。部屋に招かれるまま、十二人の魔神たちはわらわらと雪崩れ込んでいった。
部屋の中から聞こえてくる声は、先程までの魔王と妃のじゃれ合いから、魔神たちの称賛の声へと変わっている。衛兵は腰にくくっている刀の柄を一度強く握って気を引き締めた。可憐な妃のために、何としてでも、今日の式は成功させなければ。
衛兵が気合を入れ直している様子を横目で見ながら、侍女は廊下を速足で抜けていく。領主に頼まれていたいくつかの確認事項は終えた。それを報告するために、館の奥へと向かう。
彼女はこの城に勤めるようになって長いからか、よく領主から頼まれごとをする。大体が、補佐官から逃げるための囮になれ、というどうでもいい頼まれごとだが。補佐官や魔神ほどではないが、彼女も魔法を使えるということも大きいのだろう。
「領主様、ただいま戻りました」
「おお、ご苦労であった。して、間に合いそうか?」
五つ紋の黒紋付き羽織袴を纏った領主が、侍女の声に悪戯に笑んだ。侍女が頷くと、領主は満足そうに数度頭を縦に揺らした。
「しかし、領主様、あの括りつけた物は何なのでしょう?ご指示の通りにいくつか結わえさせましたが……」
「我が生国、日本での婚礼の儀式で使うのでござるよ。あれで除霊の効果があると言われておった」
「慣習、のようなものでしょうか」
「左様。御台様も拙者と同郷でござる。折角、我が領地で婚儀を執り行うのでござるから、拙者に出来うる限りのもてなしをさせて頂こうと思ってな」
にい、と領主が口元を吊り上げた。その表情を、侍女は今までの長い付き合いの中で何度か見たことがある。そして、その後に待っているのは補佐官のお説教だということも知っている。
「まぁ、今回は補佐官様のお叱りだけで済まないような気もしますけれど……」
「その時はその時でござる」
叱られると分かってるのではないか、ということは用意したアレはあまり宜しくないものなのだろうか。そう考えて、侍女は頭を振った。目の前の領主は、本気で嫌がらせをするような人ではない。ただ、悪戯が過ぎる、少し子供なだけの領主だ。これでも、この領地を更地からここまで発展させた、他の領主に勝るとも劣らない人なのだ。
そう言い聞かせて、侍女は片足を引いて挨拶をする。領主とは同郷ではないからよく分からないが、そっと補佐官の耳に入れておこうと、胸の内で決めながら。
まもなく、この魔界史上初の、魔王と妃の結婚式が始まろうとしていた。