49.魔女の恋
【オティーリエ】
あの人に初めて出会ったのは、600年以上も前のこと。
気付いたら、私は見知らぬ森の中にいた。魔導士の研究の実験台になると、そう承諾して研究棟に入った、はずだったのに。
「大丈夫か?どこか、怪我をしていないか?」
地面にへたり込んだまま呆然としていたら、低く透き通る声が聞こえた。
「……怪我は、ないようだな?」
覗き込んでいたのは、太陽のような金色の髪と、空のような青色の瞳を持った男の人だった。彼の背後には、冷たい目をした男と、好奇心旺盛そうな少年、妖艶な美女が立っている。少なくとも、私の知る研究者ではない。それに、ここは研究棟でもない。見たことのない木々に囲まれた、ここは、辛うじて屋外であることは分かるぐらいの、見知らぬ森の中だった。
「ここ、は……?」
尋ねた私に、黄金色の彼は困ったように背後を振り返った。男は肩を竦め、少年はにんまりと笑い、美女は頭を振る。
「ここは、その……、上手く説明が出来ないのだが……」
「ですから、ダイスケの世界のように異世界と称すればいいでしょう」
「通じんのか、それ?あそこの難民キャンプだって、この前の奴に理解させんの随分かかったろうが」
「頭イカレた集団に拉致されたとでも勘違いされそうね」
困ったように黄金色の彼が漏らした言葉を、彼の背後にいる三人が拾った。ええと、……い、世界?異なる世界、というのは、どういう意味だろうか。世界が、異なる、ということは……。そう、貴族が、庶民に下る、ような?
「すまない。どう説明しようと混乱させてしまうな。とりあえず、奴等の手の届かないところに戻ろう」
「あいよ。んじゃ、ここの地点も地図に加えとくな」
「ええ、間違いないでしょう」
少年と男が頷き合い、手元の紙に何かを書き記した。何がどうなっているのだろう。困惑して見上げた先、妖艶な美女は穏やかに微笑んでみせた。
「ごめんなさいね。色々と質問があるでしょうけれど、今はそれどころじゃないの。貴女を悪いようにはしないから、少しの間、アタシたちについてきてもらえないかしら?」
「え……、ええ」
頷くことしか、私にはできなかった。黄金色の彼は、私が頷いたのを確認すると私に手を差し出す。
…………?
「ならば、戻ろう。立ち上がれるか?」
これは、手を取れ、ということなのだろうか。私に?……私に、手を差し出してくれているの?
「……やはり怪我を?」
「あ、いいえ。大丈夫、です」
遠慮がちに手を重ねると、痛くはないけれど弱くもない力で引かれた。立ち上がった私を、黄金色の彼はくまなく見ている。ぼろぼろの布を纏った自分が、居た堪れないほどに恥ずかしかった。
「怪我はないようだな」
「どうする?キャンプまで飛ぶ?」
美女が、黄金色の彼に問いかける。彼は、私のがさがさの手を握ったまま、周囲に視線を走らせた。
「ああ。後を付けられては敵わん。それに、ここはキャンプからも大分離れている」
「そうですね。例え魔力探知に引っかかったとしても、キャンプまでは追ってこれないでしょう」
黄金色の彼と冷たい目の男は頷きあって、それぞれの手に魔力を込める。少年は、渋々といった様子で美女に抱えられた。
「もう少しだけ、我慢してくれ」
繋いだ手に力を込めて、彼が言う。
我慢、だなんて。きっと耐え難いのは貴方の方なのに。ああ、まるで夢のよう。この夢から覚めてしまったら、研究者に弄り回される悪夢が私を待っているに違いない。そうでなければこんな……、こんなにも綺麗な人が私の手を取るはずがない。
「行くぞ」
その凛々しい横顔に、私はただ見惚れていた。夢ならどうか覚めないでと、強く願いながら。
◆◇◆◇◆◇
この異世界に飛ばされてきて、数年。私は、自分の置かれた状況を理解していた。ここが私の生きてきた世界ではないこと。他の世界からも飛ばされてきている人がいること。そして、この世界の人は私たちを受け入れないこと。
「ダーク、ティオ、カルロ。お茶を淹れたわ。一息ついたら?」
ジラルダークとトパッティオ、カルロッタは、木製の机の上に広げていた地図から目を離して私を見上げる。随分煮詰まっていたみたい。ジラルダークの滑らかな肌に、少しだけ疲労の色が見えた。
「すまない、オティーリエ」
いいえ、お安い御用よ、ジラルダーク。
「ありがとうよ」
無精髭を撫でつつ、カルロッタは紅茶を受け取る。ジラルダークに汚らしい髭は似合わないけれど、この男には無精髭がよく似合っていた。
「はあーあ。オッサンくたびれちゃったよ。若いお前らと違って、オレは歳なんだぜ?ちったぁ労りってモンをだな……」
「軍の総大将を務めていたと自称する貴方が疲れるとは、余程なのですね。マッサージでもして差し上げましょうか?」
冷たい目の男、トパッティオはぽきぽきと指を鳴らしながらカルロッタに微笑みかける。何度も首を振るカルロッタがおかしくて、私は小さく笑った。
「けれど、本当に根を詰めすぎだと思うわ」
「仕方あるまい。下手に手を抜いて、死ぬのは俺たちだ」
ああ、彼には紅茶がよく似合う。物語の騎士様が抜け出してきたかのようなジラルダークは、やはり前の世界でも王子でありながら騎士を務めていたという。そう、ジラルダークは凛々しくも美しい騎士なのだ。職務に忠実なところも、妥協できない不器用さも愛おしい。
「これも、お前の魔法で?」
「ええ。種を幾つか分けてもらったから、育てたの。ちゃんと成長したから、キャンプの皆にも配ってきたわ」
「そうか。すごいな」
感心したように頷いて、ジラルダークが微笑む。その笑顔だけで、私は天にも昇るような気分になった。でもね、ただの研究材料だった私に、貴方が生きる意味をくれたの。このくらい、出来て当然だわ。
「魔法なら任せて。私も力になりたいもの」
「お、じゃあオッサンにマッサージでも……」
「ええ、いいでしょう。私が致しますよ。さあカルロ、横になりなさい」
トパッティオに蹴り飛ばされて強制的に床に寝転がされたカルロが、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる。おかしそうに目を細めて二人を見る貴方が、とても綺麗で、美しくて。
「あらヤダ。お取り込み中だったかしら?」
「げ。何プレイだよ。オッサンとドSの絡みなんざ、目が腐るだろ」
遅れてやってきたボータレイとダイスケの反応に、私とジラルダークは笑いあった。
とてもとても、幸せ。命の保障もなくて、いきなり襲われたりもするような、そんないつどうなるか分からない暮らしだけれど、あの世界よりも何倍も幸せ。大好きな人と、楽しい仲間がいてくれるだけで、私は幸せなの。
そう、思っていたのに。
この日々がいつまでも続くと、思っていたのに。
ずっと、ずっと、彼の隣で笑っていたかったのに。
「どうして、ですの……?こんな世界、私は来たくなかったですわ!お父様とお母様のところに帰してくださいまし!」
泣き喚く、陶磁器のような肌をした少女。エミリエンヌ、と言ったかしら。
「……すまない。俺たちが、守るから……。お前の、父様と母様の分も、必ず」
「そんなものいらないですわ!帰してくださいまし!私は、帰りたいのですわ!こんな世界は嫌なのです!助けて、お父様っ、お母様っ!」
悲痛な面持ちで少女を抱いて、必死に慰める彼。
どうして?彼は精一杯、私たちを守ろうとしてくれている。彼だって、守られていいはずなのに。どうして、彼が責められなければいけないの。
「我侭な子。ダークだって一生懸命なのに……」
「しょうがねぇだろ。あんなに小さいんだ」
呟いた言葉を、隣にいたダイスケが拾った。
「しょうがない?ダークも自分の意志でこの世界に来たわけではないわ。だったら、彼が責められる道理がないでしょう」
「そりゃ、オレたち大人はな」
どこか軽蔑するような視線を、ダイスケが向けてくる。けれど、これは彼の視線ではないから、微塵も気にする必要はないわ。私はただ、あの黄金色の美しい彼にだけ、好かれていればいいの。彼を困らせるもの、苦しませるものは嫌い。
「勝手に泣き喚けばいいものを。ダークの手を煩わせないでほしいわ」
「……オティーリエ。言っていいことと悪いことがあるって、ガキの頃に習わなかったか?」
ダイスケは凄みのある声で私を威圧してきた。小声でのやり取りだったけれど、私たちの間に流れる空気を察したのか、ボータレイが近付いてくる。
「何ケンカしてんのよ」
「別に。この馬鹿女が馬鹿だったって再認識しただけだ」
今にも殴りかかりそうなダイスケの肩に、ボータレイがそっと手を重ねた。確か、ボータレイには元の世界にダイスケと同い年の弟がいたのだったわね。気にかけてあげるのは結構だけれど、甘やかしすぎじゃないかしら。
「やめなさいよ、ダイスケ。ティーエも、あんまり盲目だと呆れられちゃうわよ?」
「曇っているのはどちらかしらね」
言って、私はテントを出た。
この世界の人間の手が届かないところ。夢幻のような場所を探して、私たちは移動を繰り返していた。時折、私たちと同じようにこの世界へ飛ばされてきた人間を仲間に引き入れながら、いつ終わるとも分からない旅だ。
それでいい。終わりなど、無くていい。そうしたら、ずっと貴方の傍にいられるのだから。
……ねぇ、ジラルダーク?