6.赤の果実
【マナ】
ユカリセンパイはあの日からずっと、水鏡を覗き込んでいる。私は、どうしたもんかと首をひねった。
先日、私の力を使って先代愛の神の夫である魔王から愛を奪った。いや、奪おうとした。ちょっとしたお伽噺の試練のつもりだったのだ。先代愛の神は今はお姫様って言ってたし。お姫様からの愛情で目覚めるなんでロマンティックじゃない?
けれど、うまい事力が発動しなかったのか、魔王の愛は今、私の手元にない。ドタバタしてたしな、失敗しちゃったかと思いながら天界に帰ってきたんだけど、下界では思いもよらぬ事態になっていた。私の手元に魔王の愛はないのに、魔王から先代愛の神への愛が消えていたのだ。
これはマズイ、変な風に力が発動しちゃったのか。そう思って必死に探してみたら、なんとまぁ魔王は私に奪われる前に自分の奥底へ先代への愛を隠したらしい。あれ、ここって人の国ですよね、センパイ。何で人が神に対抗できちゃってるんですか。しかも下界じゃ私が奪っちゃった感じになっちゃってて、これマジヤバくないっすか。
てことで、拗れる前にすぐに元に戻そうとしたら、ユカリセンパイに止められてしまった。このまま様子を見ましょう、と反論は許さないとばかりに睨まれては、私にどうすることもできない。
このセンパイと、もういっちょ対のタケルセンパイは、天界の中でも屈指のヤバイ神なのだ。モートセンパイですらよく匙を投げてるのに、新米神様の私にどうしろというのか。こっそり上司に相談しに行こうにも、怖くてここから動けない。
いやね、私も早く気付けばよかったんだけど。ユカリセンパイが先代愛の神に嫉妬してるって。でもさ、神様よ?私もセンパイも、もう神様なのよ?ついでに言えば、ユカリセンパイは天界の神から地界の神に堕ちてからの天界の神とかいう、ものすごいヤバイ経歴の持ち主であり、ベテランの神様なのよ。まさか、人間みたいな感情が残ってるだなんて思わないじゃないか。しかも愛の神や嫉の神を差し置いて、ねぇ?
「あ、これはマズイですね……」
水鏡を覗いていたセンパイがボソッと言う。何事かと水鏡を覗きこもうとして、私は硬直した。
ガタガタと奥歯が震える。神様になってからだって、ましてや人間の頃になんて感じたことのなかった強烈な威圧感で息が詰まった。
「ごめんね、今回のことはこちらでキチンと処罰するから」
ドゴッ、と何かがぶち壊れる音が聞こえる。むせかえるような花の香りが部屋に充満した。
「それを信じろとでも?」
地を這うような声ってまさしくこれか!なんて頭が現実逃避した。怒気は強まるばかりで、指の一本ですら動かせない。
「……君と、君の奥さんにはこれをあげよう。本来なら人には渡すべきものじゃないんだけどねぇ」
やれやれ、と上司の困ったような溜め息が聞こえた。い、いつの間に?今回のこと、上司に報告してないですよね、センパイ?
横にいるセンパイの顔を見たいけど、視線が凍ったように動かない。あれ、これ、もしかして上司に何かされてる?
「人の縁を永遠にするものだよ。君たち夫婦には打って付けだろう?」
「いらん」
怒気の主は素気無く断って、何かをばさりと揺らした。ガンッ、と何かを蹴っ飛ばしたのか殴ったのか、凄まじい音がした。
「次はない」
「うん、ごめんね。引いてくれてありがとう、魔王様」
怒気と香りが消えて、私は詰めていた息を吐いた。ユカリセンパイも同じように深呼吸してる。錆びついた首を動かすと、べっこり凹んだ部屋の扉と上司の満面の笑みが待っていた。
「悪い子にはお仕置きしなきゃね」
あ、これ死亡フラグってやつか!私の軽い脳味噌はまたも現実逃避するのだった。
◆◇◆◇◆◇
【カナエ】
婚約指輪からジラルダークの声が聞こえたことをベーゼアとエミリエンヌに伝えていたら、領主さんたちが集まってきた。詳しく事情を聞かせてくれという大介くんたちに、指輪の性能含めて説明する。トパッティオさんが、あああの時の、みたいな微妙な表情になっていた。
「ジルの記憶は、神に奪われてるわけじゃないようです。封じられているのか……でも、指輪を通して私を呼ぶ声が聞こえました」
薬指にはめてある指輪を撫でながら、私は目を細める。消えてしまったわけじゃない、奪われてしまったわけでもない。そう分かっただけでいい。
「時間はかかるかもしれませんけれど、消えたのでも失くしたのでもなければいずれ思い出せると思うんです。彼の体調を優先して、……許されるなら、もう一度惚れてもらおうと思います」
「ふむ。そうであるならば、御台様よりアプローチすることが、陛下には覿面に効くでござろうな。是が非でも正気に戻るでござろう」
私の言葉に、大介くんが頷いた。ふと、トパッティオさんが耳元に手を当てる。眉間に皺を寄せて、ちらりと大介くんを見た。大介くんは険しい表情で首を振る。
「陛下が何も告げずに外出されたようです。我々がこちらへ来る前も、貴女を探すような素振りを見せていましたが」
え、私を?ああ、そうか、魔王様にしてみたら、見知らぬ女が大介くん始め領主さんたちと話してるのは不可解か。不審に思ってるのかな。けれど、ジラルダークはここへ来たわけではないらしい。
「魔王の記憶しかないなら尚更、カナエさんの存在は不可解でしょうね」
「しかし、こちらに来たという報告は上がってござらん。トゥオモも追えていないでござるか。ではこちらからレイを……」
大介くんがボータレイさんに指示をしようとした瞬間、がちゃりと部屋の扉が開いた。一斉に向いた先、いたのはジラルダークだった。私の立っていた位置が扉に近かったから、背の高い彼を見上げる。ジラルダークも扉を開けた態勢のまま、私を見下ろしてきた。
ジラルダークは少しやつれたように見える。それもそうだろう。自分の記憶が欠けていると聞かされたばかりか、原因不明の頭痛に悩まされるわ見ず知らずの女は周りでうろつくわ領主さんや魔神さんたちからは何か言いたそうに見られるわ、心の休まる時間がなかっただろうから。
「陛下……ううん、ジル」
「……?」
私は、できるだけジラルダークに警戒心を抱かせないように微笑みながら口を開いた。ジラルダークは部屋の中に入ろうとしてか、踏み出そうとしていた足を止める。
「今の貴方にとって、私は見知らぬ平凡な悪魔だし、文字通り頭痛の種だっていうのは分かっています。貴方を、苦しめることも……」
あれほど強い魔王様が倒れるほどの痛みを、彼に与えてしまう。分かってる。分かっているけど、諦めたくない。だってここで引いたら、記憶を取り戻した貴方が拗ねちゃうでしょ?
「重々承知していますけれど、それでも、私は貴方を愛しています。貴方のことが、魔王としてじゃなく、夫として、そばにいて欲しい存在として、私には必要なんです」
私の言葉に、ジラルダークが目を見開く。いきなり夫と言ったから驚かせてしまったようだ。
「無理に思い出さなくてもいい、ただ、そばにいることをお許し願えませんか」
小さく、ジラルダークの唇が動く。何故、と。私は、心底不思議そうに漏れた彼の言葉に微笑んだ。
「だって、私の知ってるジルは寂しがり屋で甘えんぼですから。記憶が戻った時に、私からジルのこと捕まえに行かなかったってなったら拗ねちゃいますもん」
そう告げると、ジラルダークの顔が真っ赤に染まる。
……へ?
ん!?え、ジラルダークが真っ赤になった!?魔王様が赤面!?驚いて硬直する私をよそに、目の前のジラルダークは赤くなった頬を隠すように片手で口元を覆った。
「遅いでござるよ、クソ魔王陛下」
大介くんの声に振り向くと、彼はにやにやと笑っている。ベーゼアは、よかったと息を吐いてるし、エミリエンヌは仕方のない方、と肩をすくめていた。トパッティオさんもカルロッタさんも呆れたように笑って、じゃあ帰りますねといなくなっちゃうし、ボータレイさんはアラご馳走様と微笑んでいる。
「待たせたな、カナエ」
彼の声に振り向いた。何よりも恋しい声に呼ばれて、私は彼を見上げる。本当に?……本当に、思い出したの?
そんな不安は、一瞬で距離を詰めてきたジラルダークの温もりに掻き消された。深く背中まで抱き締められて、私は目を見開く。ほんの数日、けれど、失ってしまったかと思った温もりだった。
「……ジル?」
問いかけると、カナエ、と低い声が降ってくる。私は、恐る恐る彼の体に腕を回した。触れても、ジラルダークは逃げない。むしろ更に深く抱き締めてきた。逃がさないと、今までの、ジラルダークのように。そう分かったら、もう止めることは出来なかった。
「ジルっ、じる……!」
ぎゅっと彼の服を掴んで引き寄せる。全身を包む温もりに、鼻腔を満たず彼の香りに、きつく目を閉じた。大丈夫なの、頭は痛くならないの、私のこと思い出したの、と矢継ぎ早に零れる質問に、ジラルダークの落ち着いた声が応えてくれる。すまない、心配をかけたな、もう大丈夫だ、と彼の音がやわらかく降ってきた。
「お前の愛で戻ることができた。ありがとう」
耳元でジラルダークが囁く。私はジラルダークの大きな体を必死で抱き締めた。すまないと告げる彼に首を振る。ジラルダークが帰ってきてくれたことが、何よりも嬉しかった。彼の胸に頬擦りしてから、ジラルダークの顔を見上げる。
「おかえり、ジル」
私の言葉に、ジラルダークは愛おしそうに目を細めた。
「ただいま、カナエ」
低い声で囁かれる彼の言葉が、何よりも嬉しくて愛おしかった。