5.緋色の指輪
私は荷物を整理しながら、ここにはいない彼のことを思う。私に関する記憶を失くしたとしても、ジラルダークの魔王としての力は封じられていないはずだ。だというのに、倒れるほどの頭痛になすすべもなかった。私の名前を口にした途端の出来事だ。
私にできることは、彼をこれ以上苦しめないように離れることだけ。苦痛を取り除く力も、彼を支える力もない。今の私がそばにいても、事態は何も改善しない。
悲しいし、胸が締め付けられるけれど、だからといって諦めたわけじゃない。とにかく今はジラルダークの体の方が心配だ。大丈夫、悪魔のみんなも解決のために動いてくれている。原因だって、神様のせいだって分かってるんだ。大丈夫、解決できる。不安に飲み込まれちゃ、だめだ。
「カナエ様……」
黙々と荷物を整理していたら、ベーゼアに心配されてしまった。私よりも悲痛な表情で、ベーゼアが抱き締めてくる。私はやわらかな彼女の体を抱き返しながら微笑んだ。
「大丈夫、……大丈夫だよ、ベーゼア」
ぽんぽんと彼女の背中を叩いて、私はベーゼアの顔を覗き込む。私の心を探るように目を見つめてくるベーゼアに、私はしっかりと微笑んだ。
「私は大丈夫、ね?」
私は悪魔の王の后だ。ジラルダークの妻だ。彼が私を望んでくれている限りは、絶対に諦めない。何よりもまずは、ジラルダークの安全を確保しなくちゃいけないんだ。最悪でも、彼が生きていればそれでいい。彼が幸せなら、私も幸せだ。彼を苦しめるために存在なんてしたくない。
ベーゼアはしばらく私の顔を眺めた後、震える唇で申し訳ございません、と呟く。ほろりとベーゼアの瞳から涙が零れ落ちた。私はそっとその涙を拭う。落ち着くためにも顔を洗っておいで、と彼女を部屋から送り出した。
しんと静まり返ったここは、随分と前にジラルダークと泊まった和室だ。窓から覗く庭園は穏やかで、まるで時間が巻き戻ったかのような錯覚を覚える。
ああそういえば、ジラルダークは浴衣が似合ってたな。和食を食べる私を嬉しそうに眺めて、美味しいって笑ってた。今日はどこにデートに行こうか、なんてワクワクもしてた魔王様、可愛かったな。ジラルダークの前で初めて泣いたのもこの部屋だったっけ。あの時のジラルダークの慌てっぷりったら。写真撮っておけばよかった。写真、たくさん撮っておけばよかった。そうしたら今だって、少しは、…………。
「……ジル……」
ことん、と私の膝から何かが滑り落ちる。荷物の中にあった、小さな箱だ。落ちた衝撃でなのか、まるで主張するように蓋が開いている。ああ、これは……。
「ふふ……、あの頃からちっとも変わってない」
私はそれを拾い上げて、大切に掌で抱き締める。
初めて男の人から貰ったプレゼント。大好きな彼から直接貰ったアクセサリー。本当だったらずっと身に着けていたかった。指輪貰ったんだよ、綺麗でしょ、って見せびらかしてみたかった。
なのに魔王様ったら、テレパシー出来る機能だとか居場所が分かる機能だとか付けちゃうんだもん。そんな機能付いてるよって言われたら、中々使いにくいじゃないか。とはいえ、指輪なんてなくても直接覗いてたり、むしろ魔王様のお仕事に影響がないギリギリまでそばにいるんだけどね。心配性で過保護で独占欲の強いところは、よくよく考えると昔よりも酷くなってるように思う。
「本当に、しょうがない人……なん、だから……」
笑う口元が震えた。上手く言葉を紡げない。堰を切ったように涙が頬を伝った。堪らずに指輪を抱え込んで額に押し付ける。
────刹那、カナエ、と耳の奥で声がした。
「ッ!」
思わず顔を上げて、それから慌てて指輪を耳に当てる。……何も、聞こえない?ううん、幻聴じゃない。確かに、ジラルダークの声が……。
ひたすらに集中して耳を澄ませると、とても遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。必死に、何度も、彼の声が私を呼んでいる。
「ジル……」
カナエ、……カナエ、と彼の声が私を呼んだ。まるで忘れたくないと叫ぶように。ここにいるのだと、忘れてなどいないとジラルダークが叫んでいる。
「……ジルっ……」
ああ、見つけた。そこにいたんだね。何度も呼んでいてくれたんだね。見つけるのが遅くなっちゃってごめんね。ああよかった、ジラルダークは無事だった。私も忘れられたわけじゃないんだ。
待ってて、ジラルダーク。今度は私が貴方を助けるから。いつもいつも助けられてばかりだけれど、今回は私が頑張るよ。貴方が私を呼んでくれているって分かったから、もう大丈夫。
いっそ私のことを忘れっぱなしでもいいよ。貴方がそうしてくれたように、私が貴方を振り向かせてみせるから。こんなにも愛してるって、貴方のお陰でこんなにも貴方のことが好きになったんだよって、分からせてやるんだからね!
私は緋色の指輪を薬指に通すと、涙を拭って立ち上がった。
泣いてなんていられない。ジラルダークは、私の夫は確かにいるんだ。助けてって叫んでるんだ。私の気持ちだって微塵も消えてない。こんなことで諦めない。神様なんかに負けるもんか!
◆◇◆◇◆◇
【ジラルダーク】
目が覚めると、変わりのない日常がそこにあった。記憶を失ってからここのところ、視界の端を右往左往していたメイドの姿もない。記憶にあるそのままが、俺の目の前にあった。これが俺の日常だ。記憶のまま、何もおかしなところはない。
そう思うのに、胸の奥がざわついていた。用もないのに何度も書類から顔を上げて、執務室の中を、扉を確認してしまう。国の情勢に大きな動きはない。俺が誰かを呼んでもいないのだから、開くはずもない。分かっては、いるのだが……。
不意に扉を開いて、何かがやってくるのを見たい。そこにあるものを確かめたい。何もない、来ることもないのだと分かっているのに、だ。
一体何なのだ。俺は何を失った?何を求めている?記憶のない数十年が、俺にどんな影響を及ぼしたのだ?俺は、何かが恋しいのか?数百年を独りで生きた魔王が、今更何かを求めていたとでもいうのか?
答えのない自問自答は、ただ虚しく時間が過ぎるだけに終わる。俺は幾度目とも知れない溜め息を吐いて、手元の書類に視線を落とした。記憶の中にあるそのままに、手元の書類は無機質な情景を俺に伝えてくる。これも俺の日常と相違なく、魔王として処理をすれば済むものだった。
書類の文字を目で追いながら、ふと思う。あのメイドは俺が疲れたなと言うでもなしに現れていた。茶と菓子を持って、休憩しろと言わんばかりに見つめてくるのだ。今、その姿はない。どうして彼女が俺のそばにいないのか。
当然だろうと俺は思う。当然ではないと、誰かが言う。独りが気楽だと俺は思う。傍らの温もりが欲しいと誰かが言う。そんなものは必要がない、俺は完全な魔王であると思う。それはまやかしだと、心のどこかで思う。
なれば、俺から欠けたものは彼女なのかと問う。欠けることは許さないと、俺が俺を睨んだ。
甘やかな声を忘れたか。心震える温もりを忘れたか。魔王も、俺も、包み込むやさしさを忘れたか。
『ジル……』
耳元に響いた声に目を見開く。あのメイドは魔法を使えたのか。いや、そのような力は感じなかった。あれは何の力もない只人だ。そばにいた頃、何度も確かめた。
『……ジルっ……』
分かっている。俺は魔王だ。この国を統べる絶対の王だ。惑わされることは、あってはならない。
しかし、耳を塞ぐことができなかった。無理矢理魔力で防壁を展開しても、涙交じりの穏やかな声が耳朶を侵す。同時に締め付けるような頭痛が俺を襲った。
声から逃げたいのか、痛みを除きたいのか分からぬまま、俺は頭を抱えて唸る。机上に広げてあった書類が、ばさりと音を立てて床に落ちた。暴れまわりたい衝動を、歯を食いしばって押さえ込む。
『……ああ、見つけた』
心から安堵したかのような声に、俺は目を見開いた。どうして、この声を断つことができない。声の主は、あのメイドは、何を、探している。
何度も呼んでいたと、耳の奥で甘く囁かれた。見つけるのが遅くなった、俺が無事でよかったと、声の主は震える声で息を吐く。
『待ってて、ジラルダーク。今度は私が貴方を助けるから』
俺を、助ける?
違う、いつも俺は、……俺は……?
『もう大丈夫』
何故か、やわらかく微笑むあのメイドの姿が脳裏を過ぎった。俺は頭の痛みも忘れて、浮かんだ彼女の姿に釘付けになる。無意識に、その姿へと手を伸ばしていた。
『いっそ私のことを忘れっぱなしでもいいよ。貴方がそうしてくれたように、私が貴方を振り向かせてみせるから』
少し悪戯に、そう、思わず撫でたくなるような可愛らしい笑みで彼女は言う。俺は、それを知っている。その表情を、……俺は……。
『こんなにも愛してるって、貴方のお陰でこんなにも貴方のことが好きになったんだよって、分からせてやるんだからね!』
「────ッ!」
脳裏を満たした感情は、とてもではないが言葉にできなかった。