3.后の苦悩
ジラルダークは、執務室にいた。机に頬杖をついて、瞼を伏せている。ただ眠っているだけのような仕草に、全身から力が抜けるのが分かった。
ああ、よかった。ジラルダークは寝ていただけだった。だからこちらの異変に気付かなかったんだ。何も心配するような事態じゃない。私をストーカーしてるのがデフォルトになってるだなんて、そっちの方が異常だよね、うん。
「ジル」
起きて、と声をかける。そうしたらいつものように、彼が柘榴色の瞳を細めて私を見るんだ。ああカナエか、と低くて落ち着く声で囁いて、私にもっと近付いてこいと腕を伸ばしてくるのだ。しょうがない魔王様だな、なんて笑いながら私はそれを受け入れる。ジラルダークはきっと、待ちきれないって私の腕を掴んで引き寄せてくるんだろうな。そうしたらほら、怖くて震えずに済むんだ。
ゆっくりと、ジラルダークの瞼が持ち上がる。柘榴色の瞳が、足元から撫でるように私を見た。目が合って、思わず体を震わせる。彼の瞳が怖いと、直感的に思った。ジラルダークはじっと私を見る。浮かべてくれるはずの微笑みは、差し出してくれるはずの手は、私に向けられることはなかった。
「…………、何用だ」
「え……」
ジラルダークから向けられたのは、何の感情もない視線と、簡素な言葉だけ。そこにいるから見た。知らないものだから尋ねた。……ただ、それだけ。
全身が冷えていく。魔神さんたちが、息を飲むのが分かった。誰も、何も話せない。私の唇も、凍ってしまったかのように動かなかった。
「揃いも揃って、我に何用か」
痺れを切らしたように、ジラルダークが尋ねる。柘榴色の瞳が確認するように、ゆっくりと左右に動いた。口調は普段私と一緒にいる彼のものではない、魔王様のものだった。ざあ、と血の気の引く音がする。
喉の奥がべったりと張り付いて、声を出すことができない。はくはくと何度か口を開閉させるうちに、誰かの手が私の背中に回された。緩く視線を向けると、青い顔をしたベーゼアが私の顔を覗き込んでいる。
「……そのメイドが装飾でも壊したか?それともまさか、魔力を欠片も感じられぬ細腕の女を魔神にしたいと戯言をほざくわけではあるまい?」
「慎んでくださいまし、陛下。ご冗談では、ありませんのね?」
「何が、と問うておる」
エミリエンヌの言葉に、ジラルダークは苛立たしそうに吐き捨てた。ここに私たちが揃っている意味が分からない、だから説明しろと彼は何度も言っているのだ。普段であれば何も不思議ではない、のだろう。けれど……。
息が、苦しい。眩暈がする。まだ、苦しみ足りないと言いたいのだろうか。神に関わってしまった私の罪は、一生拭えないのだろうか。
ああ、駄目だ。しっかりしろ、夏苗。私は魔王の妻だろう。ジラルダークが神から何らかの攻撃を受けて害されてるんだ、私がちゃんとしなくてどうする。深呼吸しろ、両足で立て、考えろ。……私が、魔王様を助けるんだ!
「申し訳ございません、陛下。陛下の私室を掃除していた際に粗相をしてしまいまして……」
「そんなことか。構わん。魔法でどうにでもなる」
説明をした私に、ジラルダークが表情を緩める。隣のベーゼアが握った拳が、ぎりりと音を鳴らした。大丈夫だよと微笑んで、私は膝をつく。
「大変申し訳ございませんでした」
「許す。もうよい、下がれ」
優しいというよりは、きっとジラルダークにとって本当にどうでもいいことだから、これ以上時間を取らせるなといったところだろう。ああ、これが本来の魔王様なんだなと思ったら、少し心に余裕が出来た。心配そうに私を見上げるエミリエンヌに、小さく頷いてみせる。
一度引こう。現状、ジラルダークがどこまでの記憶を失ってしまっているのか、この場で問い詰めるわけにもいかない。魔王業は問題なくこなしているから、恐らくは私に関する記憶だろうけれど……。それが事実だとするならば、ジラルダークにとって今の私は見知らぬ悪魔の女だ。赤の他人に手の内を晒したいと、用心深い彼は思わないだろう。
私の考えが伝わったのか、それとも私の方が心配をかけてしまっているのか、退室する私に続いて魔神さんたちもついてきてくれた。執務室の前で会議するわけにもいかなくて、とりあえず、と隣のお茶室に入る。そこには大介くんとボータレイさん、それにトパッティオさんとカルロッタさんもいた。魔神の誰かが伝えたのだろう。
「カナエちゃん……」
ボータレイさんが、気遣わしげに私の肩に手を添えた。私は頬っぺたに力を入れて口角を持ち上げる。
「お忙しいところすみません。事情から説明させていただきますね」
ここまでの経緯と、神々とのやり取りを説明しようと魔神さんたちの方を振り向いた。エミリエンヌをはじめとした魔神さんたちは、顔を見合わせて頷き合う。そして、何故か魔神さんの全員が膝をついた。驚いて硬直する私の肩を、ボータレイさんが抱き締める。
「どうぞ、何なりとお申し付けくださいまし、御后様」
エミリエンヌの言葉に目を見開くと、トゥオモさんが顔を上げた。ともすれば冷たい印象すら与える端正な顔立ちの彼は、私を安心させるかのように微笑んでいる。
「我々魔神は、常より御后様をお守りするよう陛下から申し付かっております。その任は解かれておりませぬ故、遠慮なくご命令下さいませ」
さあ!とトゥオモさんはいつもの元気でやかましい笑顔を浮かべた。思わず笑って気付く。私はどれだけ強張った表情をしていたのだろうか。深呼吸をして、私はしっかりと頷いた。
「ありがとうございます。どうか、陛下を助ける為に力を貸してください」
無論にございます、勿論ですと彼らは応えてくれる。ずっと私を支えるように肩を抱いてくれていたボータレイさんを見上げた。ボータレイさんは、心配そうに私を見ている。
「アタシたちにできることなら何だって協力するわ。だから、無理だけはしちゃダメよ」
「はい、ありがとうございます、レイさん」
頷いた私に、大介くんが一度瞼を伏せた。彼は何か思案するように長く息を吐く。目を開けた時、大介くんは領主の表情で私たちを見た。私は、大介くんの黒い瞳を真っ直ぐと見つめ返す。
「改めて、陛下がどのような状況におられるか、お聞かせ願えるでござろうか」
「はい」
大介くんの言葉に応えて、私は神が現れてからの一連の流れを説明した。ユカリと名乗る神とマナと名乗る神が現れたこと。ユカリはタケルの対である武の神で、マナは次代の愛の神であること。ユカリは私とタケルの関係について知りたがっていたこと。そして、恐らくはマナがジラルダークに何かをしたこと。
「推測になってしまいますけれど、マナは“ちょっと奪う”と言っていました。私の……、先代愛の神のお手並み拝見、だと」
「ふむ」
大介くんもトパッティオさんも、考え込むように口元に手を当てている。何度目になるだろう、私は心の中でメイヴを呼んだ。けれど、返事はない。このことも、伝えておいた方がいいだろう。
「あと、陛下だけではなく、精霊王も何かされているかもしれません。これはマナではなく、ユカリの方に」
「で、ござろうな。御台様がこのような事態に置かれているというのに、精霊の王が全く干渉してこないとは考え難いでござる」
私たちの話を聞きながらじっと考え込んでいたトパッティオさんが、ふと顔を上げた。トパッティオさんは一度短く息を吐くと、大介くんへ視線を向ける。
「現時点で推察するに、陛下は御后様関連の記憶を失っているかと思われます。であるならば、私やダイスケ、レイ、カルロッタたちの記憶はあるでしょう」
「古くからの同志として、だな?」
確認したカルロッタさんに、トパッティオさんが頷いてみせた。
「陛下を警戒させないよう振舞った御后様の行動は正しいものだと考えております。貴女が来る以前の陛下は、とても用心深い方でしたから」
トパッティオさんは、そう言いながら苦笑いを浮かべる。うむうむ、と隣の大介くんもしたり顔で頷いていた。
「陛下が今現在記憶を失われていること、その間にあった出来事を我々から陛下へご説明致します」
「少々荒療治になるやも知れぬ、御台様と魔神たちはこちらにて待機されよ」
ジラルダークにとって、今の私は見知らぬ女だ。彼の記憶がどう途切れてしまっているか分からないけれど、私が行って好転する可能性は低いだろう。大介くんはいつものようににんまりと笑って私の肩を叩いた。
「陛下のヤンデレ力をなめるなでござるよ。御台様はよーく御存知でござろう?」
大介くんらしい軽口に、私はくすくすと笑う。私が彼らに心配かけてどうするんだ。ジラルダークのことだけに注力してもらわないと。
「どうか、陛下のことを……ジルのことを宜しくお願いします」
頭を下げた私に、大介くんたちは任せろと頷いてくれた。部屋を出ていく彼らの背を、祈るような気持ちで見送る。
そうして判明したのは、やはりジラルダークが私に関してだけ記憶を失ってしまっていることだった。ここ二十数年の記憶がほとんど抜けてしまっている、と大介くんが教えてくれた。何よりも気がかりなのは、私に関連した話題を振ると回復魔法も効かない頭痛に襲われるということだ。
急激に思い出させるのではなく、メイドとしてジラルダークのそばにいてゆっくりと思い出させればいいかもしれない。そう提案されてここ数日、私はメイドとしてジラルダークのそばにいた。勿論、ジラルダークには思い出してほしい。いつものように笑って熱の籠った赤い瞳で私を見てほしい。魔王はワガママだ、なんて意地悪に言いながら、強引に抱き締めてほしい。けれど……。
頭を押さえて倒れ込んだジラルダークを抱き締めた。私には彼を支えて立てるだけの力なんて無くて、共に倒れ込んでしまう。非力な自分が何よりも悲しくて悔しかった。痛みを取ってあげることすら出来ずに、私はジラルダークの体をただ抱き締める。
「もう嫌……!何でこんなことするの!ごめんね、ジル、苦しめてごめんね……!」
久しぶりに全身で受け止めた彼の熱は、ひどく乾いているように感じた。