2.神の悪戯
いつもの朝、いつもの日々。もう数十年と過ごしてきた今日も、とても平和な日だった。そう、あの人たちが来るまでは。
目の前に現れた存在に、私は全身を強張らせた。私の感情に即座に反応して、メイヴが庇うように私を抱く。私に対峙する二人の女性は、安心させるようにか微笑んだ。全く安心なんてできない。
「そう警戒しないでください、野々村夏苗」
「……あなた方を警戒するなという方が、無理だと思います」
ふんわりと笑みを浮かべるその人は、私の緊張を解くためにか両手を広げて見せた。武器も何も持ってないと言いたいのだろうけれど、この人たちの怖さはそこじゃない。一見するとただの人に見えるけれど、この城に、この部屋に無断で入ってこれる時点で普通じゃないんだ。
「……あの神様は、いないんですか?」
「タケルですか?ええ、彼は天界にいますよ」
私がこうしてここにきていることも知りません、と目の前の女性は微笑んだ。ユカリ、と名乗ったこの人は、タケルの対である武の神だという。それだけでもう、私にとっては最大級の警戒対象だ。
それと、もう一人。
「先代愛の神を見せてくれるって言うからついてきましたけど。何だか滅茶苦茶嫌われてません、ユカリセンパイ?」
大きな黒目で、隣に立つユカリを見ている女性……こちらはマナと名乗った神だ。愛の神なのだという。ユカリは優等生じみた若い女性で、マナは快活そうな大人の女性だ。多分、肉体的にはマナの方が年が近いような気がする。
「ただ貴女と話がしたかっただけですから、あまり警戒しないでいただけると助かります」
「有難がられるカミサマのはずなのに嫌われてるって相当ですねぇ。そろそろ何があったか教えてもらえません?」
それぞれの神は勝手なことを言って笑っていた。私は、ゆっくりと後退る。メイヴに頼んで、ジラルダークにテレパシーしないと。今は敵意を感じられないけれど、神というのは何をするか分かったもんじゃない。
私の考えを読み取ったメイヴが視線を向けた瞬間、ユカリがこちらに向けて手をかざした。びくん、とメイヴの体が跳ねる。
「駄目ですよ。あの王を呼ばれると、落ち着いて話が出来ませんから」
ユカリが軽く手を握ると同時に、メイヴの姿が掻き消えた。目を見開く私に、マナが首を傾げる。メイヴに何をしたの……?!メイヴ、大丈夫!?
「オウ?オウサマ?もしかして、お姫様なんですかこの人間?てゆうか、センパイちょっと強引過ぎません?さっきよりも怯えてますよ、野々村夏苗」
「少しの間、こちらに干渉できなくしただけです。あの王も全開のタケルでないと止められない程ですし」
大したことではないとばかりに首を振って、ユカリが言う。マナは、ユカリの言葉に大げさに顔をしかめた。
「ハァ?ヤバくないですかそれ」
「ヤバいですよ。けれど、話をしてみたかったのです」
ユカリは口元に微笑みを張り付けて私を見る。ガラスのような瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。足元からせり上がってくる寒気に、私は体を震わせた。
「一時期でも“タケルの子”であった、野々村夏苗と」
タケルの、子?二十数年前のあの日も、タケルが言っていた。私はタケルの子なのだと。私に神様だった期間の記憶はまるでない。私の親は、生んでくれた父さん母さんと育ててくれた父さん母さんだけだ。タケルに関して私の中にある記憶は、ジラルダークを傷つけ、私を強引に天界へ連れて行った、あの身勝手な姿しかない。それを聞きたいのか。当事者である、私の口から。
「身勝手だ、としか印象にありませんが」
「まぁ、確かに横暴な振る舞いが多いですね」
横暴どころじゃないように思いますけど、とマナが呟く。ユカリは私の次の言葉を待つように、またじっと私を見つめていた。でも、これ以上私に言えることはない。身勝手な神。出来ることならば、もう二度とその姿を見たくもない。
「……関わらないで欲しい、としか言いようがありません」
「タケルの子であるのに?」
不思議そうに首を傾けるユカリに、私は首を振った。
「私はタケルの子じゃありません。そんな覚えはないですし、もう、あなた方に関わりたくもありません」
私の言葉に、ユカリはスッと笑みを消した。得体の知れない恐怖が全身を覆う。マナはユカリと私を見比べるだけで、特に何も口を挟まなかった。
「彼の子に選ばれた、その自覚はないのですか?」
ユカリは私の深意を探るように目を細める。ぐっと奥歯を噛んで、私はユカリを睨みつけた。
「タケルの子、と呼ばれることに嫌悪感を覚える程度には」
神は思考を読める。下手に取り繕ったって仕方がないから、本心を告げた。心の中で、意識的に何度もメイヴに呼びかけている。けれど、彼女の声も匂いも届かなかった。とにかくどうにかしてここから逃げて、ジラルダークに伝えないといけない。とはいえ、走って逃げても拘束されるだろう。思考が丸見えなのだから。メイヴの安否が分からない今、力ずくで神様を抑えるなんて芸当も無理だ。どうしよう。どうすればいい……?
「怯えずとも大丈夫ですよ、野々村夏苗。私にはタケルのような力はありません」
「帰ってください。これ以上、私に話せることはありません」
「……頑なですね」
私の言葉に特に表情も変えないまま、ユカリはこっくりと首を傾げた。マナと呼ばれている神は、私とユカリの顔を見比べて、肩を竦める。それから、あ、と声を上げて手を合わせた。その音に私もユカリもマナの方を見る。彼女はにんまりと笑って、ユカリと同じように首を傾けた。
「センパイは、野々村夏苗がどんな人間か知りたいんですよねぇ?」
嫌な予感がする。神様の提案なんて、ロクなもんじゃない。だって、あのタケルと同類で、しかも片方はよりにもよってタケルと対になってる神様なんだ。仲の悪い神同士を対にはしないだろう。ということは、タケルの考えと似通ってるか、タケルの行動を特に問題だとは思わない神様の可能性が高い。
「ええ、そうですね。タケルが私の代わりに選んだ女神に、酷く興味があります。天界から時折覗いていましたが、平穏な日常を送るばかりでとても退屈でした。一時期でもタケルの子であったのかと疑わしいほどに」
ユカリの口から漏れた言葉は今までのどれよりも感情的で、刺々しかった。私は、びくりと肩を震わせる。怖い。怖いけれど、今ここには私しかいない。私だけで、どうにかしないといけないんだ。
「あ……、あー。なるほどなるほど。そういうことですか。センパイは人間じゃないから、すっかり抜けてましたよ」
マナが得心がいったとばかりに頷いて短い黒髪をがしがしと掻く。この人が愛の神だとは信じられないようなガサツな動作だ。一体、何を基準に神様として選ばれるんだろう。私だって、記憶はないけれど愛の神だった。愛のあの字もない枯れたアラサー女が選ばれたのだ。意味が分からない。
「私も先代愛の神には興味ありますけど。んー、センパイが納得いくような感じにアレするとなると……」
少し困ったように、マナが私を見た。私はその視線を睨み返す。このまま帰れ、もう関わるな、そう強く心に願った。
マナは私の考えを読み取ったのだろう、一度目を細めてから口元を吊り上げる。私はイチかバチか、身を翻して部屋の扉に手をかけた。ジラルダークは無理でも、ベーゼアに伝えられれば……!彼女なら、私が部屋を出たらすぐに私のところに来てくれる!
「ちょっと奪いましょうか。先代愛の神のお手並み拝見、ってところです」
そんな声が、背後から聞こえてきた。気にするな、振り返ったら駄目だ。私は転ぶ勢いで部屋から出ると、ジラルダークとベーゼアの名前を叫ぶ。
「ジル!ベーゼア!」
「カナエ様!如何なさいましたか!?」
私の声に反応して、ベーゼアが駆け寄ってきた。ジラルダークの姿はない。近くにはいなかったようだ。ベーゼアは私の肩を支えながら、何事かと顔を覗き込んでくる。私はベーゼアに縋って、部屋の中を示した。
「か、神様っ……、神様が!部屋に!」
「!」
ベーゼアは短い私の言葉で全てを察したように、私を部屋から遠ざける。険しい顔で部屋の扉を睨みつけた。即座に、魔神の人たちが集まってくる。私が説明する間もなく、グステルフさんとナッジョさんが部屋に踏み込んだ。エミリエンヌが私の手を引いて、部屋から引き離す。庇うように、ベーゼアとダニエラさんが私の前に立った。
追って、部屋の中から重い打撃音が聞こえてくる。二人の隙間から、部屋の中を覗き見た。フェンデルさんの剣は、不自然にユカリの手前で止まっている。透明な何か、防御の壁のようなもので防がれたのだろう。
「二度と害させはせんぞ!」
「ひえぇ、何とかしてくださいよ、センパイ!」
マナは情けない声を上げてユカリの腕を揺すった。ユカリは鬱陶しそうに息をついてから、やれやれと首を振る。
「こちらは五月蠅そうですね。天界から見ましょうか。では御機嫌よう、野々村夏苗」
ユカリは私を見据えて微笑むと、そのまま姿を消した。マナも同じように消えながら、不思議そうな表情で私に何か言った、ように見える。けれど、その声は私のところまでは届かなかった。
「フェンデル、アロイジア!神の気配を辿れ!」
グステルフさんの怒声に二人は頷いて、それぞれに駆け出す。ふと、震える私の手を握っていたエミリエンヌが呟いた。
「陛下は、如何なさいましたの?」
「え……?」
エミリエンヌの声に反応して彼女に視線を向けると、エミリエンヌは眉根を寄せて視線を横に走らせる。
「カナエ様の御身に何かあったとなれば、我々よりも陛下の方が先に駆け付けますでしょう?何故、こちらにいらっしゃいませんの」
エミリエンヌの言葉に、その場にいた魔神さんたちが息を飲んだ。
慌ててジラルダークの執務室に向かう。嫌な汗が、全身から噴き出すのが分かった。あの神はちょっと奪うと言っていた。もしかしたら、ジラルダークの身に何かあったのかもしれない。
いやきっと、私の声が届く範囲にいなかっただけだ。ううん、仕事が忙しいのかもしれない。魔神さんなら何とか出来るって信用して、だから彼自身は遠くから見守っててくれてて、…………。自分を落ち着かせるための言い訳は、余計に心の中を搔き乱した。
だって、ジラルダークなら……普段の彼なら私の声を聞き逃すことなんてない。普通に考えたら馬鹿げてるけど、私は断言できるのだ。彼ならば、即座に私の元へ飛んできて激昂するはずだ、と。
そうして私は対面した。
────この数十年の記憶を、私に出会ってからの記憶の、その何もかも失くしてしまったジラルダークに。