1.魔王の病
【ジラルダーク】
俺は窓から注ぎ込む朝日に意識を浮上させた。軽く眉間を指で揉みながら、体を起こす。不調はない。回復魔法も、解毒魔法も反応はしない。だが、どこか体が重かった。肉体的には何の問題もないのだ。睡眠も足りている。気のせいだろうとベッドから起き上がって服を整えた。息をついて、扉に手をかける。
部屋を出ると、栗色の髪のメイドの悪魔が迎えた。私室まで立ち入りを許した覚えはないが、いつの間にか俺が許可していたらしい。あまり踏み入れられたくないというだけで、今のところ不都合はないからいいのだが。
「陛下、顔色が宜しくありませんが……。どこか、ご不調が?」
「……いい、構うな」
顔色を窺ってくるメイドに、俺は軽く手を振って下がるように命じた。メイドは失礼いたしましたと礼をして、俺の私室を出ていく。何の変哲もないその後ろ姿を、何故か目で追っていた。寝惚けているのか、まだ思考が微睡んでいるようだ。ここのところ国に大きな問題がなかった所為もあって、気が緩んでいるな。
テーブルに用意してあった食事のうち、良く冷えた水を手に取る。朝食はあまりとらないと周知のはずだが、テーブルにはしっかりと前菜からデザートまで乗っていた。残すのは心苦しいから用意しないように、と昨日も伝えたはずなのだが……。あるものは仕方ない。今日もきちんと朝食をとるか。
あたたかい食事を口に運ぶと、思いの外、食が進んだ。昨日も、その前もそうだった。食べ始めれば、意外と空腹だったのだと気付く。分かっていて、朝食を用意しているのだろうか。それにしても、このデザートは城付きのシェフのものだろうか。どこか素朴な味がするタルトだ。悪くはないが、どうも不釣り合いに思える。これだけが酷く舌に馴染むような奇妙な感覚だ。遠い昔、この世界に来る前にでも口にしたのだろうか。
そこまで考えて、締め付けるような頭痛を感じた。鬱陶しいと回復魔法を自身にかけても、この頭痛は消えない。ここ数日で痛みがあるということに慣れてしまった。一体なんだというのか。もしかしたら、この不老の肉体にも限界が来ているのだろうか。長く生き過ぎたかもしれんな。そろそろ、終止符を打ってもいいのかもしれない。
…………。
馬鹿な考えに頭を振って、俺はテーブルから立ち上がった。部屋を出ると、どこか不機嫌な様子のエミリエンヌが待ち構えている。
「何だ?」
眉を寄せて尋ねれば、エミリエンヌは溜め息交じりに首を振った。長い金の毛が空気を含んでゆらゆらと揺れる。
「……いえ、朝食は召し上がられましたの?」
「ああ。だが昨日も言っただろう、必要ないと」
「今日も完食なさったのでしょう?召し上がられたのでしたら、陛下のお体には必要なのですわ」
成程、用意させているのはエミリエンヌか。ならば、料理長に直接必要ないと告げておくか。
「お止め下さい」
命令をしようと口元に指先を当てると、エミリエンヌが鋭く俺を制止した。先程までとは違い不機嫌を前面に出しながら、エミリエンヌが俺を睨み上げる。不愉快だと睨み返してもエミリエンヌは揺らがない。
「記憶が戻ってからの陛下を案じて、ご忠告申し上げたまでですわ」
「……何を隠している?失った俺の記憶に、何があるんだ?」
俺の質問に、エミリエンヌは一度口を開いて、だが何も音を出さずに閉ざした。
「エミリエンヌ」
促すと、エミリエンヌは瞼を伏せて俺の視線から逃れる。言うまでは梃子でも動かんと威圧してやれば、言いにくそうに言葉を紡いだ。
「頭痛は、治まりましたの?」
「時折あるが、大事ない」
「完全に治まりましたらお話いたしますわ」
早口でそう告げて、エミリエンヌは俺の前から去っていく。頭痛が治まればとはいうが、常時襲われているわけではないのだ。捕まえて無理矢理にでも吐き出させるかと考えて、ふと思う。
どうしてエミリエンヌはそこまで失った記憶に固執しているのだ。今までの人生から推察するに失っていない記憶の俺のまま、魔王としてこの数十年も変わらずに生きてきたはずだ。説明の一つでも寄越せば事足りるだろう。何故、それをしない。俺自身に思い出せと言いたいのだろうが、頭痛ばかりで思い出す気配は欠片もなかった。
思考に明け暮れて立ち止まっていても仕方ない。思い出せないのであれば、考えるだけ時間の無駄だ。俺の国は広い。王である俺が足を止める時間などない。執務をこなさねば。ただでさえ、ここ数日俺の不調のせいで滞り気味になっていた。これ以上は国政に影響してしまう。それだけは許せなかった。
頭を振って執務室へ向かう途中、今度はここ数日我が居城に滞在しているダイスケとボータレイに呼び止められる。
「調子はどうだ、ダーク?」
「特に変化はない。お前たちも、いつまでもこちらに構わずともよい」
領地を疎かにするな、と視線を向ければ、二人して何とも言えない表情になった。エミリエンヌ同様、この二人も言いたいことはあるが言えない、そんな顔をしている。
「何だ?言いたいことがあるならば言え」
「いや、……こっちの領地の方は問題ねぇよ。それよりもお前の方が問題だろ」
「少々記憶が飛んでいるだけだ。問題などない」
俺の言葉にダイスケが顔を歪めた。それが問題なんだろう、と彼が呟く。ボータレイが首を振ってダイスケの肩に手を置いた。
「アンタの記憶、数十年分の中ですごく大事なところが抜けてるのよ。ダークが今まで魔王として生きてきた数百年とは比べ物にならない程大事な……」
その言葉に、再びあの頭痛が蘇る。軽く眉を寄せて額に手を置いても、頭痛は和らぐことはなかった。記憶に関連することに言及されたり、何かを思い出そうとする度にこの頭痛が起こる。回復魔法でも打ち消せない、厄介なものだ。多少痛みに慣れてきたとはいえ、こんなものは無い方がいい。
「ならば、何故お前たちは俺に教えない。記憶の欠けたたかが数十年のこと、報告書の一つも上げればいいだろう」
「それはっ……」
「大介様、ボータレイ様、こちらにいらっしゃいましたか」
ボータレイの言葉を止めたのは、今朝俺の部屋にいたメイドだった。いや、彼女はメイドではないのだろうか。ダイスケやボータレイに話しかけられるほどに重用していた覚えは、今の俺にはない。
俺の失った数十年の中で、このメイドはのし上がったのか。しかし記憶を失ったとはいえ俺が見る限りでも、重用するほどの魔力や武力はない。特殊な力もまるでない、ただの凡庸なか弱い女性に見えるのだが……。
「……何かあったのかしら?」
ボータレイが、メイドに応える。その表情はやわらかくあったが、どこか悲痛さを滲ませていた。メイドはそれに気付いているのかいないのか、変わらない笑みのまま傅く。
「任されておりました事柄に関して、ご確認頂きたいことがございます」
「……ああ、分かった」
メイドに対して、ボータレイではなくダイスケが頷いた。俺のよく知る普段の口調で、だ。ダイスケは身の内に引き込んだ者の前でなければ、あの珍妙な口調を解かぬ。つまりはこのメイドは、ダイスケとかなり親しい位置にいると推察できる。しかも俺の知らぬところで、だ。失った記憶の中で、俺にしてみれば短い時間の中で、一体何があったというのか。特別な力を持たぬこのメイドは、何をしたというのか。
「行こうぜ、夏苗ちゃん」
じっとメイドを見つめる俺を一瞥して、ダイスケが彼女の肩を抱く。反射的に、俺はダイスケの腕を掴んでいた。ダイスケの行動を許せない。触るな、と頭の中で誰かが叫んだ。胸を焼くように沸き上がる感情は、何だ。
「痛ェな、何だよ」
ダイスケが不愉快そうに俺を見上げる。その言葉に俺は、無意識の内にかなり強い力でダイスケの腕を掴んでいたことに気付いた。慌てて手を離すと、ダイスケは短く息を吐く。メイドは俺に背を向けていて、表情を窺うことはできなかった。
彼女の華奢な肩を掴んで強引にでもこちらを向かせたい、と考えて、俺は自分自身に驚く。そんなことをして何になるというのだ。メイドはきっと、驚いて俺に平伏するだけだろう。分かりきったことだ。無駄でしかない。
背を見ていた俺に気付いたのだろうか、微笑みを称えたメイドが振り返った。張り付けたような微笑みが、無性に気に障る。ではメイドがどんな表情でいればよかったのか。自問しても、答えが出なかった。喉の奥にただ、焼け付くような不快感が残るだけだ。
「参りましょう。御前を失礼致します、……陛下」
「あ……、ああ」
待ってくれ、と縋りそうになって、俺は慌てて頷いた。何故だ。どうして、俺は一介のメイドに過ぎない彼女を気に掛ける。特殊な能力も技能も持たない、ましてや消えた数十年の記憶の中にしかいないであろう、取るに足らない存在であるはずの彼女を。数百年の時を生きてきた俺にとって、大きく影響を与えるものではない……はずだ。
ボータレイが言ってた。今の俺が持つ数百年の記憶よりも大事な、高々数十年の記憶。彼らの態度から察するに、あのメイドが関わっているとみて間違いないだろう。カナエ、と呼ばれていたか。
ダイスケとボータレイは何を俺に隠している。何故隠している。どうして知らせない。言動からして、俺の失ったこの数十年を知っているはずだ。だというのに、何故……。時折、二人からは俺を責めるような視線も向けられていた。つまりは自力で思い出せと言いたいのだろう。
「……カナ、エ……?」
記憶のきっかけを探して唇に名を乗せると、今まで以上の頭痛が俺を襲った。思わず眉を寄せて、掌で額を押さえる。ふらついた足元を制御できず、傍にあった壁に勢いよく肩をぶつけた。
「っ、ジル!」
ずるりと壁に沿って揺れた上体を、誰かの腕が支える。痛みをこらえて腕の主を見ると、あのメイドだった。泣き出すのではないかと思う程に顔を歪めて、俺を見上げている。その表情に、頭が割れるような痛みが走った。
堪らずに呻いて回復魔法をかけても、痛みはより激しく俺に纏わりつく。あまりの頭痛に膝の力が抜けて、俺を支える彼女にもたれかかってしまった。見たままに華奢な体は特別な力などなく、俺の重さに負けて共に倒れ込む。
「夏苗ちゃん!」
「ダーク!」
ダイスケとボータレイの駆け寄る足音と叫び声が遠く反響して聞こえた。
「もう嫌……!何でこんなことするの!ごめんね、ジル、苦しめてごめんね……!」
重く鐘の音が響くような感覚の中、涙に濡れた彼女の声だけは、何故か輪郭を持って俺の中に届く。願わくば、彼女の悲痛な叫び声を止めたいと、俺の記憶の中に彼女の泣き止む術があるならば早く思い出させてほしいと、霞む意識の中で居もしない神に祈っていた。