4.奥様の看病
翌朝、私の体調は最悪もいいところだった。ジラルダークの風邪が移ったわけじゃない。そこは魔王様、有言実行で回復魔法をかけ続けてくれていたようだ。今現在、私を侵している不調はウイルス性のものでも細菌性のものでもない。人的災害なのだ。
「腰痛い……喉痛い……起きれない……」
何でこっちも回復してくれないのか。どちくしょうめ。布団の中からベッドの脇にいるジラルダークを睨んでも、しれっと微笑み返されるだけだった。そういやそうだよね。魔王様言ってたもんね。私のことを看病するか、自分がされるか考えたって。私につらい思いをさせたくないって、これも充分つらいんですけどね!?
「みず……」
水飲みたいって言おうとしたら、“み”辺りでジラルダークが覆い被さってくる。口を塞がれたと同時に、冷たいレモン風味の水が口の中に入ってきた。ついでにジラルダークの舌も入ってくる。うぐぐぐぐ!飲みにくい!噛み千切ってやろうか、このおバカ魔王様め!
どうにかこうにか飲み下すと、ジラルダークが名残惜しそうに唇を離した。けほっと咳をすると、ジラルダークが心配そうに眉を寄せておでこを撫でてくる。
「もっと飲むか?」
私はジラルダークの手を掴んで首を振った。殊勝な顔して、原因は魔王様なんだからね!前もモノキ村で体調崩したけど、それも原因は魔王様なんだからね!ていうか私、魔界に来てから体調不良になってるの、ほとんど魔王様のせいじゃないか!
むぐぐと唸りながら、掴んでいたジラルダークの手をぐにぐにと揉む。ジラルダークはベッドの脇に腰を下ろして、されるがままに微笑んでいた。看病してやろうっていうよりも、甘やかしてやろうって魂胆なんだろう。上等じゃないか。今日はとことんワガママ言ってやるぞ。
「ジル、抱っこ」
手始めに私は、ジラルダークの方を見ないで呟いた。ん、と笑ってジラルダークがいそいそと隣に潜り込んでくる。やわらかく抱き締められて、私は彼の胸元に顔を埋めた。すんすんとジラルダークの匂いを嗅ぐと、くすぐったそうに彼が笑う。
「頭、撫でて」
「ああ」
ジラルダークは静かに笑いながら言われたとおりに私の頭を撫でた。ジラルダークの手は大きくてあったかいから、すごく安心する。髪の毛を整えるように指を通して、丁寧に丁寧に頭を撫でてくれた。
そんな手つきとジラルダークの体温に包まれていたら当然やってくるのは拒めない眠気で。私はジラルダークのシャツを掴んで、離れないように握り締める。
「もっかい、寝る。……起きたら、美味しいごはん、食べる……」
「ああ、分かった」
ジラルダークが、眠りを促すように私の脳天にキスをしてきた。私はとろとろと瞼を閉じながらジラルダークの胸に額を擦り寄せる。
いつも魔王様の朝は早くて、私は前の夜の疲労が抜けなくて。寝てていいよってジラルダークは言ってくれるけれど、二度寝する時は一人だから……。
これは私の、精一杯のワガママなのだ。
「愛している、カナエ。いい眠りを」
ちゅ、とジラルダークが私の髪に口付ける。ジラルダークがそばにいてくれれば、いつだって安心して眠れるよ。……なんて言ったら魔王様は天高くつけあがりそうだから、内緒にしておく。
蕩けて沈む意識の中で、起きたらどんなワガママ言おうかな、どうやってジラルダークに甘えようかな、なんて考えていた。
◆◇◆◇◆◇
【ジラルダーク】
大変有意義な休暇を過ごした数日後、俺はカルロッタの治めるツァンバイを訪れていた。カルロッタは俺を迎えて、にやにやと笑っている。
「よォ、ダーク。嫁さんにしっかり甘えられたか?」
「ああ、お陰様でな」
軍備についての資料へ目を通しながら、俺は適当に返事をした。先日の件で絡んでくるであろうことは分かっていたのだ。だからこそ、こうしてわざわざ足を運んだ。余計な者の耳に入れる前に話題を終わらせてしまえと考えたからだ。
「手間をかけたな。あの味付けは、遠い記憶に俺が好んでいたものだ。久方ぶりに、郷愁を覚えた」
俺の言葉に、カルロッタは一瞬面を食らった表情になる。書類から視線を上げてカルロッタを見れば、奴はがしがしと頭を掻いた。
「……ま、お前の乳母が姉貴の娘だって聞いてたからな。体調悪いってんなら、あのミゼラートだろ」
カルロッタは世代こそ違えど俺と同じ世界で、しかも王家の血を継ぐ者だ。俺からしてみれば大叔父でもある。あの世界にいた当時はとても憧れていた存在であったのだが、今は憧れから一番遠い人物だな。憧れるよりももっと身近にある存在である上に、まあ、伝説上の人物像と実際の人物があまりに乖離しているせいもある。それは俺が目指していたものではなかったというだけで、カルロッタが悪いというものではないのだが。
「全くいい嫁さんじゃねぇの。お前さんの調子が悪いっつったら、わざわざ俺に聞いてまで好物作ってやろうってんだからよ」
「まさかカナエがお前に尋ねるとは思わなかった」
「そんだけ愛されてるんだろ、姫様に」
カルロッタは溜め息交じりに羨ましいだの爆発しろだのぼやいていた。俺は用意されていた茶を啜りながら肩を竦める。
「お前は遊びが過ぎる。俺を羨ましがる前に、するべきことがあるだろう」
「ダークは固いし重すぎるの。オッサンくらいちゃらんぽらんに生きたって、バチは当たらないもんよ?」
「いいえ、バチは当たりますよ」
こんな風にね、と力の籠った一言と同時に、カルロッタが目の前から消えた。振りかぶった棍棒で叩きのめされたらしい。俺は引き続き茶を啜りながらリータ=レーナを見た。
彼女はその細腕のどこにそんな力を秘めているのか、カルロッタを叩きのめした棍棒を無造作に放ると、恭しく跪いてみせる。
「御前にて失礼致しました、陛下」
「構わん。私的な訪問だ。用も済んでいた」
は、と短く頷いて、リータ=レーナは撃沈しているカルロッタの頭を掴んだ。直撃したらしい、カルロッタは綺麗に伸びている。俺は茶を飲み干すと、ソファから立ち上がった。
さて、帰るか。口止めの一つもしようかと思ったが、必要なさそうだ。リータ=レーナの様子からして、カルロッタは暫くこちらに構う余裕もないだろう。
「お前の領主に伝えておけ。息抜きならばいくらでも付き合うと」
俺の言葉に、リータ=レーナが目を瞬かせた。俺まで遊ぶと思われたらしい。俺は口元を吊り上げて、双剣の柄を撫でた。
「偶の息抜きも必要なのだろう。存分に遊ばせてやる。死なぬ程度にな」
「……は!」
言いたいことが分かったらしい。リータ=レーナは跪いたまま頭を垂れた。俺はそれを横目に居城へとテレポートする。直接執務室に飛ぶと、書類を整頓していたらしいカナエが目を見開いていた。
「ただいま、カナエ」
「びっくりした、おかえり、ジル」
すぐに微笑みを浮かべて出迎えてくれるカナエを、両の腕に閉じ込める。カナエは書類を抱えたまま、すっぽりと俺の腕の中に納まった。カナエを抱きながら執務室の中に視線を走らせる。エミリエンヌの姿はなかった。もうこちらでの書類仕事を終えて、研究室にでも行ったのだろう。
「カナエ、その書類は?」
「今日上がってきた報告書だよ。魔王様の最終承認が欲しいのはそっちに纏めてあるからね」
「ああ、ありがとう。緊急性のあるような報告はあったか?」
俺の言葉に、カナエは俺を見上げながら首を傾げた。この様子からして、然程重要な報告はなかったのだろう。それに緊急な要件があれば、俺へ直接報告が上がるからな。うーんと可愛らしく唸り声を上げた後、カナエはパッと表情を明るくした。
「あ、そうだ。モノキ村のイルマちゃんたち、風邪治ったって」
「そうか。お前に看病してもらったんだ、すぐに良くなると思っていた」
言いながらカナエを抱き上げてそのやわらかい頬に口付けると、カナエはくすぐったそうに笑う。もっと味わいたくなって、カナエの唇に軽く噛みつく。カナエは小さな声でこらと俺を叱りながら、俺の唇に指を添えた。
「お仕事が先だよ、魔王様」
「む……」
カナエの言葉に、俺は眉根を寄せる。カナエは俺の表情を見て、仕方ないとばかりに笑った。
「またお休みの日にいっぱい甘やかしてあげるから。ね、魔王様」
ころころと笑いながら、カナエは俺の髪を撫でる。魅力的な提案に唸る俺を、カナエはおかしそうに見ていた。もう少し粘れば、カナエはきっともっと俺を甘やかす。分かっているからこそ、俺は彼女の提案に渋る振りをするのだ。
「今度はどうする?また看病する?」
「そうだな……」
俺はカナエを抱えたまま書類の用意されている机に腰を下ろす。次はどうしようか。カナエとどう過ごそうか。
条件を飲んだのだと分かったらしい、カナエは俺が作業しやすいように膝の上で体勢を変えながら、現金なんだからと頬を膨らませた。俺は彼女の機嫌を直すためと、己の欲求を満たすためにカナエの耳を甘く噛む。カナエは頬を赤く染めながら、俺の胸元を軽く叩いた。
「おーしーごーと!」
「ふふっ……、ああ、分かっている」
膨れるカナエに笑って、俺は書類を手に取る。大人しく仕事を始めた俺に、カナエは満足そうに笑った。
────次の休暇にカナエとどう過ごすか。半分以上の思考を甘い時間へ傾けていたことは、彼女には秘密にしておこう。