3.夫婦の休日
胸元で何かが動く感覚に、意識がゆっくりと浮上する。あれ私何してたんだっけ、と一瞬考えて一気に眠気が飛んだ。風邪っぴき魔王様に抱き枕にされて、そのまま寝ちゃったらしい。
「……ジル?」
声をかけると、胸元の魔王様はぴたりと動きを止める。無い胸でぱふぱふしたってしょうがないでしょ。何やってるのよ魔王様。
部屋を見回すと、窓からは鮮やかなオレンジ色の夕陽が注いでいた。それほど長い時間寝ていたわけじゃないらしい。そしてジラルダークからは返事がない。ただのしかばねのようだ。
「ねぇジル、汗かいたでしょ?お湯沸かしてくるから、体拭いて着替えよ?」
ポンポンと胸元にあるジラルダークの頭を叩くと、ぐう、と魔王様が鳴く。着替えたいのは山々だけどこの体勢を変えたくないって言わんばかりだ。全く、こんなワガママ魔王様にしたのは誰だ。……私のせいじゃないぞ、断じて。
「ジール?」
子供のイタズラを諫めるように、猫なで声で彼の名前を呼んでみる。するとようやく、不満そうに魔王様が顔を上げた。
「まだ、こうしていたい。……カナエがいれば、治る」
かすれた声でジラルダークが言う。乱れた黒髪がなんとも色っぽい……んだけども、魔王様の表情はふくれっ面そのものでギャップが酷いことになってた。私は乱れたジラルダークの髪を撫でて整える。
「体拭いて着替えて夕飯食べたら、また添い寝するから」
「嫌だ、今がいい」
やだじゃないっての、もう!そんでもって、また私の胸に顔を擦りつけるな!くすぐったい!
くすぐったくて体を捩ると、逃げるとでも思ったのか腰を抱くジラルダークの腕に力が籠った。おのれは子供か!七百歳児か!どうすればここから脱出できるんだ?多分、ジラルダークは看病イコール添い寝してもらうって感覚なんだよね?もっと看病っぽいことはないのか?考えろ、考えるんだ夏苗……!
……そうだ!
「ねぇ、汗が冷えちゃったら体に負担でしょ。すぐにお湯沸かして持って来るし、だるいようだったら私が拭くから」
「…………」
「着替えるのも手伝うよ」
「…………」
「ご飯も、吐き気が無いようだったら少しお腹に入れとこ?食べたいものがあれば作るし、あーんもするよ」
看病で魔王様が憧れそうなことを羅列してみたら、やっと彼の腕から力が抜けていく。本当かと尋ねるようにジラルダークが私の瞳を覗き込んできた。言ったからにはちゃんとやりますよと頷いてみせる。
そうしてようやく、私は魔王様の拘束から解放された。ジラルダークに布団をかけ直しながら、私はベッドから降りる。
「お湯沸かしてくるね。何か食べたいものはある?」
「……カナエが……」
「私?」
呟かれた言葉に首を傾げると、ジラルダークは頷いた。熱で潤んだ赤い瞳が、ついっと私から逸らされる。
「カナエが食べさせてくれるのならば、何でもいい……」
「……もう、甘えた魔王様なんだから」
ジラルダークの言葉に、思わず目を見開いた。そっぽ向いてる魔王様の長い耳は、熱のせいだけじゃない赤さで染まっている。魔王様、甘えるのに照れてるのか。私まで何だか照れ臭くなっちゃうじゃないか。
「じゃあちょっとだけ待っててね」
ぽふ、とジラルダークが包まっている布団を叩いて、私は寝室を出た。頬っぺたが熱い。振り払うように頭を振って、私は速足で台所に向かう。ついでにポケットからどこでも電話を取り出した。多分、あの人なら大丈夫だろう。……多分だけど。あの人もサボり癖あるし。
「余計な詮索をするようなら、わたしがお仕置きしてあげるわ、愛されし子」
「物騒なこと言わないの」
私が一人になった途端に姿を現したメイヴに苦笑いを浮かべながら、私は携帯電話のボタンを押すのだった。
◆◇◆◇◆◇
【ジラルダーク】
ゆらゆらと揺蕩う意識の中、彼女の優しい手が俺の額を撫でる。ひんやりとした感触に瞼を持ち上げると、ぼやけた彼女が微笑んだ。
「ジル、……大丈夫?起きられる?」
「……ああ……」
応えた声は自分でも笑えてしまうほどに掠れている。カナエの献身を我が物にしたいがためだけに病に侵されてはみたが、数百年ぶりの不調は想像以上に俺から体力を奪ったようだ。そろそろ治癒魔法をかけてもいいかもしれんな。
「ご飯できたよ。食べたら体拭こうね」
カナエがやわらかく微笑みながら俺の体を支える。甘えて体重を預けながら体を起こした。それでも彼女は微笑むばかりで怒らない。むしろ、もっと甘えろと言わんばかりに俺の背を撫でてきた。……まだもう少しだけ、治癒せずにいようと心の内で決めておく。
俺が完全に上体を起こしたのを確認して、カナエは俺の隣に腰を下ろした。それからサイドボードに置いてあったらしい、湯気の立つ食事を俺の膝の上に持ってくる。
「!……これは……ミゼラート?」
目の前に出された食事に驚くと、カナエはくすぐるように笑いながら俺の顔を覗き込んできた。
「風邪を引いた時にはこれなんでしょ?」
大麦のパンをミルクとチーズで煮た粥のようなものなのだが……。確かに、俺の世界では風邪を引いた時によく出される料理だ。しかし、カナエにそれを伝えた記憶はない。
「……どうしてそれを……」
「旦那様には早く元気になってほしいからね」
ふふ、と可愛らしく悪戯に笑って、カナエが俺の頭を撫でた。さ、食べようとカナエがスプーンでひと匙掬い上げる。彼女は俺の我儘を受け止めて、甘く返してくれるのだ。だからこそ俺は、もう彼女を手放すことなどできない。
「ふーっふーっ……、はい、あーんして」
カナエの言葉に従って口を開けると、そっとスプーンが口中へ差し込まれた。どうだろうとばかりにカナエは俺の表情を見ている。咀嚼してみれば、ふわりと広がるチーズの香りとミルクの甘味に、食欲をそそるような胡椒の風味があった。食べやすいように一口大にちぎられたパンには、香ばしい木の実がまぶされている。とても懐かしい味だった。
そうか……、カルロッタに聞いたのか。これは遠い遠い昔、俺がまだあちらの世界にいた頃、体調を崩した俺によく乳母が作ってくれていたものだ。胡椒も木の実も滋養に良いとされていたが、そう常に摂取できるほど市場に出てはいなかった。体調を崩した時だけ特別に、と笑っていた顔は、もう薄らぼんやりとしか記憶にない。
俺は、懐かしくも温かい味を飲み下して、隣のカナエに視線を向けた。カナエは少しだけ不安そうに俺を見ている。俺は微笑んで彼女に答えた。
「とても旨い。……懐かしい味がする。沁みるような味だ」
「そっか、……えへへ、よかった」
照れて笑う彼女を抱き寄せて存分に愛でたいところではある。あるが、まずはカナエの作ってくれたミゼラートを平らげることにしよう。スプーンを持つ彼女の手に自身の手を重ねると、カナエは嬉しそうに頷いた。
「沢山食べてね、はい、あーん」
カナエに与えられるがまま、俺は食べ進めていく。時折、ちゃんと噛むのと注意されたり、口元を指先で拭われたりとまるで子の世話を焼くようだ。
カナエとの間にもしも子を成せたならば、と考えて俺は自嘲する。子にカナエを盗られまいと必死になる自身が簡単に思い浮かんだからだ。実際に子を成せたならば変わるのだろうか。詮無いことが脳裏を過ぎる。
綺麗に食べ終わると、カナエは満足気に笑った。本当なら薬も飲んでほしいんだけどと呟く彼女に、俺は苦笑いを浮かべる。本来であればそれがいらないことも、そもそもこの状況が遊びであることも分かっているからだ。
「体拭こうか。随分汗かいたでしょ」
「ああ……」
まだ少しだるいのだとばかりに頷く俺の背を、カナエの細い指先が撫ぜる。横になっておくかと尋ねられて、俺は首を振った。すぐにお湯持ってくるから、と焦った様子で出ていく彼女が可愛らしくて堪らない。
数分もしないうちに、湯気のたつ桶を抱えたカナエが戻ってきた。サイドボードに桶を置いて、カナエは再び俺の隣に腰を下ろす。
「寒気は?」
「ああ、大丈夫だ。寒気はない」
「じゃあ上から拭こっか。腕上げて、バンザーイ」
言われたとおりに腕を上げると、カナエが俺の寝巻に手をかけた。上着を取り払って、カナエは湯に浸したタオルを手に取る。普段であれば絶対に恥じらうであろう行為も、特殊な状況下だからかカナエは躊躇うことはなかった。
さて、そろそろ治癒魔法をかけるか。カナエの看病も名残惜しくはあるが、それ以上にこの状況を全力で堪能したい。カナエを愛でるにも体調は万全でなくば、な。
「熱くない?力加減は大丈夫?」
俺の考えなど知る由もなく、カナエは健気に濡れたタオルで俺の体を拭っていた。俺は頷いて、カナエの腕を掴む。カナエは不思議そうに首を傾げて、俺を見上げてくる。
「くすぐったかった、っひゃあ!?」
尋ねるカナエの腕を引いて、腰を抱き寄せた。体勢を崩したカナエは、俺の胸元に頬を預ける格好となる。必然と密着した肌に、カナエが息を飲んだ。彼女の脳天に口付けて、甘い香りを堪能する。
「じ、ジル……?」
戸惑って見上げてくるカナエに、俺は目を細めて笑ってみせた。カナエは俺が何を求めているか察したのだろう、目を見開いた後に唇を尖らせる。俺は彼女の服の裾に手を差し込ませながら、赤く色付いた耳元に囁いた。
「こちらの看病も頼む」
「ッ……ばか!」
少しばかりの抵抗を示すカナエを逃がさぬように抱き締めて、俺は深く笑みを浮かべるのだった。