2.魔王の望み
リンゴみたいな果物が貯蔵庫にあったからそれをすりおろして、ついでにレモンとハチミツも掛けておく。温め終わった生姜湯だけを持つと、私は寝室に戻った。ベッドの上の彼は規則正しい寝息を立てている。サイドボードに生姜湯を置いて、そういえばと部屋を見回す。ああ、あった。私は静かに鏡台に備え付けてある椅子をベッドのそばに持ってくる。腰かけて、彼の顔を覗き込んだ。随分熱が上がってきたらしい。汗もかいてきたようだ。
サイドボードに置いてあった桶から、氷水に浸ったタオルを取り上げる。なるべく音が響かないように絞ると、そっとジラルダークの額にタオルを添えた。
「ん……」
冷たさに驚いたのだろうか、ジラルダークが小さく唸って瞼を持ち上げる。とろんとした目が何度か左右に動いて、私を捉えた。
「ごめんね、起こしちゃったね」
「……いや……」
かすれた声で言いながら、彼は微笑むように瞼を伏せる。冷たくて気持ちがいい、と息を吐くように囁いた。
「喉乾いてない?お水とあったかい飲み物あるけど、飲む?」
「ああ……、あたたかい飲み物を……」
ジラルダークの要求に頷いて、私は彼の体を支えて起こす。支える腕に、じんわりと彼の高い体温が伝わってきた。椅子からだとどうにも支えにくいから、ベッドに腰を下ろす。サイドボードの生姜湯を手渡そうとして、まだジラルダークの視線がぼんやりとしていることに気付いた。普段だったら大丈夫だろうけど、今の彼はおよそ数百年ぶりの風邪をお召になってるんだ。溢しちゃうかもしれないなと考えて、私がカップを持ったままジラルダークの口元に運ぶ。
「まだちょっと熱いから、ゆっくりだよ」
私の言葉にジラルダークは、こっくりと素直に頷いた。まだ寝惚けてるのかな?素直な魔王様、可愛いぞ。
ゆっくりと生姜湯を飲んで、ジラルダークは息を吐いた。二口、三口と彼が求めるままに生姜湯を飲ませる。
「甘くて、落ち着くな……」
「ふふっ、はちみつ多めにしたからね」
こう見えて甘党なジラルダークにはハチミツたっぷりの方がいいだろうと思って作ったけれど、正解だったようだ。八割ほど飲んで、もう充分だと彼は微笑む。
「食欲はどう?何か食べられそう?」
「……いや、まだ然程食欲はないな……」
「うん、分かった」
じゃあまた寝てた方がいいかな。そう思って支えを解きながら寝かせようとしたら、ジラルダークが私の手を掴んだ。
「お前は……?」
「ん?私?」
首を傾げると、ジラルダークはああと頷く。熱い指先が、私の唇をなぞった。どうやらジラルダークは、私がお昼ご飯は食べたのか聞きたいらしい。魔王様はこんな時でも過保護なんだなって思ったら、何だかおかしくなってしまった。
「大丈夫だよ。ジルは大人しく看病されてなさい」
半分笑いながら、今度こそジラルダークをベッドに寝かせる。心配そうに私を見ていたけれど、風邪からくる眠気には勝てなかったようで、またすぐにジラルダークは眠りに落ちた。じっくりと寝顔を覗いていても起きない。
火照った彼の顔に、私はベッドの上をきょろきょろと見回した。ああ、あった。さっき体を起こしたから落ちちゃってたんだ。
ぽたぽたと静かな音を立ててタオルを絞って、額の上に乗せる。寝苦しそうにしていたジラルダークの顔が、ほんの少し和らいだように見えた。起きちゃったかなと思ったけれど、彼は深い眠りに落ちたままだった。
次に起きた時には、汗を拭いて寝巻も変えたほうがいいだろう。それに氷枕も用意しなきゃ。あとはそう、夕飯だ。さすがにお昼も抜きで夕飯も抜きでってなってくるようなら、エミリエンヌなりボータレイさんなりを召喚して治した方がいい。何だかんだ、魔王様は体が資本なのだ。休暇明けたら弱ってました、じゃ済まないだろう。まあ、さすがにジラルダークもそこら辺は分かってると思う。……多分。いや、回復できるからってギリギリまで粘るつもりじゃない、よねぇ?
私はまさかねと思いながら、とりあえずは寝室のクローゼットを開けた。ジラルダークの寝巻を取り出して、椅子の上に置いておく。ついでに少し暖かくなってしまったタオルも替えておいた。寝息を確認してから寝室を出る。
さて、と。
あ、そうだ。すったリンゴはお昼代わりに私が食べちゃおう。ぱたぱたと貯蔵庫に向かうと、ふわりと花の香りが漂った。
「メイヴ」
「呆れてしまうわ。悪魔の王は何をしているのかしら」
姿を現したメイヴは、何故かぷんぷんしてる。私は苦笑いを浮かべながら、すりおろしリンゴを取り出した。
「精霊の王であるわたしよりも力のある悪魔の王よ?ああ全く理解できないわ」
「あはは、ジルは甘えたいんだよ。ちょっと、強引だったけどね」
笑う私に、メイヴは唇を尖らせる。納得がいかないのか、強引なんてものじゃないわよ、ともごもご文句を言っていた。彼女のその姿に、すりおろしリンゴを食べながらも笑みが零れる。
「わざわざ病に罹ってまで、愛されし子を独り占めにしたいだなんて。ねぇ愛されし子、あんまり甘やかすものじゃないわ」
常日頃からエミリエンヌに言われていることを、メイヴにまで言われてしまった。うーん、私は魔王様を甘やかしすぎなんだろうか?そんなに甘やかしてるつもりはないんだけどなぁ。
「ああ、愛されし子に自覚がないのも問題なのね。駄目よ、甘やかしすぎたら悪魔の王はつけあがるわ」
溜め息交じりに言って、メイヴは私の頭を包み込むように抱き締めてくる。ちょうどすりおろしリンゴを食べ終わったタイミングで抱き着いてきておいて、甘いのはどっちだろうね。私が魔王様を甘やかして、メイヴが私を甘やかして、纏めてエミリエンヌに怒られて、でちょうどいいんじゃないかな。
「もう、愛されし子には敵わないわね」
私の考えを読み取ったのだろう、メイヴは私の頭に頬擦りしてくすくす笑っていた。メイヴの長い髪の毛が耳に触れてくすぐったい。軽くメイヴの腕を叩くと、彼女はうふふふと笑いながら腕を離した。
「ねぇ愛されし子。悪魔の王が使い物にならないなら、わたしが力になるわよ」
「メイヴったら」
成程、だから出てきたのね。何でも言って頂戴と得意げに微笑む彼女に、私は苦笑いを浮かべる。あ、だったら氷枕を作ってもらおうかな。かなり熱が上がってきちゃってるみたいだし。
「分かったわ。……はい、どうぞ」
もう最近じゃあ私の思考を読むことにためらいのなくなったメイヴが、防水加工してある皮の袋に氷を詰め込んで渡してきた。ありがとうと受け取って、私は寝室に向かう。ジラルダークが寝ていると分かっているからなのか、メイヴもそのままついてきた。
寝室に入ると、出ていった時と変わらない体勢でジラルダークが寝ている。起こさないように慎重に彼の頭を抱えて、枕を交換した。額に乗せていたタオルは、すっかりぬるくなってしまっている。タオルももう一回冷やそうかな……。
「っひゃ!?」
そう思ってジラルダークから離れようとしたら、いきなり腰を抱えられて引き寄せられた。何事かとジラルダークに視線を戻すと、彼は私の背後を睨んでいる。
「はいはい、邪魔者は消えろってことね」
呆れたような声と花の香りを残して、メイヴは姿を消した、……らしい。ジラルダークに抱き寄せられてるせいで、背後を確認できなかった。
私が心底嫌がらない限り、メイヴはジラルダークから私を引き離そうとしない。私は今、嫌がってるわけじゃないからメイヴは簡単に引き下がる状態なのだ。申し訳ない。あとでメイヴにはケーキ作ってあげよう。
「ジル?」
「……ん」
寝惚けたようなぼんやりした返事が、胸元から返ってきた。腰を抱き寄せる腕は解かれないし、むしろ力が強くなってきてるような気がする。ちょ、胸の間に顔を埋めるな、何してるの魔王様!
「ジル、ほら、タオル冷やすから」
「……ん」
私の胸に顔を埋めたままで、ジラルダークは返事のような返事じゃないような声を出した。胸元に籠るジラルダークの息が熱くて、私は背中を震わせる。逃れようと身を捩っても、けれど彼の腕が緩むことはなかった。
「ジル、……ジル?」
「…………」
え、待て待て待て。何で胸元からすやすや寝息が聞こえてくるの?これ私、思いっきり魔王様プレスしてる状態じゃないか!寝苦しくないの?ていうか、ちゃんと氷枕に頭乗せてる?さっき抱き着いて引き寄せる時に動いてたよね……?
そう思ってジラルダークの頭を覗き込むと、案の定氷枕から外れてしまっていた。抱き枕よろしく私を抱き込んでるせいだ。全くもう!
起こそうかとも思ったけど、胸元で感じるいつもよりも高い彼の体温に諦める。できるだけ寝かせておいてあげたいし……って、これが甘やかしてるって言われる原因か。
私はもう一度ジラルダークの頭を抱えて、氷枕を移動させた。さて、ここからどうしようか。これはもう、大人しくジラルダークの抱き枕になるしかなさそうな感じ?抜け出そうにも馬鹿力魔王様は寝てても馬鹿力だ。
無理だこれと早々に諦めて、私はもぞもぞと体勢を変える。とはいってもジラルダークは胸に顔を突っ込んだままだし、ホールドもされたままだ。あんまりジラルダークに体重をかけないようにって彼の横に寝転がっただけだけどしょうがない。
諦めの境地で胸元のジラルダークを覗き込むと、安心しきったように頬を寄せて眠っている彼の顔が見えた。人肌が恋しかったのかな。魔王様は風邪引くと寂しくなるタイプだったのね。
「しょうがないなぁ、もう……」
こっそりと呟いて、私はジラルダークの脳天に口元を埋める。私にだったら我儘言ってもどれだけ甘えてもいいから、早く元気になってよね。
ジラルダークの寝息につられてうとうとしながら、そんなことを思った。