5.神の鉄槌
【ジラルダーク】
窓から降り注ぐ朝日に意識が浮上する。緩やかに瞼を持ち上げると、そこには安らかに眠るカナエの姿があった。昨日は二度とこの腕に抱けないかと焦ったが、カナエは変わらず俺の腕の中にいてくれている。昨夜のカナエの愛らしさを思い出しながらも、俺は深く反省していた。
あれほどに泣いて怒るカナエを、この数十年の内に見たことはなかった。あまり怒るという感情を表に出すことはしない彼女が、あれほどまでに激怒するのは初めてだった。泣き叫ばれたことは初めてではないが、それも数えられるほどに少ない。
今回も、カナエをそうさせたのは俺だ。俺の愚かな行いのせいでカナエを悲しませ、怒らせてしまったのだ。
もう涙の跡は残っていない彼女の頬を、指先でなぞる。起こさぬように肌のやわらかく滑らかな感触を楽しんで、俺は瞼を伏せた。
無茶をするな、と。皆を信頼しろ、と。
泣きながら怒り訴えるカナエに悟る。あの日、俺がカナエを守り切れずに倒れた日、彼女は無様に倒れる俺を見ていた。それがどれほどに暗く、深く彼女の心に影を落としてしまっているのかを。
それ見ろと笑っていたタケルを思い出す。彼女をきちんと守れと奴は言っていた。タケルは人に下されたままでは神としての矜持に関わるなどと言い訳をしていたが、結局は俺を下すことなく手を引いたのだ。今になって奴の行動の意味が分かる。
あいつは俺を叱りに来た。カナエを守っているつもりで全く守れていなかった俺を。タケルの手から奪い返しておきながら、カナエの愛情の上に胡坐をかいていた俺を。馬鹿なことをしているな、と分からせに来たのだ。
本人に言ったところで、奴はあの気色の悪い笑みを浮かべて何の話だと茶化すだけだろう。奴はもう、正しく守るべきものを手に入れた。ただ、それ以前に自分の庇護下にいたカナエが、彼女の心が上げる悲鳴を放っておけなかった。奴は奴なりに、カナエをずっと守っていたのだ。
「これでは、タケルに合わせる顔がないな……」
呟いて、俺は苦く笑む。すやすやと寝息を立てていたカナエは、俺の声に反応したのか身動ぎして俺の胸元に顔を押し付けてきた。やわらかくあたたかい感触に、俺は笑みを溢す。まだ朝も早い、眠っていてもいいと促すように彼女の髪を撫でた。
一定のリズムで撫でていれば、すぐにまたカナエから安らかな寝息が聞こえてくる。胸元に当たる彼女の吐息がそのまま俺の中に染み込むように、幸福な気分になった。
カナエを幸せにしたい。泣かせたくなどない。ましてや悲しませたくなどない。そう思うのに、俺を想って泣き、怒る彼女が愛しくて堪らなかった。
守るなら彼女の心も守ってやれよ、とここにはいない神の声がした、……気がした。言われなくとも、と俺は口元を吊り上げる。彼女の心を蔑ろにして手放したお前のような失態は演じないと挑発すれば、あの耳に付く笑い声が響いて消えた。
俺は瞼を伏せて、カナエの温もりを胸の内に抱く。
俺はもう一人ではない。孤独な魔王ではないのだ。寄り添って、笑いあって、叱ってくれる存在がある。与えた以上の愛情を返してくれる存在がいる。それはとても、……この身には過ぎるほどにとても、幸福なことだった。
緩やかな微睡みに身を任せながら、俺は思う。カナエが起きたら沢山の口付けを贈ろう。そして縋る俺へ文句を言いたげに睨んでくるであろう彼女を、困って焦るほど抱き締めよう。愚かなまでに幸せな気分で、そんなことを思った。
◆◇◆◇◆◇
【カナエ】
全身を包む温もりが動くのを感じて、意識がやんわりと浮上する。ぽやぽやした思考で目の前にある温もりに額を押し付けると、くすぐったそうな笑い声が降ってきた。指先で頬っぺたを撫でられて、私は彼の胸元から顔を上げる。
「ん……、ジル、おはよ……」
「ああ、おはよう、カナエ」
眩しそうに目を細めたジラルダークが顔を近づけてきた。軽く目を閉じると、ちゅっちゅと音を立てておでこやら頬っぺたやら鼻先にキスをされる。く、くすぐったい!
「んむ、くすぐったい」
やめたまえとジラルダークの口元に手を添えると、喉を鳴らして笑いながらジラルダークがべろりと私の指を舐めた。びっくりして手を放すと、隙ありとばかりに彼の唇で口を塞がれる。深く腰を抱かれて、後頭部も押さえられて、逃げるに逃げられなかった。
濡れた音を立てながら舌を絡めて、歯列をなぞって、上顎をくすぐって、好き放題に弄んでからようやく、ジラルダークは口を離した。
「っは……、じる、……」
朝っぱらから何するんだ色ボケ魔王様!文句を言おうとしても、舌がくたくたでうまく喋れない。力一杯睨んでも、ジラルダークは昨日みたいに困ったワンコの表情にならない。むしろ、獰猛さすら感じるくらい余裕たっぷりな笑みを浮かべていた。柘榴色の瞳が、すぅっと細められる。
ちょ、ちょっと待って、今、朝だよね!?外、明るいよね!?ていうか私、起きたばっかりだよね?!
慌ててジラルダークの胸を押したところで、この国で一番……いや下手したら神様よりも強い魔王様に敵うはずもなくて。
ぐぐぐ、と腕に力を入れてみても、ジラルダークはぴくりとも動かずに喉を鳴らして笑うだけだ。昨日のしょんぼり魔王様はどこ行ったの!
「カナエ、愛している」
抵抗する私にふんわりと笑って、ジラルダークがもう一度唇を重ねてきた。やさしく唇を撫でるだけのキスに、腕に込めていた力が抜けてしまう。ずるい、こんなの、ずるいよ。抵抗できなくなっちゃうじゃないか。
「ジルのばか……」
むくれて言う私に、ジラルダークは至極楽しそうに笑って瞼を下ろした。その笑顔が何故かとても幸せそうに見えて、私は言葉に詰まってしまう。ふふふ、と含み笑いながらジラルダークは瞼を持ち上げる。柘榴色の瞳に、私のぽかんとする顔が映っていた。
「ああ、知っている」
低くて甘い囁きが、私の耳元で響く。ジラルダークはそのまま、覆い被さるようにのしかかってきた。私は彼の胸元から手を伝わせて、背中に腕を回す。耳元のジラルダークが笑ったような気配がした。
余裕たっぷりな彼の態度が悔しくて、目の前にあった彼の長い耳に噛みつくと、ぴくんと私を抱いていた腕が揺れる。仕返しのつもりだったのに、ジラルダークはもっと噛んでほしいとばかりに私の口元に耳を寄せてきた。
「……だいすき、ジル」
ジラルダークの思惑通りに噛んであげるのも悔しいからって彼の耳に囁いて、ついでに息も吹きかけてみる。くすぐったかったらしい、ジラルダークの耳は私の口元から離れていった。耳が離れていくということは、必然的に彼の顔が私の視界に入ってくるってことで。
見上げたジラルダークは、獰猛な目で舌なめずりをしてにんまりと口元を吊り上げた。彼の表情に、無意識に頬が引き攣るのが分かる。逃げ場なんてないと、否が応でも納得させる笑みだった。
「俺もだ、カナエ」
愛している、と甘く蕩けそうな声で囁いたくせに、貪るようにキスしてくるのは反則だ。角度を変えて何度も何度も、それこそ私が窒息寸前になるまでキスしてくるのは、ずるい。抵抗なんてできない。挙句の果てには、もっとなんてねだる始末だ。
「……エミリに、怒られちゃえ」
「お前をこの腕に抱いていられるのであれば、如何様にも」
キスの合間に文句を言っても、ジラルダークは私を抱き締める腕の力を緩めることなんてしない。どんどん下がっていくキスを感じながら、私はしょうがないなと笑った。
この人に惚れてしまった時から、きっとずっと私の負けなんだ。何をされたって、どんなことがあったって、最終的には許してしまう。嫌いになんてなれない。むしろ、もっと好きになっちゃうくらいだ。
私は全身を伝う彼の手に自分の手を添えながら、一番馬鹿なのは自分だな、なんて考えていた。
◆◇◆◇◆◇
【タケル】
下界を映し出していた鏡がぶっつりと切れて、俺は顔を上げる。目の前には、俺の対がいた。無粋ですよ、と朱の唇が弧を描く。
「当てられちまうねェ」
「自ら進んで当て馬になりに行ったのでしょう?充分、酔狂ですよ」
「言ったろ、俺は俺の子を見捨てはしねェよ」
メグ……、夏苗は一度は俺が懐に入れた、俺の子だ。守ると決めたのも、俺自身に他ならない。人の王から離してやろうかとも思ったが、親としちゃあ、子の幸せを一番に願ってやるものだろう。
「私は、あなたの子という立場が何よりも嫌でしたけれどね」
何も映さなくなった鏡を見ていると、不意に俺の対が溢す。その言葉に、俺は視線を落としたままで口元を吊り上げた。
分かっている。俺はずっと、自分が守るべき子として対と接していた。だがそれは間違いだった。対が望んでいたのは、俺の子の立場じゃあない。
「だからってよォ、堕ちる必要はなかっただろうが」
「全く別の存在に成りえるならば、少しは望みも繋がるかと思いまして」
「小難しいねェ。態度にすれば、こんなにも簡単だろうに」
対の手を引いて、俺は華奢な肩を掻き抱く。水鏡の中で見たようにやわらかな耳朶を食んでやると、白い肌が鮮やかに色付いた。
「お前に誰よりも惚れてる。分かってんだろう、ユカリ?」
名を呼ぶと、俺の対は恥じらうように金色の目を泳がせてから俺を見上げてくる。俺との“縁”を諦めなかった、何よりも気高い俺の対。失って初めて気付かされた、何よりも断ち難い俺の縁だ。
「調子のいいことをよく言いますね。私の替えを求めたくせに」
俺の胸元に顔を隠して、俺の対が拗ねたように呟いた。俺は可愛らしい反抗に声を上げて笑う。
「俺に他を求めさせねェほど、俺を捕らえてみな。俺の対なんだ、それくらいはやってみせてくれねェとなァ?」
俺の対は胸元から顔を上げて、苛立ったように俺を睨みつけてきた。捻じ伏せて泣かせてやりたい、ぞくりと背筋を駆け上がる欲望を俺は堪えることなく吐き出す。強引に床に組み敷くと、ユカリはしようのない人と笑った。
「今度は、私からカナエに会いに行きましょうか。同じ、あなたの“子”として」
「分かってるくせに、一々言わせるんじゃあねェよ」
俺はユカリの首筋に鼻先を擦り付けて瞼を伏せる。ユカリのしなやかな指先が、俺の髪を撫でた。あっちの奴等もよろしくやってるんだ。こっちもよろしくやってやろうじゃねェのよ。
「子と、想い人は全く別物だろうが」
俺は柔肌に牙を剥きながらそう囁く。
ジラルダーク・ウィルスタイン、俺が気にかからねェくらいメグを、夏苗を幸せにしてやってくれよ。俺の贖罪は、お前に鉄槌振り下ろすことぐらいしかできねェからよ。俺が構う気力もなくなるくらい、幸せにやっててくれや。
胸の内で呟いて、俺は目の前の獲物に歯を立てるのだった。