4.夫婦の喧嘩
全身切り傷だらけでタケルに向かうジラルダークの元に、メイヴは私を連れて降り立った。急に現れた私にジラルダークは一瞬驚いたように眉を上げた後、まるで何事もないかのように離れていろと告げる。
それが、とても胸に苦しかった。
神の世界から戻ってきた時、私は彼にお願いしたのだ。もう無茶をしないでほしい、と。彼は頷いてくれた。そう思っていた。
けれど、目の前にいるジラルダークはどうだろう。たった一人でタケルに、神に挑んでいる。タケルの奥に控えているのは恐らく別の神だろう。二人の神を、たった一人で抑え込もうとしたのだ。彼にとっては無茶じゃないのかもしれない。でもジラルダークは、目の前にいる彼は、全身傷だらけだ。こんなの、無茶じゃなくて何だっていうんだ。
「……うそつき……」
ジラルダークに歩み寄りながら呟くと、彼は慌てたように駆け寄ってくる。私は彼を見たまま、ぼんやりと歩いていた足を止めた。
ジラルダークの、嘘つき。
パン、と破裂音がして、右手が熱くなる。同時に抑えきれないほどの感情が、胃の奥の方から込み上げてきた。ジラルダークを睨みつけて、私は声を絞り出す。
「うそつき……!」
激情に、声が震えた。上手くコントロールできなくて、私はただ自分の感情に従ってジラルダークを睨む。
「無茶しないでって、言ったのに……、ジルのバカ!うそつき!」
大嫌い、と喉の奥まで出かかった言葉は、でも、何かに引っかかったように口から出てこなかった。代わりに、目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。拭おうとしてくれたのだろうか、私の方へ手を伸ばしてきたジラルダークを思わず避けてしまった。
どうしようと迷ったのは一瞬だった。逃げたいという感情に従ってジラルダークに背を向けると、メイヴが私に腕を伸ばしてくれている。私はありがたく彼女に抱き着いた。
「ま、待ってくれ、カ……」
焦ったようなジラルダークの声が不自然に途切れる。ちらりと振り向くと、ここはもう精霊の道だった。滲む視界に、メイヴの心配そうな顔が映る。
ジラルダークから逃げてきてしまった不安と、裏切られたかのような怒りと、彼を叩いてしまった手の痛みと、怪我は大丈夫なのかって心配と、ジラルダークが倒れたあの日の恐怖と、色んな感情がぐちゃぐちゃに胸の中で混ざって、私は情けなく嗚咽を上げた。慰めるように私の背中をさすってくれるのは、いつもみたいに大きくてごつごつした手じゃない。私の方から逃げてきたんだって考えて、それが寂しくて悲しくて、どんどん涙が溢れてきた。
「愛されし子……」
「ううぅっ……、ご、ごめ、……ごめんね、メイヴ……」
泣きすぎてしゃくりを上げながらメイヴに謝ると、彼女は首を振って抱き締めてくれる。やわらかくてあたたかいメイヴの体に身を寄せて、私は必死に涙を拭った。
何よりも、怖くて。ジラルダークが死んでしまうんじゃないかと思うと、怖くて怖くて、全身が震えてしまう。メイヴは私の感情を分かっているかのようにきつく抱き締めて、ひたすらに背中を撫でてくれた。
「…………悪魔の王が、呼んでいるわ」
ぽつりと、メイヴが呟く。まだ、会えない。会いたくない。そう首を振る私に、メイヴは分かっているとばかりに頷いてみせた。止まる気配を見せない涙を指先で拭ってから、メイヴは全身を青く光らせる。
光が収まると、メイヴは二人に増えていた。目を丸くする私に、私を抱き締めていない方のメイヴが微笑む。
「安心して、愛されし子。わたしの愛しい子。わたしはあなたの幸せを何よりも願う精霊よ」
ふんわりと、メイヴのやわらかな唇が私の額に触れた。宙に浮いている方のメイヴが腕を青く光らせて鏡を作り出す。映し出されたのは、傷だらけのジラルダークの姿だった。思わず、私は鏡から目を逸らす。がたがたと震える体を、抱き締めてくれている方のメイヴが撫でた。
「わたしの愛しい子を悲しませる不届き者を叱りに行ってくるわ」
宙に浮いていたメイヴが、微笑みながら鏡に吸い込まれる。私は視線を向けてしまった鏡から、また目を逸らした。
私の泣き声と鏡の中から聞こえてくる声だけが、精霊の道に響く。鏡の中のメイヴは、私に会いたいというジラルダークを強い口調で断っていた。きっと、今の私の心からの願いだからだろう。
今は無理だ。ジラルダークに会ってしまったら、また叩いてしまう。今以上に泣いてしまう。こんなにも抑制が効かない感情は怖い。
私が会いたくないと望んでいるとメイヴに告げられて、ジラルダークの声が震えた。弱り切った彼の声を聞きたくなくて、私は私のそばにいてくれるメイヴを強く抱き締める。目を閉じて、何度も首を振った。
会いたくない。今は、一人にしてほしい。彼を傷つけたくないのに、自分の態度が彼を傷つけてしまう。だって、無茶しないでって、もうあんな風に傷付く彼の姿は見たくないって、……頷いてくれたのに。ジラルダークはやさしく笑って頷いてくれたのに。
またぼろぼろと溢れだした涙を、メイヴの指が拭ってくれた。抱き着く私の頭に頬を擦り寄せて、何も言わずにただ私の泣きたいように泣かせてくれる。
『頼む、カナエに会わせてくれ。俺自身の不出来も、力不足も、いくらでも詫びよう。だが、カナエに拒絶されることだけはっ……』
鏡の中から届くジラルダークの必死な声が、胸に突き刺さった。息が苦しくなって、私は呼吸と一緒に声を漏らす。ジル、と彼の名前が勝手に零れて、もっと苦しくなった。
「愛しい子、悪魔の王に愛されし子、……あちらを見れる?」
やわらかく、メイヴの手が濡れた私の頬を包む。ゆっくりと顔を向けられた先には、鏡があった。映し出されていたのは、膝をついた姿勢のまま、真剣な眼差しでこちらを見るジラルダークだった。
駄目だ。見たくない。視線を逸らしたいのに、でも、彼の眼差しに絡めとられて動けない。
『カナエ』
ジラルダークが私を呼ぶ。びくりと揺れた体を、メイヴがそっと抱き締めた。
『カナエ、すまなかった。俺は、お前に隠し事をしないと約束した』
今にも泣きそうな表情で、ジラルダークが言葉を紡ぐ。
『情勢を隠しはしないと、お前に言った。だというのに、神が来たことを俺は隠した。本当に、すまない』
顔を伏せたジラルダークは、まるで泣いているように見えた。胸が締め付けられる。思わず手を伸ばしそうになって、胸の内に掻き抱いた。
『お前の目に神の姿を映したくなかった。すぐに追い返せなかったのは俺の力不足だ……、いや、それもお前に一言告げてからにすべきだった。お前との約束を軽んじたつもりはない、本当だ。俺は、お前を……、お前に、つらい思いをさせたくはないのに……』
「……ジル……」
『カナエ……、カナエ、会いたい。お前に会いたい、憎いならばいくらでも俺を殴ればいい。叱責もいくらでも受けよう。だから、頼む、俺から逃げないでくれ…………』
顔を上げたジラルダークは、必死の形相で私に訴えている。私は、震える足に力を込めて立ち上がった。肩を支えたメイヴが、目を細めて微笑む。
「ほら、全然分かってないでしょう?ちゃんと、愛されし子から叱ってあげないとね」
その言葉に頷いて、私は鏡に手を伸ばした。鏡はまるで水のように溶けて、私たちを包み込む。
「ッ!カナエ!」
鏡を通り抜けて、地面に足がつく前にジラルダークに抱き留められた。おおきくて、あたたかくて、安心する匂いがして、けど、混じる血の匂いに込み上げてくる感情は真逆のものだった。
「無茶しないで、って、言った」
「カナエ……」
「私、無茶しないで、って、怪我、しないで、って、……言ったのに!」
思い切り腕を突っ張って、ジラルダークから体を離す。見上げた先、滲む視界でジラルダークは驚いたような困惑したような顔をしていた。
「何で神様相手に一人で戦うの!?何でそんな危ないことするの!?」
「す、すまな……」
「すまなくない!怪我だってして、また、っ……また、ジルが倒れちゃったらっ……!ジルのバカ!嘘つき!無茶しないでよ!私じゃ力になれないの分かってるけど、でもメイヴだって魔神のみんなだっているでしょう!?何で一人で無茶するの!」
ジラルダークの胸元を叩きながら、私はひたすら叫ぶ。お腹の奥からどんどん溢れてくる重い感情は、吐き出してジラルダークにぶつけてもまだ、治まってくれなかった。
「もっとちゃんと頼ってよ!この国はもう魔王一人だけの力じゃないって、そう言ってたじゃない!だったらちゃんと信頼してよ!みんな魔王様だけに頼りきりじゃないって思わせてよ!私だってっ……、私だって、少しでもジルの力になりたいんだよっ!」
「────っ!」
「ジルだけが傷付くなんて嫌なの!知らないところで倒れてほしくないの!私だってジルを守りたいの!分かってよ、ジルのバカ!アホ!バカバカバカバカ!」
私に叩かれながら、ジラルダークはどこか安心したように、それでいて泣き出しそうな顔になる。強引に背中に腕が回されて、引き寄せられた。叩くに叩けなくなっちゃったけど、間近に感じるジラルダークの熱と匂いに腕の力が抜けていく。
「ああ、俺は馬鹿だ。大馬鹿者だ。お前にこれほど心配をかけてしまって、ようやく気付くほどの愚か者だ。カナエ、悪かった。お前の言葉も、俺自身の言葉も、皆の信頼も軽んじてしまった」
「っ……」
「神程度と侮ってこの様だ。心配をかけて、すまない」
「ばかっ……、ほんとに、心配、したんだからっ……」
ジラルダークは深く私を抱き締めて、頭に頬を擦り寄せてきた。確かめるように何度も頬で髪の毛を撫でてくる。もう彼から血の匂いはしなかった。私はジラルダークの広い背中に腕を回して、締め付ける勢いで抱き締める。息を吐いたのだろうか、髪の毛をジラルダークの息がくすぐった。
彼の匂いと熱に包まれて、それでも涙は止まらない。嗚咽を漏らしながら泣く私を抱き締めたまま、ジラルダークは何度も謝っていた。何度も、愛していると囁いてくれた。何度も何度もすまないと愛していると繰り返して、最後に、どうか許してほしい、と呟く。
本当に馬鹿だ、この魔王様は。私だって愛してる。だからこんなにも心配するし、苦しいんだ。そこのところを分かってるのだろうか。
私はぐりぐりとジラルダークの胸元に顔を押し付けて無理矢理涙を拭う。眉間に力を込めてから、私は顔を上げた。私に睨みつけられたジラルダークは、捨てられた子犬のような表情になっている。可愛いけど、……ちょっとだけかわいそうだけど、ここで甘やかしちゃいけない。
「ゆるさない」
「か、カナエ……」
眉尻を下げて、ジラルダークはおろおろと私の顔を覗き込んだ。どうすればいいんだ、って顔に書いてある。情けない魔王様の表情に笑いそうになっちゃうくらいには許してるって、まだ教えるのは早い。
「ゆるさないもん、ジルのバカ」
言いながら、私はジラルダークの胸元にまた顔を押し付けた。強く彼の体を抱き締めて、ジラルダークの熱と鼓動を堪能する。おバカな魔王様なんて、困っちゃえばいいんだ。そしたら、ちょっとは反省するでしょ。
私は笑いだしそうになるのを堪えながら、またすまないと愛してるを繰り返し始めた魔王様の背中を撫でるのだった。