3.血の代償
【ジラルダーク】
俺の拘束を解いたタケルの一撃をどうにか剣で受け止めて、俺は歯を食いしばった。不可視の力は剣ごと俺を押し潰さんとばかりに力を増してくる。このまま受けきるのは得策ではない。肺の中の空気を吐き出しながら、俺は剣を滑らせて右に飛んだ。
「甘いぜ、ジラルダーク・ウィルスタイン!俺が追わねェとでも思ったか!」
「チッ!」
舌打ちを一つ、俺は魔力を防御に振る。全身を駆け抜けた衝撃に、皮膚が割ける感覚がした。血飛沫が舞う。だが、浅い。
「今一度、地に伏せろ!」
俺は体が裂けるのも構わず強引にタケルの攻撃を抜けながら、奴の首元に手をかけた。窒息させようと指先に力を込めると、タケルは心底おかしそうに笑い声をあげる。意識を向ける間もなく、俺はタケルの全身へ己が魔力を注ぎ込んだ。
「がッ……、ぁ……アッハハ、ぐっ、ハハハハ……!」
俺に拘束され、その身を侵されていても尚、タケルは高らかに笑い声を上げている。
「クククッ、女ってのはこれがあるから可愛いねェ……頑張れよォ、神を下した大うつけ」
「何を……?」
タケルが声を落として口元を吊り上げるのと、背後に愛しい気配を感じたのは同時だった。精霊が手を貸したのか、トゥオモは防げなかったようだ。タケルを対の神の元へ力任せに放り投げてから振り向くと、カナエは悲しそうに俺を見ている。無表情の精霊が、そっとカナエの肩を押した。カナエはまるで熱に浮かされたかのようにふわふわとした足取りで俺に近付いてくる。
「カナエ、こちらは危険だ。離れていろ」
「…………き」
俺の方へ向かう足を止めずに、ぽつりとカナエが呟いた。さすがに神たちへこれ以上近付けるわけにはいかないと俺の方からカナエの元へ駆け寄ると、彼女は足を止めてその大きな瞳で俺を見上げる。触れるほど近付いた刹那、カナエが右手を振り上げた。
刹那、パン、と乾いた音が鳴る。
頬に走る熱に、俺は目を見開いた。カナエの手が、俺の頬を打った、ようだ。普段のようにじゃれつくものではない。痛みよりも驚きで硬直した俺を、カナエは今までに見たこともない表情で見ていた。
「うそつき……!」
「!」
「…………って、言ったのに……、ジルのバカ!うそつき!」
震える声と共に、大粒の涙がカナエの頬を伝い落ちる。思わず手を伸ばして、だが、カナエは俺の手を避けるように身を引いた。踵を返して、カナエは精霊の王にしがみ付く。
「ま、待ってくれ、カナエっ……」
咄嗟に懇願しても、しかし彼女は精霊の王に守られるようにして俺の目の前から姿を消した。
カナエが、泣いていた……。俺が……、俺の、せいで……?カナエに、逃げられた……?
「ダッハハハハハァ!それ見ろ、やっぱりなァ」
背後から、ケラケラと愉快そうに笑う声が、俺を現実に引き戻す。俺は怒りに身を任せてタケルへと魔力を纏わせた剣を投げた。轟音と共に鍛錬場の壁が削れるが、構っている場合ではない。
「今すぐに去れ。俺の視界からいなくなれ。もう一度、武の神を選定し直したくないのであればな……!」
「おいおい、お前の防壁破られてんぞ」
「天の神に進言しておきましょうか、武の神は貴方よりも彼の方が適任かもしれないと」
「馬鹿言ってんじゃねェ。俺以上に制御しにくい神据えてどうすんだ」
二人の神はごちゃごちゃと言い合いながら姿を消した。俺は即座にノエとミスカを呼ぶ。カナエが逃げ込んだのは精霊の道だろう。ならば、精霊の助力がなければ俺はあの場所へ行けない。
「お呼びですか、魔王様」
「お仕事ですか、魔王様」
「ああ、仕事ではないのだが、俺を連れて精霊の道に行けるか?」
俺の言葉に二人同時に頷いて、いくつかの精霊を呼び出す。ノエとミスカの周りを彩るように現れた精霊は、まるで俺の姿に気付くと拒絶するように消えてしまった。焦りで頬が痙攣するのが分かる。ノエとミスカは何が起こったか分からずに、契約してあるであろう精霊を次々と呼び出した。だが結果は変わらない。この場に残る精霊は、ただの一匹もいなかった。
「な、何だか、精霊が怒ってるみたいです、魔王様……」
「とっても嫌がられてるみたいです、魔王様……」
どうすればいいのか指示を仰ぐ様にノエとミスカが俺を見上げてくる。俺は一度唇を噛み締めてから二人に言った。
「お前たちから、精霊の王を呼ぶことは出来るか?」
俺の言葉に、困惑したように二人が顔を見合わせた。戸惑った表情のまま、俺の命令を遂行すべく、ノエは自身の精霊へ、ミスカは瞼を伏せて精霊の王への接触を試みているようだった。
暫くして、花の香りと共に凄まじい殺気が俺へ向けられる。俺は襲い来るであろう衝撃に身構えはしたものの防御することなく殺気の元を見た。無数の花弁が刃を象って俺へ向かってくる。避けずに、俺は刃を見据えた。花弁の刃は俺の鼻先でぴたりと止まる。
「……避けることはしないのね」
「カナエに会いたい。会わせてくれ」
「お断りよ、絶対に」
即座に首を振られるが、俺は今のカナエと繋がっている唯一の存在に懇願した。この機会を逃すわけにはいかないのだ。
「頼む、カナエの元へ連れて行ってくれ。カナエを一人で泣かせたくないんだ」
「貴方のせいよ。貴方のせいで泣いているのに、連れて行けるわけがないでしょう」
「だからこそ、……俺が傷つけてしまったからこそ、俺がカナエの涙を拭いたい。彼女の怒りも叱責も悲しみも、俺が受けるべきものだろう。頼む、あんな顔をしたカナエを一人にしておきたくないんだ」
精霊の王は冷めた眼差しで俺を見下ろしている。どうにかして、カナエの元に行かなければと、俺は必死に訴えた。
「今は駄目。……わたしは愛されし子の精霊なの。彼女の願いよ」
精霊の王の言葉に、俺は目を見開く。
精霊は契約主の願いを聞くものだ。特に、カナエと隷属の契約をしている精霊の王は、何よりもカナエの願いを優先している。精霊の王の言葉が意味するところを考えて、俺は全身が震えるのが分かった。指先が冷えていく。
「っ……そんな、……嘘、だろう……?」
首を振る俺に、しかし精霊の王は冷徹な眼差しのまま言い放った。
「いいえ。貴方に会いたくない、一人にしてほしい、……愛されし子の強い願いよ」
精霊の王の言葉を受けて、膝から力が抜ける。がくりと下がった視界に、精霊の王は目を細めたようだった。
「愛されし子の気持ちが落ち着いたら、会えるかもしれないわ。……いつになるか分からないけれど」
それほどに強い感情なのだ、と精霊の王は言いたいのだろう。隷属の精霊にすら期間も知れぬほど強くカナエが、……カナエが、俺を、……拒絶、している……。
信じたくない事実が目の前に横たわる。どうにかして無理矢理にでも抉じ開けて、精霊の道へ行けないものか。許しを請う機会すら与えられずに彼女を泣かせていたくない。俺の腕の中以外で、彼女に涙を流させたくないというのに……。
「どうして貴方を拒絶しているのか、よく考えることね」
「それはっ……」
それは、俺がカナエに隠し事をしたからだろう。嘘つきだと俺に言って、カナエは泣いていた。
俺はカナエとの約束を破ってしまったのだ。いつか、俺は彼女に言ったことがある。もう情勢を隠しはしないと。そう告げたにも関わらず、俺は神の来訪を隠した。カナエの身を案じて、と言えば聞こえはいいが、要は俺に余裕がなかっただけの話だ。
「頼む、カナエに会わせてくれ。俺自身の不出来も、力不足も、いくらでも詫びよう。だが、カナエに拒絶されることだけはっ……」
それだけは、許容できない。逃げるというのならば、強引にでも細い手を引いて俺の元に閉じ込めてしまいたくなる。彼女がいなければ俺は、平然と魔王の仮面を被っていることができないのだ。カナエをそばに置いて数十年、俺はもう孤独な魔王には戻れない。彼女の熱がなければ、俺は俺を保てない。
「……わたしは、愛されし子の精霊よ」
宙に浮いていた精霊の王が、花弁を撒き散らしながら緩く辺りを漂った。貴方に助力するのはとても不服なのだけれど、と囁きが落ちる。
「許しを請いたいのならば、請えばいいわ。場所が必要なわけではないでしょう」
その言葉を残して、精霊の王は膝をつく俺の目の前から消えた。唖然と見守っていたノエとミスカが、心配そうに俺に駆け寄ってくる。大事ないと告げて、二人には悪いが下がるように命じた。
俺は膝をついた姿勢のまま、顔を上げる。何もない中空を見つめて、俺は目を細めた。俺の視界には、ただ静寂を守る鍛錬場が映るだけだ。……だが。
許しを請いたいのならば請え、と精霊の王は言った。カナエの願いを聞き届け、俺を精霊の道に招くことは拒絶していた精霊の王がそう告げたのだ。考えられる可能性は二つ。一つはカナエを俺の元へ連れてくることだが、俺に会いたくないと願っているカナエがここへ来る可能性はとても少ない。もう一つは、カナエが俺を精霊の道から覗いている可能性だ。精霊の王が助力しているのならば、遠視も容易い。
「カナエ、……カナエ、すまなかった。俺は、お前に隠し事をしないと約束した」
彼女が目の前にいると、そう言い聞かせて俺は言葉を紡いだ。今もカナエは泣いているのだろうか。だとしたら、その涙は落ちたままになっているのだろうか。それとも、精霊の王が拭っているのだろうか。
「情勢を隠しはしないと、お前に言った。だというのに、神が来たことを俺は隠した。本当に、すまない」
俺は頭を垂れてカナエに許しを請う。
「お前の目に神の姿を映したくなかった。すぐに追い返せなかったのは俺の力不足だ……、いや、それもお前に一言告げてからにすべきだった。お前との約束を軽んじたつもりはない、本当だ。俺は、お前を……、お前に、つらい思いをさせたくはないのに……」
今、カナエを苦しめて泣かせているのは俺自身だ。どの口で言うのか、と自責の念に駆られる。
「カナエ……、カナエ、会いたい。お前に会いたい、憎いならばいくらでも俺を殴ればいい。叱責もいくらでも受けよう。だから、頼む、俺から逃げないでくれ…………」
俺は込み上げる激情を堪えながら、俯き拳を握り締めるのだった。