2.神の宴
「……子……、愛されし子。ねぇ、愛されし子、お願い、起きて」
「ん、む……」
メイヴの声に、私はふわふわもふもふのブランケットに顔を埋めた。眠気と戦うために顔を擦り付けていたら、控えめに肩を揺すられる。メイヴがやっているのだとしたら、とても珍しいことだった。メイヴは魔王様と同じくらいかそれ以上に私を甘やかす人だ。昼寝してたら花びらまみれにされることはあっても、無理に起こしてくることなんてほとんどなかったのに。
「愛されし子、ごめんなさいね、あなたをわたしたちの道に招待したいの」
「んん……、せいれいの、みち……?どしたの、めいぶ……」
半分寝ぼけたまま、私はブランケットから顔を上げた。メイヴの綺麗な顔が、不安そうに歪んで私の目の前にある。その表情に、一気に目が覚めた。彼女のこの表情を見るのは何年ぶりだろう。一番印象的で思い出したくないのは、数十年前のあの日、神様がこの世界にやってきた日だ。
メイヴは私が起きたのを確認すると、やわらかい微笑みで不安そうな表情を塗り隠した。自分の感情に素直な精霊の彼女としては、とても珍しいことだった。それが、妙に胸に引っかかる。
「我儘を言ってごめんなさい、愛されし子。わたしたちの所に来てくれる?」
「うん、それはいいけど……」
何かあったの、と問いかける前に、メイヴは私の体を抱っこして浮き上がった。私はブランケットを抱えたまま、目を白黒させる。
「ひゃ!?」
「ね、早く行きましょう」
まるでここに長くいたくないとでも言わんばかりに、私はメイヴに抱えられたまま精霊の道に引きずり込まれた。ぼふん、とブランケットごと花が咲き乱れる地面に下ろされる。きょろきょろと周りを見回しても、いつも来てる精霊の道と変わりはない。まだ人型に慣れていない精霊……メイヴの子供たちが、人の言葉を勉強したり花輪を作ってたりしていた。精霊の道の日常そのものだ。
「メイヴ?」
問いかけると、メイヴは微笑みの仮面を張り付けたまま私を見ている。人に擬態することに長けた彼女は、余計な術まで身に着けてしまったようだ。
「メイヴ、私をここに連れてきた理由は何?」
「わたしが愛されし子と一緒にいたかったからよ。最近、忙しかったでしょう?」
まぁ、確かに最近は后としてのお仕事やら魔王様の相手やらでメイヴと遊ぶ時間をあまりとれていなかった。言われてみればそうだけど、わざわざ私を起こしてまで精霊の道に連れてくるようなことだろうか。こう言っちゃなんだけど、メイヴは昼寝してる私の周りを花で飾ってにこにこしながら私が起きてびっくりするまで待ってる、気がする。それが、いつものメイヴのように思う。
「我儘が過ぎたかしら」
「ううん、それは別にいいんだけどね」
メイヴのワガママなんて可愛いものだ。この前食べたケーキをまた食べたいとか、一緒にお茶したいとか、……うん、これがメイヴの純粋なワガママだっていうなら、私は今日一日ここで過ごそう。でも、どうしてもそうは思えない。勘といえば勘だけど、違和感というか、こう、どうにも彼女の態度や表情にもやもやする。
「メイヴに関係することで、私に言いたくないならこのままでいいよ。でも、私に関係することで私に気を遣って言わないっていうのは無し」
「愛されし子……」
「もう一度聞くね。メイヴ、私をここに連れてきた理由は何?」
「…………」
メイヴは微笑みを消して、困ったように視線を泳がせた。何が何でも理由を吐かせたいわけじゃないから、恐らくメイヴはだんまりを決め込むこともできるだろう。話してくれと心の底から願えば、また違うのかもしれないけれど。そこまでして言いたくない理由を、彼女の意思に反してまで聞き出すのはちょっと心苦しかった。
困ったような顔から泣きそうな表情になってしまったメイヴに、私は首を振る。腕を伸ばすと、彼女は容易く掴まって、私に抱き締められた。
「……ごめんね、意地悪だったね。いいよ、一緒に遊ぼう、メイヴ」
「愛されし子……」
「ほら、今日は何するの?子供たちと一緒に鬼ごっこする?」
メイヴの背中を撫でてから、私は立ち上がる。ブランケットは軽く畳んで、ふんわりと花の上に置いておいた。メイヴは座り込んだまま、私を見上げてくる。もういいよ、と私は微笑んで見せた。メイヴがそこまで言いたくないなら、私は彼女の望むようにここにいて、いつものように遊ぶだけだ。微笑んだ私に何か言いたげに口を開いて、それからメイヴはふわりと宙に浮いた。
「これは、わたしの独断なの。……あなたに害があってはいけないと、守りたくて……」
「私を?」
尋ねると、メイヴは小さく頷く。木の葉がこすれるような小さな声で、メイヴは言葉を続けた。
「あの人たちは、悪意があろうとなかろうと私の大切な愛されし子を傷付ける。だから、手を出される前に匿ってしまいたかったの。でも、知ってしまえば愛されし子はここに居てくれない、あの人たちのところへ行ってしまう……」
「あの人たち……?」
思わず繰り返すと、宙に浮いた彼女は苦しそうに眉を寄せる。そうか。メイヴは誰かの名前を口にすることができない。私の名前を呼ぶことすら、私の願いを断りたい時だけだったはずだ。
「……あなたに執着していた、……神よ」
「!」
メイヴの言葉に私は目を見開く。私に執着をしていた神。そんなの、一人しか浮かばない。二十数年前のあの日、私が、……思い出したくもないあの日の、あの人だ。
「た、ける……?」
神の名を口にすると、メイヴは肯定するように瞼を伏せる。え、ちょっと待って。メイヴは、私を精霊の道に連れてきた。それはタケルから私を守りたいから、らしい。それはつまり、つまりは……。
「え、タケルが、神が、また、この世界に来てるの!?」
そんな馬鹿な。私は愛の神としての資格を失って、ただの野々村夏苗としてこの世界で生きることを許された。彼らを取りまとめているであろう天の神も、私がこの世界に帰ることを許してくれた、はずだ。なら、もうタケルが私を狙うこともない、はずなのに。
「うそ……」
口から零れた言葉に、メイヴが泣きそうな表情になった。嘘ならいい。そう、願いを込めた言葉だった。けれど、彼女は否定できない。だってそれが、本当のことだから。
理解して、私は背筋が冷えるのが分かった。脳裏を過ぎるのは、赤く染まったジラルダークの姿だ。彼は私を守ろうと命を賭して、そして、……ああ、思い出したくない。あの光景は、もう二度と見たくない。彼の命を脅かすくらいなら、何が目的か分からなくても神にこの身を捧げてもいい。あの時から、私の抱く思いは変わらない。
私の思いを読み取ったのだろうか、宙に浮いていたメイヴは首を振りながら私の肩を抱いてきた。私は彼女の体を受け止めながら、震える声で問う。
「じゃあ、今、神が、タケルが、来てるの……?」
「っ……」
「メイヴが私を匿うように動いたなら、タケルの相手をしているのは、ジル?」
耳元で、メイヴが息を飲んだ。彼女が言いたくないと思う気持ちは分かる。何よりも私を甘やかして優先してくれる彼女だ。事実を知ったなら、私はジラルダークの元へ行く。危険だと分かっていても、自分の身に害が及ぶと分かっていても、それ以上にあの日の光景を繰り返したくない。あんな、……あんな、何もかも凍りつくような、音も色も消えるような光景は、もう絶対に見たくない。絶対、嫌だ。
「ごめんね、メイヴ。……答えて」
強く、心に願う。あまり彼女に強制したくないけれど、ジラルダークが神を相手にしているならば話は別だ。
「メイヴは、神が私に害をなすと判断したんだよね?そう神が匂わせたのかな?だったら、ジルが許すはずもない。……今、ジルは神と……タケルと戦ってるの?」
「────ッ」
メイヴは唇を噛み締めて、私を見ている。今にも泣き出しそうな瞳に、私はごめんなさいと心の中で謝った。そうして、あの日と同じように、強く願う。
「見せてほしいの。今、ジルがどうしているのか。あの日のように、メイヴ、お願い!」
「愛されし子っ……」
「あなたを苦しめるようなことばかり願ってごめんね、でも、お願い、何も知らされずに隠されたままではもう、笑っていられないの!」
「っ!」
私の言葉に、メイヴは目を見開いた。私を抱いていた腕が離れて、彼女の体が青白く光っていく。私の願いに応えるように、メイヴの細くて白い腕が宙に円を描いた。その空間に、あの日と同じように切り取られた景色が映る。込み上げる吐き気を無理矢理飲み下して、私は映し出された光景に視線を向けた。
『いつまで余裕ぶっていられるかねェ、ジラルダーク・ウィルスタイン!』
『貴様こそ、俺の拘束を解いてから虚勢を張ったらどうだ』
ごう、とお腹の底に響くような音に交じって、二人の声が聞こえてくる。砂煙が晴れて、そこには剣を構えて立つジラルダークと、地面に転がって笑っているタケルの姿が映し出された。一見すればジラルダークが随分と優勢に見える。けれど、彼の表情は硬い。対してタケルはにやにやと口元を吊り上げて笑っていた。
頭痛がする。あの日の、あの赤く染まった光景が、脳裏に過ぎる。眩暈がして足元が揺らいだ。焦った声で私を呼んで、メイヴが背中を支えてくれる。
「どう、して……」
『アハハハハ、まだまだ神には近付けねェな。惜しいとこまで来ちゃあいるんだがよォ』
『俺は神など興味ない』
タケルは何かを払いのけるような仕草をした後に、ゆっくりと体を起こした。ジラルダークの表情が険しくなる。
『メグをちゃんと守ってやれよ、こんなんじゃあ心配で任せてられねェぞ』
『お前が、それを言うのか……!彼女を傷つけた、お前が!』
激昂して、ジラルダークがタケルに向かっていった。そういうとこだよ、とタケルの視線がこちらに向く。まるで、私が見ていることを知っているかのように。金色の目が、笑うように細められた。
『目ェつむってな』
「!」
タケルの言葉と同時に、視界が暗くなった。感じるのは、なめらかで温かい肌の感触だ。メイヴの手、だろう。
「見ては駄目。もう、見てはいけないわ、愛されし子」
きっと、切り出された景色に映されているのは、……ああ、考えたくない。でも、分かってしまう。だって、だって……!
────噛み締められた苦しそうな彼の声は、私の耳に届いているのだから。