1.神々の訪問
【ジラルダーク】
上げられた報告に目を通しながら、今はここにいないカナエへ意識を向ける。今日の執務を終えて、部屋に返したのが昼過ぎだったが……。どうやら俺の愛しい妻は、俺達の部屋のソファで午睡を楽しんでいるようだ。カナエはブランケットを抱き込むようにして、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。昨夜も少し無理をさせてしまったからな。このまま寝かせておくよう、ベーゼアに伝えておく。それと体を冷やしてしまわないよう、もう一枚ブランケットをかけておけと伝えた。万が一カナエが風邪を引いてしまっても俺が治療できるが、一瞬でも彼女につらい思いをさせたくない。予防できるならば、それに越したことはないのだ。
さて、と書類に意識を戻す刹那、全身を駆けた悪寒に俺は剣を抜いて立ち上がった。同時に、執務室の片隅が歪む。感じた気配の種類が全く歓迎のしたくないもので、俺は眉間に皺を寄せた。魔力も最大限自身に纏わせる。
「おいおい、そう警戒してくれるなよォ。むしろ俺は、人の王であるお前なんかより随分と上位の存在なんだぞ」
にんまりと虫唾の走る笑みを浮かべて、その男は姿を現した。特徴的な銀目と、濁った水のような髪が揺れる。俺は剣の切っ先を向けたまま、奴の右隣の空間が歪むのを見た。
間隔を開けずに、夕闇色の髪をした女が現れる。タケルがここへ現れたということはモートが来るかと思ったが、そうではなかったらしい。女は俺の視線を受けて、タケルよりは随分と優雅に微笑んでみせた。
「お初にお目にかかります、ジラルダーク・ウィルスタイン。私はこの阿呆の対で、武の神を任されております」
「……お前が対か」
俺達と争った際に、タケルに対はいなかった。この対の神がいないことがタケルの狂気の原因のようなものであったのだが、どうやらこの二十数年で見つけ出したらしい。ならば、もうカナエを狙う理由もあるまい。
「遠い昔に、メグと称されていた頃もありました……といえば分かりやすいでしょうか。野々村夏苗よりも昔の話です。ようやく、対に戻ることが出来ました」
そう微笑む女の顔は、カナエと似ても似つかない。表情も、雰囲気も、纏うやわらかさも何もかも違っている。タケルがカナエを代替品として扱っていたことが滑稽に思える程だ。どう見ても、カナエの方がいい女だろうに。
俺は頭を振ってタケルへ視線を戻した。タケルはどうだと言わんばかりに口元を吊り上げて俺を見ている。
「貴様らの事情は興味ない。それよりも、今更何用だ」
対を得たのならば、俺達へ干渉する理由もないだろう。元々神であったカナエに執着し、そこから逃げ出したカナエを追ってきた、というのが最たる理由だった。執着の対象はメグと呼ばれる神であって、今はタケルの対の神となっている。カナエではない。もうカナエは神とは一切の関わりがないのだ。
だというのに、何故俺の前へ現れたのか。理由が何にしろ、二度とカナエには触れさせん。あのような失態ももう二度と繰り返さない。神としての適性があるとでも戯言をほざいて、カナエを俺の元から奪おうとする神がまた現れないとも限らなかった。だからこそ俺は、神にすら対抗できるよう、あの日からずっと己を鍛えてきたのだ。こいつらには一分の隙も見せぬ。
「メグを取り戻して、俺は完全な武の神となる。……が、一つだけ気に食わねェことがあるんだよ」
タケルは口元を歪に吊り上げたまま俺を見ている。俺も返すように、タケルを睨みつけた。だがあの日と違って、タケルは気分を害した様子はない。にやにやと気味の悪い笑みを浮かべたまま、緩く首を振ってみせるだけだ。対の神があるだけで、荒神そのものだったタケルがここまで安定するものなのか。
「よォく考えてもみろ。武の神が人に負けたままじゃあ、具合が良くないだろう?」
「……痴れ言を」
「もう一度、俺と一戦交えようじゃあないか、ジラルダーク・ウィルスタイン」
タケルの言葉に、俺は無意識に漏れそうになった舌打ちを堪える。相も変わらず、神とは面倒な存在らしい。何故、俺が神の自尊心のために負けてやらねばならんのだ。以前、タケルと争った際にはハンデがあった。タケルは天の神に力を抑えられていたようだし、俺は精霊の王の力を借りていたのだ。今度は純粋な力比べをしたいとタケルは言っているが、つまりは神に人が勝ったままであることが気に食わないのだろう。ならば、俺が負けるまで続けるということに他ならない。全く、馬鹿げている。嫌いな神のために負けを演じてやるほど、俺はお人好しじゃない。
「断る、と言ったら?」
「アハハハ、そうだなァ。気分が乗らねェならまた、お前の元から野々村夏苗を奪ってやろうか」
「…………貴様」
感情を滲ませた俺を愉快そうに笑い飛ばして、タケルが言葉を続ける。カナエを勝者への景品とするか、それともこの地の民を神への贄にするか、と俺を挑発してきた。俺は眉間に皺を寄せてタケルを見る。……そうだな。今一度この塵屑を叩きのめして、俺の元へ訪れようなどと微塵も考えぬようにするのもいいか。
「で、どうして欲しいんだィ?俺ァ、お前が本気になるためなら手段は選ばねェぜ?」
「……トゥオモ」
呼べば、すぐにトゥオモが俺の元へ現れた。俺の足元で跪くトゥオモは、しかし油断なく神々へ意識を向けている。
「我はこれより、神と戯れる。この戦い、決してお前以外には知れぬように」
「……は」
カナエに知れてしまえば、いらぬ心配をかける。魔神も同様だ。下手をすれば、俺を止めてくるかもしれない。だが、こうまで挑発されて易々と引き下がるほど俺は寛容でもなかった。
「場所はお前のところでいいかィ?俺もあんまり神に知られたくないんでな。破壊されねェように、コイツが結界を張れるからよォ」
「ならば構わん」
俺の使う鍛錬場でいいだろう。あそこは元々、俺が壊さぬように厚めの結界を張ってある。あそこならば、魔神やカナエも用がない限りは近付かない。この塵屑を叩きのめすには丁度いい。
俺は先に鍛錬場へ瞬間移動すると、奴が辿りやすいように魔力を垂れ流した。追って、二人の神とトゥオモが現れる。
「人の割には、いい場所じゃねぇか。全開でも何発か当てないと壊せそうにねぇなァ」
タケルは口元を歪めたまま、鍛錬場に張り巡らされている防御壁を見渡した。俺はマントを外すとトゥオモに渡す。
「お前は下がっていろ」
「しかし……」
「ここへ誰も近付けぬよう、命じたはずだ」
「……は」
俺の言葉に頷いて、マントを抱えたままのトゥオモが鍛錬場から出ていった。トゥオモとのやり取りを、タケルはにやついたまま眺めている。タケルの隣に立っていた対の神が、何かを唱えて両手を掲げた。
膨大な力が、……魔力ともまた違う力が、鍛錬場を覆うのが分かる。俺は一瞥して、タケルへ視線を戻した。まあこんなもんだろ、とタケルは事も無げに対の神に頷いている。
「ああ、そうだ。俺は武の神、世界の“武力”を吸う神だ。で、こっちも武の神、俺の対で世界に“武力”を分け与える神だ。俺が力を溜め込むことで強くなるし、こいつが力を吐き出すことで弱くなる」
「……今更自己紹介か」
「どんな力を持っているのか、俺だけが知ってちゃあ不公平だろ?今回、死の神のモートはいねェから、意識だけ刈り取ってやるなんて芸当はしてやれねェのよ。殺しゃあしねぇように気を付けるけどな」
「だからどうした。どのような神であれ、下すのみだ」
俺の言葉に、タケルは至極愉快そうに肩を揺らして笑った。俺は双剣を抜いて構える。いつでも間合いに踏み込めるよう、魔力を凝縮させた。
「いいねェ、いい威勢だ。やりあうなら、そうでなくっちゃなァ」
タケルはだらりと下げていた腕を両脇に上げて、歯を見せながら笑う。
「さあ、やりあおうじゃあねぇか、人の王よ!」
「二度と我が前に姿を見せるな、愚かな神め!」
タケルが笑みを浮かべたまま俺へと踏み込んでくる。俺は左右の剣を振って魔力の斬撃を繰り出した。地を蹴って上へ逃れたタケルを追って、俺も地面を強く蹴る。魔法での追撃も、タケルは手で弾いてものともしなかった。
ならば、と魔力を更に込めてタケルに向かわせる。属性も何もあったものではないほどに混ぜ込んだ魔力の塊を、しかしタケルは先程と同じように手の甲で弾いて退けた。いくつかの魔法が防壁にぶつかって、派手な音が響く。
「おら、そんなんじゃ俺ァやれねぇぞ!」
タケルは高らかに笑いながら空中で体を反転させた。俺は即座に剣を構えて、タケルから繰り出された衝撃波を受け止める。奴の攻撃手段は以前と変わらない。裏の手を持っていないとも限らないが、一先ずはこの拳から繰り出される圧倒的な力をいなせれば俺にも勝機はあるだろう。
この世界に堕ちた時は、まさか神に抗うことになろうとは思いもよらなかった。そもそもこの世界で王になろうとは考えてもいなかった。だが今の俺には課せられた責務がある。同時に、俺がただ一人の男として守りたいものがある。
「獲った!」
迫るタケルに、俺は掌を向けた。タケルや防壁に散っていた魔力の一部を集中させる。カモフラージュとして様々な属性の魔力を纏わせていたが、上手くタケルにこびり付いてくれたようだ。
「魔王の怒り、この程度で済むと思うなよ」
目を見開くタケルに加減をせず、俺は全力で奴を拘束する。魔力で編んだ縄はタケルの体表だけでなく、内臓や血管の一つ一つに絡みついていた。地面に叩きつけて、俺も下へ降りる。
「ぐ!……やるじゃねェか」
「……加減をしているのか?あの日の貴様より、随分と容易いな」
「言っただろう、俺は武力を吸い、対の神が武力を吐き出す。ここに防壁を張るのに、随分吐き出したんだよ」
笑みを崩さずに言うタケルの肩を、遠慮なく踏みつけた。神を足蹴にするなと、以前のタケルならば激昂しただろう。だが、眼下の男は口元を震わせて笑うだけだった。
「見苦しいな、言い訳か」
「そうじゃねェさ。お前にならば全力を出しても大丈夫だと、嬉しくて震えてらァ」
笑うタケルの目が、銀から金へ変わる。全身を満たした寒気に従って、俺はタケルから飛び退いた。ほぼ同時に、俺の立っていた地面が抉れて消える。
「ざァんねん……」
まだタケルへの拘束は残っている。現に奴は、地に這い蹲ったままだ。だが迂闊に近付くべきではないと、俺の勘が告げていた。先程の攻撃の正体が掴めていない。タケルの両腕は、背に縫い付けられているのだ。不可視の攻撃であるならば、……ッ!
「チッ、勘のイイ野郎だねェ」
横に退けた俺の、その足元をすさまじい風圧が通り抜ける。派手な音を立てて地面が窪んだ。これは一所に留まるべきではない。瞬発力こそないものの、不可視であり攻撃力の高い攻撃手段をタケルは持っているようだ。
「さーァ、ここからだぜ、ジラルダーク・ウィルスタイン」
にんまりと笑うタケルに、俺は今一度剣を構え直す。決して我が民にも、俺の唯一にも触れさせぬ。
そう心に固く誓って、俺は地を蹴るのだった。