短編2.魔界の書物
★前半、ほんのちょっとヤンデレ注意です。後半はいつものです。
どうしてこんなことになったのだろう。
私は、ベッドに座ってぼんやりと宙を見る。綺麗に整えられた部屋は、私の好きな落ち着いた色調で統一されていた。魔王様用にと、赤と黒と金を使った部屋じゃない。
最初は何だかかえって落ち着かなかったけれど、もう慣れた。淡い緑のカーテンも、白い壁紙も、木目のサイドボードも、クリスタルの置物も見慣れてしまった。
だって、みんな私が一日中ずっと目にする景色だから。
ここは、悪魔城の一室、なのだろう。それも分からない。連れてこられた当初は、悪魔の人たちの生活音が聞こえていた。段々と、それが喧騒に変わった。そして怒号と、金属をぶつけ合う音に変わっていった。合わせて聞こえたのは誰かの悲鳴と、崩れ落ちる重い音。けれど今は、たまに風や雨が窓を揺らす音しか聞こえてこない。
つまりは何を意味するのか、考えるのは止めた。
どんなに思考を巡らせようと、言葉を尽くそうと、手立てを講じようと、何もかもが無駄だと知っている。なら私は、……今の私に出来ることは。
「ただいま、カナエ。いい子にしていたか?」
かちゃりとドアが音を立てると同時に、やわらかく微笑んだジラルダークが入ってきた。私は微笑んで頷く。ベッドから下りてジラルダークのもとに向かおうとすると、じゃらりと重い金属音が響いた。ジラルダークは一切気に止めずに、私へ腕を伸ばしてくる。私も、抱っこをせがむ子供のように腕を伸ばした。
「おかえりなさい、ジル」
言うと、ああただいま、とやさしい声が降ってくる。ジラルダークに抱きついて、私はその胸元に顔を埋めた。ジラルダークの匂いと混ざってある、微かな石鹸の香りに私は目を瞑る。今日は一体誰を……。
ダメだ。考えちゃいけない。何も考えない。抵抗しない。ただ、私はジラルダークに愛されるまま受け入れる。
「ジル、疲れてない?大丈夫?」
見上げた先、ジラルダークの表情はやさしい。
私がここへ閉じ込められて、真っ先に精霊の気配が消えた。何度呼んでも、もう彼女は来てくれない。側仕えのはずのベーゼアも、あの日から一度も会っていない。ベーゼアだけじゃない、魔神の誰も、あれから一度も見ていない。
大介くんに貰った魔道具は、いつの間にか私の手元から消えていた。勿論、彼ら領主さんからも接触はない。単に接触がないのか、それとも何かが起こって接触出来ないのかは、私には分からなかった。
ただ、ジラルダークから微かに石鹸の香りがするたび、部屋の外から聞こえてくる音は静かになっていった。彼は何かを洗い流してから私のもとへ帰ってくるのだ。
もうやめて、そんなことしないで、私はここにいるから、絶対に逃げないからと伝えても、ジラルダークはただただ微笑むだけだった。私が誰かを庇っているのだと、そう誤解させてしまったことに後から気付く。
だから、私は何も考えない。もう、彼に何も言わない。
「……誰のことを考えている」
低く抑えた声が、頭上から降ってくる。私は、はっと目を開いた。
「ジルがあったかくて、ぼんやりしちゃっただけだよ」
繕う言葉に、ジラルダークの瞳が狂気に染まる。まだお前の心に残っている者がいるのか、次は誰だ、まだ残っているニンゲンか、と微笑みのまま彼が呟く。私は、素知らぬふりでジラルダークの胸元に頬を擦り寄せた。
「ジルのこと?」
ジラルダークの大きな手が、やわらかく私の頭を撫でる。暖かくて大きな手はあの頃のまま、私が大好きなジラルダークの手のままだ。
「愛している。俺だけのカナエ」
囁かれて、私は彼の胸から顔を上げる。すぐに、ジラルダークのキスが降ってきた。やさしくて甘くて、胸が締め付けられる。大好きなぬくもりも、キスも、あの頃から変わっていない。けれど、彼はもう……。
「ジル……」
キスの合間に彼を呼ぶと、狂気を瞳に宿したままジラルダークは笑った。
────何がいけなかったんだろう。どこで間違えたんだろう。
初めは首輪を贈られた。革で出来た太めの首輪を私に付けて、彼はとても満足そうに笑った。
けれど、首輪はすぐに引きちぎられた。うなじを愛でるのに邪魔だと、彼は苛立たしそうに言った。怯える私に、彼は大丈夫だと微笑んだ。
次に手枷を贈られた。鎖の付いた金属製の手枷を私の左腕に付けて、彼は私の様子を窺うように笑った。
手枷はすぐに粉々になった。金属の冷たさに私が体を震わせたからだ。頑丈でも何でもないなと彼は眉をひそめた。一体どうしてしまったのかと尋ねる私に、彼は愛していると微笑んだ。
そして今度は、足枷を贈られた。鎖は金属で、触れる部分は革で出来た足枷を私の左足に付けて、彼はよく似合っていると笑った。
足枷はベッドと私を繋いだまま、今も私の足首に付いている。部屋の中を歩き回れる長さに鎖を調整して、彼は決して部屋から出るなと微笑んだ。
「ああ、カナエ。俺だけの愛しいカナエ。愛している、カナエ。愛しい俺のカナエ」
私の体を深く抱き締めて、ジラルダークが熱に浮かされたように愛の言葉を繰り返す。
壊れてしまった。
私が壊してしまったのだろうか。彼が自ら壊れたのだろうか。
私はジラルダークの背に回した腕に力を込める。
「私も大好きだよ、ジル」
私はだから、それ以上考えることを止めた。ただ、注がれる彼の愛情に目を閉じて、受け入れる。でないと、私は…………
────そこまで読んで、私は勢いよく本を閉じた。
「何なのコレ?!シャレにならないレベルで寒気がしたんだけど?!」
連続でかき氷を食べた直後のような寒気に、私はぶるぶる震えながら目の前の人に文句を言う。
「ん?うちの領地で見かけた同人本。ヤンデレ注意、って書いてあったからどんなモンかと思って仕事ついでに持ってきた」
「持ってくんなこんな危険物!尋常じゃないくらい鳥肌立ったわ!」
ずべし、と音を立てて大介くんに本を投げ返す。大介くんは顔で受け止めて、珍妙な声を上げていた。
私は収まらない鳥肌のまま、隣をちらりと見る。隣には、一緒に今の本を読んでいらっしゃった魔王様がいた。無言だ。ついでに無表情だ。ひええええ!怖い怖い怖い!普段だったら別に怖くもなんともないんだけど、読んだ内容が内容だっただけに魔王様の無言無表情がとてつもなく怖い!
「じ、ジル……?」
おっかなびっくり声をかけると、ジラルダークは柘榴のような瞳を私へ向ける。反射的に、座ったまま3センチくらい飛び上がったと思う。
「……この書物の俺は愚かだ。革で出来た足枷ではカナエの肌を傷つけてしまうだろう。カナエの肌はやわらかいからな。その程度も知らずにカナエを囲おうなどとは、千年早い」
「やめて助けて微妙に怖い感想言わないで!」
本気でびびる私に、ジラルダークは喉を鳴らしておかしそうに笑った。
「ククッ、冗談だ」
「その冗談、全然笑えないから!1ミクロンも笑えないから!」
ひーん!何なのこの本!同人誌って、これどの方面のどんな需要なのさ!しかも妙に詳しいし!リアルだし!本当に魔王様壊れたかと思った!
ぴいぴい喚く私を膝に抱き上げて、ジラルダークが落ち着かせるように私の背中を撫でる。私はジラルダークに抱きついて、堪らずに匂いを確認してしまった。石鹸の香りはしない。いつものジラルダークの匂いだ。首筋の匂いを嗅ぐ私の髪を、ジラルダークの笑う息が揺らす。くすぐったいぞと言いたげに、ちょん、とこめかみへ軽いキスをされた。
「あまりカナエを怖がらせるな、ダイスケ」
「8割、自分の普段の言動が原因だって気付けよ、アホ魔王」
「ジル!ジル壊れちゃう前にちゃんと言ってね!勝手に壊れちゃやだからね!こんなの絶対やだからね!ちゃんと相談してね!じゃないと泣くからね!」
すがって必死に訴える私に、ジラルダークがくすぐるように笑った。ぽんぽん、と背中をあやすように叩かれる。
「ああ、大丈夫だ。約束しよう」
「絶対、絶対だからね!うわーん!」
私はジラルダークをぎゅっと抱き締めて彼の肩に顔を埋めた。あんなジラルダークは嫌だ。ちっとも幸せじゃない。ジラルダークが幸せじゃないのなんて嫌だ。しかも、何であんなあっさり受け入れてんだ、私。ジラルダークと一緒に幸せになれないのに、ぼけっとしてる場合じゃないだろう。
「んで、リアルじゃ結局イチャつく、と」
「カナエを怖がらせたお前が悪い」
絞め殺さん勢いで抱き着く私に笑いながら、ジラルダークが言う。大介くんの呆れたような溜め息も無視だ。下手なホラーよりホラーな本持って来るのが悪い。それにいちゃついてるんじゃない。私はジラルダークの心の無事を確認してるんだ。
よしよし怖かったな、と頭を撫でてくれるジラルダークに甘えて、私は彼にしがみついたままでいる。
「しかし、随分と詳しく書かれているな。制限した情報は含まれていないとはいえ、ここまで詳細を知れるものか?」
「あー、まぁ、こういうの描く時って結構設定しっかり調べるし、たまに夏苗ちゃんの情報が女性向け娯楽雑誌に載るからな」
「ぱぱらっちか!」
「うん、近いっちゃ近いな。さすがに検閲はしてるぜ。夏苗ちゃんの日常生活くらいは普通に通すけど」
え、いつの間に。ていうか、それどこから漏れてるの。
「麗しの王妃様が召し上がられたスイーツ特集、とかな。あと、今日の王妃様みたいなヤツ。今日も魔王陛下と仲睦まじくお空のお散歩されているのでした~、みたいな?」
「私をわんこと同列に並べないでいただきたい!」
「だって、売れるんだもんよ。それだけ需要があるんだ、喜べ夏苗ちゃん」
人のプライバシーを何だと思ってるのか。そりゃ、悪魔の頂点のお嫁さんになったわけだし、平々凡々とした生活は出来ないのは分かってる。王妃様としてお仕事しなきゃいけないのも分かってる。時には道化になる必要もあるし、生活を切り売りする必要もあるだろう。そりゃ、分かっちゃいるけどさぁ。
「娯楽も必要かとあまり気にせずにいたが、カナエが嫌ならば止めさせようか」
そして過保護魔王様が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。さっき読んだ本のジラルダークとは似ても似つかない魔王様の表情に、私は全身に込めていた力を抜いた。
「嫌っていうか、……笑わないでね?」
私は、こっそりとジラルダークに耳打ちする。ジラルダークは耳を寄せて頷いた。両手でジラルダークの耳を囲って、内緒話だ。
「創作って分かってても、ジルが幸せじゃないのが嫌なの。あと、ジルのことジルって呼んでるってバレてるの恥ずかしい」
「……そうか。ふふっ、何も心配はいらない」
今度はジラルダークが私の耳元に手を添えてこそこそと囁いてくる。ジト目の大介くんは全体的に無視だ。
「俺はお前が健康的に笑っている姿が一番好きだ。感じるままに笑って、拗ねて、俺に甘えるお前が何よりも愛おしい。だから決して、あの書物のようにはならない。俺は今、この国で最も幸せな男だ」
「ほんとに?」
「ああ。だからあれは俺ではない、全くの別人だ。そう思えば、怖くはないだろう?」
目を細めて笑うジラルダークに、私は頷いてみせる。
「それに、お前が日常の中で俺をどう呼んでいるか民に知らせているのは、それだけ俺たちが仲睦まじいのだと見せつけているに過ぎない。俺は后にこれだけ愛されているのだぞと、悪魔の民に知らしめたいだけだ」
「っ……ばか……!」
おバカな発言をするジラルダークを睨みつけても、彼は目を細めて微笑んだままだ。柘榴色の瞳は普段と同じように、やさしい輝きのまま私を映し出している。その目に、狂気の色はない。
「ヤンデレのベクトルが違ってたみてぇだな。んじゃ、オレは帰るわ」
「折角だ。俺と手合わせしていけ」
やれやれと腰を上げた大介くんに、ジラルダークが口元を吊り上げて言った。大介くんはジラルダークの言葉に目を見開いた後、口元を引くつかせる。
「い、いやぁ、オレ、この後も何だかんだと多忙で……」
「今日から放浪する予定だから暇だ、とお前の補佐官は言っていたぞ」
「あんにゃろ、余計なことを……!」
大介くんはぎりぎりと歯を食いしばってここにはいないボータレイさんに文句を言った。ジラルダークは笑みを浮かべたまま、私の頭を撫でる。
「見ていくか?カナエ。お前を不安にさせるもの、悲しませるもの、俺が全て取り除いてやろう」
勿論、と彼の赤い瞳がジャパン領領主殿を貫いた。
「お前を悪戯に怖がらせるものも含めて、だ」
あ、結構怒ってたのね、魔王様。私が頷くと、ジラルダークはにっこりと笑う。対して、大介くんは顔面蒼白になって慌てていた。
「だからそれがヤンデレ疑われる言動だっつうの!」
「偶には手合わせもよかろう。安心しろ、精霊の王の回復は万能だぞ」
「死なない一歩手前まで痛めつける気マンマンじゃねぇか!」
「お前が防げば問題ない」
私を片腕に抱いて立ち上がると、ぎゃあぎゃあと騒ぐ大介くんの首根っこをむんずと掴んで魔王様は歩き出す。怒ってはいるのだろうけど、どこか楽しそうにしているジラルダークに、私も思わず笑みを浮かべた。ジラルダークは私の表情に目を細めて微笑むと、軽く鼻先にキスを落とす。
「大好きだよ、ジル」
「ああ、俺も愛している、カナエ」
「頭上でイチャイチャすんじゃねー!このバカップルが!」
でも8割大介くんのせいだから、このくらいは我慢してね。
ジラルダークの甘いキスを受け入れながら、私はひっそりと微笑むのだった。