2.魔王の忠犬
【ヴァシュタル】
后の方に相談したはずが、魔王陛下まで伴って領主邸へ現れた。それはいい。予想の内だ。魔王陛下の視線が突き刺すようなものなのも、もう慣れた。だが、相談しようと思っていた事柄がわざわざ領主邸へ訪れるなど、誰が予想できようか。国を跨ぐのだぞ。身一つで来れるものでもないだろう。
陛下がいらっしゃっている、許可なくお通しするわけにはいかないと押し留めても、王族特有の強引さで突破されてしまった。そして今、俺は内心冷や汗まみれで陛下に相対している。
「陛下へ一刻も早くご挨拶を申し上げたくて、無礼を承知で参りましたの」
魔導の国特有の赤茶けた髪を揺らして、王女が微笑む。視線は完全に、魔王陛下へ向いている。彼の機嫌が急降下していくのが、言われずとも分かった。どうにかこの場に留まっていてくれているのは、后の存在があるからに他ならない。俺はそろりと后の様子を窺う。后は微笑みを浮かべたままだが、その表情に困惑が映って見えた。
「陛下、発言の許可を頂けますでしょうか」
領主邸に設けられた謁見の間で、俺は魔王陛下に傅く。隣の王女が不思議そうに俺を見ているのが分かった。かの御方はお前などが気安く話しかけられる存在ではないのだ。せめてそう、俺が態度で示さなければ。
「それは、我が聞かねばならぬことか?」
最悪だ。
無論、魔王陛下の機嫌が、だ。二十年前によく感じていた、死の気配が喉をつく。俺は、声が震えぬように腹に力を込めた。
「お許しを頂けるならば」
舌打ちでもしそうな雰囲気で、魔王陛下は短く俺に許可をする。あの赤目に睨まれて、よくも立っていられるものだ。間近で陛下の怒気を感じながら、俺は隣の王女を紹介する。
「こちら、ガルダー王国の第二王女、イザベラ殿にございます。ご相談申し上げておりました件も、かの国が陛下へ謁見願いたいと申しております件についてでございました」
「初めまして、ジラルダーク陛下。わたくし、ガルダー魔導王国が王女、イザベラ・ガルムステットと申しますわ。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
「…………」
魔王陛下は、黙れとでも言いたげに眉を寄せて、イザベラを睨みつけた。けれど、イザベラは睨まれたと思っていないのか、どこ吹く風といった様子だ。
「イザベラ殿。大変申し訳ないが、私はこれから魔王陛下と王妃に国の件でご報告申し上げたいことがある」
他国の者は出て行け、と遠回しに伝えても、イザベラは微笑むままだ。伝わっているだろうに、それほどまでに魔王陛下との繋がりが欲しいか。フェンチスを退け、戦火にまみれたアサギナをこの二十年で三大国に勝るとも劣らない領地へと復興せしめた、魔王の力が欲しいか。
「……よろしければ、わたくしがこちらをご案内いたしましょうか?」
緊迫する空気の中、口を開いたのは后だった。魔王陛下も予想外だったのだろう、常ならば剥がれることのない魔王の仮面が微かに動いた。
「まあ、よろしいのですか?」
ええ、と微笑む后に、イザベラがにっこりと笑む。后は、昔からの気さくさでイザベラへと歩み寄った。
「陛下はどうぞ、アサギナ領主殿とのお話を進めてくださいませ。イザベラ様、こちらは綺麗な庭園がございますので、そちらへ参りましょう?」
后はやわらかく微笑みながら、さり気なくイザベラを退室させる。去り際、后はちらりと魔王陛下へ視線をやった。恐らくは、陛下から何か言われたのだろう。声に出さぬ、念話のようなもので、だ。俺もよく、それで陛下に叱られていた。
「……それで、アレは何だ。我を怒らせて、ニンゲンを滅ぼさせたいのか?」
「滅相もございません。彼女の来訪は、私も予測しておりませんでした」
「で?貴様の愚かな予測のうちに無かったからと、我が后の手を煩わせておるのか?……アサギナ領主も、随分と偉くなったものだ」
「大変申し訳ございません」
「口先の謝罪など、耳障りなだけだ」
まずい。これはまずい。今度こそ、俺の首が飛ぶかもしれない。だが、こうなってしまった以上どうしようもない。事実を魔王陛下に報告して、判断を仰ぐだけだ。それが例え、自殺行為だとしても。
「ガルダーがアサギナへ手を出してきたか」
「は。アサギナと今以上の友好関係を築きたい、国王である陛下へお目通り願いたい、そのための場を整えてほしいと私に話が来ております。私の一存では決められぬと使者を返したのが一昨日でした」
「使者に紛れて王女を連れてくるとはな。狙いは俺か?……馬鹿馬鹿しい。人の国と我の国を混同するとは」
ガルダーやフェンチスでは、王は幾人も后を抱えるものだった。つまりはあの王女は、魔王陛下の側室としてあてがわれるために送られてきたらしい。魔王陛下を知らないからこそ、こんな馬鹿げた行動に出たのだろう。魔王陛下が側室をとるなど有り得ない。人間が滅びることはあろうとも、魔王陛下の后が増えることはあろうはずもない。魔王陛下の寵愛はただ一人、后だけのものだ。他に向くものか。
「フェンチスには大人しくしていれば手を出さぬと言ったが、ガルダーには言っていなかったな……」
ぼそりと、至極物騒な呟きが耳に届いた。魔王陛下の怒気に中てられて、俺の血の気も引いていく。わざと、アサギナの名を出さなかったのだろう。何故ならばアサギナはもうすでに、魔王陛下の機嫌一つでどうとでもできる位置にいるからだ。
そのまま、魔王陛下はぷつりと黙り込んでしまった。視線だけで様子を窺うと、陛下は青白く光る指先を顎に当てながら目を細めている。その表情は、不機嫌なようであって、どこか隠しきれない慈しみを漂わせていた。魔王陛下にこの表情をさせる人物は一人しかいない。后を案じて、彼女を見ているのだろう。后を介してだけ、俺はこの魔王陛下の感情を知ることができた。后がいなければ、俺は……いや、アサギナは、早々に潰れていたに違いない。
「…………」
偉大なる魔王陛下は、何か言いたげに眉を寄せた後、俺へと視線を戻した。
「ガルダーを潰して、お前たちに不利益はないな」
……ガルダーの王女殿下は后に何を言ったのだろうか。魔王陛下はガルダーを只では済まさないと決意したようだ。とはいえ、内情を探ろうとも、ましてやガルダーを庇おうとも思わない。俺が願うのは、アサギナが彼等悪魔と共にある未来だけだ。極論だが、他はどうでもいい。
「特にはございません。どうぞ、魔王陛下の御心のままに」
顔を伏せて応えた俺に、魔王陛下は面白くなさそうに鼻で笑ってみせる。
「こちらが手を煩わすことの無いよう、ニンゲンどもはお前が抑えればいいものを」
呟かれた言葉に、俺は顔を伏せたまま目を見開いた。魔王陛下は、人間すべてを俺に任せるつもりでいたらしい。何を無茶なと思う反面、そこまで期待されていたのかと体が震える思いだった。
かけられた期待が嬉しい。応えられなかった自分が情けない。次、機会を貰えるならば、きっと応えたい。ああ、だから皆、この偉大なる魔王陛下の背を追うのだ。そして、皆が彼を魔王陛下と崇めるのだ。
「至らずに、大変申し訳ございませんでした。お許しいただけるならば、次こそはご期待に沿うよう死力を尽くします」
「ニンゲンの生は短い。満足のいかぬまま、終えてくれるなよ」
衣擦れの音を響かせながら、魔王陛下が立ち上がる。俺は、跪き顔を伏せたまま、彼へ最上の敬意を示した。
「必ずや、陛下の御心に応えましょう」
「なれば、一つ。あの邪魔な蠅をどうにかしろ。ガルダーとは友好となろうがならなかろうが構わん。この領地は俺のものだ。ここを侵すものは須らく潰す」
魔王陛下は、革靴の音を甲高く鳴らしながら、俺の横を通り過ぎる。彼女を迎えに行くのだろう。不機嫌ながらも急がないあたり、魔王陛下の神経を微妙に刺激するやり取りだったらしい。琴線に触れたならば、もうすでに魔王陛下はここにいないはずだ。そして、アサギナもガルダーも地図から消えているだろう。
「必要とあらば、お前の敬愛する人形をこちらへ連れてこよう」
「……かしこまりました。早急に、対応させていただきます」
俺からは陛下の表情は窺い知れないが、絶対に意地の悪い笑みを浮かべているはずだ。俺が、エミリエンヌを苦手としていることを知っているからの戯言なのだ。そして俺は、成人して随分経ったというのに、未だに幼い彼女に頭が上がらない。敬愛は、している。むしろ、俺がこうして魔王陛下のもとで領主をしていられるのも彼女のお陰だ。分かってはいるのだが、苦手なものは苦手だった。何をもってしても、勝てる気がしない。魔王陛下相手ならば納得もできよう。しかし、幼い少女相手にいい年をした男がしてやられるなど、どこに感情を置いていいか分からなくて当然だろう。
「ああ、いっそ、お前があの王女とやらと婚姻を結んでもいいかも知れぬな。気の強そうな女だが、お前の好みに沿うか?」
「ご、御冗談を」
魔物との混血である俺が、人間と婚姻を結べるはずもない。ここ数年、縁談が舞い込むこともあったが、すべて断っていた。俺は、俺自身のことで未だに精一杯なのだ。ここの領主を任されたことでさえ身に余る光栄だというのに、これ以上抱えられるか。
思わず声を震わせた俺に、魔王陛下は振り向きざま、非常に意地の悪い笑みを浮かべた。俺への罰を決めた、と言わんばかりだ。俺は自然と引き攣る頬のまま、陛下を見上げる。
「お前も元は王族だ。血統は問題なかろう。頑張って口説けよ、色男」
「へ、陛下っ……!」
待ってくれと俺が縋る直前に、魔王陛下は楽しそうに笑いながら姿を消した。彼の笑い声だけが、反響して残る。
しん、と静まる空間に、俺は真っ白になった思考のまま膝をついていた。様子を窺いに来たルベルトが病気を心配するほどに俺の顔色は蒼白だったと後々知らされたが、この時の俺はそれどころではなかったのだと言い訳しておこう。