1.二十年目の日常
★最終話後のお話です
ベーゼアから受け取った書類をぱらぱらと捲りながら、私は一瞬だけ視線を隣に向ける。ああ、ご機嫌がとてもよろしいようで。鼻歌でも歌いだしそうだ。おっと、今、アサギナって文字が見えたぞ。ええと、ヴァシュタルからの報告かな?私の方へ回されたってことは、モノキ村のことに関してだろうか。
「どこか分からないところはあるか?面倒ごとは回されていないか?」
じっくりと書類に目を通そうとした瞬間、お隣の過保護さんが覗き込んできた。私は眉間に皺をこれでもかと寄せて隣を睨みつける。
「魔王様は、ご自分の、お仕事を、なさって、ください!」
大事なことなので、しっかりはっきりくっきり伝えさせていただく。睨んだはずなのに、魔王様はにこにことご機嫌に微笑んだままだ。
この世界にきて随分と時間が経った。悪魔の国や、周辺の国のことに関しても、魔王様と結婚した当初より大分詳しくなったと自負している。そしてここ数年は魔王様を補佐できるように、后として仕事をしていた。……誰かさんのお陰で、きちんと仕事になってるとは言い難いけれど。
「俺の方は大事ない。それよりも、随分とお前の方へ報告が回っているようだ。俺も手伝おう」
意味ない!私が補佐する意味、ほとんどない!本当にもう、この過保護魔王様は全くもう!
「これでも、陛下の仕事の効率は上がっておりますのよ、カナエ様。……動機は不純極まりないですけれど」
「俺の方の仕事を疎かにはせん。手が空いたというのは本当だ」
「ああ、そう……」
呆れかえったエミリエンヌに、ジラルダークは大真面目に答えた。つまりは、私を手伝いたいから自分の仕事を超特急で終わらせているらしい。何なのこの魔王様。馬鹿なの?いや、おバカなのは出会った時から知ってるけども、だからって自分の高スペックフル活用して何やってんのよ。
「これは私への報告です、陛下。私の方で一度確認させて頂いて、いざという時にお声がけしますわ」
お后モードでジラルダークに返すと、魔王様はお気に召さなかったらしい、むすっと唇を尖らせてしまった。め、めんどくさい……!
「ああ、ならば一緒に目を通せばいい。これでお前も報告書を読めるし、俺もお前の所へ上がる報告を確認できる」
言うが早いか、ジラルダークは私をひょいと膝に抱えて座りやがった。何、いいこと思い付いた、みたいな顔してんの、魔王様。ていうか、毎度毎度手が早いっての!
最初、私も仕事をするよって決めた時、仕事にならないだろうから執務室を分けようとエミリエンヌと話していた。だけどそんなの魔王様が許すはずもなく、ごねにごねられた結果、執務室は魔王様と共用になったのだ。お目付け役のエミリエンヌが絶対零度の眼差しで監視してくれてるから何とか仕事は出来てるけど、やっぱり無理にでも別室にした方がよかったように思う。
とはいえ、魔王様に抵抗したところでどうにもできるはずもなく、私は溜め息一つついて手元の報告書を捲った。下手に抵抗したら、いつまでたっても仕事が進みやしない。文句言っても魔王様が譲らないときはスルーだ。無我の境地に至るのだ、夏苗。
私は魔王様に膝抱っこされたまま、報告書の文字を追う。アサギナのヴァシュタルからの報告だ。最近じゃ生意気にもお髭を蓄えちゃって、ヴァシュタルも随分と立派になっていた。昔は、魔王様に噛みつく子犬だったのにねぇ。
報告書には、こちらの国へ視察に来たいという者が増えていること、それについて一度相談したい旨が記載されていた。モノキ村の子供たち……もう立派な大人だけど、彼等が中心となって、アサギナの人たちの悪魔への認識は随分と改善されていた。モノキ村の人でなくとも、悪魔城へ来てくれる人もいるくらいだ。
いやでも、しかし。
「ヴァッシュがわざわざ相談したいことって、何だろう?」
「……俺ではなくお前に報告を上げるとは、やはりもう一度躾直すか……」
「はい、領主イジメしないの」
ぺちりと音を立てて、ジラルダークのおでこを叩く。ジラルダークは私の腰を抱く腕の力を強めて、不服そうに唇を尖らせていた。魔王様の拗ねモードだ。
「ニンゲンとの窓口は基本的に私が担当してるでしょ?だからだと思うよ」
「我が后の優しさに付け入っているだけだろう」
言いながらそっぽ向いてしまったジラルダークに、私は苦笑いを浮かべる。まあ、このくらいの拗ねモードだったら放置しておいても大丈夫だろう。ヴァシュタルにも、そんなに被害はいかないはずだ。
そう判断して、私は報告書に意識を戻す。ヴァシュタルの報告書の他には、最近ホラー同好会の一員になってるクレストくんからの報告書もあった。ホラー同好会からは魔王様へ何の研究をしているのか報告がいってるけど、私へはクレストくんからくるのだ。主に、この研究って大丈夫なのか、という方向で。
なになに、今は……透明化のポーションの研究してるの?え、これ、大丈夫?この前まで、アサギナの人たちが人型から獣化しても大丈夫なような伸縮をする布の研究してたよね?どこをどうして透明化のポーションに繋がったの?また研究がホラー方向に進んでない?
「ねぇ、ジル。透明化のポーションって何に使うの?」
「実用化まで持ち込めれば、魔力の低い偵察部の兵に持たせる。……が、悪用される危険が高い薬品になるだろうから、しばらくは上層部のみでの使用になるな。現時点では効果時間はあまり長くないのが難点だ」
拗ねモードは解除されたらしい。ジラルダークは私の言葉にいつもの調子で答えてくれた。
「うーん、すぐに犯罪に結びつきそうなものだもんねぇ。何かこう、使ってる人を見破れる、対の薬品もあるといいかもね。特殊な匂いがするとか、他の薬品をかけると効果が消えるとか」
「透明になるとはいえ、魔力のある者や戦いに慣れた者には見破れるがな」
はぐらかすような物言いに、私は眉を寄せる。この言い方、魔王様何か企んでるな?ていうか、使う気か、透明化ポーション。
「……私は見破れないから、ジルがもし使ったらメイヴに隔離してもらうね。メイヴなら分かるだろうし」
「至急、対の薬品を作らせよう」
やっぱり使う気だったのか!嫌な予感がしたから、牽制してよかった!
「陛下は魔法で姿を消せますでしょうに」
「俺の魔法では、姿を消すと触れることもできなくなる」
エミリエンヌのつっこみに、ジラルダークが真剣な表情で答えた。ああ、エミリエンヌの目が冷えていく。射抜くような視線をジラルダークに向けながら、エミリエンヌは手元にあった書類を束ねて立ち上がった。
「国の気候は落ち着いておりますわね。ツァンバイのダニエラとノエ、ミスカは引き揚げてくるそうですわ」
「分かった。よく労うように」
「かしこまりましてございますわ」
エミリエンヌは頷いてから、ジラルダークの机の上にあった捺印済みの書類も手に取る。ジラルダークは私を抱っこしたまま、光る指先を口元に当てた。誰かに連絡を取っているのだろう。エミリエンヌは短く溜め息を吐くと、肩を竦めた。
「人払いをなさる前に、アサギナの犬についてご指示頂けませんこと?」
「……あれは、俺が直々に話す」
「ニンゲンの一領主ですのよ。あまり負担をかけて潰さないようにご注意くださいまし」
「分かっている」
エミリエンヌは本当に分かっているんでしょうかねと言わんばかりの視線を投げかけながら、執務室を出ていく。私は、背中にぴったりくっついてる魔王様を見上げた。
「ヴァッシュのところには、私も行っていいでしょ?」
「…………」
キレイなへの字口の魔王様に問いかけると、顔を逸らされる。私は苦笑いを浮かべて、ジラルダークの頬っぺたを両手で挟んだ。然程力も入れなくても、ジラルダークはこっちを向いてくれる。私は、ジラルダークの柘榴色した瞳を覗き込んだ。
「ジル?連れてってくれるでしょ?」
じゃないと、ヴァシュタルの胃が壊れてしまう。ジラルダークは、への字口のまま私を見ていた。何かしないと拗ねたまんまだぞって言ってるみたいだ。全くもう、しょうがない魔王様だ。私がこのまま放っておかないって分かってて拗ねてるんだろうなぁ。
私は、ジラルダークの肉厚な唇に軽くキスをする。頬を押さえたまま、何度か触れるだけのキスを繰り返した。ジラルダークはそうしてようやく、への字口を解除する。にんまりと笑った彼に、私は苦笑いを浮かべた。
「我が后にそこまで求められては、連れて行かぬわけにもいくまい」
「光栄ですわ、陛下」
くすくすと笑いながら、私はもう一度ジラルダークに口付ける。今度はジラルダークの手が後頭部に回って、軽くないキスになった。舌を絡めて、深く口中を舐められる。頬に添えていた手をジラルダークの肩に回して、私は彼に抱き着いた。
長いキスの後、私は彼の肩に頭を乗せて乱れた呼吸を整える。何年経っても、何度されても、ジラルダークのキスに敵う気がしないのは何でだ。ほらあれだ。倦怠期とか、マンネリとかあるでしょ、そういうの。
「ジルは、私とキスするの飽きないの?」
尋ねてみると、ジラルダークは驚いたように目を見開いた。それから、腰を抱いてくれていた彼の腕に力が籠った。
「……カナエは、俺との口付けに飽いたか?」
「ううん。全然慣れないんだもん。これじゃあ、いつまで経ってもジルをぎゃふんと言わせられないじゃない」
ジラルダークの肩に顎を乗せて、私は唇を尖らせる。ジラルダークは、ふっと息を吐いた後、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「俺はもう充分、カナエに翻弄されていると思うが」
「そうかなぁ?」
「ああ。魔王の唯一であるお前には敵わんよ」
言いながら、ジラルダークは私のこめかみに唇をくっつけてくる。くすぐったくて思わず笑うと、返すようにジラルダークも笑った。ああ、よかった。魔王様のご機嫌もよろしくなったみたいだ。
「明日にでも、アサギナの城へ行くか。……厄介ごとでなければいいが」
「うーん、わざわざ、相談したいって言ってくるくらいだからねぇ」
「面倒ごとならば、また躾けてやるまでだ」
「だから、虐めちゃダメって言ってるでしょ」
にぃっと口元を吊り上げた魔王様の頬っぺたを、私は遠慮なく摘まむ。くすぐったそうに笑って、いつものようにジラルダークがじゃれついてきた。私は彼の頭を抱えるように腕を回す。
二十年経っても私たちはあんまり変わらないななんて、ジラルダークの髪を撫でながら思うのだった。