142.精霊の愛
わたしが夏苗を見つけたのは、罪の意識に耐え切れずに消えようとして、けれど子供たちに転生させられようとして、逃げていた時だった。偶々見つけた白い綺麗な布を纏う人間の魂に縋りついて、子供たちの目をくらませようとしたのだ。ほんのひととき、逃げるための隠れ蓑、そのはずだった。
けれど、夏苗は私を見つけてくれた。声をかけて、心配してくれた。一緒にいてくれると、一緒に謝ってくれると、生きていていいと、わたしの想いは否定しなくてもいいのだと、わたしを慰めてくれた。
それが、何よりも嬉しかった。
愛したあの人との記憶は、わたしの中で宝物だった。最後は悲しいものに終わったけれど、それでも、わたしが抱いた感情を、否定したくはなかった。とても、とても大切に思っていた。
だからわたしは、消えたかった。沢山の人を犠牲にして、流れる血の色に怖くなったのだ。これ以上、何かを傷つけたくなかった。愛し合った幸せな記憶だけを抱いて、消えてしまいたかった。生きていれば罪は目の前に横たわり続ける。あの人と愛し合ったことが間違いだったのだと、突きつけられるようだった。
この思いを否定されなかっただけで、わたしはとても救われたのだ。夏苗はきっと、救ったつもりはないと首を振るだろうけれど。
契約をしようと彼女の魂をよくよく見て、わたしは気付く。夏苗は、神に愛されし子だった。刻まれた名を不思議に思って彼女の記憶を覗き込んでも、夏苗の中に神に関わった記憶はない。人間には信仰というものがあると聞いたことがあった。だから、夏苗も何かの神を信仰しているのかと思ったのだけれど、それもない。
思い返せば神であったからこそ、精霊との契約もなしにわたしのところへ来れたのかと納得した。精神だけであったとしてもわたしたちのいる世界にくるのは、人の身には負担になるはずだ。精霊の道と人が呼ぶそこは、少なくとも魔力も精霊の契約も持たない人間が立てる場所ではない。
それにもう一つ、気にかかることがあった。夏苗の魂に刻まれた名が、形を変えようとしているのだ。神に愛されし子。けれど、その名が変わるかもしれない。そんな人間を見たことがなかった。だから、とても興味があった。
わたしは、夏苗に隷属する契約をした。だから、契約主の真名を気軽に口に出せない。彼女の名を口にするときは、彼女の願いを跳ね退ける時だけだ。だからこそ、これまでの生き方によって魂に刻まれた呼び名を口にしていた。
わたしが彼女の呼び名を口にすることで変化に影響してはいけないと、半分だけ呼ぶことにした。それがよかったのか悪かったのかは、わたしには分からない。
夏苗が神の元へ連れ戻されて、わたしは知った。夏苗が神であった頃の記憶は、魂から切り離されていたのだ。覗き見たそれは、とてもつらく、とても苦しい記憶だった。夏苗が愛されていないのではない、そう伝えてあげたいけれど、駄目だ。この記憶は、今の夏苗も苦しめる。わたしは、夏苗が苦しむと分かっていて記憶を受け入れるだなんて、許すことができない。
わたしは、夏苗を幸せにするために契約をした。もう二度と、わたしの愛する人を悲しませたりはしない。今度は、間違えない。
魂へ戻されようとする記憶を必死に押し留めながら、わたしは悪魔の王に手を伸ばす。わたしでは、夏苗の魂を守り切れない。それに、夏苗の悲しみを止めることができるのは、わたしじゃない。この子が欲する愛を与えるのは、悪魔の王ただ一人だ。そばにいてほしいという夏苗の願いを、わたしは全力で叶える。
悪魔の王は、神の元から夏苗を取り戻した。少し夏苗へ執着し過ぎだとは思うけれど、夏苗が嫌がっていないのならいい。わたしは、夏苗の望みを叶えるだけだ。
そうして今となってはもう、夏苗に刻まれた名はすっかり変わってしまった。神に愛されし子は、魔王に愛されし子となっている。こんな風に変わることもあるのね、と私は夏苗の魂を眺めながら思った。
「メイヴ、いる?」
ふと、わたしの名を呼ぶ愛しい子の声がする。わたしはすぐに夏苗のそばに姿を象った。華奢な彼女の肩に抱き着くと、いつも嬉しそうに笑ってくれる。可愛らしく私の頬に自身の頬を擦り寄せて、くすぐるように笑った。
愛されし子は、わたしからも愛されているのだから、精霊に愛されし子と名を変えてくれてもいいと思う。たくさん愛してあげたら、名が変わるのかしら。けれど、悪魔の王が黙ってなさそうだわと考えて、わたしは頭の中で溜め息をついた。
「ねぇ、ケーキ作ったんだけど、もしよかったらメイヴも一緒に食べない?今日、ベーゼアが出張で、ジルも魔神さんたちも忙しくてね……」
「ケーキ?」
夏苗の言葉の中で、気にかかったものを繰り返すと、夏苗はきょとんと目をまん丸にする。
「そういえば、メイヴってご飯食べるの?」
「いいえ。食べる、ということをしたことがないわ」
人が食事を必要としているのは分かる。生きるために必要な行為だということも、お腹がすくという感覚があることも知っている。けれど、精霊であるわたしには必要のないものだ。力は自然から供給されるし、お腹がすくという感覚もない。
「食べちゃダメ、ってことはない?」
「そうね。しようと思ったことがないだけよ」
夏苗は不思議そうにわたしを見ながら尋ねてくる。純粋な夏苗に、わたしは素直に答えた。じゃあ、と夏苗は私の手を握る。暖かな感触に、わたしは頬を緩ませた。
「一緒に食べてみない?ほら、こっち座って」
夏苗に促されて、わたしは彼女の隣にある椅子に腰かける。ここは、夏苗に忠実な従者の子がよく座る席だ。
目の前に置かれたのは、果実をふんだんにあしらった可愛らしいものだった。これが、ケーキと呼ばれる食べ物なのだろう。食べ方は知っている。夏苗が似たようなものを食べるところを幾度か見たことがある。
ただ、自分でするとなると、少し戸惑った。確か、このフォークで一口大に切って、食べていたはず。
「一口、食べてみて。はい」
そう思って迷っていたら、夏苗に声をかけられた。顔を向けると、目の前に一口大に切られたケーキを差し出されている。夏苗が用意してくれたらしい。
なんて愛らしい子なのかしら。抱き締めたいと思いつつも、夏苗の差し出してくるケーキを前にそれはできなかった。わたしは、口を開けてケーキを含んでみる。
目の前で香りを嗅ぐのとはまた違う、内側からの甘く華やかな香りが鼻腔を抜けていった。人を模したわたしの舌は、そのとろけるような甘さとみずみずしい果実の感触を伝えてくる。舌も模せていたのね、とどこか思った。
咀嚼してみれば、さくりとした生地と香ばしい香りが口中に広がる。先程までの甘さやみずみずしさから一変した口内に、わたしは何がどうなっているのだろうと目を瞬かせた。咀嚼を続けると、また甘さが広がってくる。今度は、果実の酸味もあるようだ。口の中がとても忙しい。それに、楽しい。
「……どう?」
不安そうに尋ねてくる夏苗に、わたしは微笑んだ。
「ええ、とっても楽しいわ。食べることって、こんなにも楽しいのね。口の中が、今までにない感覚でいっぱいよ」
「楽しい……?ああでも、まずいとかじゃなくてよかった」
「ええ、とても好きよ」
にこにこと笑う私に、夏苗も安心したように微笑む。もっと食べる、と更に自分のケーキを切り分けて夏苗が差し出してくれた。わたしはまた口に含んで、たくさんの感覚を噛み締める。きっと、これを美味しいというのね。やっぱり、人って面白いわ。
「精霊でも食事をするのか」
夏苗と二人でケーキを楽しんでいたら、嫉妬深い悪魔の王がやってきた。当然のように夏苗を抱いて、夏苗の心にこれ以上踏み込むなとばかりにわたしを睨んでくる。本当に、狭量な悪魔の王だ。
「愛されし子が手ずから食べさせてくれたのよ。とても美味しいわ」
わざと煽るように伝えると、悪魔の王の纏う魔力が刺さるようにわたしへ向く。どこかへ行け消えろという悪魔の王の無言の圧力だ。夏苗と契約を結んでから、何度も浴びてきた。もうすっかり慣れてしまったのがおかしくてたまらない。
「メイヴ、初めて食べたんだって。まずくなくてよかった」
魔力に鈍感な夏苗は、悪魔の王の剣呑な雰囲気に気付かない。悪魔の王も、夏苗に気付かせないようにしている、というのはあるけれど。こんな束縛を笑って受け止められるのだから、夏苗は悪魔の王と相性がいいのだと思う。
「ジルは魔王様のお仕事終わったの?それとも、休憩?」
私と同じようにケーキを一欠片、悪魔の王に食べさせながら、夏苗が問いかけた。夏苗に手ずから食べさせてもらったというだけで、先程までの刺すような魔力が消えるのだから、おかしな人だ。
「休憩だ。これから、ツァンバイへ向かう」
「カルロッタさんのところ?」
「ああ。今年は雪がかなり多いようだ。一度、現地を見ておこうと思ってな」
「去年と一昨年は少なめだったのにね。周期とかあるのかな?」
「乾期が長かったから、その反動かもしれん」
「そっか。気を付けてね、ジル」
神をも下した男に何を気を付けろというのだろう。けれど、夏苗の言葉に悪魔の王はとろけるような笑みで頷いていた。
わたしは、目の前にあるケーキを、夏苗がしたようにフォークで切り分けて、夏苗の口元に運ぶ。夏苗は抵抗なく口を開けてケーキを食べた。
「大丈夫よ、悪魔の王。“あなたに”愛されし子は、わたしがきちんと見ておくわ」
いつも夏苗に付けている忠実な従者の子も悪戯好きの子も花に憧れる子も、今日は都合がつかないのでしょう。だから、わざわざ様子を見に来たのね。何があろうと、わたしがそばにいるというのに。
「……そうだな。精霊の王に任せておくか。俺の、后を」
「ちょ、ジル、恥ずかしいってば……」
自分のものだとことさらに主張した悪魔の王に、夏苗は恥じらって頬を染めた。ああ、可愛らしい。そして、たくさん愛されるといい。わたしにも、悪魔の王にも、他の子たちにも、夏苗の身に受け止められぬほど愛されるといい。愛されていないなどと、もう二度と思うことのないように。
とはいえ、悪魔の王からの愛情だけで充分そうだけれどね。
私は悪魔の王にじゃれつく夏苗に笑いながら、彼女の手作りのケーキを味わうことに専念するのだった。