141.魔王の愛
半透明のジラルダークに抱かれて降り立ったのは、あの日、この世界に初めて来たときの丘だった。ジラルダークは私を丁寧に地面に下ろすと、ふわりと宙に浮く。青白く光る彼は、ひと際強い風に吹かれてキラキラと光になって消えていった。
思わずジラルダークに手を伸ばすと、目の前に透明じゃないジラルダークが現れる。伸ばしていた手を即座に掴まれた。
「ジ……」
名前を呼ぶ前に、思い切り手を引かれて、そのまま強く抱き締められる。さっきとは違う、ジラルダーク本人の香りと温もりに、じわりと目頭が熱くなった。
「……ジル……」
「カナエ、守り切れずにすまなかった。怖かっただろう」
私を抱き締めるジラルダークの腕が震えている。私も、震える腕で彼の体を抱き締めた。強く縋りついて、ジラルダークの胸に顔を埋める。暖かい。よかった。もう、彼は血を流してない。ジラルダークは、生きていてくれた。
「ジル、ごめんね……、私……、私が、……私のせいで……」
「違う。お前の所為などではない。謝るのは俺の方だ。お前を、奪われるなど」
ジラルダークが、私に覆い被さるように抱き包んでくる。私は、彼の胸元から顔を離して、ジラルダークの肩に額を付けた。両腕で抱き締めていても、もっとジラルダークとくっついていないと不安だった。
「お前を守ると誓ったのに、お前を苦しめてしまった。泣かせまいと思うのに、お前にはつらい思いばかりを強いている」
「そんな……」
「だが、お前を手放すなど、考えることすら出来ん。我儘で、すまない」
ジラルダークの熱い息が、首筋にかかる。髪を撫でるように頬っぺたを擦り寄せて、ジラルダークは一度私の首筋から顔を上げた。私も、ジラルダークの肩から額を離して彼を見上げる。
「私だって、ジルと一緒にいたい。……ジルと一緒じゃなきゃ、やだ」
「ああ」
息を吐くように頷いて、ジラルダークは微笑んだ。ぎゅっと彼の背中に回した腕へ力を込めると、ジラルダークは目を細めて顔を近づけてくる。私も目を閉じて、彼を迎え入れた。重なる唇が、伝わる熱が嬉しくて、涙が溢れる。
「ジル……好き……ごめんね、大好き……」
啄むようなキスの合間に言うと、ジラルダークはこれ以上喋らせないとばかりに深く口を繋げてきた。もうすっかり慣れた、彼の舌の感触と熱に酔う。心臓が締め付けられるように痛くなるのも呼吸が苦しくなるのも、手放したくないほどに愛しいものだった。
泣きながらジラルダークの服を強く掴むと、ジラルダークは少しだけ唇を離す。ぺろりと、彼の舌が私の唇を舐めた。
「愛している。お前は、誰にも渡さない。俺だけのものだ」
「ジル……」
「お前は、ここで……、俺の中でだけ安心して泣けばいい。好きなだけ俺に甘えるといい。俺が必ず、お前の涙を拭おう」
言いながら微笑んで、ジラルダークが触れるだけのキスをくれる。ああ、もう。この魔王様ってば、もう。
「どこへ連れ去られようと、例え倒れようと、必ず迎えに行く。安心して、俺の元へ帰るといい」
自信満々で笑うジラルダークに、私は頷いた。この人だったらきっと、どこにいたって、どこへ連れ去られたって、例えおふざけで逃げてみたって捕まえられるに違いない。それが嬉しくて、心の底から安心した。
「魔王様の癖に、過保護、なんだから……」
笑い返すと、ジラルダークは私を抱き上げてくる。いつものように彼の肩に腕を回して、首筋に顔を埋めた。溢れる涙が止まらない。
「でももう、あんな無茶しないでね……」
「善処しよう」
微笑んで頷くジラルダークに、私は彼の肩から顔を上げて頬を膨らませる。もう、あんな全身が冷えるような思いはごめんだ。神様からの襲撃なんて滅多にあることじゃない、というか、そんな頻繁にあってたまるかってことだけど、それでも、もう嫌だ。
「そうね、愛されし子。今度は、悪魔の王が傷付く前に、どこかへ吹き飛ばしてしまえばいいのよ。そうしたら、無茶はできないわ」
ふわりと香った花の匂いに視線を向けると、メイヴがにっこり笑って浮いている。
「メイヴ!」
無事だったんだ!よかった!そう思ってジラルダークの肩から腕を離してメイヴに手を伸ばすと、あれ、何でかメイヴから距離が出来た。ジラルダークを見れば、背中に羽を生やして宙に浮かんでいる。
「ちょ、ジル!?」
「狭量な子ね。ようやく取り戻せた愛されし子を独り占めにしたいのよ」
くすくすと笑うメイヴを、ジラルダークはむすっと睨んだ。分かっているなら出てくるなとでも言いたげだ。
「いたわ、あそこよ!」
「全く、世話の焼ける馬鹿魔王ですね……」
「手前ェ、このクソ魔王!何も言わずにいなくなる奴があるか!でござる!」
「カナエ様!ああ、ご無事で……っ!」
今度は丘の向こうから聞き慣れた騒がしい声が聞こえてくる。領主さんたちや補佐官の人、それに魔神さんたちまで走ってきていた。ジラルダークはそれからも逃げるように更に宙へ浮いて遠ざかる。
え、ナニコレ。ワガママ魔王様発動ですか?さすがにみんな心配してるだろうし、逃げるのは良くないんじゃないですかね?
「万一の時は俺の代わりを頼むと、トパッティオに言った」
むすっと答える魔王様に、私は目を白黒させた。いやいやいや!言った、じゃなくてですよ!しかも、魔王様無事じゃないですか!何、あわよくば魔王業をトパッティオさんに譲ろうとしてるんですか!
「万に一つもなかったでしょう、クソ魔王陛下」
聞こえたらしい、トパッティオさんがこめかみをひくつかせながらこっちを見上げている。大介くんもボータレイさんも、魔王様のワガママに呆れたように笑ってこっちを見ていた。
「しょうがない魔王様ね。少しの間なら、ティオが頑張ってくれるんじゃないの?」
「巻き込まれるのは勘弁でござる。とっととジャパンに帰るでござるよ」
「許すとでも思いまして?……こうなれば……」
諦めモードのボータレイさんと大介くんに、エミリエンヌが何かを呟きながら首を振る。それから、可愛らしく小首を傾げて、エミリエンヌが涙目で私を見てきた。
「カナエ様。カナエ様がいなくなって、エミリはとっても寂しかったですわ。どうか抱き締めてくださいまし」
「!」
エミリエンヌが抱き締めてほしいって?!しかも泣いてる!あんなに小さい子を泣かせるなんて、ダメ!絶対!
「降りよう!ジル、早く!みんな心配してくれてるんだし、エミリが泣いちゃう!」
「ぐっ……!」
私の言葉に、ジラルダークは怯んだように顎を引く。それから、早く早くと急かす私にたっぷり十秒ほど迷った後、ジラルダークはゆっくりと下降した。着地と同時に、エミリエンヌが駆け寄ってくる。もちろん、私は両手を広げて受け止めた。
「エミリ!」
ぎゅっと抱き締めると、エミリエンヌは微笑んで私の胸元に頬を擦り寄せる。可愛い。うん、幼女可愛い。
「カナエ様がご無事でいらして、エミリはとても嬉しいですわ」
「捕まえられて嬉しい、の間違いだろう」
不服そうに言うジラルダークは、もう既にトパッティオさんに捕まっていた。肩をがっちりと掴まれてる。みしみしと音が聞こえてきそうなくらいだ。
「ええ勿論逃がすわけがないでしょう、大魔王陛下。カナエさんが無事に戻ってきたらならば、もう容赦はしません」
トパッティオさんの眼鏡が、ぎらりと輝く。体感的にはほんの数時間の出来事だったけれど、もしかして、随分と長くあっちにいたのだろうか。不思議に思っていたら、トパッティオさんが答えてくれた。
「時間的には、カナエさんがいなくなって一週間程度ですよ。しかし、偉大なる魔王陛下にはご自身で壊された城の修繕、放置した日常業務、それに兵や民への説明も無くそのまま放置されております」
「ひえ」
トパッティオさんが笑顔のままに言う。いや、笑顔が怖い。ていうか、魔王様、お城、壊したの……?こう、古式ゆかしいニートの必殺技、壁ドン床ドンで壁とか床に穴開けちゃってたとかそういう……?
「……少し、城壁に穴が開いたくらいだろう」
開けちゃってたー!しかも多分これ、少しで済まないレベルだ!魔王様が斜め下向いてるのは、大体過少申告してる時だ!
胸元のエミリエンヌを抱き締めなおすと、彼女はにっこり笑って私を見上げる。可愛らしい笑みに、でも、状況が状況だからかあんまり癒されない。
「カナエ様は、私たちと一緒に参りましょう。カナエ様の大好きな魔王陛下は、とても御多忙でございますわ」
「え、あ、う……、で、でも、私も何か手伝いを……」
「全て、魔王陛下御自身が処理すべき事柄ですの。甘やかしてはいけませんわ」
ぴしゃりとエミリエンヌに言われてしまった。ジラルダークはジラルダークで、何か両手首を縄で縛られてる。そのせいなのか、羽も無くなってた。部下に縄で拘束されて連行される魔王陛下って、脱力するというか、途轍もなくシュールだな。お縄でござる、ってやかましいわ大介くん。
「ほら、私の次は、ベーゼアを慰めてあげてくださいまし。カナエ様のお仕事は、我々魔神を安心させることですのよ」
半笑いでジラルダークを見ていたら、エミリエンヌはつんつんと小さな手で頬っぺたを突いてくる。促されて魔神さんたちがいる方を見たら、ベーゼアが周りの魔神さんに心配されるくらいに号泣していた。ちょ、どうしたの、ベーゼア?!
慌ててエミリエンヌと一緒に駆け寄るとベーゼアは、ご無事で本当にようございました、と繰り返しながら泣いてる。美人さんに号泣されるとか、罪悪感がやばい。私は顔を覆って泣いているベーゼアの肩を抱き締めた。
「心配かけてごめんね、私は大丈夫だよ、ベーゼア」
声をかけると、ベーゼアが弾かれたように顔を上げる。と同時に、がっしりと抱き締められた。どことは言わないけど豊満な感触に、内心でこれは正義だと頷いておく。
「カナエ様っ……、ああ、カナエ様、本当に、ほんとうに、ようございました……!」
こんなにぐしゃぐしゃになったベーゼアを見たことがない。いつだってベーゼアはしっかりした美人さんで、ちょっと可愛らしいところがあるお姉さんだったのに。うっかりもらい泣きしながら、私はベーゼアの肩に顔を埋めた。
「もう大丈夫だよ。ちゃんと帰ってきたよ」
私の言葉に、ベーゼアは涙ながらに何度も頷く。おかえりなさいませ、と震えた声で言われて、私は目を閉じて微笑んだ。
「うん、ただいま」
帰ってこれたんだ。私は、私の大好きな世界に、帰ってくることができたんだ。ありがとう、魔王様。貴方のお陰で、私はまた、安心して笑っていられるよ。
そう思って、悪魔に囲まれてお説教されちゃって、大変不服そうな顔をしているジラルダークに私は微笑んだ。