140.死神の愛
【モート】
彼女に出会ったのは、武の神であるタケルが下界に降りている時だった。まだ天界に不慣れだから様子を見ておいてほしいと頼まれて、私は彼女の私室を訪ねたのだ。
「タケルの友達?……タケルにも友達がいたんだ……」
タケルの友人だと名乗ると、彼女は意外そうに目を丸くしていた。メグ、と名付けられた彼女は、どこか儚げに微笑んでみせる。
以前、タケルの対であったメグと、どこか雰囲気が似ている女神だ。メグは神々の争いの中で消失してしまったが……、生まれ変わりだろうか。
そう思いながらメグを見ていたら、どうも基本的な業務ですら覚束ないようだった。人から力を吸って、戻す。それぞれが世界の均衡を保つ役割を担っているのだが、力を行使することを迷っているらしい。
「……肩の力を抜くといい。感覚で、力を採取できる世界が分かるはずだ」
「そう、なのかな?」
「一つの世界ではなく、複数の世界を順に見ていくと分かりやすい」
手本として水鏡を操ってみせると、またもメグは目を丸くした。どうやってやったのとの問いに、詳しく使い方を説明する。というか、タケルは何をしていたのか。これでは、彼女に何も教えていないに等しいではないか。
「ありがとう、モート。力の使い方、何となく分かったよ」
「ああ……、ならばよかった」
頷くと、メグはおかしそうに口元を隠して笑う。くすぐるような笑い声に、私は胸の内が暖かくなった。
「ふふっ、タケルってば、鏡見てりゃ分かるだろって。さすがに神様初心者だもん、分かんないよ」
「それはそうだろう。……よければ、私がタケルの代わりに教えようか」
最初は、日常にも不自由していそうな彼女に同情しただけだった。そう、思っていた。私の提案に、彼女が嬉しそうに笑顔を咲かせるまでは。
「本当?助かる、ありがとう」
メグは嬉しそうに笑いながら、私の顔を覗き込む。
「愛の神が、武の神と死の神に色々教えてもらってたらおかしいかな?」
世界の均衡を保つ、私の司るものは、死だ。安らかな眠りを与え、命を刈り取る。確かに、メグとは相容れない力だろう。彼女の力は、人々から感謝されこそすれ、恐れられることなどないものだ。
「……いや、……別に、構わないだろう」
「かな?よかった!」
それが、少し羨ましかった。それ以上に、安心したように笑う彼女を手放したくなかった。タケルも同じだろう。囲い込むあまり、彼女に接触しようという神は少ない。さすがに、消えた神と同名なのはやめた方がいいのではないかと天の神に進言する者もいたが、メグ自身が然程、自身の名を気にしていないらしく聞き入れられなかった。まさか、メグ自身が名の由来を知らないとは、思いもせずに。
「ねぇモート、もしよかったら私の力の使い方が間違ってないか、たまに確認してもらえないかな?」
彼女が神としての生活に少しずつ慣れてきた頃、そんな提案を受けた。構わないと答えると、また、彼女は私に向けて笑ってくれる。
「愛を与えるのはいいんだけど……、こう、愛を自分に向けるように力を使うのは、何か嫌だね」
水鏡に指先を向けながら、メグが言う。私は水鏡から視線を上げて、メグの顔を見た。彼女は、張り付けた微笑みのまま水鏡の中の世界を見ている。
「そう、なのか?」
「元々、愛されたことなんてなかったから。力を使わないと貰えないものなのかなぁって、……ちょっとね」
神は、自身の持つものを分け与えるわけではない。そんなことをしていたら、すぐに擦り減って無くなってしまう。だからこそ、奪い与える力を持つのだ。余っている場所からは溢れた分を奪い、不足している場所へは奪った分を与える。調整役が、神だ。
「……神の力とは、奪い与えるものだからな」
「うん、そうだね」
「対の神の場合は少々異なるが……」
タケルがそうだ。タケルは、奪う側の神だ。彼の吸い上げた武力は、対の神が分け与えなければ膨れ上がるばかりになる。天の神が対を探しているが、もう暫くかかるという。時の神も付きっきりになっているから、それだけ難航しているのだろう。だが、地の神との争いではかなりの数の神を失った。タケルの対は、優先順位も高くはなさそうだ。
私に協力できることはないだろうか。早く見つけて、タケルの元からメグを解放してやりたい。私が気紛れに、死の運命にあった人を拾い上げて落としているあの世界に、神の候補がいるのかもしれない。だとすれば、天の神にはあの世界を知らせた方がいいだろうか。ひた隠しにしてきたが、見つかれば消されてしまうだろうか。
「うーん、神様って難しい」
水鏡から手を離して、メグが首を振った。思考の海に落ちていた私は、曖昧に微笑んで彼女を見る。
「すぐに慣れる」
「うん……、そうだね」
微笑んだメグに、私も微笑み返した。メグはきっと、いい神になる。根拠もなく、そう思っていた。
────けれど、メグは日に日にやつれていった。
天の神が、タケルをメグから引き離そうとしても、タケルは頑なにメグを手離さなかった。私も、出来る限りメグに会いに行くようにした。話も聞くようにして、それでも、メグはただただ力無く微笑むだけだった。
どうにかしないといけない。タケルから引き離す事が出来ないのなら、もっと、他の何か、メグの気が晴れるような何かを……。
模索していたら、天の神から声がかかった。
「このままだと、メグちゃんは消滅してしまうかもしれないね」
天の神に呼び出されて、私はメグについての話を聞く。もう、そこまでメグの精神が消耗していたのかと、私は目を見開いた。
「メグちゃんには可哀想なことをしてしまったよ。対を失ったタケルちゃんが、まさかあそこまで執着するだなんてね」
「……はい」
頷いた私に、天の神は疲れたように息を吐く。手元の水鏡をいくつか撫でて、それぞれに世界を映し出した。
「僕はねぇ、モトちゃん。もうこれ以上、地の神の元に僕の子を渡すつもりはないんだ」
「では、……メグを、人に戻してはいかがですか」
私の言葉に、天の神は意図を探るように目を細める。タケルの手が届きにくい世界を一つ、私は持っている。
「私の、世界ならば。……おいそれと、見つけられない」
「……黙認はしていたけれど、君から言い出してくれるなんてね。そうだね、そうしよう。あそこなら、タケルちゃんの手は届きにくい」
「もしもまた……、また、メグがこちらに戻りたいと願った時にも、掬い上げやすいでしょう」
そう言うと、天の神は苦笑いを浮かべた。まるで、そんな未来は来ないとでも言いたげだ。
「今は、メグちゃんの心の安全を第一に考えようね。タケルちゃんは、今の彼女にとって毒だ」
「……はい」
「君の世界には、僕は目を瞑ろう。それと、メグちゃんからここでの記憶を“死なせて”あげるといい。人としての野々村夏苗に戻して、君の世界に送ってあげなさい。タケルちゃんはどこか下界にでも送り込んで、彼女から離しておこう」
頷いて、私はメグの元に急いだ。彼女を幸せにできるという思いと、自分の元から離さなければならないという思いと、それでも私の手の内にいるのだという思いが綯い交ぜになって、どんな表情であればいいか分からなかった。
メグに下界に降りるかと話すと、彼女は必死な形相で頷いた。これほどまでに追い詰めてしまっていたのかと、申し訳ない気持ちになる。
送り込んだ先、メグ……、いや、夏苗は、とても幸せそうに生きていた。見たこともない笑顔を浮かべる彼女に、私は思わず水鏡へと手を伸ばす。どうして、彼女はここでそんな笑顔を見せてくれなかったのだろう。
下界で魔王と呼ばれている男に保護された夏苗は、一目見て分かるほどに幸せそうに笑っていた。私では、彼女を幸せにできなかったのだと、そう痛感した。何がいけなかった?何が間違っていた?問いかけようにも、もう、彼女は私のそばにはいなかった。
きっと夏苗は、この世界に人として生きることが幸福なのだろう。けれど、もしかしたら……。もしかしたら、今の夏苗であれば、愛の神としてここへ連れ戻しても大丈夫なのではないか。ここでも、幸せに笑ってくれるのではないか。私のそばでまた、笑ってくれるのではないか。タケルに私の世界を見つけられて、私は逡巡した。
どちらともつかない馬鹿な考えは、余計に夏苗を苦しめるだけの結果に終わる。
ジラルダークのそばでしか生きたくない、と断言した彼女に、私は人知れず肩を落とした。私では、夏苗を幸せにできない。私のそばに、夏苗の幸せはない。それでも、私の守る世界で彼女が幸せであるならば。それを、私が守れるならば。
ああ、それでもいいと、私は私を納得させた。彼女が花咲くように笑うならば、その場所を守れるならば、これ以上のことはない。死を司る私でも、誰かを幸せにできるのだと、奇妙な喜びもあった。
タケルを捻じ伏せて、仲睦まじく帰っていく二人を見送って、私は天の神のように息を吐く。
水鏡の中には、理不尽な死の運命にあった人々を掬い上げた世界が映し出されていた。世界の数の調整に、死ななくてもいいじゃないかと思った人々を集めた世界だ。この世界の中では、私の手の届く範囲で掬い上げた人々を、夏苗の選んだ男が保護している。元々存在していた人々と、私が掬い上げた人々と、共存は叶わないかと思っていた世界も、最近では少しずつ変わってきている。これは、私の力の及ぶ範囲ではない。彼女の選んだ男が、成し遂げた平和だ。
「……敵うはずもない、か」
呟いて、自嘲する。
直後にある死の運命を刈り取った彼らは、それでも、運命以外の死があれば散ってしまう。まさか、ここまで力を付けるとは思っていなかった。成し遂げたのは、夏苗の愛する男だ。そう思うと、自然と諦めもついた。
「愛している。どうか幸せに、……夏苗」
君の幸せを、私は願おう。私では君を幸せにすることができなかった。だから、君が幸せであれることを願おう。君の幸福を守ろう。死神である私にできる、最大限の愛を持って。
私は水鏡の中の彼女を撫でて、目を閉じた。