139.后の願い
私の肩に手を置いて膝をついていたのは、……青白く光る半透明のジラルダークだった。え、何この魔王様、幽霊?いやでも、私に触ってきてるし……?
『精霊の王に身を借りた。肉体まではここへ来れなかったからな』
ちょっと不服そうに言うジラルダークに、私は、込み上げる笑いが堪えられない。そう。そうだ。私の大好きな魔王様は、こういう人だった。規格外で、ちょっと天然で、誰よりも強くて頼もしい、世界一の魔王様なんだ。
「来てくれてありがとう、魔王様」
『我が后の為であれば、何処へでも』
自信満々に笑う彼に、私も涙を拭って笑う。やっぱり、彼がいないとだめだ。私はもう、ジラルダークがいないと、安心して笑えないんだ。
「しつこい野郎だねェ……!今度こそ、刈り取ってやるぞ!」
がりがりと床を掻いて、タケルが吼える。何とか立ち上がろうとしてるみたいだけど、天の神が抑えているようだ。天の神はタケルとジラルダークを見比べて、また疲れたように溜め息を吐く。
「そんなことはさせないけど、そっちも臨戦態勢だしね。もう一回ぶつかってご覧。ああ、大丈夫。武の神を堕とす気はないから、スポーツでも観戦してると思えばいいよ、夏苗ちゃん」
座り込んでいた私をひょいと抱き上げて、天の神が部屋の隅に移動した。普段であれば文句の一つも言いそうなものを、ジラルダークはタケルを睨みつけたままだった。それだけ、警戒してるんだろう。
血塗られたあの光景を思い出して、私は体を震わせた。ジル、と彼を呼ぶと、ジラルダークは視線だけ私に向けて微笑む。
『一緒に帰ろう、カナエ』
その言葉に、私は頷いた。けれど、それでも怖くなる。震える私を抱えた天の神が、私の耳に口を寄せてこっそりと囁いた。
「君の交わした約束は、神の誓約だったね。君が彼を思う限り、大丈夫、何も心配はいらないよ」
神の誓約……?何だろうと首を傾げると、天の神は悪戯に笑ってウインクしてみせた。
「迷惑をかけてしまった君たちへ、ちょっとした鬱憤晴らしだね。天の神が言うんだ、信じなさい」
父親のような絶対性を持って、天の神が言う。私はただ頷いて、ジラルダークへ視線を向けた。ジラルダークは半透明のまま、ふわりと宙に浮いている。メイヴみたいだなって思って、そういえば体はメイヴに借りているんだったと思い出した。
「タケルちゃん、ジラルダークちゃんに負けたら、メグちゃんを諦めるんだよ」
天の神はそう言いながら、パチンと手を鳴らす。私を抱えたまま、器用な人だ。
「俺ァ、武の神だぞ!負けるはずがねェ!待ってろよメグ、今すぐにコイツを叩きのめしてお前を元に戻してやるからなァ!」
瞬間、タケルがものすごい勢いで立ち上がって、ジラルダークに突っ込んでいく。熊手のように広げた指が、ジラルダークを引き裂くように振り下ろされた。思わず息を飲んで、けれど、ジラルダークは無傷でタケルの背後に立っている。
『言っただろう。子は巣立つものだ。巣立った子が、親を同等の存在とみるかどうかは子の自由だ。親がどうしようもない屑ならば、尚更だと』
「貴様ァ!」
『親を自称するのであれば、今ここにいるカナエも見てやれ。昨日の彼女と、今日の彼女と、明日の彼女と、それは全て同じであって、全て違う存在だ。こうあってほしいと押し付ける相手を、子とは呼ばない』
「戯言を!」
タケルが我武者羅に腕を振る。風を切り裂く音が鋭く響いた。ジラルダークは紙一重でタケルの攻撃を避けている。
「子が道を違えそうになっているまま、放っておくことのどこが愛情か!手を引いてやらねば、子が安寧と生きられねェ!親は、子が幸せにあれるように全力を尽くすもんだ!俺ァ、メグを、自分の子を二度と捨てるものか!」
その言葉に、私は目を見開いた。どこか深いところで、ああ、と納得する。彼の追っていたものは自身の子供だったのか、と。
ジラルダークは目を細めて、迫りくるタケルを見ている。振りあげられたタケルの手に、私は思わず叫んだ。
「やめて!ジルを傷つけないで!」
同時に、甲高い金属音が響く。耳をつんざくような音に、私は思わず目をきつく瞑った。音が止んで恐る恐る目を開くと、タケルが呆然と私を見ている。
「……メグ……?」
タケルの手は、ジラルダークに届くことはなかった。その直前で、不自然に止まっている。まるで、ジラルダークが透明な鎧でも着ているかのようだ。
「ほらね、言ったでしょう。君の思いが彼の元にある限り、タケルちゃんは何もできないんだよ」
天の神が、得意げに微笑む。ふと思い出したのは、私がここへ連れ去られる直前、タケルと交わした約束だった。ここへ連れて行かれる代わりに、私の大切な人を傷つけないでほしいと、私はタケルに願ったのだ。
「神の誓約は、人のそれよりも重い。軽々しく行なうものじゃないんだよ。……タケルちゃんは、君にとっての大切な人が自分だと疑わなかったようだけどね」
だから、タケルは私に約束してくれたのか。申し訳ないけれど、今の私にとって、大切なのはジラルダークだ。私の意見をまるで無視して強引に意に添わせようとする人より、私自身をそのまま受け入れた上で、どうにかして振り向いてもらおうと努力してくれた人の方が大切に決まっている。
私は天の神の腕の中から降りて、自分の足で立った。唖然としているタケルをしっかりと見据えて、私は口を開く。
「ごめんなさい。今の私は、何よりもジラルダークが大切なの」
唯一無二の愛情を与えてくれる人。愛情を示すことが苦手な私を、包み込んで愛してくれる人。私からの不器用な愛情を、まるで宝物のように受け取ってくれる人。
私にとって、ジラルダーク以上の人はいない。
私の言葉に、タケルが信じられないとばかりに首を振った。攻撃してこないジラルダークと拒絶する私の顔を見比べて、頬を引き攣らせる。
「何を、血迷ってるんだ。お前は、神なんだぞ?圧倒的な力と地位、それだけじゃない、お前が望む何もかもが手に入るんだぞ?こんな、少し強いだけの人間に、何を惑わされてんだィ?」
「私は、神に戻りたいとも、記憶を取り戻したいとも思わない。ここにいたいとも思わない。私は、ジラルダークと生きていたい。望むのは、それだけです」
タケルは、私の言葉に何度も首を振った。信じたくないと言わんばかりに、不自然な笑みを浮かべて私に歩み寄ってくる。ふらふらとした足取りは、けれど、ジラルダークによって止められた。
『お前の相手は俺だろう。負ければ、カナエに二度と近づくな』
「き、さまァ!人間風情が、俺にでかい口を叩くんじゃねェ!」
掴まれた腕を振り解いて、タケルが激昂する。振り返り様の攻撃を、ジラルダークはひらりと宙に浮いて避けた。そのまま、ジラルダークはタケルの顔を蹴り飛ばす。防ぐこともできずにまともに喰らったタケルは、派手な音を立てて壁に叩きつけられた。即座に体勢を立て直して、タケルはジラルダークに殴りかかる。
目で追うのもやっとの戦い……というか、ほとんど喧嘩のようなものだった。ジラルダークは剣を抜きもしなければ、魔法を使うこともない。殴って、蹴って、タケルを叩きのめしていた。タケルも、攻撃が通らないと分かっていながらジラルダークへ何度も向かう。
やがて、力尽きたのはタケルの方だった。
『神も人もない。いい加減認めろ。カナエは、お前の望む存在ではない』
「っ……!」
ずるずると床に崩れ落ちたタケルは、拳を握り締めるとそのまま動かなくなった。ジラルダークは静かにそういった後、私の方を向く。半透明で青白いけど、彼の赤い瞳はそのままだった。
「ジル……」
思わず彼の名前を呼ぶと、ジラルダークはいつものようにとろけるような笑顔を向けてくれる。
『カナエ、帰ろう』
伸ばされた手に、私は駆け寄って縋りついた。引き寄せられて、暖かい腕に包まれる。花の香りはメイヴのものだけれど、この温もりはジラルダークのものだ。ほっとして、私は彼の胸元に頬を擦り寄せる。
「モトちゃん、二人を送ってあげなさい。今回のお詫びに、また君の世界には目を瞑っておいてあげるから」
「……はい」
『それについて、一つ』
ジラルダークは、天の神とモートを見て言う。
『俺たちはお前たちにとってどのような扱いであるのか、答える気はあるか?』
ジラルダークの質問に、天の神が苦笑いを浮かべた。モートは、よく分からない。俯きがちに、表情を隠していた。
「これから先も、君が築いた国の在り方を変えないでもらえると助かるかな、とだけ答えようか」
『……そうか。分かった。俺は愛しい妻と共に、これから先も俺の国へ来た同胞を守る魔王のままでいよう』
「話の早い魔王様で何よりだ。さあ、帰るといい。迷惑をかけてごめんね、夏苗ちゃん」
天の神が、ジラルダークの腕の中にいる私に微笑む。私はうまく笑えずに、ただ首を振った。ジラルダークの腕に力が籠る。それだけで、ひどく安心した。
それから、私たちはモートの使っている水鏡というものがある場所へ案内される。水鏡というのは、人の世界を覗き見たり、人の世に降りたりするのに使うものらしい。モートが何かを水鏡に流し入れると、ふんわりと淡く光りだした。
「ここが、君たちの世界だ。……気を付けて、帰るといい」
モートに見送られながら、私たちは水鏡に触れる。引き込まれるような感覚に、私は思わず目を瞑った。ジラルダークに縋りついて、揺れるような奇妙な振動を耐える。
「……どうか、幸せに、夏苗」
最後に、そんなモートの声を聞いた気がした。