137.いのり
神々の世界に連れてこられても、私の記憶は戻らなかった。タケルはそれでもいいと、私をどこかの一室に押し込んでどこかへ行ってしまう。モートはタケルと私を見比べて、タケルの方についていってしまった。
ジラルダークは大丈夫だっただろうか。あんなに血を流して、意識を失わされて……。もしも、万が一の時には、私もすぐに後を追おう。記憶はないけれど、私のせいで彼を巻き込んでしまったんだ。私だけが生きてなんていられない。
「愛されし子、大丈夫よ、悪魔の王は助かったわ。彼の仲間の子たちも、みんな無事よ」
ふわりと、花の匂いに抱き締められた。
「メイヴ……」
ついてきてくれたのか。メイヴの香りに、凍りついていた表情が緩んだ。自然と溢れてきた涙を、メイヴの細い指が拭う。私は思わず、メイヴを抱き締めた。彼女は当然のことのように、私を抱き締め返してくれる。メイヴの温もりに、どんどん涙が流れていった。
「メイヴ、私……、わたしっ……」
私のせいで、みんな傷つけてしまった。私がいなければ、ジラルダークがあんなにも傷付くことはなかったのに。私の、せいで。
「違うわ。違うのよ、愛されし子。あなたのせいじゃないわ」
「でも、私が普通の人間だったら、こんなことにはっ……!」
私は、ただで普通で平凡な野々村夏苗だと思っていた。なのに、何なんだ。神様とか、そんなものになっていた記憶はない。けれど、彼らは私を神だという。ジラルダークやみんなを傷つけて……殺そうとしてまで、連れていこうとしていた。記憶を失くす前の私は、どれほど酷いことを彼らにしたのだろうか。
「……ねえ、愛されし子。わたしの愛しい子。これから先、わたしの姿が見えなくても、何も心配してはいけないわ。わたしは、愛されし子が無事であるならば何度でも蘇れるの。あなたは、あなたの心を守ることだけを考えてね」
「メイヴ……?」
首を傾げると、メイヴは白い髪を揺らして微笑んだ。それから、幼い子にするように、私の頭を撫でてくれる。
「わたしは、あなたを守る懸け橋となる。大丈夫よ、きっと、愛されし子はあるべき場所に戻れる。戻してみせる」
メイヴの体が青白く光った。人の形が、ぼんやりと曖昧になっていく。
「め、メイヴ……!」
「わたしはあなたの精霊。あなたの願いと幸せを、何よりも叶える存在よ。……愛しているわ、夏苗」
「メイヴ、待って、メイヴ!」
大きな青白い玉になったメイヴは、私の頬を撫でるように過ぎて……消えてしまった。部屋を見回しても、メイヴの名前を呼んでも反応はない。私はただ、ぽつりと残された部屋で呆然としていた。
「どうして……、メイヴまで……、……メイヴ…………」
メイヴの名前を何度呼んでも、反応はなかった。花の匂いも、綺麗な光も、嬉しそうな笑顔も、私のところには残らない。私と契約をしたはずの精霊なのに、私の声に応えてくれない。それは、つまり……。
受け入れがたくて、私は何度も何度もメイヴの名を呼んでいた。もしかしたらと、ジラルダークの名前も呼んでみた。反応は、当然の如く、ない。ベーゼアも、エミリエンヌも、フェンデルさんも、トゥオモさんも、グステルフさんも、ナッジョさんも、イネスさんも、ノエも、ミスカも、アロイジアさんも、ダニエラさんも、ヴラチスラフさんも、大介くんも、ボータレイさんも、トパッティオさんも、カルロッタさんも、リータさんも、誰も、返事をくれない。
どのくらいみんなを呼んでいただろうか。喉が枯れて、私はふと気付いた。
誰も、私の元に残らない。だって、私は……。
────私は、誰にも愛されないからこそ、神になった。
「うっ……」
聞こえた囁きと共に痛み出したこめかみを押さえて、私は体を屈める。何だろう、何か、無理矢理頭に何かを押し込まれてるような不快感があった。聞き覚えのある声は、自分の声だ。声を聞いちゃいけない。そう、何故か思った。
私は堪らずに膝をついて、頭を抱え込む。吐きたくても吐けない嫌な感覚に、私は歯を食いしばって呻いた。
「彼女、拒絶してるじゃないの、タケルちゃん」
「んなワケあるかィ。なァ、記憶と力を戻してほしいだろ、メグ?」
ぐらつく視界を持ち上げると、いつの間にか知らないおじさんとタケルがいる。モートが心配そうに私を見ていた。
「やり方が悪いんじゃねェのか?」
「あのねぇ、これでも僕、天の神よ?君たちを統べる存在よ?」
おじさんの声に、更に痛みが強くなる。愛されないと囁く自分の声に、私は何度も首を振った。
「いやっ……、や、めて……!」
息も絶え絶えにそう言うと、ふっと痛みが消える。私は深呼吸を繰り返しながら、三人を見上げた。タケルは、不思議そうに私を見下ろしている。
「人でいる時間が長すぎたのかも知れねェなァ。このままじゃあメグが可哀想だ。意識を刈り取って詰め込むかィ?早く、メグに力を戻してやらねぇと」
「んー、そういう問題じゃないね、コレ。メグちゃんの適性は無くなってるんじゃないのかな」
「はァ?」
タケルは意味が分からないとばかりに眉間に皺を寄せた。天の神、と自称していたおじさんが、私の手元に視線を向けて、納得したように頷く。
「メグちゃん、誰かと夫婦になったね?しかも……、ああ、なるほど。タケルちゃんが行く前に見ておけばよかった。これじゃあ無理だ。メグちゃんはもう、愛の神に戻れないよ」
「オイ、どういうことだ!俺ァ、きちんとメグをここへ連れてきたぞ!メグを戻せるんだろうが!」
食って掛かるタケルに、天の神はやれやれと肩を竦めた。今にも殴ってきそうな彼を、天の神は片手で制する。それだけで、タケルは動けなくなったようだ。悔しそうに天の神を睨んでいる。
「早めにタケルちゃんの半身と、別の愛の神を見つけないといけないねぇ。力だけの武の神は暴走しがちで敵わない」
「テメェ……!」
「ハイ、ちょっと黙ろうか。ごめんね、メグちゃん。……いや、夏苗ちゃんかな?苦しかったでしょう」
パチン、と天の神が手を鳴らすと、タケルは呻き声をあげて口を閉じた。いや、無理矢理口を閉じさせられた、って感じだ。天の神は私へ歩み寄ると、膝をついて私に目線を合わせてくる。
「もう、大丈夫、です……」
「本当にごめんね。モート、君は知っていたのかい?」
「……申し訳ありません。愛の神の条件を知らされておりませんでしたので」
モートの言葉に、天の神は疲れたように息を吐いた。どっちつかずで苦しめるのも大概にしなよ、と小さく呟く。どういうことだろう、とモートを見ていたら、遮るように笑みを浮かべた天の神が私を覗き込んできた。
「しかも、魂に精霊を宿してるね。精霊が全力で人である君の魂を守ってる。夏苗ちゃんは、神になることを完全に拒否してるわけだ」
天の神の言葉に、私はしっかりと頷く。おそらくはタケルだろう、息を飲む音が聞こえた。人の身には過ぎた願いなのかもしれない。けれど、私の望みは神になることなんかじゃない。
「私は、ただ、愛する人と平和に暮らしたい、だけです。神になんて、なりたくない」
ジラルダークと悪魔の仲間たちの中で、笑って、ふざけて、たまには真剣に、だけど楽しく暮らしていたい。そう望むのは、贅沢なのだろうか。不意に、天の神が手を伸ばしてきた。怖くて逃げようにも体が重くて、避けられない。
けれど、頭に添えられた手は暖かくて、私を気遣うように優しく撫でられた。何度か頭を撫でて、天の神は口を開く。
「……ねぇタケルちゃん。夏苗ちゃんをどうやって連れてきたの?同意じゃないでしょう、コレ。僕、言ったよね?メグちゃんが嫌がるなら無理にとは言わないって。どうしてこの子に、こんなつらい記憶が根付いてるの」
私の記憶を覗いたのだろうか。天の神が私から手を放してゆらりと立ち上がった。バチン、と天の神が手を鳴らすと、タケルが勢いよく床に伏せる。伏せるというよりも、叩きつけられた、と言った方がいいかもしれないぐらいだ。
「夏苗ちゃんの夫だよね。君が手にかけようとしたのは。君は、僕のところから堕ちて、地の神の方へ行きたいのかい?」
「メグは、記憶を失ってやがるんだ……、力も、記憶も、メグのモンだろう、が!俺ァ、メグを、守る……!」
床に伏せて尚、タケルは天の神を睨みつける。天の神は、何度目か知れない溜め息を吐いた。それから、天の神は私の方を向く。私じゃない何かを見るように目を細めてから、やれやれと頭を振った。
「精霊が手助けしてるのか、随分と強い旦那さんだね、夏苗ちゃん。殺気がここまで届いてくるなんて初めてだよ」
「え……?」
「名前はジラルダークちゃんかな。君の精霊が懸け橋になってるのか、君の耳飾りを媒介にして、ここを見ているよ」
「!」
ジラルダークが、見てる……?私の耳飾りを通して?じゃあ、ジラルダークはもう、起き上がっても大丈夫なの?
思わず手元に視線を落として、私は左手の薬指にある結婚指輪を胸元に抱き締める。ほっとして、視界がにじんだ。
「よかった……、無事だった、ジル……、ジル、ごめんなさい……、私のせいで、傷付けてしまって、ごめんなさい……」
声は届くのだろうか。いや、届かなくてもいい。彼が無事だったなら、それだけでいい。本当によかった。私のせいでジラルダークを傷つけてしまってごめんなさい。
「ちょっと待って、夏苗ちゃん。彼を傷つけたのはこの子であって、君じゃないよ。それから、君がそうして謝るたびに、殺気が洒落にならなくなってるからね」
どうやら、声も届いているらしい。本当は顔を見て謝りたいけど、きっと、彼の顔を見てしまったら泣いちゃってまともに謝れないだろう。
「ごめんなさい、ジル……、もう傷は大丈夫……?無理はしないで、お願い、私は大丈夫だから、……ジル」
もう二度と会えないと思っていた。もう二度と、彼に触れられないと思っていた。声も、聞けないかと。謝ることすらできないんだと、そう思っていたのに。
ジラルダークが私の耳飾りを介して見ているという。彼は無事で、やっぱり誰よりも強い、規格外の魔王様のままで。知ってしまったら、どんどん浅ましくなる。
もう一度、ジラルダークの顔が見たい。ジラルダークの手に触れたい。低くて優しい声で、甘やかしてほしい。硬いけれど暖かい指先で、私に触れてほしい。微笑んで抱き締めてほしい。
「会いたいよ、ジル……、こんなところにいたくない……、ジルのところに、帰りたい……」
指輪をつけた左手を抱えて、私は泣きながら願う。
「ジルと一緒に、生きたいよ……」
「ふ、ざけんな、メグ!お前ェは、俺のモンだろうがァ!」
タケルが床に伏せたまま激昂した。その迫力に肩を震わせると、背後からそっと触れる感触がある。庇うようにいた天の神が、タケルから視線を外して苦笑いを浮かべた。
「ようこそいらっしゃい、魔王様」
『我が后を取り戻しに来た』
聞こえたのは、この一年ですっかり聞き慣れてしまった低い声で。私は、まさかそんなと信じられない気持ちで後ろを振り向くのだった。