135.后の涙
第三者視点
ダイスケが気付いた時、彼は魔王の居城の一室にいた。神と名乗る男と対峙していた時は全身の骨が砕けたかと思ったが、その痛みもない。どうにか、助かったらしい。
「気が付きましたか」
「……どうなってんだ。ありゃ、何だ?夏苗ちゃんは無事か?ダークは?」
部屋に備え付けてあったソファには、トパッティオとボータレイがいた。ダイスケは質問をしながら、部屋を見回す。部屋には、ダイスケと同じようにカルロッタが寝かされていた。彼も、何とか生き残ったらしい。
「神だと、貴方も聞いたでしょう。ダークは無事です。別室に籠っていますよ。魔神も随分と消耗させられましたが、欠けた者はいません。最も重症だったのが、貴方とカルロッタの二人です」
トパッティオの言葉に、ダイスケは眉を寄せた。ボータレイへ視線を向けると、沈痛な面持ちで首を振られる。トパッティオの返答の中で意図的に省かれた人物は、一人だ。
「夏苗ちゃんは、どうなった」
「……連れ去られました」
ダイスケは、その答えにぎりりと歯を食いしばる。強く握り締めた拳から、じわりと血が滲んだ。
「ダークに聞く限り、カナエさんは自ら神の元へ向かったようです。……神に殺されかけていたダークを、庇うために」
「負けて無事なのか?ダークが?」
「禁句ですよ。今のダークには決して聞かれないように。今の彼は、もうただの魔王ではない」
唖然とするダイスケに、トパッティオが首を振る。ダイスケはトパッティオの言わんとするべきところを察して、短く頷いた。
ジラルダークは何よりもカナエを愛しんでいた。それこそ、魔王である己を犠牲にしかねないほどに、だ。分かっているからこそ、カナエだけが犠牲になった現状が信じられない。ジラルダークは、守り切れなかったのか。そして、カナエに庇われ、無様に生き延びたのか。あれほど大切に守っていた、愛しい女を犠牲にして。
「そりゃ、そうだよな……。情けなくて堪らねぇだろうさ」
同じ立場に置かれたとしたら、気が狂うだろう。自分を殺してやりたくてたまらないだろう。何百年も生きたのだ。一人の女も守れずに、何の為に生き永らえてきたのか。何の為の力か。だが、自分を殺すことは許されない。自分を殺してしまえば、カナエの願いに反するからだ。生きていてほしいからと己を投げ出した、カナエの願いを無碍にすることは出来ない。それが彼女の最後の願いであるのだから、尚更。
「破壊衝動に駆られる彼を止めるのには苦労しました。今は、どうにか落ち着いて、自室に籠らせていますが」
「カナエちゃん、ホントに、馬鹿な子なんだから……」
ボータレイが、俯き加減に呟いた。全くだとダイスケも頷く。ダイスケは握っていた拳を解くと、ベットから立ち上がった。血塗れになっていた服は着せ替えられている。久々に纏う魔王の側近としての黒服は、笑えるくらいに自身に馴染んでいた。
「おい、狸寝入りしてんなよ。起きろオッサン」
隣のベッドに眠るカルロッタを見ると、彼は既に目を開けている。静かに会話を聞いていたらしい。カルロッタは体を起こして溜め息を吐いた。
「で、どうすんのよ?ボロ負けよ、俺ら」
「ひっさびさに大敗したな。オレの愛刀も折られちまった」
体の具合を確認するように背を伸ばして、ダイスケは無理矢理口元を吊り上げた。
「とりあえず、オレが魔王陛下の様子を見てくるからよ。ぶっ転がされたらよろしく頼むわ」
ダイスケの言葉に、三人は同じように溜め息を吐いた。呆れと苦笑いの混じったそれは、ダイスケが何度も浴びてきたものだ。
「ほどほどに頼みますよ」
「あんまり刺激しないで頂戴ね」
「オッサン、ダーク止めんの苦手なんだけどなぁ」
次々と投げられる文句に、ダイスケは肩を竦めて、今度はしっかりと笑ってみせる。大丈夫大丈夫、と軽い口調で言いながら、ダイスケはジラルダークの籠っているという部屋へと向かうのだった。
◆◇◆◇◆◇
ジラルダークは、照明を落とした寝室に籠りながら、カナエの残り香を感じていた。カナエを守るためならば、自らの命を捨てても惜しくないと、そう思っていた。だというのに、結果はどうだ。情けなくもカナエに守られ、むざむざと生き延びている。耐え難い苦痛だった。
意識を失った後、ジラルダークが気付いた時には血濡れた床の上に一人で転がっていた。カナエの姿も、神の姿もない。それどころか、タケルに貫かれたはずの傷もなくなっていた。精霊の王に呼びかけても、精霊の王も姿を現さない。長い夢でも見ていたかのような錯覚の後、猛烈に押し寄せてきたのは自身でも制御できない感情だった。
胸の内に重く溜まる澱を吐き出すように叫んで、彼女を呼んでも答える声はない。狂う感情のままに自身を壊すよう暴れて、気付けば古くからの友人たちに諭されていた。カナエはこんなことをしても喜ばない、彼女の最後の願いは何だったのかと、その言葉にジラルダークは気付きたくない事実を突き付けられたのだ。
自分は、カナエに助けられて生き延びたのだと。
「……カナエ……」
愛しい名を口にしても、はにかむような笑みは腕の中にない。寄り添う温もりはない。揃いの指輪に触れて、抱えるように拳を握り締めた。
「カナエ、カナエ……」
激しい後悔も、自責の念も、ジラルダークを慰めなどしない。失ったのは、自身が不甲斐ないせいだった。彼女の残り香を追って名を呼んでも、記憶を辿っても、虚しさだけが胸に残る。
ベッドに腰かけてジラルダークがひたすらにカナエの名を呼んでいると、不意に部屋の扉が開いた。ジラルダークは気にした様子もなく、指輪を抱いたままカナエの名を呼び続ける。
入室してきたのはダイスケだった。ダイスケは、憔悴しきったジラルダークの様子につらそうに顔を歪めたが、浮かべた表情を隠すように頭を振る。ベッドに腰かけているジラルダークの正面まで歩み寄って、ダイスケはジラルダークを見下ろした。
「ダーク」
呼びかけても、しかし、ジラルダークは顔を上げない。ひたすらに、記憶の中にあるカナエの姿を追っていた。カナエ、と何度も彼の唇が今はここにいない彼女の名前を呼ぶ。掠れ切った声に、ダイスケは歯を食いしばるとジラルダークの胸倉を掴んだ。
「……ダーク!」
あの日、ダイスケがこの世界に呼び出され、初めてジラルダークに会った時、ダイスケは胸倉を掴んだ手を放した。だが、今日は放すわけにはいかない。ダイスケはジラルダークの胸倉を掴み上げて、強引に彼を立たせた。
「しっかりしろよ、ジラルダーク!お前が奪い返さなきゃ、夏苗ちゃんは二度とここには帰ってこれねぇんだぞ!」
「…………」
虚ろに、ジラルダークの赤い瞳が泳ぐ。生気のない表情に気圧される前にと、ダイスケは腹に力を入れて叫んだ。
「呆けてる場合じゃねぇだろ!こんなお前の姿を知って、夏苗ちゃんが笑うとでも思ってんのか!カミサマだろうが何だろうが、お前の女だろう!」
ダイスケと同郷で、肉体的には少し年上で、精神的には同年代で、環境の変化も悪ふざけも度を過ぎた執着ですらも結局笑って許すお人好しで、馬鹿真面目な男を支えようと献身していた、彼女は。
彼女は、きっと、今もどこかで泣いているだろうに。
「お前がしっかりしねぇと、夏苗ちゃんが安心して笑ってらんねぇだろうが!自分の女、泣かせてんじゃねぇぞ、クソ魔王!」
ごつん、と鈍い音を立てて、ダイスケはジラルダークに頭突きした。これだけ言っても届かないならば、とダイスケが胸倉を掴んでいた手を放すと、ジラルダークは崩れ落ちることなく自身の足で立つ。次いでもう一度、ごつん、と鈍い音がダイスケの耳の奥で響いた。
「でっ!」
「……石頭が。誰に物を言っている」
反射的に額を押さえたダイスケに、低く響く声が返される。ダイスケは、喉の奥から込み上げてくるものを飲み下して、口元を吊り上げた。
「復活遅ぇんだよ」
「カナエを取り戻す。……カナエが泣くのは、俺の中だけでいい」
見下ろしてくる赤い目に、ダイスケはにんまりと笑う。
「そうこなくちゃな、クソ魔王陛下」
自分たちは悪魔であり魔王の忠実な部下なのだ。魔王が望むならば、神にだって勝ってみせる。数百年かけて仲間を作り、国を造り、平和を築いてきたのだ。何年かかろうが、必ず取り戻す。そして、甘いものでも食いながら呑気に笑って、魔王と悪魔と精霊に甘やかされて困っていればいいのだ。
誰も知らない。知られてはいけない。
あの日、魔王の后になると決意してみせた彼女に目を奪われたことを。彼女が幸せに暮らすために、放浪領主が職務以外の放浪を止めたことを。二人の暮らしてきた環境の差が大きいことを気にして、魔王にそれとなく付き従い助言していたことを。ツァンバイで神を仕留められていればと、誰よりも後悔していることを。
────お前の女じゃなければ、こんな御膳立てする前に奪ってやったのにな。
言ったら殺されるか、とダイスケは部屋を出ていくジラルダークの背を見送る。押さえた額の痛みは、しかし胸の内のそれよりはマシかと、彼の背を目で追いながらダイスケは苦笑いを浮かべるのだった。