133.夢の途中
※残酷な表現があります。ご注意ください。
明け方近く、突然鳴り響いた音に私は飛び起きた。何事かと思っていたら、どこでも電話から大介くんの叫び声が聞こえる。
『ダーク!今すぐに夏苗ちゃんを連れて逃げろ!ティオ、レイ!ダークと夏苗ちゃんを守れ!今度の敵は、神だ!』
大介くんの声に、ジラルダークはすぐさま彼の様子を確認したようだった。けれど、何かに気付いたように指先の光を収めて眉間に皺を寄せる。直後に、寝室の扉がノックされた。ジラルダークは寝巻の私をシーツで包んで立ち上がると、寝室の扉を開ける。気付けば、ジラルダークはもう、いつもの魔王様の恰好になっていた。
扉の外にいたのは、トパッティオさんとボータレイさんだ。二人とも、怖いくらいの無表情だった。ジラルダークは私を抱き上げたまま、二人に視線を向ける。
「トパッティオ、カルロッタの全権をお前に渡す」
「かしこまりました」
「ボータレイ、魔神と共にダイスケへの加勢へ向かえ。勝つ必要はない」
「は。御意に」
ジラルダークはそう指示を出すと、今度は抱えている私に視線を向けてきた。神様が敵、ってどういうことなの?神様に、私が狙われてる、ってこと?何で私が?一体、何が起こってるの?
「カナエ、精霊の王を呼んでくれ」
「う、うん……。メイヴ」
名前を呼ぶと、メイヴはすぐに花の香りを伴って現れた。彼女も、表情は硬い。ジラルダークは、抱えたままの私を、メイヴに差し出す。
「精霊の道へ、匿っていてくれ。……カナエを、頼む」
ジラルダークはメイヴにそう告げた。メイヴは何も言わず、ただ頷いて私を抱き締める。ジラルダークの手が、ゆっくりと私から離れていった。怖くなって、思わずジラルダークの手を掴んでしまう。手を握った私に彼は驚いたように目を見開いた後、とても穏やかな笑みを浮かべた。
「敵の力が分からん今、お前の安全を優先するだけだ。すぐに、迎えに行く」
「うん……、待ってる、からね?」
私の言葉に、ジラルダークは目を細めて微笑む。ああ、と頷く彼の低い声が、何故がとても胸を搔き乱した。繋いだ手が、震えてしまう。
「……行きましょう、愛されし子」
私を抱き締めたメイヴが、花びらを散らせながら言う。私は、ジラルダークの手を、……放せない。
「カナエ」
やさしく呼ばれて、ジラルダークがそっとキスをしてくれた。触れた唇が暖かくて、怖くなる。ジラルダークは私の手を解いて、一歩遠ざかった。
「行くんだ。……大丈夫、何も、心配はいらない」
「ジル!」
「お前は、俺が守る」
微笑む彼が、消えていく。私は空になった手で宙を掻いた。メイヴが、逃がさないと言わんばかりにきつく私を抱き締めてくる。張り裂けそうな思いが、胸の内に渦巻いた。ジル、と何度呼んでももう、彼には届かない。
何で?どうして?何が起こってるの?どうして、こんなに怖いの?頭の中を乱す疑問に、答えてくれる声はいなかった。
◆◇◆◇◆◇
【第三者視点】
ベーゼアは、歯を食いしばりながら地面を掻いた。神と名乗る男の元からダイスケとカルロッタを救出し、ジラルダークとカナエを守る。ボータレイに聞かされた任務だった。魔神の総力を持って、ダイスケたちがいるというツァンバイ領に乗り込んだのだ。
だが、結果はどうか。
魔神たちどころか、領主や補佐官までもがただ一人の男に打ちのめされて地に伏せている。神というのは本当にいたのか、と誰もが思った。そしてその誰もが、所詮神など、自分たちを救いはしないものだったのだと絶望していた。
この世界に飛ばされ、人ではないと迫害され、今まで過ごしてきた日常をかなぐり捨てても尚、神は悪魔を許さないらしい。
「人間の割には粘ったほうだがな、人間には変わりないんだよォ」
水のような色をした髪を揺らしながら、神が笑った。そんなに悪魔が、私たちが憎いのかとベーゼアは拳を握り締める。
この世界で、いや、以前の世界から探していた、ようやく見つけた自身を捧げられる大切な存在を、この神は脅かしているのだ。
「カナ、エ、さま……」
魔王の隣で笑う彼女の顔を、ベーゼアは脳裏に描く。眠そうにおはようと挨拶をしてくれる彼女を思い出す。一緒に料理してくれるかと甘える彼女を思い出す。仕事から戻った自分に、疲れていないか怪我はないかと案じてくれる彼女を思い出す。自分を友人だと、認めてくれた彼女の笑顔を思い出す。
それだけで、全身に力が戻った。
「カナエ様を……っ、渡すものか……!」
嫌な音を立てて軋む膝に、暖かいものが流れ落ちる腕に、力を籠める。目線を上げて、神を睨んだ。屈しはしない。命を賭して守ると、誓ったのだ。魔王にではない、自分自身に、だ。
「ほう、お前もまだ立つのか」
神はにんまりと口元を吊り上げて笑った。隣に立つ金糸の男が、これ以上はやめろと神に言う。ベーゼアは、赤くぬめる手で剣の柄を握ると、切っ先を神に向けた。息をする度に胸が痛んで喉元をせり上がるものがあるが、無理矢理飲み込んだ。
「貴様などに、カナエ様を、渡してなるものか!」
ベーゼアの心を救った彼女は、彼女の愛する魔王の隣にいなければならない。そうでなければ彼女は絶対に、笑わない。ベーゼアの愛する花のような笑みを、奪われてなるものか。
「面倒になってきたなァ。刈り取れ、モート」
「……だが」
「意識だけでいいっつってんだよォ。じゃねェと、命まで頂くぞ」
神は癪に障る笑みを浮かべながら言う。金糸の男は、悲しげな表情のまま溜め息を吐いてベーゼアに掌を向けた。斬りかかってやろうと踏み出すと、神が高笑いを上げる。
「さァ、待ってろよ、メグ。今行くぞ!」
刹那、ベーゼアは意識を失って地に伏せた。他にも立ち上がろうとしていた仲間が同じように倒れていく。それが、ベーゼアの最後の記憶だった。
◆◇◆◇◆◇
【ジラルダーク】
精霊の王にカナエを託して、俺は全身に魔力を纏わせる。生半な相手ではない。ボータレイと魔神を向かわせたが、ダイスケとカルロッタを連れて逃げ切れるかどうか。ならば、俺が囮となる方がいい。
「トパッティオ、……万一の時には、俺の代わりを、頼んだぞ」
念話で告げると焦った声が返されたが、俺は無理矢理遮断した。そのまま、謁見の間へ瞬間移動する。玉座に腰を下ろして、辿りやすいように魔力を流した。神、か。……ダイスケと自称神の会話を聞きはしたが、カナエも神だというのか。しかも、あの男のものだという。メグ、と呼ばれていたが……。愛を司る女神、か。確かに、カナエは女神に等しいが、それは、手の届かない存在だからではない。すぐそばで、屈託なく笑う彼女こそが女神なのだ。
それを脅かすならば、何人たりとも侵させん。俺が、カナエを守る。それが例え、俺の命を賭すものだとしても、だ。
「ほう、随分と立派な御殿だなァ」
「土足で踏み入れる許可はしていない」
「神に楯突くか?いい度胸じゃあねェか。お前も、あいつらみたいに這い蹲らせてやろうよォ」
現れたのは、肩ほどで切り揃えた空を模したかのような髪色の男と、腰ほどまでの金糸の髪の男だった。空色の髪の男の手は、赤く濡れている。ボータレイたちとは念話が出来ない。遠視で様子を見るべきだろうが、この男から目を離すのは得策ではないと直感で分かった。
「我が部下を、手にかけたのか」
「殺しちゃあいねェよ。コイツが五月蠅ェからなァ」
にぃ、と口元を吊り上げて、男は銀の目を細める。金属のような瞳が、何かを探すように左右へ揺れた。
「で?どこへ隠したんだィ?メグのニオイはするが、気配がねェぞ」
「メグ、という名に覚えはない。人違いではないか」
答えると、男は愉快そうに声を上げて笑う。俺は刹那、地面を蹴って玉座から離れた。爆音を立てて、玉座が破壊される。砕けた玉座の上に立って、男は更に笑みを深めた。
「ハハハァ、避けやがった!俺の一撃を、避けやがったぞ、アハハハハ!」
胸の澱みを吐き出すような笑い声を受けて、背筋に冷たいものが伝う。今の攻撃は、殆ど紙一重だった。連続でこられれば、いずれ、俺が防ぎきれずに負ける。なれば、こちらから行くべきか。だが、まだだ。確実に勝てぬのならば、見極めなくては。どうすれば、こいつを退けられる?
「なァ、モート。コイツは殺してもいいか?俺のメグを囲ってた上に、神の鉄槌を避けやがったんだぜ。いいだろうよォ?」
「これ以上好き放題するようならば、私は天の神に助力を願う」
「チッ、つまんない奴だねェ」
神、というのはどちらの意味だ。ニンゲンではない本当の神であるのか、それともただの呼び名であるのか。だが、このような力を容易に扱える存在は、危険極まりない。俺が様子を窺っていると、金の髪の男が口を開いた。
「我々は、君たち人間が神と呼ぶ存在だ。君が保護したメグ……、野々村夏苗も同じ存在だった。今は、もう力を失っているが……」
「失っちゃあいねェだろう。帰ればまた、メグはメグに戻れるんだ。単に記憶を失ってここにいるだけだ。だから、俺が見つけて連れてってやらねェといけないんだよ」
「タケル、しかしメグはここで彼らと幸せに暮らしているんだ。このまま、ここに置いておけば……」
「黙れ、モート。これ以上、メグの邪魔をするなら、いくらお前でも許さない」
この二人は同族のようであるが、立場が違っているようだな。モート、と呼ばれた金糸の男の方は、こちらへの攻撃の意思を感じられない。危険なのは、タケルと呼ばれた男の方だ。メグ……、カナエを、どのような手段を用いてでも連れ帰ろうとしている。それがカナエの望みならば頷けるが、カナエは何も分からないようだった。あちらへ連れられながら、泣きそうな顔をしていた彼女を思い出して、俺は奮起する。
絶対に、負けられない。カナエを守るのは、俺だ。何が襲ってこようとも、俺がカナエを守ると誓ったのだ。
「ジラルダーク・ウィルスタイン、お前は武の神に勝てるか?」
「……試してみねば、分からんな」
ざわり、とタケルを包む空気が変わる。俺は防戦になる前に、と双剣を抜いてタケルに飛び掛かった。殺すつもりで、斬撃を繰り出す。雷の魔法を纏わせた剣を、しかし、タケルは全て躱した。陽動に地を隆起させて、俺は逃がさぬようにタケルの足を凍らせた。
「いいねェ。こりゃあ逸材だ。俺がいなければ、お前が武の神になっていたかもなァ」
「そのようなものに、なるつもりはない。俺は、この国の王だ」
「アハハハハァ、摘ままれた奴が、よくも言うねェ」
摘ままれた……?どういうことだ。だが、問答している暇はない。隙を見せれば、狩られるのは俺だ。加減はしない。一息で殺す……!
そう、威力を込めて振り下ろした双剣を、タケルは素手で受け止めた。剣を通して伝わったのは、人のそれとは思えないほどに硬い感触だった。
「ああ、こりゃあ業物だなァ。お前の放つ人間とは思えん魔力も、よォく通してやがらァ」
余裕を持って笑うタケルに、俺は歯を食いしばる。刃を滑らせてタケルの手から逃れると、俺は一度距離をとって体勢を整えた。タケルは地面に縫い付けられたまま、口元を吊り上げて俺を見ている。
「カナエが、お前を拒絶したならば、どうする」
俺は油断なく双剣を構えたまま、タケルに尋ねた。タケルは不思議そうに首を傾ける。揺れる空色の髪が、さらりとタケルの頬にかかった。
「拒絶?メグが、俺を?あるはずがないだろう?」
心底不思議だと言いたげに、タケルが首を振る。ちらりとモートを見れば、何か言いたげに、それでも何も言えずに口を結んで俯いていた。
「何故、拒絶されないと言い切れる?」
「俺は、只人であった野々村夏苗に、神としてメグという名を与えたんだぜ。それに、力の振るい方も教えてやった。俺はメグの保護者で、親みたいなもんだ。親を拒絶する子が、どこにいる?」
狂気じみた笑みで、タケルが言う。カナエは、これから逃げてきたのだろうか。神としての力も、記憶も何もかもをかなぐり捨てて。ならば俺は、……魔王の后という重責をお前に負わせてしまった俺に、出来ることは。
「いるだろう。子は巣立つものだ。巣立った子が、親を同等の存在とみるかどうかは子の自由だ。親がどうしようもない屑ならば、尚更」
俺の言葉に、タケルが笑みを消した。膨れ上がる怒気に、俺は息を飲む。モートが顔を上げて、タケルに視線を向けた。
「駄目だ、タケル!やめろ!」
「五月蠅ェんだよォ、どいつもこいつも。メグは、神として俺のそばにいればいい。それで幸せなんだ。邪魔する奴は全員……」
腹部を襲った衝撃に、俺は目を見開く。何が起こったのかと視線を下げると、俺の腹にタケルの腕が突き刺さっていた。遅れて、久方ぶりに感じる痛みが全身を襲う。
「が、はッ……」
「殺してでも、連れて帰る。そうさ、記憶を戻してやりゃあ、メグはまた、水鏡でも見ながら呑気に笑ってるんだ。そうでなきゃあいけない」
無造作に腹から腕を抜かれて、俺は地面に崩れ落ちた。血反吐を吐いて、腹部の回復に魔力を回す。だが、次いで頭部を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。蹴り飛ばされたのだと、ぶれる視界で把握する。体を転がせて衝撃を逃がしても、また体の何処かに強い衝撃を受けた。魔力の防壁が全く意味をなさない。立ち上がろうにも、容赦ない攻撃にその隙すらなかった。
「邪魔だなァ。メグを連れて帰ってやりたいってだけなのに、何でどいつもこいつも邪魔ァしやがるんだ。ああ、それだけメグが愛の神に相応しいのか。俺としちゃあ誇らしいが、全く手のかかる奴だねェ」
「ぐっ、ごふッ!」
血を撒き散らして、俺は襲いくる衝撃に耐える。どうにか立て直そうとしたが、タケルの攻撃は早く重く、防ぎきれなかった。タケルは武器すら持たないというのに、抵抗すらできない。モートが止めろとタケルに叫んでいるが、一切の加減は無かった。
俺が死ねば、それだけカナエを辿りにくくなる。奴は、何としてでもカナエを守るだろう。カナエがどこにいるのか、知っているのは俺だけだ。
「面倒な野郎だ。メグをどこにやった?誰に預けた?奴ってのは、お前の配下かィ?」
やはり、思考を読めるのか。ならば、絶対に、カナエを守る。守ってみせる。俺は、カナエが笑っていれば、それでいい。どこにいようと、お前が幸せであれば……。
「ハッ、馬鹿馬鹿しい。力も失って、記憶も失って、仮初めのまま笑って何が幸せか。メグを守るのは、俺だ」
一層強く、穴の開いた腹を蹴り飛ばされて、俺は思わず呻き声をあげた。視界が霞む。血を流しすぎたか。せめて、一矢報いねば……。
「もう止めて!もう、やめてください……!」
揺らぐ意識の中、涙に濡れたカナエの声を聞いた。