130.雪花の宴
翌日の夕方、私は厨房の片隅で作った二人分の夕食を、悪魔城の中庭が見えるテラスに運んでいた。とはいえ、ほとんどワゴンに乗っていて、そのワゴンはベーゼアが押してくれているけどね。私は、魔王様と私用のお酒を抱えてる。モノキ村の果実酒だ。これ、甘くて美味しいから好きだ。
「大介くんもレイさんも、納得してくれたかな」
「ジャパン領主殿も補佐官殿も、カナエ様のご意向に頷いてらっしゃいました。カナエ様とお二人で祝われるなら、それが一番だともおっしゃっていましたよ」
出張から帰ってきたばっかりだと思っていたのに、ベーゼアは昨日の話をまるっと把握してるみたいだ。エミリエンヌから聞いたのかな。
「今宵はどうぞ、陛下とごゆるりとお過ごしくださいませ」
「うん、ありがと、ベーゼア」
雪の積もる中庭が見渡せるテラスに到着して、私はベーゼアにお礼を言う。ベーゼアは矢印尻尾を揺らしながら微笑むと、緩やかに礼をした。そのまま、ベーゼアは溶けるように消えていく。
私は彼女を見送って、ワゴンに乗せていたご飯をテーブルに移動させた。テラスとはいえ、魔法で覆われた悪魔城の一角だから、雪が見えるのに全く寒くない。本当に、魔法って便利だなぁ。
「待たせたな。冷えてはいないか、カナエ」
テーブルにご飯を並び終えたら、後ろから暖かく包まれた。魔王様のマントだ。ついでに、魔王様の腕と背中だ。
「大丈夫だよ。雪は見えるけど、ここも暖かいでしょ」
そもそも、悪魔城の温度調整をしてるのは魔王様だろうに。本当に心配性で過保護な人だ。私は、ぽんぽんと軽くジラルダークの腕を叩く。私を後ろから抱き締めていたジラルダークは、私の合図に腕を緩めた。
「ほら、ご飯にしよ。もうお腹ぺこぺこだよ」
私の言葉に、ジラルダークは頷いて席につく。私も、ジラルダークの斜め横に座った。中庭が見えるように、ってこういう席の配置になってる。もう夕陽は沈んでいて、細い月が浮かび始めていた。中庭は魔法の明かりでライトアップされていて、雪化粧にきらきらと静かに輝いている。幻想的できれいだけど、とりあえずは腹ごしらえだ。お腹すいた。
いただきます、と私が手を合わせると、ジラルダークも真似をしていただきます、と挨拶をした。ジラルダークの生まれた国では食事前の祈りやら挨拶やらはなかったって言ってたのに、いつの間にやら私と同じように日本式の挨拶をしてる。
「……旨い。カナエの手料理は、とても落ち着く。心を満たす味がする」
どんな味のオムライスだ。そう思うのに、幸せそうにスプーンを口に運ぶジラルダークに何も言えなくなってしまう。今日用意したのは、オムライスとサラダとクリームシチューだ。お酒を飲むおつまみに、チーズと生ハムも用意した。
「私は、ジルの手料理の方が好きかな。野菜炒めも、お肉のスープも美味しかったもん」
モノキ村にいた頃、ジラルダークが作ってくれた料理はどれも好きだ。魔王様がお料理する姿っていうのも、普段と違ってかっこよかったしね。
「ならば、また作ろう。お前に気に入ってもらえて嬉しい」
ジラルダークは私の頭を撫でながら穏やかに笑う。柘榴色の瞳が細められて、ゆらりと魔法の明かりに彩られた。
一年前の私よ。まさか、魔王様とこんな風に、雪景色を見ながらご飯食べてるだなんて思いもしなかっただろう。しかも、自分で作った料理を振舞ったりなんかしちゃったりして一周年を祝ってるだなんて、絶対に考えてもなかったよね。逃げ出そうとはそんなに思わなかったけど、ここまで魔王様を受け入れて、あまつさえ私からも同じくらい好きになるだなんて、思いもしなかったよ。
隣に座るジラルダークは、機嫌よく食べ進めながら言う。
「俺は、お前の作るオムライスと、よく焼いた硬めのチーズケーキが好きだな。後、このシチューも好きだ」
「クリームシチュー?」
寒くなってきたから、と思って作ってみたけど、ジラルダークはこういうスープが好きなのか。ジラルダークが作ってたスープはもっと、何というかワイルドな感じのスープだったから意外だ。
「ああ。許されるならば、乾いたパンを浸して食べてみたい」
「なるほど、ひたパンね。うんうん、ひたパン美味しいよ。私も好き。日本では、ひたパン派とつけパン派がいてね……」
庶民的な好みなんだね、魔王様。しみしみになったパンは美味しいもんね。
なんて、ジラルダークと他愛ない話をしながら、いつの間にかご飯を平らげていた。お酒を用意していたら、ジラルダークがお酒とおつまみと私を抱えてふわりと宙に浮かぶ。テレポートじゃなくて空中を浮遊しながら連れていかれたのは、悪魔城の中庭にある、東屋のようなところだった。
雪が触れるところにあるのに、ちっとも寒くない。ジラルダークは私を横抱きにしたまま、東屋の中の長椅子に腰かけた。魔法で、グラスと酒瓶が宙に浮いている。どちらのグラスにも、お酒が注がれた。けど、私の方のグラスには原液では濃いだろうって、ジラルダークが魔法の雪を浮かべる。
「溶かしながら飲むといい。冷えるようならば、温めよう」
「ありがと。魔法いいなぁ」
「お前の役に立てたならば幸いだ」
受け取ったグラスに口を付けると、ひんやりとした口当たりと共に甘くて華やかな香りが鼻に抜けた。うーん、美味しい。何杯でも飲めちゃいそうだ。
ジラルダークもグラスを傾けながら、それでもしっかりと私の腰を抱いている。わざわざ場所を変えたのは、こうして抱っこするためだったのかな。ジラルダーク、あったかくて気持ちいいからいいけどね。
グラスの中身を溢さないように気を付けながら、私はジラルダークの肩に頭を預けた。ぽかぽかして、幸せな気分だ。
「冷えはしないか?」
心配性で過保護の魔王様が、グラスを持っていた私の手を包み込むように握ってくる。大きくてごつごつとした手は、私の手よりも暖かかった。
「ジル、手ぇあったかいね」
「グラスが冷たいからな。手を離せば、宙に浮かせてやろう」
「そこまでしなくても大丈夫だよ。お酒飲んでるからあったかいし」
そうか?とばかりにジラルダークは首を傾げてる。私は彼の肩に頭を預けたまま、斜め上の魔王様を見た。彼は自分の分のグラスを傾けながら、私へ視線を向けている。微笑むように、やわらかく赤い目が細められていた。
ちらちらと降り始めた雪が、中庭を更に白く覆っていく。音もない静かな空間に、お互いの呼吸と、グラスのお酒が揺れる水音と、たまに身動ぎする音だけが残った。
途切れた会話のまま、私たちはお互いにお酒を傾ける。言葉はないのに、安心する空間だった。お酒のせいもあるのか、じゃれて触れてくるジラルダークの指先が暖かい。私も仕返しに、ジラルダークの髪の毛を指先で弄んだ。
お互いにくすくすと笑いあって、またお酒を傾ける。ほう、と息を吐くと、ジラルダークの指先が私の唇を撫でた。見上げると、ジラルダークの瞳が訴えるように私を見ている。応じて、私は瞼を下ろした。
少し濡れた暖かい感触に、唇が包まれる。くすぐるように、ジラルダークの唇が私の唇を啄んで撫でた。ぺろりと濡れたやわらかい舌に下唇を舐められて、私はそっと口を開く。刹那に口を塞がれて、ジラルダークの肉厚な舌が口の中に入ってきた。同じお酒を飲んでたけれどジラルダークの方が濃いものを飲んでいたせいか、強いアルコールの匂いが鼻の奥に抜ける。
ジラルダークの舌に応えるうちに息が上がって、胸の奥が苦しいような、締め付けられるような感覚になった。私がいっぱいいっぱいになったのが分かったのか、ジラルダークは名残惜しそうに私の唇をもう一度舌で撫でてから唇を離す。
呼吸を繰り返しながら彼を見上げると、ジラルダークはどこか困ったように笑っていた。何かを飲み下すように、彼は手の中のお酒を煽る。
「もう少し飲むか?」
自分のグラスに魔法でお酒を注ぎながら、ジラルダークが尋ねてくる。私は頷いて、グラスの中身を飲み干した。また、雪と一緒にお酒を注がれる。濃すぎず、薄すぎず、だ。何だって魔王様はお酒の加減一つとってもこう、完璧なのか。魔法が使えるからってだけじゃないよね、絶対。
こんな完璧な人が甘やかしてくるんだから、私のダメ人間化が加速しても仕方ないと思う。うん。私、悪くない。ぐうたら加速させてるのは魔王様のせいなのだ。
「あまり酒だけを口にすると酔いが回る。こちらも食べるといい」
ほらまた。私がお酒に口を付けていたら、ジラルダークがおつまみのお皿を魔法で浮かせて目の前まで持ってきやがった。しかも、生ハムでチーズを包んで、それを楊枝で刺すと口元まで持ってこられる。至れり尽くせりか!
「ジルはどっちかっていうと、世話焼きな奥さんだよね。亭主関白な旦那さんじゃないよね」
ジラルダークの手からおつまみを食べて、私はうんうん頷いた。食べさせるところは魔法じゃないあたりが、世話焼き度が高いと思う。一人納得してる私に、ジラルダークはきょとんとしていた。
「そうだろうか?」
無自覚か!そこは自覚しとこうよ、過保護魔王様!
もう一つ食べるかって、またチーズに生ハム巻いて用意してくれながら、何で自覚がないのか。甘やかすのがデフォルト装備なのか、魔王様。私も真似してチーズを生ハムで包むと、ジラルダークの口元に差し出す。
「はい、ジルも食べて」
ジラルダークは笑って頷くと、ぱくりとおつまみを食べた。私は私で、ジラルダークの摘まんでるおつまみをひょいパクと食べる。うん、適度な塩っ気があって美味しいね。お酒に合うわ。
じんわりと雪の溶けるグラスを傾けて、口の中の味を塗り替えた。蜂蜜のような甘さが堪らない。んー、美味しい。
お酒とおつまみを堪能していたら、ふと腰を抱くジラルダークの手に力が籠った。どうしたんだろうと彼を見上げると、さっきとは違う熱の混じる視線を返される。
「ジル?」
呼ぶと、触れるだけのキスが降ってきた。
「日付が変わった。これでお前と一年、過ごしたことになる」
「そ、っか……」
ジラルダークの手が、私の腰を撫でた。こう、触れるか触れないかの手つきに、私は背中を震わせる。ジラルダークは私を見つめたまま、すっと目を細めた。
この一年で、何度彼のこの表情を見ただろう。そして何度、私は応えてきただろう。
「……部屋、戻る?」
グラスを手放してジラルダークの肩に抱き着く。彼が言っていた通り、グラスは魔法で宙に浮いていた。ジラルダークは私の首筋に顔を埋めながら喉を鳴らして笑う。
「いや、このままここで一度、な」
「こ、ここで!?外だよここ!」
「俺はお前の誘惑に長いこと耐えたぞ。褒美をもらわねばならん」
どんな理屈だ!てか、誘惑なんてしてないから!一緒にお酒飲んでただけでしょうが!どこをどうしたら誘惑したことになるんだ!
がぶっと首に噛みついてくるジラルダークの背を私は叩こうとして、躊躇った。一周年記念日にちょっとだけ特別なことがしたい、だなんて馬鹿な考えが浮かんでしまったからだ。本当に、馬鹿すぎる。
「カナエ、愛している。これまでも、これからも」
抵抗しない私に気を良くしたのか、ジラルダークが微笑んで口付けてきた。甘くてやさしいのに、息も飲まれる激しいキスに思考が霞んでいく。抵抗しなきゃ、外はまずい、と思う自分と、ジラルダークのことだから他からは見えないようにしてるだろうし、魔王様嬉しそうだし止めるのは可哀想かも、と思う自分がせめぎ合う。
結局、せめぎ合うだけだったけど。魔王様に溶かされた思考はどうしたってまともになるわけもなく、私はただ、彼の熱に翻弄されるのだった。