123.帰郷の知らせ
村の人たちと一緒に谷へ行ってから一週間、私たちもそろそろ悪魔城に帰らないといけない。私は構わないんだけど、魔王様の方がまずい。こっちへ持ってこれる仕事を、徐々にこなすようになってきたからだ。それはつまり、魔王様のお仕事が溜まりすぎてどえらいことになってるってことだ。
「書類だけだ。今は気候も落ち着いている。然程、焦るような事態でもない」
心配して、もう帰ろうかってジラルダークに言ったら、彼は書類を机に放って私を抱き上げやがる。いや、書類に目を通してください魔王様。書類を持ってきたエミリエンヌの後ろに、絶対零度の永久凍土が見えますから!
「焦る事態ではございませんが、尻を蹴飛ばされる時期にはございますわよ、陛下」
にっこりと可愛らしい笑みを浮かべて、エミリエンヌが小首を傾げた。何だろう、何でこんな可愛い笑顔なのに、背筋が震えるんだ。ジラルダークはエミリエンヌを一瞥した後、短く息を吐く。
「……ならば、カナエ。今日、子供たちと会った時に別れの挨拶を済ませるといい。明日の朝には、発とう。ただ、獣人とは今後も交流する。会いやすいように、場も整えよう。暫しの別れだ」
「うん、分かった」
明日には、って急だけど、それだけ切羽詰まってたんだろう。まったくもう、エミリエンヌが怖い顔するわけだ。
「もう少し、お前と二人きりで暮らしたかったが……」
「大の男が、我儘も大概になさいまし。充分、カナエ様に癒されましたでしょう?」
それに、とエミリエンヌが溜め息交じりに言う。
「週に一度、こちらで休日を過ごされるのもよろしいのではないでしょうか。此度のように、お二人だけで」
あらま、エミリエンヌが魔王様を甘やかすようなことを言うなんて珍しい。そう思ってジラルダークを見たら、彼も驚いたように目を丸くしていた。エミリエンヌは失礼な、と不満そうに眉を寄せる。
「まぁ、ご夫婦揃って同じ顔をなさるなんて。エミリは悲しいですわ」
「ご、ごめん、エミリ」
「何を企んでいる、エミリエンヌ」
私は悲しげな表情になってしまったエミリエンヌに慌てて謝ったけど、魔王様は疑いの目で彼女を見ていた。エミリエンヌは肩を竦めて息を吐く。
「また、不休で無理をなさって不調になられましたらどうなさいますの。私たちはもう、カナエ様がいらっしゃる前のように、ただもどかしく眺めているだけなのはお断りですのよ」
エミリエンヌの言葉に反論できずに、ジラルダークは押し黙った。何度か考えるように瞬きをして、ジラルダークは短く口にする。
「すまない。感謝する」
ジラルダークの言葉に、エミリエンヌはにっこりと花のような笑みを浮かべた。お人形さんのようなエミリエンヌは、本当に笑顔がよく似合うなぁ。
それから、ジラルダークが署名をした書類を持って、エミリエンヌは先に魔界へ帰っていった。台所の貯蔵庫行きの扉が、いつの間にやら悪魔城に繋がっているようだ。扉の術式に指定をしてあって、魔方陣を何かして、それで、何か条件が揃うとちゃんと悪魔城に帰れる、らしい。今後遊びにくるのに使うように、だ。何が何やらさっぱり分からん。ちんぷんかんぷんもいいところだ。
私はジラルダークと一緒に、隣のイルマちゃんの家へ向かう。お昼は食べ終わったかな、と扉をノックすると、口の端にパンくずを付けたイルマちゃんが出てきた。
「ちょうど食べ終わったとこだよ、いらっしゃい」
「イルマちゃん、ちょっと待って」
家の中に招き入れるイルマちゃんの頬に、私はポケットから出したハンカチを当てる。大人しく私に口を拭かれるままじっとしている様子は、まだまだ子供って感じだ。この村での成人は15歳だって言っていた。ビサンドくんは成人してるけど、イルマちゃんは成人してないんだよね。
「はい、綺麗になったよ」
「ありがと、カナエさん」
家の中には、ビサンドくんもいる。こっちに座って、と案内された木製の椅子に、私とジラルダークは腰かけた。
「あのね、イルマちゃんビサンドくん、実は私たち、明日帰ることになったの」
引き延ばしてもしょうがない、と早速帰ることを告げると、お茶を用意しようとしていたイルマちゃんの手からポットが滑り落ちる。危ないと思って腰を浮かせたけど、床に激突する前にジラルダークが魔法で受け止めてくれたようだ。
「随分、急ですね」
イルマちゃんと同じように驚いた表情で、ビサンドくんが言う。まあ、うん、確かに。元々、何日いるよって予定を立ててたわけでもないんだけど、さすがにじゃあ明日帰ります、っていうのも急すぎるってもんだ。
「ああ、国王から伝達があった。……黙ってはいたが、俺もカナエも国では要職に就いている。あまり長く留守にするな、と同僚からも言われてしまってな」
どうしたもんかと思っていたら、ジラルダークがビサンドくんに説明する。要職、というか、魔王様なんですけどね。ここにいるの、国王様なんですけどね。魔王様のお仕事が山積みになってて、部下が静かにキレ始めてるっていうのが正しいんですけどね。
「そうでしたか」
「ええーっ、カナエさん帰っちゃうの?!」
驚きから復活したイルマちゃんが、私の肩を掴んで揺さぶってくる。うおう、結構力強いな、イルマちゃん。頭ががっくんがっくんするよ。
「とはいえ、交流は続けてよいと許可が出た。週に一度程度になるだろうが、またこちらへ来る」
そっと私をイルマちゃんから救出しながら、ジラルダークが言う。イルマちゃんは、本当に、と私とジラルダークの顔を見た。私もジラルダークも、しっかりと頷いてみせる。
「……分かった、二人とも待ってて!」
言うが早いか、イルマちゃんは兎になって窓から飛び出していった。ばさっ、と床に彼女の服が落ちる。
「ちょっとイルマ!……全く、あいつは……」
ビサンドくんの声も空しく、もう窓の外にイルマちゃんの姿はなかった。さすが兎さん。散らかった服を拾いながら、ビサンドくんが苦笑いを浮かべる。
「少し、待ってあげてもらえますか。今、お茶を淹れますから」
「あ、いいよ、お構いなく」
そんなやりとりをビサンドくんを繰り広げること、数分。ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が聞こえてきた。もちろん、とても聞き覚えのある声たちだ。響いてくる声に、ジラルダークがやれやれと溜め息をつく。
「彼らには、俺たちから伝えたほうが良かったろうに」
「あはは、そうだねぇ」
頷いていたら、開いたままの窓から獣化した子供たちが雪崩れ込んできた。クレストくんとエーリくんは、私の足に前足をかけて見上げてくる。ミレラちゃんが私の膝を踏み台にして飛び上がったな、と思った次の瞬間には、顔面がもっふもふの毛皮で埋まった。
「ぶふっ!?」
「ひどいわ、カナエお姉ちゃん!明日帰るだなんて聞いてないわよ!」
あいたたた、頭にミレラちゃんの爪が!いやでも、顔が、もふもふ!痛い!気持ちいい!てか息が!苦しい!痛い!気持ちいい!
「ミレラ、落ち着け」
べりっ、とミレラちゃんが私の顔から引き剥がされる。ジラルダークがミレラちゃんの首根っこを掴んで持ち上げていた。ぷらん、と垂れたミレラちゃんが、ジラルダークを睨む。やっぱり猫って、首根っこ掴むと大人しくなるのね。
「だって、カナエ姉ちゃんとジル兄ちゃんが!」
「おいらたちに黙って帰るつもりだったの?」
「違う違う。帰ってこいって連絡があったのがついさっきでね。お隣のイルマちゃんのところに挨拶しに来たばっかりなんだよ」
足元の二人を膝の上に抱き上げた。クレストくんもエーリくんも、即座に胸の辺りに手をついて顔を寄せてくる。落ち着けるように、私は二人のふかふかの背中を撫でた。かわいい。空いた膝に、ニッツァくんが顎を乗せてくる。もちろん、撫でさせていただく。
「向こうに帰ってからも、週に一度は遊びに来てもいいよって許しが出たの。だから、明日でお別れじゃないんだ」
「本当ですか?」
「……お姉ちゃん、いなくならない……?」
私の言葉に、ジラルダークの肩に乗っているデメトリくんとニッツァくんが首を傾げた。イルマちゃんめ、いなくなるってことだけ伝えたな。
「また遊びに来るよ。いなくならないからね」
「でも、遠いんでしょ?」
兎のイルマちゃんが、クレストくんとエーリくんを踏み潰す形で私に顔を近づけてくる。ぐえ、きゃん、と子犬が鳴いた。こらこら。
イルマちゃんを抱き上げて、潰れたワンコ二匹を救出する。もう、膝の上がいっぱいだ。何て贅沢なのかしら。
「国王ならば、魔法の扉も用意できよう。短時間で移動させるような、扉をな」
あの貯蔵庫の扉ね。まあ、瞬間移動で出てくるわけにもいかないもんね。あれどこに繋げたんだろう。おやつ部屋とかかな。
「おれたちも行けるのか?」
「それは、どうだろうな。俺たちはお前たちを知っているし招いても構わないと思うのだが、……悪魔の中にはお前たちを驚かす奴もいるかもしれん。魔王もすぐには許可をしないだろう」
そう。そうだった。この村で以外、ニンゲンとの交流は上手くいかなかったと、ジラルダークは言っていた。
「いつか、行き来できるようになるといいね」
悪魔が、……私たちが、正しく認識されても恐れられないような世界に、いつかなるといいな。今、この瞬間がそのための一歩なのかもしれないし、失敗するかもしれない。でもきっと、無駄にはならない。全力で、失敗しないように頑張るのも、もちろんだ。
「……そうだな」
穏やかに微笑んだジラルダークが、私の髪を撫でた。数百年の間、何度もニンゲンに迫害されてきた彼が、ニンゲンと仲良くなろうとしてるんだ。私も頑張るよ、と伝えたくて、ジラルダークに微笑み返す。
それから、帰宅する前にイルマちゃんたちを心行くまで撫でてやろうと思い付いて、私は獣化してるみんなをもみくちゃにした。最終的に、ふにふにの肉球やらふわふわのおでこやらで押されて逃げられちゃったけどね。
大丈夫、前例がなくたって、きっと、仲良くなれるよ。この子たちが大きくなった頃には、案外自由に悪魔城に来てたりしてね。
そんなことを考えながら、私は腕の中のイルマちゃんに頬擦りするのだった。