120.山間の谷
村を出て一時間、私たちは森の中を歩いている。まさか、魔王様とハイキングすることになるとは。ちょっと楽しい。
「疲れてはいないか?」
「ううん、大丈夫」
一定時間ごとに心配してくるジラルダークに、私は笑って首を振った。私の肩に乗ったミレラちゃんが、ぺろりと私の頬を舐める。指先で顎を撫でてあげると、ごろごろと彼女の喉が鳴った。
元気よく私の前を歩くのはクレストくんとエーリくんだ。二人は人型のまま、たまにふざけて大人たちに頭を掴まれたり拳骨をもらったりしてる。デメトリくんは梟になってジラルダークの肩に止まっていた。デメトリくんは、ジラルダークの肩がお気に入りのようだ。ニッツァくんは私の手を握って、隣を歩いている。幼いニッツァくんを気遣って、ジラルダークが抱っこするか聞いても、ニッツァくんは首を振って私の手を握ったままだ。
「もうすぐですよ、ここを抜ければ……」
アギアスさんの声に、私は顔を上げる。木々を抜けて視界が開けた先、山に囲まれて岩肌の剥き出しになった場所が現れた。こちら側からだと何とか下まで降りられそうだけれど、かなり深い。足を踏み外せば、絶対に無事じゃ済まないだろう。慎重に降りなきゃなと思っていたら、アギアスさんたち村の人は獣化した。
「とっ……!」
目の前に現れた獣に、私は目を丸くする。アギアスさんは、大きな白い虎だった。な、撫でたい……!けども、さすがに、村長さんを撫でまわすのはまずい。中年とはいえ男性だし、撫でた日にはジラルダークが拗ねるだけじゃ終わらない気がする。
撫でたい欲求を手近なミレラちゃんにぶつけつつ他の人たちを見ると、大きな犬や鷹、熊に、あれはハイエナかな?結構な種類の動物がいた。比較的犬が多めかな。ああ、久々に見るヴァシュタルの狼も撫でたい。
「我々は獣化して谷を下ります。もしよければ、抱えますが……」
「いえ、不要です。妻は俺が連れて下ります」
「分かりました」
さっきからちょいちょい出てくる敬語の魔王様が、新鮮で仕方ない。魔王様してる時のジラルダークだったら偉そうに踏ん反り返って、構わん俺が連れていく、くらいは言うだろう。何か面白い。ミレラちゃんを抱っこして漏れ出る笑いを堪えていたら、ミレラちゃんが半目になった。
「いくらジルお兄ちゃんがかっこいいからって、たるみすぎよ」
べしっと頬っぺたに猫パンチを貰ってしまった。かわいい。肉球やわらかい。猫パンチのお礼に、ミレラちゃんのふわふわなおでこに頬擦りする。みゃあ、とミレラちゃんが慌てたように鳴いた。かわいい。鼻血出る。
「ほら、カナエ。こちらへ」
ジラルダークの声と共に、軽々と片腕で抱き上げられた。ジラルダークは、ついでと言わんばかりにニッツァくんももう片方の腕で抱き上げる。ばさりと音を立てて、ジラルダークの背中に羽が生えた。ジラルダークが私たちごと魔法の羽で宙に浮くと、村の人たちが耳やら尻尾やらを立てて目を見開いた。
「これが魔法、ですか」
「何とも奇妙な感覚がするものじゃな」
「この年になっても、まだまだ知らん事だらけだなぁ」
なるほど、獣人の人にとって、魔法は異質なものだと本能的に感じてしまうのか。悪魔が迫害されていた原因の一つは、この体質の差なのかもしれない。
「すっげー!ジル兄ちゃん、おれも!」
「お、おいらも!」
浮き上がった私たちの足元で、クレストくんとエーリくんが手を伸ばしていた。ジラルダークは仕方ないと笑って、一度地面に降りる。さすがに、積載量の限界じゃありませんかね、魔王様。
「俺の体に触れていろ。下に降りるまで、放すんじゃないぞ」
「なら、私がジルに触るようにするよ。子供たちは抱っこしてあげて」
言ってジラルダークの腕から降りると、魔王様は大変不服そうなお顔になった。けど、その方が安全だと判断したらしい。渋々と子供たちを抱え上げた。への字口の魔王様がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。魔王様が拗ねきらないうちにと、私はジラルダークの背後から彼の腰に抱き着く。ミレラちゃんはするりとジラルダークの背を登って、デメトリくんとは逆の肩に乗っかった。丁度いいや、とジラルダークの広い背中にぴったりくっついて、頬擦りをする。
「これならいいでしょ?」
「……ああ、もう少し強く抱いて密着するといい」
分かりやすく相好を崩したジラルダークの様子に、村の人たちも笑い声を漏らした。どこからともなく、うちの父ちゃんも昔は、とか、私も後三十年若ければね、とか聞こえてくる。ジラルダークは私が恥ずかしがって離れる前に、とばかりに宙へ高く浮いた。
「お待たせしました。谷を下りましょうか」
ジラルダークの言葉に、村の人たちが頷いて崖を下っていく。その後を、緩やかな風のように追っていった。ジラルダークの腕の中ではしゃぐ子供たちの声が聞こえる。いつもは抱っこされて空を飛ぶけれど、こうして背中に引っ付いて飛ぶのは初めてだ。足元がふわふわして不安定な感じがする。抱き着く腕に力を込めると、ジラルダークの忍び笑う声が聞こえた。
崖を下った先、広めの川と苔の生えた岩場が続く谷は、どこか湿ったような濁った空気が漂っている。わらわらと子供たちがジラルダークの腕から降りていって、代わりに私が抱き上げられた。いつもの片腕抱っこだ。
「ひゃ!?」
「足場が悪い。このまま俺のところにいるといい」
か、過保護!確かに苔っぽくて滑りそうだけど、そんな簡単に転ばないよ!そう反論しようとしたけれど、足元の子供たちがしたり顔で頷く。
「うんうん、その方がいいぜ、カナエ姉ちゃん」
「そうね、転んで川に落ちそうだもの」
ちょ、私、どんだけ鈍くさく見えてるの。ああ、しかもミレラちゃん、人型に戻ってるし。獣人の人たちって一枚布の簡素な服装が多いなって思ってたけど、人に戻った時にすぐ着れるように、なのね。
「お前たちも、俺から離れるなよ」
言いながら、ジラルダークが視線を横に向けた。威嚇するように目を細めてるから、恐らくはその方向に魔物がいるのだろう。
「大丈夫だって、ジル兄ちゃん!おれ、狩りしたことあるんだぜ!」
今にも走り出しそうなクレストくんの首根っこを、ジラルダークがむんずと掴んだ。そのまま、エーリくんとミレラちゃんにも視線を向ける。
「お前たちは、俺の服の裾を掴んでいろ。少しでも離れれば、魔法で村へ飛ばすぞ」
「はーい」
「わかったわよ」
唇を尖らせて、二人がジラルダークの服を掴んだ。ちなみに、ニッツァくんは最初から大人しくジラルダークの服の裾を掴んでる。私が手を繋げないからね。
「ジル兄ちゃんの魔法って、何でもできるのか?」
「何でも出来たらいいがな。制限は多いぞ」
「こう、ドカーンッて敵をやっつけたり出来ないの?」
「派手に見せることは出来る。見せかけだな」
クレストくんとエーリくんが、好奇心に目を輝かせながら聞いてくる。ジラルダークはお父さんの目をして二人に答えていた。私たち悪魔は子を成すことは出来ないけれど、きっとジラルダークに子供がいたらいいお父さんになっただろう。ほっこりと暖かい気分で見守っていたら、ビサンドくんとイルマちゃんが近付いてきた。
「魔物の気配は3つ感じています。僕とイルマがこちらを守りますので、ジルさんたちは突破されたときに、お願いします」
「……ああ。危険が迫れば、動こう」
含みを持たせた物言いに、私はそっとジラルダークの表情を見る。ジラルダークは口元を吊り上げて、ビサンドくんを見ていた。挑発的な笑みに、ビサンドくんは息を飲んだようだった。一瞬、そう見えたけれど、すぐにビサンドくんは穏やかな微笑みを浮かべる。
「お願いします。イルマも然程戦えませんので」
「俺のそばにいるならば、必ず守り通してやる」
にぃ、と八重歯を覗かせてジラルダークが囁いた。それは私のよく知る、魔王様としての顔だった。
「お前たちも全て、な」
ビサンドくんは今度こそ、明確に怯んでいた。どうにか表情を整えて、ジラルダークに頷いてみせる。
「……是非、お願いします。」
「ジル兄ちゃん、そんな強いのかぁ?」
「カナエお姉ちゃんだけ優先させそうよね」
大人……というか、本人たち以外入れない雰囲気だったけれど、クレストくんとミレラちゃんが茶々を入れてきた。ミレラちゃんの意見に、エーリくんとデメトリくんがうんうん頷いている。
「当然だろう。カナエは俺の妻だ。俺以外の者に、カナエを守る権利を譲るつもりはない」
大真面目に答えたジラルダークに、私は顔中に熱が集まるのが分かった。な、何を子供たちに言ってるのか、このおバカ魔王様は!子供たちの呆れたような生温いような視線から目を逸らしていたら、先行していた村の人の声が聞こえた。
「魔物が出るぞ!皆、構えろ!」
一声で緊迫した空気に、私も息を飲む。視線の先、灰色と紺色と黒が混じったような色をした獣が牙を剥いていた。