118.深夜の夫婦
のぼせた。うん、分かっていたともさ。ジラルダークの好きなようにさせたらのぼせるだろうなって。
「もう少し水を飲んでおくといい」
ベッドでくたばってる私に、ジラルダークが水の入ったコップを差し出してきた。私はどうにか上半身を起こしてそれを受け取ると、一気に喉へ流し込む。ああ、冷たくておいしい。
「すまない、つい加減ができなくなってしまった」
申し訳なさそうに言う割に、ジラルダークの口元は緩んでいた。私は再びベッドに潰れると、上体を起こしているジラルダークを下から睨む。
「加減する気もなかったくせに」
口を尖らせて文句を言うと、ジラルダークはおかしそうに笑う。寝かしつけるつもりなのか、うつ伏せで寝そべってる私の背中をぽんぽんと一定のリズムで叩いてきた。私はもぞもぞと体勢を変えてジラルダークの腰に抱き着くと、そこに顔を埋める。膝枕だ、膝枕。魔王様の脚なんて、びりびりにしびれてしまえ。
ジラルダークは喉を鳴らして笑いながら、今度は頭を撫でてきた。ゆったりとした手つきに、私は瞼を下ろす。まだそんなに眠くないけど、このまま撫でてもらっていたら寝てしまいそうだ。
「一つ、カナエに伝えなければいけないことがある」
降ってきたジラルダークの声に、私は瞼を持ち上げた。体は起こさなくてもいいと言わんばかりに、ジラルダークは撫でていた手を止めて私の頭に置く。
「エミリエンヌが持ち込んだ、悪魔たちの件だ。俺が一度、城へ戻っただろう?」
「うん」
私的黒歴史の前の話だ。私たちの他にアサギナの国へ来ていた悪魔は、もう魔界へ帰したと、そうエミリエンヌは言っていた。私はジラルダークの太ももに顔を埋めたまま、彼の声に耳を傾ける。
「他の村での悪魔の扱いは、こことは程遠い。伝達の行き違いかと俺自身も村へ派遣していた悪魔たちに話を聞いたが、情報に違いはなかった。彼らは随分と、良くない扱いを受けていた」
「……うん」
エミリエンヌは、自分たちの力不足だと言っていた。悪魔を帰したということはそういうことなのだろう、と思っていたけれど、やはりあまりいい状態ではないらしい。
「ここではどうして、これほどまでに受け入れられていると思う?」
さらりと、ジラルダークの手が私の頭を撫でた。私は抱き着いていた腕を解いて、彼の足の上でくるりと体を回転させる。真上にあるジラルダークの顔を見て、私は微笑んだ。
「ジルが頑張ってるからだよ」
ジラルダークは、私の答えに目を細める。彼の口元に笑みは、なかった。ジラルダークの望む答えを、私は出せない。私は、見下ろしてくるジラルダークの視線から逃れるように目を閉じた。
「俺が単独でこの村へ来ていたならば、遠からずアサギナは滅亡していただろうな」
「そんなことないよ。ジルは、その未来を回避しようとしてるじゃない」
自嘲を含んだ物言いに、私は目を開けて彼を見上げる。ジラルダークの柘榴のように赤い瞳が、じっと私を見ていた。
「この村に来て、まずお前はイルマと交流した」
「……うん」
イルマちゃんは家がお隣さんだし同性だし若くてかわいい女の子だから、仲良くなろうと思った。イルマちゃん自身がいい子だったから、仲良くなれたんだ。
「次に、お前はイルマを介して村の仕事に関わった。仕事を通して、子供たちとも知り合った」
「そう、だね」
ヴァシュタルに仲介してもらう手もあった。けれど、折角仲良くなるためにこの村へ来たのに、村の人と距離を置いても仕方ないと思う。ジラルダークだって、そのくらい考えつくだろう。
「そして、イルマや子供たちを通して、村の大人たちの警戒を解いた」
「……解かれてるか、微妙だけど」
子供たちは、村の大人たちが悪魔を襲うと誤解した。まだまだ、警戒されている。十分仲良くなれたなんて頷けない。
「俺が単独で来ていたとしたら、このような結果にはならない」
「そんなことない。ジルの人となりを知ってもらったら、村の人と仲良くなれてるよ」
私の言葉に、ジラルダークはやわらかく微笑んだ。突然、表情を緩めた彼に、私は目を見開く。
「そう。知ってもらえれば、だ。お前はその努力を怠らない。俺は、……俺が一人で来ていたならば、自分を知らせるよりも先に、村のニンゲンを知ることを優先させただろう」
「でも、それは私だって……」
「お前の言う、相手を知ろうとする、とは随分と違う。俺は決して、ニンゲンに手の内を見せない。自身を隠したまま、相手を探る」
ジラルダークの言葉に、私は何も言えずに口を開閉させた。違うと否定したかったけれど、私の知るジラルダークだったら、魔王様だったらきっとそうしていただろうと、納得してしまったのだ。
「俺も警戒し、ニンゲンも警戒する。改善されようはずもない。そして俺は、絶対的な悪魔の王だ。悪魔が幸せであれればいい。ニンゲンは優先しない」
だから滅ぼすだろう、とジラルダークは静かな声で断言した。
「元はと言えば、ニンゲンたちに悪魔の武力を見せつけるための侵攻だった。そもそも、アサギナの村へこうして足を運んでいたかも疑問だな」
ヴァシュタルが来た時、ジラルダークはアサギナの人たちを守ろうとしていた。やさしい人だから、必要以上に傷つけないようにしていた。けれど、ジラルダークは、悪魔の王様だ。悪魔の力を示して、アサギナを手中に落として、それでもなお、ニンゲンが悪魔へ攻撃を止めないと分かったら……。その時はきっと、非情な決断を下しただろう。自分の胸の内を、ずたずたに傷つけながら。
「カナエ、お前がいなければ、俺はこうしてニンゲンの村で子供と遊び、呑気に笑ってなどいられなかった」
「ジル……」
「誇るといい。お前は俺の、魔王の唯一だ」
ジラルダークの指先が、私の唇をなぞった。私は、彼の言葉に何も返せない。ただ、私を見下ろしてくる赤い瞳を見上げていた。
腕をジラルダークへ向けて伸ばすと、彼は私の上半身を持ち上げるようにして抱えてくれる。どちらからともなく、唇を重ねた。角度を変えて、何度もキスを交わす。熱の籠った息をお互いに吐いて、額を合わせた。
「お前自身を卑下する必要も、后として気負う必要もない。俺ももう、お前に情勢を隠しはしない。不安や危険があれば、俺が全て受け止めよう」
「過保護すぎだよ」
「俺の隣より、解放する気はないからな。お前は俺の隣で、永遠の時を生きるんだ」
「……うん。もう逃げない。言い訳もしない。私は、ジルと一緒に生きるよ。危なかったら、ちゃんと叱ってね」
「ああ、よくお前の体に言い聞かせよう」
「いや肉体言語はちょっと……。まずは、言葉でお願いします」
くすくすと、お互いに笑う。合わせた額が、暖かい。笑うジラルダークの息が唇にかかってくすぐったい。ジラルダークの肩に回した腕を外して、彼の頬を撫でた。ジラルダークの大きな手が、私の手を掴む。見つめた彼の赤い瞳の奥には、隠しきれない熱が揺らめいていた。
ああ、この人に出会えて、見初められて、よかった。
「ジル、愛してる」
あの日と違って、その言葉はするりと口を衝いて出る。ジラルダークは息を飲んだ、と思ったら、強い力でベッドに押し倒された。長い黒髪の間で、ジラルダークは余裕のない表情をしている。魔王様だったら見せない、私だけの顔だ。
「あまり煽ってくれるなよ。寝かせてやれんぞ」
「明日はさすがに、村の仕事を手伝わせてね」
笑って応えると、ジラルダークは目を細めて口元を吊り上げた。私は手を伸ばして、ジラルダークの広い背中に腕を回す。私に引き寄せられるがまま、ジラルダークは体を重ねてきた。肩口に顔を埋めて、彼の匂いに満たされる。
この世界にきて何よりも近くにあった、私の安心できる唯一の香りだ。彼の腕の中にいれば、怖いものなんてない。そう、冗談じゃなく思わせてくれる、私の魔王様だ。
ことり、とベッド脇のボードの上にジラルダークが腕輪を置く。私は彼の肩から顔を上げて、ジラルダークの瞳を見つめた。
「ジル、明かりも……」
「ああ」
囁くように頷いて、寝室に揺らめいて燃えていた蝋燭の炎が消える。月明かりの中でも分かる、赤い瞳が一度堪えるように伏せられた。次、見えた時にはそこにあるだろう熱に、私の余裕もなくなるだろう。
あ、忘れずに回復をしてもらわないとな、と私はジラルダークの腕の中で笑った。