112.不安の夜
それから、日が暮れて、随分と暗くなってもジラルダークは帰ってこなかった。然程食欲もなかったからクッキーを数枚摘まんで済ませた。ジラルダークがお腹を空かせて帰ってきてもいいように、彼の分の夕飯は作って貯蔵庫にある冷蔵庫に入れてある。
魔王様に見初められてからこちら、ここまで完全に一人きりになったのは初めてに近い。いつも、何だかんだベーゼアがいたり、メイド悪魔さんがいたり、メイヴがいたり、魔神の誰かが構ってくれたりしてたからだ。メイヴを呼び出そうと思えば呼び出せるんだけど、そんな気分でもなかった。
無心で寝支度を整えて、ベッドに腰かける。
そういえば、ジラルダークが帝国との戦争に行くって時も、こうして一人で寝ようとしたっけ。あの時は、心配したベーゼアが控えていてくれたんだよね。しかも、夜中にジラルダークが迎えに来て戦場へお持ち帰りされたし。
思い出して、苦笑いを浮かべる。迎えに来てほしいのか。一人じゃ寝られないから?ジラルダークは、悪魔を守るために必死になってるのに。
「一人ぼっちで眠れないって、子供じゃないんだから……」
馬鹿馬鹿しくて呟いて、一層空しくなる。帝国との戦争の時は、ただただ、ジラルダークたちが心配だった。悪魔の誰も傷付かなければいいと、荒唐無稽な願いを抱いた。まさか叶えられるとは思っていなかった願いは、やすやすと魔王様が叶えてくれた。
「ジル……」
左手の薬指に付けられた指輪を、抱えるように握りこむ。
傷付かないでいてほしいという願いは、ジラルダークが叶えてくれた。愛情を上手く返せないという私を、溢れんばかりの愛情で包んでくれた。戯れに甘えても、笑って許してくれた。寂しさも、悲しさも、感じないように大切に大切に守ってくれた。
じゃあ、私は何を返せてるのか。
ニンゲンと悪魔の和解をできるだけ手助けしたいと願っても、私の手が届く範囲はとても狭い。この村でさえ、まだ私たち悪魔を警戒する村人の方が多いくらいだ。
何もできない。私一人の力なんて、何もない。お気楽に毎日を過ごしているだけの、何の役にも立たない一般人。この世界へ来る前から、私の評価は変わらない。無責任な心配と、無力な願いを繰り返すだけの、雑魚だ。
何をすればいいか、何ができるのか。ジラルダークの隣に胸を張って立てるようにと、何度となく自分へ繰り返した問いだ。繰り返していても、頭の奥底では分かってる。
何をすればいいか。力も知識もない私が考えつけることなど、彼らがとっくに思いついて試してる。数百年を生きてきた彼らとの差は、焦って埋められるものじゃないんだ。
何ができるのか。力も知識もない私は、何をしても自分の尻拭いすらできない。彼らの迷惑になる未来しか見えなかった。
思考の海で堂々巡りを繰り返して、無様な結論を避けるだけなんだ。
「だから、これが愛されし子を仲間外れにしてるというのに……」
ふわっと、花の香りがした。
「メイヴ?……って、あれ?」
声も聞こえた気がしたけど、メイヴの姿はない。辺りを見回しても、ただ、ろうそくの明かりに揺らめく静かな空間があるだけだ。香ったはずの花の匂いも、もう一度嗅いだ時にはもう残ってはいない。
気のせい、かな。
私は、頭を振ってろうそくを消すと、ベッドに潜り込む。温もりのないシーツは、ひんやりと全身を覆った。体を震わせて、私はベッドの中で縮こまる。
寂しくて幻聴でも起こしたのだろうか。馬鹿らしい。日本にいた頃は、慣れてたじゃないか。一人で生きていけるように、ちょっとやそっとじゃ凹んでなんていられなかった。凹んでたってくじけたって、時間は待ってくれない。どうしたって一人で生きなきゃいけなかった。お金を稼いで、衣食住を整えて、独り身の将来を見据えていかなきゃいけなかったんだ。
そう、思い出すんだ、夏苗。日本にいた頃を忘れるな。一人で立てなきゃ、私は生きていけない。自立しろ。寄りかかるな。
私は甘えすぎてたんだ、ジラルダークに。大切に包み込んで、ふらついても当然のように支えてくれて、温かく心を満たしてくれる魔王様に、私は……。
だから、胸の奥に満ちる感情は、気付いちゃいけない。
「ダメだ、うん、大丈夫。私は一人で立てる。一人で立たないといけない。自立しよう。父さんにも母さんにも、……ジルにも、誰にも、頼らない」
そう。日本にいた時に、何度も言い聞かせたことだ。こちらへ来てからすっかり忘れていた。居心地のいい温もりに、甘えすぎていた。
「頼らない。負担にならない。私は、一人で生きる。甘えるな。大丈夫、出来る。頼るな。大丈夫」
両親を亡くした私を引き取ってくれた義両親。面倒な環境の私を親友だと笑ってくれた友達。男の人と付き合ったことなんてなくて、きっと女性としては下の下なのに、受け止めきれないほどの愛情で包んでくれるジラルダーク。
とても大切で、だからこそ、私なんかが負担になるわけにはいかない。私のために心労をかけるなど、あってはいけない。
彼がここにいないから寂しいだなんて、思っちゃいけない。
笑うんだ。今すぐに。ジラルダークに悟らせない程、完璧に。そう、前に大介くんがジラルダークに教えたじゃないか。魔王の妻としてにっこり微笑んで、ご飯にする?お風呂にする?とでも聞けばいい。
「私は魔王の妻なんだから。自立しないと。大丈夫。今までだってできた。大丈夫、ジルの負担になんか、なりたくない……!」
「やめてくれ、カナエ!俺を、拒絶しないでくれ……っ!」
っ!?
叫び声と共にぐいっと腕を引かれて、ベッドの中から引きずり出された。たたらを踏んで立ち上がると、月明かりの中に泣きそうなジラルダークの顔が映る。
「な、んで、」
日本にいた時から、自分へひたすらに言い聞かせていた。呪詛にも似た独り言を、一番負担になりたくない人に聞かれてしまった。
「頼む、拒絶しないでくれ。俺は何が間違っていた?どうして俺から離れようとする?俺はどうすればいい!俺は、もう、カナエにとっていらない存在か!」
「ち、ちが……、」
「何が違う!俺から離れるのだろう?俺を、捨てるのだろう!」
怒りに身を任せて声を荒げるのとは違う、悲痛な叫びに私は二の句が継げなくなる。縋りつくように、ジラルダークは膝を折って私の両腕を掴んだ。
「頼む……!頼むから、俺を一人にしないでくれ!俺を、置き去りにしないでくれ……っ!」
「置き、去り、になんて、しないよ」
喉の奥が熱い。声が震える。上手く、笑えない。
「私は、あなたの、隣に立ちたい。できるかぎり、胸を張って」
今の私じゃだめだ。今の私は、何もできない、何もするべきことがない、ただの雑魚だ。何もかもを背負う悪魔の王とは、違いすぎる。
「今のままじゃ、私は、足手まといすぎる。負担、でしょう?」
「何が負担なものか!お前がいるだけで、どれほどに俺が救われたのか、お前は分かっているのか!」
「私は……、だって、私はジルに何も返せてない!」
つられて、私も声を荒げてしまった。けれど、喉の奥に溜まっていた熱いものは、堰を切って溢れだす。
「ジルはたくさん私を愛してくれてる!大切に大切に守ってくれてる!こんなにも甘やかして!ううん、私だけじゃない!悪魔のみんなを、あなたが守ってる……!じゃあ、私は!?私は、あなたに何を返せてるの!?あなたが過去にうなされても、戦争に行っても、今だってニンゲンと悪魔の間で板挟みになっても、私には何もできないじゃない!」
何もしなくていい、そばにいるだけでいいとジラルダークは言うけれど、私は自分を雑魚だと蔑んで、満足に顔も上げられないほどに情けないまま、ジラルダークの隣に立ちたくない。
「私は、……私は、ジルが大好きだよ!好きな人が苦しんでるのに、何もできない自分が、情けなくて、憎くて、殺してしまいたいくらい……!」
「カナ、エ……」
「無力で、無知なのは自分が一番分かってる……、こうして我儘を言うのも、ジルにとって負担だって分かってるよ!だから、私は一人で立たないといけないの!」
「よせ、カナエ……!」
「私は甘えたくない、頼りたくない、負担になりたくない!」
「カナエ!」
強い力で腕を引かれて、私は膝を折った。崩れ落ちた先は、ジラルダークの胸の中だった。寄りかかりたくないと思うのに、私の体を抱くジラルダークの腕が強すぎて、身動ぎすらできない。抜け出す力すら、回避する知恵すら、私には無いのだと突きつけられた。
「甘えてくれ、頼ってくれ……。俺は、お前が俺へ甘えずに、頼らずにいる方が負担だ。一人立とうとするお前を屈させてでも、そばへ置きたいと願ってしまう!」
「っ……!」
「お前にとって、俺という存在がなければ生きれぬほどに俺へ甘えてくれ。俺を頼りにしてくれ。俺が、嫉妬の炎に身を焦がさぬうちに……!」
痛いほどに、きつく抱き締められる。逃げられない、これは、凶悪な檻だ。
なのに、心地いいと思ってしまう。安心してしまう。逃げたくない、離してほしくない。引き返せない道に、随分と前に踏み込んでいた。
「もう、俺はお前を離せない……。逃がしてやれぬ」
「私だって、もう、一人じゃ立てないよ……」
「カナエ、愛している。どうか、永久に俺のそばにいてくれ」
ジラルダークの背中に腕を回して、私は彼の肩口に顔を埋めた。私が抱き着いたのを感じて、ジラルダークが安堵したかのように息を吐く。深く抱き直されて、私もジラルダークを抱え直した。
お互いに感情が高ぶったせいで荒れていた呼吸を整えながら、お互いの体温を分け合う。ジラルダークに抱き締められると、あれだけ頑なだった感情が溶けていく。何というかもう……。
「ダメだ……、ダメダメだ、私たち……。ダメな大人宣言しただけじゃないか……」
思考が落ち着いてきたら、分かる。何だ今のやり取り。ヤンデレか。
「駄目でいい。駄目なままでいい。お前を手放すくらいならば、俺は立派になどなりたくもない」
頬にかかる息が、熱い。全身を覆っていた冷えた感触がいつの間にか遠くに押しやられていて、代わりに胸の奥から込み上げてくる安堵があった。私は、どれだけこの人に依存してるんだろう。
ジラルダークの肩口から顔を上げて、彼の顔を見上げた。ジラルダークは、どこか切なそうに微笑んでいる。
「新妻を一人置き去りにした罰か。寂しくさせたな、すまない」
「ッ!」
図星を突かれて、私はぐうの音も出なかった。そうだ、元はといえば、一人でぽつんと残されて、思考が斜め下に向かったんだったわ。
「無力だと嘆く必要はない。お前の手には、お前には分からぬ力がある。魔王である俺が保証しよう」
「そんな……、私は、そんな力も、何も……」
「お前の手が、俺のうちに眠る苦しい過去を暖かく包んだ。お前がいなければ、俺は決してアサギナを救わなかった。お前がいなければ、ニンゲンとの和解の道を見いだせなかった。お前がいなければ、これほどに人を愛しむという感情を知らなかった」
ジラルダークのあたたかい唇が、私の頬に触れる。味わうようにゆったりとなぞって、彼の唇が私の唇と重なった。触れるだけの、やわらかな感触が熱を持って胸の奥を締め付ける。
「もっと、あなたの役に立ちたいよ……」
「もう充分だ、と言いたいところだか……。納得できぬのであれば、それはベッドの中で願おうか」
ああ、どうして。
腕の中に温もりがあるだけで、こんなにも違うのか。頬を寄せられる場所に熱があるだけで、底冷えするような胸の澱は消えていくのか。
「……ばか」
抱き上げるジラルダークにされるがまま、私は彼の体を抱き締める。もう駄目だ。私はもう、戻れない。ジラルダークをヤンデレだなんて笑えない。これが、心地いいなんて。
お互いの熱を分け合って、溶かし合う夜は、重く圧し掛かっていた不安を甘く打ち消すのだった。