103.白狼の奮闘
【ヴァシュタル】
俺がアサギナの領主となってから半月が過ぎた。魔王からの援助を受けていた当初こそ然したる問題もなく過ぎたものの、諸々の事情が落ち着いてくると、滲むように不平やら不満やらが湧き出てくる。俺に協力的な町長はそれを伝えてくるが、そうでない者は、情けないながら悪魔の協力者から伝え聞いていた。
「物資を運び入れた拙者の民が、不当に罵倒されたでござるよ。全く、拙者の補佐官を横取りしておきながらこの体たらくとは、お里が知れるでござるなぁ」
嫌味ったらしく笑いながら、トウドウは平伏する俺を見下す。アサギナ領への物資の補給は、ボータレイが補佐官をしている悪魔の領地の主から行われていた。その主が、この男だ。俺が悪魔の領地に迷い込んだ時にもいた、悪魔の中でも特に奇抜な恰好をした男だった。
悪魔を、……いや、俺らとは違う概念で生きる彼らを差別するな、俺達は彼らに救われたと、俺は何度アサギナの民に説明しただろうか。届いた者もいれば、届かない者もいる。
「言の葉程度ならば、拙者からの叱責で許そう。だが、万が一にも陛下の民を傷つけてみよ。貴様の民諸共、焦土に変えるぞ」
ぎらりと目を光らせて、トウドウが言う。俺は、ただただ平伏して許しを請うた。トウドウから滲み出る底知れぬ力のせいだけではない。魔王であるジラルダークも、その部下であるダイスケも、俺を指導したボータレイもエミリエンヌも、一度決めたならばそれを貫き通す強さを持っていた。
元々、彼らの俺達への嫌悪感は計り知れない。俺程度の平伏でどうにか済んでいるのは、恐らく魔王の后であるカナエのお陰だろう。カナエ自身、俺の接してきた彼らの誰よりも慈悲深かった。その上、カナエには精霊の王が付き従っている。これほどに不敬を働いて、それでもまだ命を保てているのは、確実に二人のお陰だった。
「大変申し訳ございません。陛下に逆らう者どもは、わたくしの方で早急に片付けさせて頂きます」
地面に額を擦り付けても、不思議と反抗心など湧かなかった。むしろ、この程度で済まされれば万々歳だと、謝罪しながらも心の奥で思う。
「そろそろ、面倒になってきたでござるな」
そんな俺の心の内を読んでか、トウドウが溜め息混じりに零した。俺は、顔を上げないままに目を見開く。
悪魔と称する彼らに、俺達人間を支配下に置くメリットはない。むしろ、足手まといもいいところだ。だというのに、俺達は彼らを迫害する。まるで、俺達の方が彼らよりも上位だと言いたげに。
アサギナの領主になってから、俺はそれまで放棄してきた様々な言葉を尽くしてきたつもりだ。地下牢にいる間に死を身近に感じていたからか、魔物の本能が告げるからか、彼らが冗談ではなく俺達を駆逐できる存在だと、俺は確信していた。
「とはいえ、拙者の補佐官は貴殿の教育係として尽力しておった。このまま拙者の補佐官が無能と称されるのも腹立たしい」
俺の頭上に降ってくるトウドウの声は、先程までと打って変わってどこか楽しそうに弾んでいる。
「面を上げよ、ヴァシュタル」
トウドウの声に従って顔を上げると、彼は口元を吊り上げて俺を見ていた。ぞくりと背筋が震える。
「貴殿は、貴殿の民を守るためであったら、何でも出来るでござるか?」
トウドウの言葉は、まるで俺を試すかのように投げつけられた。俺は、震えそうになる唇に力を込めて頷く。
「わたくしの命で購えることでしたら、何でも致しましょう」
彼らの基準で出来ることも、俺には難しい。だが、この命一つでアサギナの民を守れるならば、一度は捨てた命だ。喜んで差し出そう。
頷いた俺に、トウドウは更に笑みを深めた。俺達二人しかいないはずの応接室に、不意に花の香りが満ちる。トウドウは分かっていたことのように視線を横へ流した。
「うまく誘導できたでござるか?」
「ええ、問題ないわ」
ふわりと風を纏って現れたのは、ここ最近ですっかり馴染んだ精霊の王だった。名前は知れないが、精霊の王は彼らと違った価値観で行動しているということは痛いほどに分かっている。
精霊の王は、まず大前提としてジラルダークの妻であるカナエの命令を何よりも優先していた。カナエが呼べばそちらへ何を置いても戻るし、カナエがアサギナの復興を手伝ってくれと願えば、精霊の王はジラルダークたちとは別に俺達の力になってくれる。
ただ、一つ注意しなければならないことは……。
「愛されし子は言い出せないようだったけれど、悪魔の王と人形の子を誘導すれば簡単だったわ。ふふふ、慌てる愛されし子は堪らなく可愛らしかったわよ」
そう。カナエの意思に関係なく……、というよりも、カナエの深層心理に基づいて行動をすることがあった。カナエが命令などしなくとも、この精霊の王はカナエのために動く。精霊というのは人間の心の奥底が見えるらしかった。
「アサギナ領主の了承も取り付けたところでござるからな。後は、魔神を幾人か引き込めば実行に移せよう」
俺は何をすればいいのか。そうは思うものの、俺に口を挟む権利などない。アサギナの大恩人に対して暴言を吐いただけでも粛清されて文句は言えないところを、温情で生かされているのだ。
「なるべくならば、二人で行動させてあげたいのよね。となると、血の結晶の子か、百面相の子かしら」
「トゥオモかアーロでござるか。妥当ではござるが、ふーむ、滞りなく気遣いが出来るのはアーロでござろうか」
「血の結晶の子も、お願いすればきちんとしてくれるわよ?」
「男女の、となると、トゥオモには荷が重いでござるよ。トゥオモは、陛下が最優先でござるからな」
そうなのかしら、と言いながら、精霊の王はふわりふわりと宙を漂う。トウドウはそれを目線だけで追いながら、長机に肘をついた。
「それに、アサギナ領主を同行させるでござるよ。となれば、拙者と懇意の者の方が都合がいいでござる」
「貴方の補佐官に叱られそうだけれど」
「そこはまぁ、何とかなる……と思うでござる」
呆れたように言う精霊の王に、トウドウは視線を逸らしながら答える。俺は平伏から顔だけ上げた体勢のまま、じっと彼らの様子を窺った。
ボータレイとエミリエンヌから教え込まれたのは、まず置かれた状況を把握することだった。自身が今、どの立ち位置にいて、対峙する相手はどういった立ち位置にいるのか。そこを見誤れば、一気に破滅へと近付く。これに関しては、魔王と対峙した俺自身の経験が役立った。
魔王は、魔王と称されている割に随分と慈悲深かったのだと、今になって深く納得する。ジラルダークは、常に俺達を生かすように行動してくれていた。アサギナを攻め落とそうとする帝国への盾となり、焦土と化したアサギナへ豊富な物資を運び入れ、だというのに領地としての管理はアサギナの民である俺に任せる。
現状で、アサギナから悪魔と称される彼らへ献上できていることは何もなかった。土地を渡すわけでもなく、領民を取られたり農作物を取られることもない。だというのに、彼らはアサギナの城を、街を、村を、復興してくれていた。
地下牢に閉じ込められる前に見た、平和で穏やかな風景が、彼らの手によって蘇っていく。その様に、俺は俺に誓ったのだ。彼らから死ねと命じられれば、喜んで従おうと。
「愛されし子と悪戯好きの子は同郷だものね。もっとたくさん、愛されし子を喜ばせることを考えてあげて頂戴」
精霊の王の言葉に、トウドウは喉を鳴らして笑った。精霊の王が言う悪戯好きの子は、俺の目の前に座るトウドウのことだろう。トウドウとカナエが同郷ということは、トウドウの領地でカナエは生まれたのだろうか。
彼らの事情については謎が多かった。長年生きる、強大な力を手に入れている、ということは分かっている。けれど、それ以上の情報は知らされることはなかった。長年信じられてきた災厄や疫病の原因も、彼らではない。その程度でしか認識できなかった。それほどまでに、俺達は彼らに警戒されている。伝える情報の一つも精査されていると、俺は感じていた。
トウドウは、何をさせられるのか構えている俺を見て目を細めて笑う。考えの読めない笑みに、俺は口の中がからからに乾いていくのが分かった。
「貴殿はこれを最後の機会と心得よ。万が一にもしくじったならば、貴殿の首一つで済まない可能性もござるがな」
「!」
「それだけ、重要な任に付けようというのだ。喜ばしい事でござろう?」
「っ……、は、光栄の極みにございます」
反論など許されるはずがない。どんな無茶な要求をされても、俺はそれを全力でこなすだけだ。
「随分と訓練されたでござるなぁ。補佐官にも褒美を取らせねばらなぬでござる」
「ふふふ、私も愛されし子に褒めてもらえるかしら」
「それとなく口添えしておくでござるよ」
トウドウの言葉に含み笑いながら、精霊の王は応接室の中空を舞う。ああ、そうか。そうだ、精霊の王はカナエの絶対的な味方だ。精霊の王が加担しているのであれば、カナエの拒むようなことはしない。彼らのやり取りから察するに、カナエに褒めてもらえる何かを俺に求めているらしい。
「アサギナの領主殿。貴殿が犯した失態を拭う機会を与えるでござるよ」
酷く尊大に言葉を紡ぎながら、トウドウはにんまりと口元を持ち上げて俺がこれからどうするべきかを説明した。
トウドウの話す内容に、俺は口元が引きつっていくのを感じる。ああ、確かに、これは命懸けだ。一瞬の油断も許されない。俺の首を撥ねるのは、トウドウではないのだ。だからこそ、この男は俺にこんな無理難題を押し付けてくるのだろう。
上手くこなせれば、アサギナはしばしの平穏を約束される。下手を打てば、その場で俺は首を撥ねられるし、アサギナの存在自体が消えるだろう。
だが、その条件も飲まないわけにはいかない。今この場で目の前の男に滅ぼされるか、数日後に魔王に滅ぼされるか、些細な差でしかないのだ。
「謹んでお受け致します」
現時点で選択肢などない。数日の猶予の間に、俺は俺に出来る最善を尽くすのみだ。
再び頭を垂れた俺の頭上で、トウドウが忍び笑う声が聞こえる。ここから数日の後、アサギナが残っているのか焦土に変えられているのかは、今の俺には分からなかった。