102.魔王の情愛
よく知る硬い指先が髪の毛を撫でる感触に、まどろんでいた意識が持ち上げられる。ぼんやりと瞼を持ち上げると、見慣れたイケメンが微笑んだ。ぼやける視界のまま視線を左右に振れば、窓の外で高い位置にある太陽と、ベッドに横たわって頬杖をつくジラルダークがいる。
ゆっくりと、状況が飲み込めてきた。そう、そうだ。私は昨夜、どうやってジラルダークにいっぱい愛してるんだよって伝えようかって試行錯誤して眠れずにいたんだ。どうにかこうにか今朝、目覚めたジラルダークに伝えて、ああ、うん、そうだった、安心して寝ちゃったらしい。
「ジル……」
窓の外の陽は随分と高い。いつもだったら、ジラルダークは魔王様としてのお仕事をしてる時間だ。私は諸々の事情でゆっくり起きることが度々あるけど、二度寝から目覚める頃にジラルダークはいない。いつもは魔王様のお仕事に行ってるからだ。だというのに今、ジラルダークは私の隣に寝そべったまま微笑んでいる。
「おはよう、カナエ。体は大丈夫か?」
やさしく響く彼の声に、私はこくりと頷いた。寝ぼけて軽く掴んでいたジラルダークのシャツをそのまま握り締めると、鼻が触れ合うくらいに至近距離のジラルダークは笑みを深める。これで、窓の外に見える太陽のようなものが高くなければ、私は覚醒したばかりのふにゃふにゃな思考のままだっただろう。けれどこの世界でも、太陽のようなものは、元の世界と同じように時間を示していた。つまりは、この時間帯であるなら、私は一人で起きるのが常のはず、なんだけど。
もぞもぞと目を擦ると、ジラルダークの手が私の手を掴んだ。ほんのり暖かい彼の手に、何となくほっとする。
「あまり擦ると赤くなってしまうぞ」
「んん……」
「疲れが取れていないようならば、もう少し眠るか?」
心配性にもほどがある魔王様の言葉に、私は首を振った。疲れが取れてないわけじゃなくて、この環境が眠気を誘うってだけだ、これ。
「大丈夫。けど、ジル、魔王様の仕事は……?」
「急ぎがあれば伝えさせるようにしている。今日は魔王も休日だ。何も問題はない」
言いながら、ジラルダークの大きな手がふんわりと私の頭を撫でた。触れるか触れないかの絶妙な手つきがくすぐったくて肩を竦めると、それを合図にしたかのようにジラルダークの腕が私の腰を引き寄せる。
ほとんど隙間もないほどに全身がぴっちりと密着して、私は息を飲んだ。とはいえ、ジラルダークに抱っこされるのは安心できて好きだから、すぐに私は全身の力を抜く。
そのまま目の前にあるたくましい胸に誘われるように、私はジラルダークの体に腕を回して彼の胸元に頬を寄せる。ぴったりと胸に耳を寄せれば、とくとくとジラルダークの鼓動が響いてきた。彼を生かしている音に、泣きたいほどに安心する。
悪魔たちが唯一祀り上げる、誇り高き魔王様。けれど、私の腕の中にいるのは、とても傷付きやすくてとても優しくて、何よりも愛しい唯一の存在だ。
愛しい。愛してる。誰よりも、何よりも大切にしたいと思ってる。伝えたいけど、私の口はうまく回ってくれなかった。想いを伝えようとすればするほど、どんどん言葉が見つからなくなっていくような、不思議な感覚だ。
どうしようもなくてジラルダークを抱き締める腕に力を籠めると、まるで分かっているとばかりにジラルダークはくすりと笑う。
「カナエ」
やさしく呼ばれてジラルダークの胸元から顔を上げると、そのまま深くキスされた。唇を軽く噛まれて舌を絡められる。肉厚な舌が、逃げる私の舌を絡めて吸い上げた。不可抗力で響く濡れた音が恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだ。何度も角度を変えて、まるで貪られてるような錯覚に陥る。っていうか、こんなの、起き抜けにされるキスじゃないでしょうよ!なんで、こんな、いつも夜にしてくるみたいなキスしてくるのさ!私、まだ朝ご飯もお昼ご飯も食べてないんだけども!むしろ、私にとっては今が朝なくらいなんだけども!
「んぅ、じ、る、ちょっ……んんっ、まって、ジル、んっ……!」
ジラルダークを宥めすかして隙を見て逃げようにも、そもそも喋る隙すらもないし、物理的に全身密着する勢いで抱き締められてるから、満足に体を動かすこともできなかった。ジラルダークは私の言葉に答えるまでもなく、逃がさないとばかりに私の後ろ頭を大きな手で掴んでがっちりと固定させる。ついでに足まで抱えるように絡められた。激しいのに甘いジラルダークのキスに舌が痺れて、頭の芯がぼやけていく。
ジラルダークにキスされるのも、抱っこされるのも、……その先も、私にはとても魅力的だし、蕩けそうなほどに心地いいのも知ってる。んだけども、駄目だ、これじゃ、ジラルダークの思うつぼだ。しかして、イケメンで恋愛レベルも私より高いうえに全力でこちらを攻略しにかかってる魔王様を退けようってったって、どうしたらいいのか。抱え込んでくる魔王様を押しのけるほど私に腕力はないし、そもそも、今、自由になるのはジラルダークの背中に回してる手ぐらいだ。他はホールドされてて動けない。
キスの合間に、どうにかこうにかジラルダークの背中に回していたままだった手を動かすと、べしべし、と彼の背中を叩いて抗議した。パンピーの、涙ぐましい精一杯の抵抗だ。
それに気付いてか、ようやくキスが止んだ時には、私は息も絶え絶えになってる。だって、言葉ではなんとか愛してるって伝えられたけど、私自身の恋愛レベルが上がったわけじゃない。こんな、息も食べられるようなキスに、抵抗できるはずもないんだ。ジラルダークは絶対に、それを知ってて私を翻弄する。
こんにゃろうめ、何するんだとジラルダークを睨むと、彼は目を細めて微笑んだ。その表情すら無駄にイケメンなのが腹立つ。
「んもう、ジル、何すんのさ」
「俺からも、お前に愛を示さねばと思ってな」
「へっ?」
言いながら、今度はジラルダークの手が私のワンピースを脱がせにかかってきた。ちょちょちょちょ!こんな真昼間からですか!?
「ま、待った!え、ちょ、今から!?」
「カナエには今朝、充分な愛情を貰った。今度は俺の番だろう?」
にいっと口元を吊り上げて、ジラルダークが至近距離で私を覗き込んでくる。なんてこった、仕返しか、魔王様!
「わ、私だって、いつも充分貰ってます!」
「いいや、まだ与え足りないな」
即、否定されて、ついでに魔王様の赤い舌がぺろりと私の唇を舐めた。醸し出されるすさまじい色気に、ぞくっと背筋が震える。お、男だろ、魔王様は!何でこんなに色っぽいんだ!ちくしょうめ!
「カナエに貰う愛情の、一欠片にでも達しているかどうか。お前の慈悲深い愛の前には、俺に出来うる精一杯で応えても追いつけん」
そう言いながらにんまりと笑うジラルダークは、ああ、うん、これ、絶対。
「ジル、からかってるでしょ!」
私はジラルダークの背中に腕を回したまま、彼が纏うシャツを掴んで睨む。
「まさか。お前への感情は、いつ何時であろうと俺の本心だ」
ここで、ほら。ジラルダークは今までの悪戯な笑顔を収めて、真剣な赤く濡れる瞳で私を射抜くんだ。柘榴のような瞳の奥に揺れる熱情に絆されまくってるから、私は魔王様から逃げられない。何度、捕らわれたことか。こんな状況が恥ずかしくて堪らないし、真昼間から何してんだって私の理性が叫ばないでもない。けど、ジラルダークに甘やかされて、求められる心地よさを知ってるから、こう、ちゃんと自分を奮い立たせないと、抵抗も満足にできなかった。
当然、私がそんな葛藤をしてることはジラルダークに筒抜けだろう。私が散り散りになりかけていた理性を掻き集める前に、ジラルダークは私の頬っぺたに自分の頬っぺたを擦り寄せて甘えてきた。
「駄目か……?」
眉尻を下げて、ジラルダークが私の顔を覗き込んでくる。さっきまで色っぽく迫ってきてたはずなのに、くっ、可愛い……!
いや、うん、起き抜けで、しかも日も高い時間じゃなければ、別に私はジラルダークを拒む気は全くないんだ。だから、こんな、懇願するように見られるともう、理性もどこへやら、とにかくジラルダークに応えたくなってしまう。
「だめ、ってわけじゃ、ない、けども……」
「けど?……俺とはしたくないか?」
「うぅ……、そういうわけでも、なくて……」
「ならば、いいか?」
「うぐぐ……!」
あああ、ここで、ダメですってちゃんと言えないといけないんだろうなぁ。そのうち、エミリエンヌのお叱りの対象に、魔王様、大介くんと並んで私も加わりそうだ。
エミリエンヌに叱られたらジラルダークのせいだ、うん、魔王様が手練手管でパンピー村人Aの私を攻めるのが悪い。初めて好きになった人に、こんな風に求められたら、応えたくなっちゃうのが漢ってもんだ、うん。
「ジルのいじわる……」
「お前にだけ、な」
精一杯の悪態も、ジラルダークは笑って受け流す。余裕たっぷりな彼の様子に、私は抵抗を止めた。無理だって。勝てるはずがないよ。
せめてもの仕返しだこのやろう、とジラルダークの肩に軽く噛みつくと、ジラルダークはくすぐったそうに笑う。こちらが抵抗を諦めたのを察したのだろう、止まっていた彼の手が、私の体を弄り始めた。強引な割に触れる指先はやさしくて、あっという間に抵抗しようなんて考えは霧散してしまう。
◆◇◆◇◆◇
そのまま何度も濃密に愛情を注がれて、魔王様がようやく攻めの手を休めたのは、窓の外が夕暮れに染まる時間だった。
「つかれた……おなかすいた……ジルの馬鹿……」
「ああ、すぐに夕食を用意させよう。それとも、先に風呂に行くか?」
ベッドに沈み込んでぶちぶち文句を言う私に、魔王様は元気ハツラツと言った様子で世話を焼いてくる。何でそんな元気なんだ、ちくしょうめ。笑顔がツヤツヤしててむかつくわ。しかも、嬉々として世話焼いてくるし。魔王様って、この国で一番偉い人なんだって分かってるのかね、この人は。
「ご飯食べる……」
「わかった。何がいい?好きなものを用意させよう」
と言われても、お腹は空いてるけど何が食べたいってのはないしなぁ。むしろ、体力使ったのはジラルダークの方でしょ。
「ん、特にないから、ジルの食べたいのでいいよ」
そう答えるとシーツごとひょいっと抱き上げられて、私は思わずジラルダークの肩に抱き着いた。咄嗟に出た仕草一つで、それはそれは嬉しそうに笑うもんだから、私は全身から力が抜けてしまう。うん、ジラルダークが元気になってほしくて頑張ったんだから、これでいいんだ。そう、私は正しいことをしたはずだ。だって、こんなに元気なんだもん。つやっつやだもん。
軽い足取りで食堂へ向かうジラルダークに抱き着いたまま、私はいつの間にか笑っていた。私が彼を元気づけられるなら、これ以上嬉しいことはないんだ。いじけて悪態ついたって私の本心を見透かす魔王様だから、こんなにも甘えられるのかもしれない。私も、ジラルダークにとってのそんな存在になれるといいな、と彼に抱かれたまま思った。