101.后の愛情
【ジラルダーク】
降り注ぐ朝日に、緩やかに意識が浮上していく。無意識に暖かくやわらかな感触に頬を寄せると、それはびくりと震えた。
何が起きたかを考えて、一気に覚醒する。昨夜、俺はカナエに何をした?情けなく泣いて縋りついて、あのままに俺は寝てしまったのか。慌てて体を起こすと、カナエは驚いたように目を見開いた。カナエは今しがた目覚めた感じではない。まさか、一晩中起きていたのか?
「すまない、重たかっただろう。寝れていないのではないか?」
昨夜の体勢のまま、カナエは俺を抱いて座っていたらしい。朝日の中、カナエは昨日と同じようにベッドに腰かけていた。
「だっ、大丈夫!全然、うん、大丈夫だよ!」
カナエは俺の言葉に首を振って、それから、何度か俺の顔を見ては視線を逸らし、躊躇うように口を開閉させる。
その姿に、昨日の俺を殴り飛ばしたい気分になった。優しいカナエは、俺に面と向かって文句を言えるはずがない。幻滅されただろう。カナエに幻滅されぬよう、あれほど気を付けていたのに、俺は何をやっているんだ。
「本当にすまない。横になってくれ。どこが痛む?よく眠れるように、睡眠の魔法をかけるから、その前に痛む個所を教えてくれ」
「眠くないし痛くないよ、大丈夫だよ!」
カナエは、俺の言葉にぶるぶると首を振る。だが、何も感じていないとは思えない。ああ、あのような醜態を晒した俺になど言えるはずもないか。
「すまない……、今、ベーゼアを呼ぶ。回復と睡眠の魔法ならば、ベーゼアも使える」
「へっ?何で、ベーゼア?」
俺の提案を遮って、カナエが素っ頓狂な声を上げた。
「いや、俺には言いにくかろう?」
しかし、カナエは心底不思議そうに首を傾げる。どうも、俺に頼りたくない、というわけではなさそう、ではあるが……。
「カナエは、俺に幻滅していない、のか?」
「幻滅って、え、何で?!」
驚きに目を見開くカナエから、俺は視線を外した。気遣いか、本心か。今の俺は、冷静に判断できる自信がない。
「昨夜、その、俺はお前に随分と情けない姿を見せただろう」
さすがにこれは、カナエの顔を見ては言えなかった。どんな表情で、彼女は今、俺を見ているのだろうか。失望がその瞳に映っていたならば、俺は、平静でいられるだろうか。
「何で、そんな、私は幻滅だなんてしてない!そうじゃなくて、ええと、えっと、ジル!聞いて!」
顔を上げられずに俯いていたら、カナエは焦ったように叫んでがしりと俺の両頬を掴む。やわらかく華奢な手が導くまま、俺は顔を上げてカナエの顔を見た。
俺の目を真っ直ぐに見つめるカナエは、その顔は、何故か赤く染まっている。熱があるのだろうかと一瞬考えたが、カナエの真剣な表情に俺は何も言えなかった。失望も、軽蔑も、その瞳には映っていない。ただ、只管に熱を持った眼差しで俺を見ていた。
暫くの沈黙の後、意を決したかのように、カナエは口を開く。どのような文句を言われようと、突き放されはしないならば俺に出来る限りの償いをする。カナエを手放すなど、もう、俺にはできないのだ。どのような言葉を投げかけられても動揺を隠せるように、俺は肝を据えた。
口を開いて、音にならずに閉じて、けれど、カナエは俺の頬を掴んだまま離さない。それほどに聞いてほしい訴えなのかと、俺は身構えた。
「あっ……、あ…………、あー……ぁ、……あの、ええと……、あ……」
ようやく言葉を絞り出したカナエは、余程俺には言いにくいことなのだろう、必死に言葉を探しているようだった。どのような叱責でも構わない、きちんと聞いている、受け入れる心構えもできていると言外に含めて、カナエの瞳を見つめる。カナエは、俺の瞳を覗き込んで、一度、深く呼吸した。
「あ、ぁ……あのね、ジル、私はっ……、私はね、その、ジルに沢山、たくさん優しくしてもらって、甘やかしてもらって、大切にしてもらって、だから、ジルに、ジルが、えっと、ううん、そうじゃなくて」
だから、俺を責めにくい文句の一つも言いにくいのだ、と解釈するにはあまりにも、カナエの表情も態度も俺を受け入れているように思えてしまう。俺は、冷静に判断できているだろうか。カナエに嫌われたくない一心で、好意的に解釈はしていまいか。そう思うのに、俺の頬を包む暖かい手も、真剣に俺を見つめる瞳も、厭う相手への態度ではないと感じてしまう。
一体、カナエは何を俺に伝えようとしているのだろうか。目の前の彼女は、言い淀むというよりも上手に感情を言葉に出来ないことがもどかしいとでも言いたげだ。自分に都合よく解釈をしていいものか判断できない俺は、身じろぎも出来ずに、ただカナエの顔を見ていた。カナエは頬を紅潮させたままに、彼女の言葉を口に乗せる。
「違うの、ジルが私にしてくれるからじゃなくて、そりゃ勿論それもあるけど、そうじゃなくて私は、私はね、いつもうまく言えなくて、ジルは、私にいっぱい言ってくれるのに、私はきちんと応えられてないかもしれないけど、だけど、あのね、私も、私だって、ちゃんと、ジルのこと、……あ、っあ……あ、うぅ……、」
赤い顔のまま、カナエは必死に俺を見てくれている。カナエは、ぱくぱくと口を何度か開閉させてから、覚悟を決めたようにぎゅっと瞼を瞑った。
「私だって、ジルのこと、あ、愛してるんだからね!」
唐突な愛の告白に、俺は目を見開く。カナエは沸騰しそうなほど顔を赤く染めると、今度は俯いて小さく震え始めてしまった。俺の頬に添えられていた手が離れそうになって、俺は思わずその手を掴む。
「……カナエ」
一体、何がどうして、醜態を晒したはずの俺は起き抜けにカナエから告白されているのか。頭の片隅で疑問には思ったが、それ以上に、カナエから向けられた最大級の愛情が嬉しくて堪らなかった。大の男が泣きながら縋りついてくるなど、普通は幻滅をするだろうに、カナエは俺を愛していると言葉にしてくれた。
人一倍に照れ屋で恥ずかしがり屋のカナエには、その言葉を紡ぐことがどれだけの努力だったろう。そうまでして、情けない姿を晒した俺に愛情を注いでくれるカナエを、どうして手放せようか。
「ありがとう、カナエ。俺も愛している」
随分と無理をしたらしい。真っ赤になって震えているカナエを、そっと抱き寄せる。カナエは羞恥から逃げるように、俺に縋りついてきた。言葉にせずとも、カナエの思いはこの態度だけで分かる。
俺が醜態を晒す前のことではあるが、愛していると告げる俺にカナエは、大好きだよ、とよく応えてくれていた。それが、カナエの言葉での精一杯の愛情表現であることも知っているし、俺は充分にカナエに愛されていると知っている。だからこそ、カナエに幻滅され厭われるのが怖かったのだ。
それでも、口元が緩むのを抑えられなかった。脳内で何度も反芻する。先程から挙動不審だったのは、カナエの中で必死に羞恥心と戦っていたのだろう。何と愛らしいことか。記憶を切り取って保存しておきたい。
「昨夜は本当にすまなかった」
「謝らないでよ。私、ジルに何されても幻滅なんかしないもん。それだけジルのこと、……あ、……ぅ、……大好き、だもん……」
もごもごと俺の胸に顔を押し当てたままカナエが呟いた。今度は羞恥心に負けたらしい。けれども言葉に込められた愛情が、俺を舞い上がらせる。俺に伝える言葉で悶えているというのに俺へ縋るカナエがあまりに可愛らしくて強く抱き締めると、応えるようにカナエも俺を抱く腕に力を込めた。近い場所にあるこめかみに唇で触れた俺へ、カナエは恥じらいを多分に含んだ視線を向ける。先程よりも赤みが引いたカナエの目元には隈ができてしまっていた。
「心配をかけたな、すまない」
こめかみに次いで目元に口付けると、カナエはくすぐったそうに微笑む。それから、じゃれるように俺の顎の辺りに口付けを返してきた。
「私はこんなにもジルに甘えてるんだからさ、ジルも私に甘えればいいんだよ」
「ああ。ありがとう、カナエ」
カナエを抱いたまま、そっと体を横たえさせる。カナエは然したる抵抗もせずにベッドに横たわった。布団をかけてやると、カナエはもぞもぞと体勢を変えて俺の方へ体を寄せてくる。俺も同じようにカナエの方を向いて、布団ごと彼女の体を抱き寄せた。
「言えたら、安心して眠くなってきちゃった……。ジル、もう、時間……、まおうさまの、しごと……いかないと……」
とろとろと、カナエは瞼を蕩けさせている。行けと言いながらしかし、彼女の手は俺のシャツを緩く掴んでいた。こんなにも愛らしい妻を振りほどいて行けるほどに、俺の理性は働き者でないぞ。
「大丈夫だ。今度は俺の番だな。このまま眠るといい」
普段、夜に寝る前と同じようにやわらかく髪を梳いてやると、カナエは眠気に抗えずに完全に瞼を伏せた。それでも、むにゃむにゃと半分以上夢の中で、カナエは引き続き俺の心配をしてくれている。俺はカナエの隣に体を横たえて頬杖をついたまま、ベーゼアとフェンデルに指示を送った。
勿論、今日はこちらに構わぬように、という魔王の命令だ。どうしても俺が出ねばならない場合にだけ連絡を寄越すようにと念を押しておく。幸い、口うるさいエミリエンヌはヴァシュタルにかかりきりだ。この好機を逃す手はない。
「おやすみ、カナエ。お前がそうしてくれたように、お前の夢路は俺が守ろう」
カナエの髪を撫でながら、俺は緩む口元をそのままに彼女の寝顔を眺めていた。カナエは俺のシャツを掴んだまま、安心しきって眠っている。起こさぬように何度かやわらかな唇を味わった。幾度目かの口付けで、カナエはふにゃりと相好を崩す。安らかな夢を見ていられているようだ。俺の中に燻る熱には無理矢理蓋をして、カナエの頬に唇を寄せる。
昨夜感じていた苦痛は、いつの間にか霧散していた。当時の記憶も苦しみも、俺の中には未だ重く圧し掛かっている。消えることはない、無力な俺の罪だ。それでも、今、俺の胸中を占めるのはカナエの与えてくれる暖かい感情だった。
「お前だけを愛している。もう、お前を手放してはやれぬほどに、俺は、お前を求めているんだ」
カナエの眠りを妨げぬように声を落として、俺は本心を唇に乗せる。カナエのやわらかな頬に唇を添えたまま、俺の吐く欲望がカナエの心の奥に届けばいいと、愚かな願いを込めた。
俺の声に応えたのかは知れない。だが、腕の中のカナエは俺のシャツを掴む手に力を込めて俺を引き寄せた。ただそれだけで、俺の内側は言い知れない感情で満たされていく。俺は苦笑して、カナエの唇に今一度自身の唇を重ねた。
「目覚めたら、どうか、俺の醜い欲望に応えてくれ」
俺は眠るカナエを今まで以上に深く抱き寄せて囁く。目覚めてすぐに求めれば、カナエは赤い頬のままにか弱い抵抗を示して俺を睨むのだろう。けれど、それはカナエの可愛らしい恥じらいにすぎないのだ。俺は、それを知っている。言葉で伝えることの苦手な彼女が、照れて俺を睨みながらも俺の服を掴んで離さないのだということも、俺は知っていた。羞恥心を超えて、カナエが俺に向ける愛情が心地よくて仕方がない。
カナエの目覚める数時間後にどのようにして彼女を愛しもうか思い描きながら、俺は瞼を伏せた。軽く泳ぐ夢の中に、あの頃の苦痛は残っていなかった。