99.魔王の過去3
※残酷な表現があります。ご注意ください。
【ジラルダーク】
視界を染めるように、赤い色が弾ける。目まぐるしく瞬く情景が、理解を遅らせた。ゆっくりと、目の前の色が情報化されて、凍りつく俺の脳内に落ちていく。
微笑んでいたサエオラが、こめかみに矢を生やして表情を固めたままに倒れていく。その横で、テラの小さな頭が武骨な岩に叩き潰されて赤い飛沫を上げる。俺と同じように目を見開いたダイスケを挟んで、ユーグの華奢な胸元にサエオラと同じ矢が不自然に生えていた。俺自身の横へと目を向ければ、首飾りを作ろうと言っていた仲間の顔が、岩で潰されている。俺にも首飾りを作ってくれよと笑っていた仲間も、矢を額に生やして仰け反っていた。
どうして気付かない。何故、もっと警戒しなかった。ここのところ襲撃がなかったから、今度こそ話が通じると思ったからなど、そんな甘ったれた考えは言い訳にもならない。
この世界の人は、この世界に生きる人型のモノは、俺たちを殺そうとしている。十年の間に繰り返して、痛いほどに分かっていたことだろう。
「五匹はやったぞ!」
「だが、群れが大きい!」
「まだだ、もっと矢と岩を寄越せ!」
「村を守るんだ!一匹も逃がすな!」
「悪魔を殺せ!」
「逃がすな、殺せ!」
遠く響くニンゲンの声が、脳を揺らした。食卓に力なく伏した五人の、赤が広がっていく。はやく、ああ、はやく、手当てをしなければ。
また、仲間が減ってしまう。
「逃げましょう!魔法の使えない者は、手を!」
「一昨日の場所で落ち合うわよ!」
トパッティオとボータレイの声に、俺はありったけの魔力を放った。我武者羅に吐いた魔力は防壁となって、飛び交う矢と岩を弾き返す。
「俺が食い止める、皆を連れて逃げろ!」
反論は許さないと睨みつければ、俺の視界にある仲間たちは頷いた。視界から、仲間たちが消えていく。赤く染まった、暖かい食卓を残して。
武器を構えた人間は、影を落とした浜辺にどんどん集まってくる。俺は防壁にほとんどの魔力を吐き出してしまっていて、反撃する手段は腰に差している双剣のみだった。防壁が消える直前、俺は双剣を抜く。勝てる見込みなどないが、一矢報いずに殺されてやるつもりもなかった。
一歩踏み込もうとしたら、がしりと腕を掴まれる。驚いて振り向けば、そこには微笑みを称えたフォンがいた。
「ダーク。君は僕たちの命を背負うかどうか迷っていたね」
ニンゲンたちの怒号が飛び交う中、やけに落ち着いたフォンの声が響く。
「もしもこの先、君が背負うと決めたなら、僕の戯言を覚えておいてほしい」
フォンに掴まれた腕が熱を持った。刹那、全身から力が抜けていく。俺はかろうじて膝をつくのを堪えて、フォンを見た。何をされた?フォンは、何をしている?問おうとしても、目の前のフォンの笑みに凍らされて喉が動かない。
「いつか君が、背負うと決めた時にはどうか、君の懐に飛び込んだ全員を守ると誓ってくれ。力及ばずに嘆くことのないよう、充分に力をつけてくれ。僕にはできないけれど、君には出来ると……」
言うフォンの体が赤く揺らめく。燃え上がる、ような、魔法とはまた違う光景だった。
「僕もサエオラも、信じているよ」
揺らめく微笑みに、何故か背筋が震える。
「フォン、駄目だ、やめろ!」
直感で、俺は叫んでいた。フォンは俺の腕を離して、にこりと笑う。まるで俺の声が届いていないかのような表情に、俺は目を見開いた。
「悪いね。少しだけ力を貰うよ、ダーク。僕は誰かの魔力を吸わないと力を出せないからさ。この力を使いたくはなかったけれど、こいつらを、サエオラと同じ目にあわせてあげなきゃいけないからね」
さくさくと砂を踏んで、陽気に話しながらフォンが俺から離れていく。追おうと一歩踏み出して、俺はバランスを崩してその場に倒れこんだ。驚くほど足に力が入らない。立ち上がれず、上半身を起こすのがやっとだった。この体勢すら、維持できないほどに力が奪われている。
よせ、やめろ、戻れ、と声を上げても、フォンは俺を振り向くことなく歩み続けた。その全身に、ニンゲンの放つ矢を浴びて、岩を浴びて、剣を浴びても、彼は止まらない。炎のように熱が、フォンを中心に膨張していった。充分に俺から離れて、フォンはくるりとこちらを向く。
「ありがとう、ジラルダーク。ごめんよ、僕はサエオラが全てだったんだ。だから、僕は君たちを背負えない」
フォンを取り囲んで攻撃していたニンゲンが、恐れをなして逃げようとした。しかし、その場にいる誰の足も動かない。
「僕はきっと、亡骸も残らない。だから、どうか。僕の戯言を覚えていてね」
さようなら。
聞こえた声は、涙に震えていたようだった。瞬間、激しい光を浴びて、俺は思わず目を閉じて顔を逸らす。遅れて、凄まじい爆発音と突風に襲われた。膝をついていた俺は、そのまま地面に伏せてやり過ごす。
瞼を焼く光が消えたのを感じて、俺はゆっくりと目を開いた。
目の前には、ぽっかりと穴が開いている。俺以外に、生きている者はいなかった。それどころか、浜辺の先にあったはずの木も、岩も、えぐり取られている。血痕すら、残っていなかった。
「フォン……」
呼んでも、返事はない。当然だ。彼は、ここにいた俺以外の生物を巻き込んで破裂した。フォンがここにいたのだと、証明できるものは一欠片も残っていない。
言い知れない感情が、胸の奥を搔き乱す。
地面に着いた手を握り締めても、血が滲むほどに唇を噛み締めても、渦巻く感情は膨れ上がるばかりだった。乾いた砂の上に、ぽつぽつと雫が落ちる。霞む視界には、俺の望む姿は映らなかった。
ふと、握り締めた拳の中に、硬い感触を覚える。砂まみれの手を開くと、きらきらと桃色に輝く貝殻が現れた。首飾りを作ろうと、笑っていた彼らの顔が脳裏を過ぎっては、消える。ころりと、俺の手の中にあった貝殻が地面に落ちた。
込み上げる感情のままに吠えて、俺は天を仰ぐ。
憎たらしいほどに冴え冴えと輝く月は、俺の慟哭にも冷たく光るだけだった。
◆◇◆◇◆◇
「ジル……、ジル!」
「ッ!」
揺さぶられる感覚と声にハッと目を開くと、心配そうに眉を寄せたカナエの顔がある。俺はカナエの顔を視界に留めたまま二度三度と瞬いて、ゆっくりと視線を左右に揺らした。映るのは、住み慣れた城の寝室だ。あの、地獄の光景ではない。
目覚めたばかりだというのに呼吸は荒く、心臓は破れそうなほどに早い鼓動を刻んでいた。窓から注ぐ月明かりが、カナエのおぼろげな輪郭を照らす。
「ジル、どうしたの?大丈夫?」
「カ……ナ、エ……」
喉から搾り出たのは、掠れ切った声だった。戸惑うようにカナエの細い指が、俺の頬に添えられる。指先の温もりは躊躇いがちに俺の頬を伝って、目尻を拭った。濡れた感触に、自身が涙を流していたことを理解する。
カナエは俺の涙を拭うと、何も言わずに腕を伸ばして俺の頭を抱き込んだ。やわらかく暖かい感触が、軽く起こしていた俺の上半身を包む。鼻腔を突くのは、カナエの纏う甘く落ち着いた香りだ。俺は、それを余すところなく堪能しようと、瞼を伏せてカナエの胸元に額を擦り寄せる。
今なら、サエオラ以外を守れないと言ったフォンの言葉も分かる気がした。俺がこの国を成す前にカナエに出会っていたならば、きっと悪魔の王にはならなかっただろう。かといって、今となっては悪魔たちを捨てる気もない。俺以外の誰かが悪魔たちを守っていけるだろうと揺れることも、俺が悪魔を守り切れているのかと悩むこともあったが、俺は己に誓ったのだ。背負うと決めた悪魔たちを、全て守り通すと。
今の俺を見て、フォンは馬鹿な奴だと笑うだろうか。それとも、あの日のように酒を飲みながら、ようやく愛しい者の味を知ったのかと俺をからかうだろうか。悪戯に笑うフォンの横で、あなたも変わらないでしょうと、サエオラが呆れたように睨むだろうか。テラとユーグは、ませた大人の顔で俺たちの話に混ざってくるだろうか。あの日のあたたかい食卓のように、仲間たちはいい話のタネを見つけたとふざけて絡んでくるだろうか。
そりゃあそうさ、からかわずにはいられないよね、と俺の脳裏であの日のままフォンが笑う。あの日零れ落ちた貝殻を、脳裏に浮かんだ幻影のフォンは、指先に摘まんで見せた。カナエのそばにいるはずなのに、俺は数百年の昔にあったあの砂浜に跪いていた。目の前のフォンは、ただ微笑みを称えている。
声にならぬ声で、俺は問いかけた。
俺は、お前の戯言を実現できているか?お前の最期の願いを、叶えられているか?情けなくカナエに逃げようとする俺に、呆れてはいないか?お前たちを守ることのできなかった俺を、……お前たちを殺したニンゲンに与した俺を、許してくれるか?
相変わらず真面目だねダークは、と耳の奥に響く。
僕の荒唐無稽な戯言を叶えてくれただけでも感謝してるっていうのに、君を許せって?僕たちはダークを憎んだこともないのに、どう許せっていうんだい?僕は君に無茶を言ったけど、それを僕にも求めないでほしいねぇ。
瞼の裏のフォンは、からからと笑った。夢の続きと断じるには戸惑うほど、フォンの声は明晰に俺の脳内に響く。愉快だと言わんばかりに笑いながら、フォンは指先の貝殻に自身の唇を添えた。刹那、じんわりとフォンの体が光に飲まれていく。
ありがとう、ダーク。僕も、数百年かけて君が整えた、今の世界が羨ましいね。もし叶うなら、こんな僕のくだらない願いにすら応えてくれようとする、馬鹿真面目な優等生の君を僕も支えたかったなぁ。
フォンは先程と変わらず軽快に笑いながら、俺の瞼の裏からも消えた。二度目の別れに、止まれと命じても俺の目尻からは熱を持った雫が零れ落ちていく。それは、救いを求めるように顔を埋めたカナエの胸元に滲んで消えていった。カナエは事情を知らないというのに、只管に俺の後ろ髪を撫でて慰める。その温もりが、胸の痛みを鈍く溶かして突き刺さって、感情が搔き乱された。堪らずにカナエの体を抱き寄せて、腕の中の温もりに縋る。カナエは縋りついた俺を驚きもせずに受け入れると、止めることなく俺の髪を撫でた。
「ジル、大丈夫?何か、悲しいことがあったの?」
どれくらいそうしていただろうか。不意にぽつりと、カナエのやわらかな声が俺の頭上に降ってきた。カナエの体から漂う甘い匂いに誘われて、俺は夢の断片を口にする。カナエは静かに頷きながら、俺の話を聞いていた。取り留めもなく夢の内容を話す俺に、けれど、カナエはたかが夢だろうと馬鹿にすることもなく、真摯に聞いてくれた。数百年の昔に経験した地獄の一つを話し終えて、俺は短く息を吐く。カナエは、俺の頭を抱いて、震える声で囁いた。
「大丈夫。ジルは守れてるよ。誰にも背負えない大きなものを、ちゃんと背負えてるよ」
言い聞かせるように、カナエのやさしい声が響く。怯える子供を慰めるような温もりは、胸の奥に渦巻く感情を包み込んだ。
俺は無様にもカナエに抱き着いたまま、心地よいぬくもりに誘われて目を閉じる。カナエは子守歌のように、俺の髪を撫でながら囁いた。
「私たちを守ってくれてありがとう、ジル。あなたたちの受けた苦しみは、もう、悪魔の誰も味わうことがないくらいに平和なんだよ。ジルや、他の人たちの悲しみは、決して無駄じゃない。だからこそ、苦しみも悲しみもないほどに、この国はあたたかいんだよ」
耳元で甘く響くカナエの声に、俺はふわふわと揺らぐ意識に身を任せる。母の腕の中にいるかのような安心感が、体中に広がった。
今度こそ、安らかな夢が見られそうだと、俺は遠のく意識の中にそんなことを思った。