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「条項がたくさんありますが、ざっくり言いますと、プログラマーとデザイナーが責任を持って紋香さんと同じ電子脳と義体を作りました、問題ありません、という内容です。もし間違いがあれば訂正し、この監査後は一切の訂正はできません。ですので、この申請書提出する前に最後の確認を致したく、こうして伺わせていただいた次第です」
と、睦朗は蛇腹に折られていた紙を広げた。
「ご覧下さい」
そこには何本ものカラフルな線が踊る波形グラフが描かれていた。プログラマーにはお馴染みの人格統合グラフである。
記憶や性格といった不定形のものを形にし、誰が見てもチェックできるように――。
この無理難題を可能にしたのが人格統合機器である。見た目はパソコンとシンセサイザーを合体させた珍妙な機器そのものなのだが、プログラマーが必死こいて入力したダイアログにカデンツァ、人格プログラムを統合し、グラフの形にしてくれる唯一の機器でもある。その複雑なグラフが描く文様を監査官は元の人格グラフと照らし合わせ、同一性を確認する。紙に出力していては何千枚にもなってしまうので、契約書に綴られているのはごく一部のグラフであり、データ自体は偽造不可能のICチップに全て納められている。これは分厚い厚紙に挟まれていて、義体とのリエゾンの際に取り出される決まりだ。
「先にご覧に入れたのは元の人格グラフです。さて、次は電子脳の人格グラフを――」
睦朗の声を遮るようにインターフォンが鳴った。なぜだか俺の肌はざわざわとした。遙か遠くからうちなされる警報の鐘のように思えたからだ。睦朗はまるでインターフォンなど聞こえていないように穏やかな顔つきのまま二人を眺めていた。
「続けて下さい。これより大事な話はそうありません」
父親の言に睦朗は頷いた。
しかしインターフォンはもう一度鳴った。頭を大きく振って父親は母親に目配せをした。母親は苛々とした様子で席を立った。睦朗は開きかけた紙を手で押さえたままにしていた。その手が動いたのは、目をぱちくりさせて母親がダークスーツの色男をつれてきたときだった。
「こんにちは、プログラムを担当しております黒瀬です。鈴木、説明はしてくれているね」
「はい、いまから電子脳の波形グラフをお目にかけようかと」
「了解した。遅れて申し訳ありません。再度になりますが、紋香さんのメイン・プログラムを担当させていただきました黒瀬です。話は鈴木からさせていただいておると思いますが、ここからは私から説明させていただこうと思います。こちらの鈴木は私の部下です」
そう言って黒瀬先輩は二人へ軽く頭を下げた。状況について行けなかったものの、俺は黒瀬先輩に席を譲るという大役はこなすことができた。そのまま退室しようとすれば、黒瀬先輩に目で止められたので、俺は考えて入口近くの壁際に背を向けて立つことにした。ここなら会話の邪魔にはなるまい。
黒瀬先輩は饒舌に波形グラフの説明を進めていた。慣れているのだろう。当たり前といえば当たり前だが、こうして耳にするとまだまだ俺の理解は足りていないのだと痛感する。俺ももちろんプログラマーの端くれだから波状グラフについては理解しているが、黒瀬先輩のように素人にも分かりやすく説明することはできないだろう。経験が足りない証拠だ。
俺はこうして耳をそばだてて聞きながらも、昨日の睦朗の態度について考えていた。今日の様子から察するに、俺は黒瀬先輩の身代わりとして連れてこられていたらしい。依頼者にプログラマー不在であることを指摘された際に、『ご紹介が遅れまして、コイツがプログラマーです。黒瀬からの委任状は持っています』とでも言うつもりだったのだろう。おいおい、である。F1プログラマーとF4プログラマーとでは天と地の差がある。F1プログラマーなんて国家試験合格したてのヒヨコのためにあるランクである。そこまでして話を進めたかったのか。子どもの義体はなにせ急ぐ。いつ何時、昏睡から死亡への坂道を転がり落ちるかしれたもんじゃない。そんな危険な状態にまで紋香は陥っているのだろうか。俺はこの家のどこに紋香がいるのだろうかと目を巡らせた。家に上がったとき、玄関から少し伸びた廊下の先にある階段からひやりとした空気が流れ込んできた。おおよそ、二階だろう。いつぞ終わるともしれない夢にくるまれて紋香は眠り続けている。もうすぐだ、と俺は壁に飾られていた紋香の写真に向かって心で呼びかけた。こんなことをしたって紋香の助けになるわけではない。ただ俺がそうしたかっただけだ。
「――と、ここまではご理解いただけたでしょうか」
黒瀬先輩が言葉を切った。俺はしまったと太ももを抓った。すっかり考えることに夢中になってしまっていた。焦っても黒瀬先輩は同じ事を喋ってくれるわけではない。俺は落ち着けと大きく息を吐き、曽根紋香の両親の顔を見やった。もうこれで何も心配ない、そういう顔をしているだろうと期待して目を向けたのだが、二人とも引きつった顔をしていた。黒瀬先輩の背中は冷たい壁を突き立てていて、見える睦朗の半顔は変わりなかった。曽根夫妻が微動だにしない前で、黒瀬先輩はカバンから出したペットボトルに口をつけた。それが呼び水になったか、蝋人形のように固まっていた母親が飛び上がるようにして立ち上がった。
「黒瀬先生、紅茶はいかがですか」
「お申し出は嬉しく思いますが、あいにく私は紅茶アレルギーでして」と黒瀬先輩はペットボトルをカバンにしまった。「ところで、どうなさいますか。こちらとしては紋香さんの今後を考え、先ほどのようなご提案、すなわち紋香さんの電子脳から虚実の記憶を取り除くことをご提案させていただいた次第です。そのデータもすでにできあがっております。それともこのままこちらを採用し、人格汚損によって、第二の人生を一生病院で過ごしますか。これはあなたたちの望む未来ではないと思われますが、いかがされますか」
黒瀬先輩の言葉に俺は耳を疑った。人格汚損だって? 人格汚損が起こる原因はだいたい突き止められている。依頼者が本来持つ人格・記憶と、矛盾・相反する人格・記憶を統合したときである。だが、F4プログラマーの黒瀬先輩がそんなミスをするようには思われない。そんなのはカデンツァ構築中に判明し、依頼者へ素早く問い合わせを入れるからだ。依頼者が昏睡状態に陥っているのなら、リサーチャーへ回して早急に解明する。そこを黒瀬先輩が怠るはずがない。むしろ黒瀬先輩は念には念を入れて調べるのだ。
「紋香は、私たちの娘です。あなたたちはただ義体を作るだけでしょう」
「ええ、その通り。その通りなのですが、ただ、ではありません。あくまでどこまでも、依頼者の現し身の再現を目指すこと、それが我々の使命であり、目的です。決して死したる人を蘇らせたり、思い通りになる人形を生み出すのが仕事ではありません」
「だが紋香はまだ十歳だ! 十歳だぞ! 我々は親だ。親が一番子どものことを知っているものだろう」
つかみかからん勢いでまくし立てる紋香の父親に、黒瀬先輩は説いて含めるような口ぶりで言った。
「それは世間一般の意見というものです。
義体作成においては、本人の意見というのはどの年齢であっても尊重されるものです。ましてや記憶のコピーは電子脳で取れていますからね。あなた方だってもし紋香さんの年齢で義体化するとなったら、自分の意見を取り入れてくれと仰有ると思います」
「でもできあがったのはこれだ。どこが間違っている? 波形グラフは同じに見えるじゃないか。先生もそう説明していましたよね、ねえ、鈴木先生」
「ですが、色が違います」
黒瀬先輩が睦朗の代わりに答え、また波形グラフを広げた。
「基本的に波形グラフは形もそうですが、色も同一になります。しかし、あなたたちの語る紋香さんを組み合わせた紋香さんと、紋香さんが語る紋香さんでは波形グラフが一致しません。主観と客観は原則、食い違うものではありますが、ここまで異なることはあまりありません」
「このグラフだけ見せられても素人の僕たちにはさっぱりだ。はめようとしているな! もういい、帰れ! 他の事務所を当たる。この期に及んで……っ! 間に合わなかったとき、次に会うのは法廷か刑務所だぞ」
「娘さんの生死がかかっていて、気が高ぶっているのは分かりますが、落ち着いて僕たちの話を聞いていただけますか」と睦朗が口を挟んだ。今度こそ紋香の父親が黒瀬先輩につかみかかろうとしたからだ。紋香の母親も憤る父親をなだめてくれ、どうにか父親はソファに着席してくれたが、当初の和やかな空気は木っ端微塵、宇宙の果てまで吹っ飛んでしまった。ここまで依頼者の父親を怒らせ、いったいどこまで黒瀬先輩はこの話のはしごを登るつもりなのだろう。俺は汗ばんだ手を軽く握ったり開いたりしながら、平常心を目指した。心臓がひどく波うって、耳元で鳴っているようだった。動揺の難破船に乗りこんだ気分だった。しかし同じく乗り合わせているはずの黒瀬先輩の声は高原でピクニックを楽しんでいるかのように涼やかさだった。
「あなたたちは紋香さんがクッキー作りが得意だと仰有っていました」
「その通りだ。紋香は僕や妻の誕生日には、クッキーを作ってくれてね。妻のいれた紅茶と共に食べるのが好きだった」
「この紅茶が紋香はお気に入りだったんですよ。大人の好みだと思っていましたが、違うと言われる筋合いはありません」
俺は黒瀬先輩越しに声を荒げる二人を見ながら、そうではないと無言のまま肩をふるわせて反論していた。紋香は両親の誕生日には貯めた小遣いにてプレゼントを贈っていた。それこそ子どもの買うものだから、高価なものではなく、ハンカチや靴下、時にはお手伝い券や肩たたき券であったりと、大人からすれば大したものではないのだけれども、そこに添えられた紋香の気持ちまで大したことのないなどと言う気はない。微笑ましいものではないか。それにどのプレゼントであっても、そのときの紋香が一生懸命に考えて選び、メッセージカードをつけて贈っていたものだ。これらをなかったことにすることはできない。なかったことにしてはいけないのだ。
俺は大声で叫びたかったが、すんでのところで思い止まった。黒瀬先輩と睦朗もまた同じ思いを抱いているのだと気がついたのだ。しかも俺よりもずっと強く、深く、激しく怒っている。そのことに気がついているのかいないのか、曽根紋香の両親は黒瀬先輩の言うことに対して、逐一訂正したり、しつこく説明を加えていたが、そんなのはまったくどうでもいいことだった。彼らは平然と嘘をついて自分たちの記憶を塗り替え続けている。どうしてこんなすげ替えをしているのだろう。両親と子どもとでは確かに思い出のウェイトが異なる部分は多々ある。けれども、けれども―-、これではあんまりだ。これでは曽根紋香はどこにもいない! 少なくともこの曽根紋香の両親を名乗る男女の記憶には。
俺の憤りを代弁するかのように、黒瀬先輩は冷静を刃として両親の言を断ち切った。
「あなたたちが述べたことは、全て紋香さんの記憶と異なります」
「何を言う! 馬鹿にしているのか僕たちを! 僕たちは紋香の親だぞ。親が子どものことを間違えるはずがない。紋香は読書が好きで、晴れた日には庭の手入れだってよく手伝ってくれていた」
「いいえ、彼女は野球が好きでした。晴れた日には男の子に混じって野球チームでプレーしていたのでしょう。庭には興味がなかったようですね」
「紋香はおっとりしていて、私と服を一緒に買いに行くのが好きで……!」
「いいえ、彼女は気性は激しいはずです。近所の子どものとの喧嘩もしょっちゅうで、悪戯もなかなかに強烈なものだったとか。庭に落とし穴を掘ったり、教師に黒板消しを落としてみたり、引き出しにグロテスクな昆虫の模型を潜ませてみたり、読んでいてこちらが吹き出してしまうほどでしたよ。あなた方もご存じのはずです。特にお父さん、あなたは落とし穴に落ちたはずですからね。そして捻挫で全治三週間、これは病院のカルテに残っています。それに彼女自身も怪我が絶えませんでしたよね。打撲や捻挫で近くの整形外科を懇意にしていらした。それに紅茶は苦手だったはず。僕と同じようにね。
口からでまかせ? いいえ、全てリサーチャーから上がってきたことです」
黒瀬先輩に合わせて睦朗が自分のカバンから分厚い書類の束を出してきた。契約書に匹敵する分厚さだった。
「多少の食い違いは常のことです。それらを僕たちプログラマーは逐一取り上げて正そうとはしません。それを正すのはカデンツァであり、プログラマーの腕の見せどころでもあります。しかし、あなたたちの言うことは失礼ながら信憑性がありません」
「そんな紋香は知らん! なんだ勝手に調べて! 契約違反だろう」
「合法的に調査しております。当事務所作成の契約書にも記載がありますのでご確認をお願いいたします」
紋香の父親は立ち上がった。その顔は完全に憤怒と恥辱で覆われていて、口からは炎さえ吹き出しそうだった。こちらに掴みかかってこないか心配だったが、向こうも警察沙汰にはしたくないのだろう。どしんどしんと足音で威嚇しながら俺の前を抜けて客間を出、すぐに戻ってきた。その手には白波瀬事務所のこれまたぶ厚い契約書が握られていた。
「どこだ」
「こちらです」黒瀬先輩は素早く契約書をめくり指し示した。紋香の父親は顔を真っ赤にしてがなった。
「聞いていない! 聞いてないぞ!」
「いえいえ、まさかそんなことはありません」穏やかながらも有無を言わさない口ぶりで、懐から黒瀬先輩はICレコーダーを取りだした。
「長いので早送りさせていただきますが、もし御入り用でしたら仰って下さい。全てコピーしてお渡しいたします。さて、お訊ねの箇所ですが、このようにご説明させていただいております。
『――……――、で、次がこの条項です。プログラマー、デザイナーは必要なとき、リサーチャーに依頼者の調査を頼むことができる。これはプログラミング、デザインの範囲に限る。』
今回は必要なケースだと判断しました。プログラミング協会での正式な手続きも踏んでいます。それでも不服でしたら、どうぞ、プログラミング協会に懲戒請求をして下さい」
紋香の両親はむっつりと押し黙ってしまった。黒瀬先輩の怒濤の攻勢はしかし休まることはなかった。
「これらのことから、あなた方から聞き取ったことは参考にも含まれておりません。まことに申し訳なく思いますが、電子脳と紋香さんから聴き取ったことを全てに構築させていただきました。また、子どもの権利委員会にも通報させていただきました。紋香さんはすでに子どもの権利委員会の庇護下に入っており、担当弁護士はこの方、加藤幸大になります。今後、紋香さんと接触する際には必ず弁護士が同席しますので、ご了承下さい」
またインターフォンが鳴った。母親がよろめきながら立ち上がったが、家の鍵を開ける必要はもうなかった。玄関がにわかに騒がしくなり、二階へ大勢が駆け上がる音がした。俺がそろりと壁に身を沿わせたまま耳を澄ませていれば、ドアがいきなり開いた。飛び上がった俺を無視して、赤ら顔の大男は大声で言った。
「こんにちは、ご紹介におあずかりした加藤幸大です。娘さんは先ほど確保させていただきました。リエゾンの準備にかかります。今後につきましては全て当職へご連絡をお願いします。また、こちらから連絡することもあるかと思いますが、その際はご協力下さいますようお願いします」
「な、なんの権限が、あって……」
「この通り、裁判所から決定が出ています。保護命令です」
加藤弁護士から突きつけられた保護命令書に父親は顔面蒼白となって、骨の髄から打ちのめされていた。唇は震え、目は忙しく動き回っていたが、もれるのは息ばかりだ。そんな連れ合いの様子に意を決したか、母親が面を上げ、か細く希望をたぐるような声音で問うてきた。
「生きているんだから……いい、でしょう。うまく、いくかもしれないし、いいえ、いくのよ。紋香だって、郁香お姉ちゃんが帰ってきてくれたらいいのに、って言ってたんです。本当です。知っているでしょう、黒瀬先生。その記録に残っているはずです、ねえそうでしょう。そうに決まってます、決まってるんです……。わたしたちには、郁香がいるんです」
「ほう、生きているから、いいですか」
先ほどとはうって変わって、黒瀬先輩の声音は重く沈んでいた。鉛をぎっしりと詰め込んだ鈍器のような声だった。
「生きているから、それだけでいい。あなたたちはそうでしょう。しかし紋香さんはあなたたちによって抹消されるところでした。あなたたちは自分の手で我が子を殺そうとした。そのことをご理解いただけますか」
「殺していません! 郁香と紋香は二人で一つ。一つなんです。そう言われました。そういう器だと」
奇妙な言い回しに俺は眉をひそめた。それは加藤弁護士もで、太い眉を軽く持ち上げ、ポケットから出した手帳に言葉を書きつけていた。
「そういう器ですか、そういう考え方もあるでしょう。
ですが――、僕たちプログラマーとデザイナーはそのような考え方はしません。一つの肉体には一つの人格。これが原則です」
「原則なら例外もある。そうでしょう」
「あるかもしれませんね。ですが、僕はあなたと義体論を交わすつもりはありません。そんなことをしようがしまいが、この結論は覆りません。もっと言うなら、時間の浪費にしかなりません。結論だけ申しましょう。
人格は生きています。肉体だけで人は生きているのではないのです。
……このような結果になって、僕も残念です」
サイレンの音が遠くから聞こえてきた。
曽根紋香の両親は抵抗もなく、やってきた警察官に連れられて行ってしまい、残された俺たちは加藤弁護士と少し話をした。
「いやあ、今回はご協力ありがとう。なかなか子どもに対する人格侵害は発覚しづらい。躊躇いのない通報、助かりましたよ」
「いえいえ、加藤先生にはお世話になっていますからね。またありましたらその際はよろしく。夜中でも飛んできてくれよ」
黒瀬先輩の軽口に加藤弁護士は陰気な雰囲気を払拭するように笑った。それから大げさに顔をしかめた。
「僕らの仕事はないのが一番なんです。なんとかプログラマーのほうでならんのですか」
「そうしたいのは山々だが、あいにくF5は身動きが取りづらくてね。数も少ないのは知っているだろう。F4も忙しいし、そもそも僕らは法律には疎いんだ。そこは棲み分けでしょう」
「そう言われちゃこちらも頑張らせていただきますよ。もうこの自宅に用はありませんか。しばらく入れなくなりますよ」
「いや、もう特に用はない。あとはそちらに任せるよ」
「分かった。……黒瀬、お疲れ」
「そっちこそ」
黒瀬先輩の背中を加藤弁護士は力強く叩き、玄関まで見送ってくれた。俺たち三人が車に乗りこんで、この美しい庭のある家から離れるまでずっと。
***
車が動き出してしばらくは誰も口をきかなかった。
睦朗はカーラジオをボリュームを絞ってかけていたが、そのうち陽気な音楽を流し出したので切ってしまった。俺の座る助手席の後ろで黒瀬先輩は平静の顔のまま黙りこくっていた。俺はといえば、先ほどのことについて訊ねたくてうずうずとしていた。それは睦美もだったのだろう。ちらちらとバックミラー越しに黒瀬先輩の様子を伺っていた。黒瀬先輩もその気配は察していたらしく、カバンから出したペットボトルのミネラルウォーターで唇を湿らせてから、
「睦朗、睦美、お疲れ。睦美には悪かったな、黙ってて」
「俺は証人ですか」
「まあね。睦朗と俺もICレコーダーは持っちゃいるが、今回は万全にしておきたかったんだ。おまえがあそこにいれば、いざというとき逃げられるだろうからね」
「監禁も視野に入ってたんですね」
のんびりとした調子で睦朗は言ったが、洒落にならない。俺はやっと思い出した。過去、プログラマーを拉致監禁して、自分の望み通りのプログラミングを作るように脅迫した事件があったことを。それからだ、プログラマーやデザイナーが打ち合わせ時に必ず二名以上で臨むようになったのは。
「親が理想の子どもを押しつける。子どもの義体化の際によくあることだ」
「よくあるって、これまでもあったんですか」
俺の疑問に黒瀬先輩は残念そうにため息をついた。
「ああ。子どもを『自分たちが好きな子ども』に作りかえたくてね。エゴの極みだ。親の望む子どもの姿なんていつどの時代も変わらない。素直で言いつけを守り、勉強に励み、運動もできて、と万全無欠のスーパーマンだ。そんな子ども、あいにく僕は見たことがないし、これからも見ることはないだろう。
しかし、今回はなかなかやっかいなケースだった。途中まではインティグラも順調だったからね。別に両親もテンプレ通りの理想の子どもを望んでいたわけではなかったし、その上、自分たちの望む子ども像を紋香のなかに構築するのが上手かったんだ。それに紋香も応じてね、涙ぐましい話じゃないか」
「睦美、紋香ちゃんは曽根夫婦の二人目の子どもなんだよ。一人目の郁香ちゃん。彼女こそが曽根夫婦の理想の子どもだったんだ」
「クッキーが焼けて紅茶の趣味が良くて、庭の手入れも大好きな、それでいて優しい……。これ、もしかして……、郁香のことなのか」
「うん。でも一人目の子、郁香ちゃんは義体化が間に合わず亡くなった。六年前の話だ。紋香ちゃんはそのとき五歳だった。どうもご両親は郁香ちゃんをかなり可愛がっていたらしくて、郁香ちゃんを亡くした両親の嘆きようは相当なものだったそうだよ。それこそ、紋香ちゃんが子どもながらに痛ましく思うほどまでにね。だから、紋香ちゃんは郁香ちゃんの代わりになろうとしたんだ。だけど、そんな簡単に自分を変えることはできない。そうでしょう」
「当たり前だろう。人格の出力方法はいくらでも変えられるが、人格そのものはそんなに柔軟じゃない。人格は嘘がつけないんだ」
この前提があるからこそ、プログラマーという人格構築職は成り立っている。この前提を覆されてしまったら、俺たちプログラマーは道標を失い、義体は単なるファッションと化してしまう。
「紋香はとても活発な子だった」と黒瀬先輩は言った。「姉とは正反対と言ってもいいだろう。だから真似しようとしても上手くはいかなかった。クッキーは焦がすし、紅茶は渋くて飲めないし、庭の手入れより野球が好き、それにいじめられている子を見かければ庇い、ときにはいじめっ子に対して力で立ち向かっていくような、そういう気性の子だった。他にも相違点はあるが、話すには多すぎる。興味があったらあとからリサーチャーの記録を読んでくれ。
さて、真似は上手くいかず、そのせいか両親と紋香の仲もよそよそしいものとなっていたのだが、こういうのは時が解決すると相場が決まっている。曽根夫婦は郁香を思い出に、紋香を現実に、紋香も自分らしさを認める。それがよい落としどころってものだ。
でも紋香もインソムニアを発症した。
そこで両親は思いついたんだろう。プログラマーに郁香の記憶を打ち込ませ、紋香にも郁香の記憶をしっかり仕込めば、郁香が紋香を依り代にして蘇るのでは、とね。
どこでこんな悪知恵を身につけてきたんだろう。素人考えにしては手が込んでいる」
「器がどうのこうの、と言ってませんでしたか」
「ああ、僕も気になっている。ボスにはさっき報告した。きっと次の議会で取り上げてくれるだろう。話を戻そう。だから次に曽根夫婦が取った行動は、紋香に郁香の記憶を言い聞かせ、僕たちプログラマーとの聞きとりの際に喋れと命令することだった。紋香は最後までそれだけは言わなかったけどね、まだ十歳だ。嘘を完璧につきとおすことはできない」
「僕は信じられませんでした。両親には文才がありますよ。整合性をとりながら嘘を織り込んでいくにも関わらず、僕たちのまえで言い淀むことも、質問に動じることもありませんでしたから」
「後学のために教えておくが、不自然なまでにきれいにまとまってたら、疑って下さいと言っているようなものだぞ。僕が不審に思って電子脳をのぞいてみたら、そんなダイアログは存在しないときたものだ。あれほど本人と両親が熱心に喋る思い出のダイアログがないなんてあるはずがないだろう。急いで本人の頭をのぞいたら、該当の思い出は断片化して消え去る寸前だった。おかしいだろう。本来ならば一枚の絵のように完成されて、頭の宮殿に飾られておくべき思い出が、どうして深層記憶レベルでは微塵もないんだ」
ここで黒瀬先輩は確信したのだろう。曽根紋香は嘘をついている、と。
「そこで所長に相談したんだよ。白波瀬所長は大変怒ってね、自分自身が乗りこんで曽根夫妻を成敗するなんて言いだしたよ。骨を折ったよ、なだめるのに」
「成敗って、はは……、ボスらしいですね」
「あの両親は僕にも色々と言ってこられましたよ。マリ絵さんは適当に聞き流していましたが」
俺は頼んで黒瀬先輩に郁香と紋香の比較写真を見せてもらった。くしくも同じ服――あの白いワンピース――を身につけていた。
「そっくりだな。年の離れた双子みたいだ」
「だよね、僕も驚いた。でもね、目もとが違うし、体つきもね、やっぱ紋香ちゃんはスポーツしているからか筋肉質で作りがいがあったよ」
「そこはバレなかったのか」
「皮膚下の筋肉までは見分けがつかないと思うよ」
睦朗は事もなげに言った。車が止まる。赤信号だった。目の前の横断歩道を子どもたちの一群が歩いて行く。みな膨らんだリュックを背負い、青いジャージを着ていた。この辺の学校の子どもの遠足だろう。それとも孤児院か、どちらでもいいことだ。子どもがありのままで、健やかであるのならば。
「これからどうなるんですか、曽根紋香は」
「身内だから不起訴に終わるかもだが、悪質性による。その手のプロがみればもっと分かるだろうさ。何にせよ、紋香は安定するまで施設で暮らすことになる。両親の反省具合にもよるが、さてどうかな。僕たちに怯まずあそこまで言ってのけたんだ。よっぽど心を入れ替えて、反省を示さない限りは、紋香が大人になって義体が完全に安定するまでは一緒に暮らすことは難しいだろうね。紋香本人が希望しても、弁護士が許さないだろう。特に加藤は厳しい。だから安心して任せられるんだが」
「それで、紋香の電子脳は間に合うんですか」
「もちろんだ。僕たちのボスを誰だと思ってる?
紋香は僕たちが秘密を守ると信じてくれてからは、包み隠さず喋ってくれた。そして僕たちのボスがカデンツァを打ち込んだ。インティグラもボスが行った。それができたのがおとといで、監査官には無理を言ってチェックもしてもらった。今はリエゾンの段階に移っているはずだ。これで間に合わないはずがない。僕の財布をかけてもいいね」
「賭けにならない賭けですね」
「まったくね」と黒瀬先輩は携帯電話をかけた。その電話はすぐに終わり、黒瀬先輩は笑顔のままでこう言った。
「リエゾンも順調だとさ。一安心、ってところか」
座席に身体を投げ出し、満足げに大きく息をはきだす黒瀬先輩の身体から憂いが霧散していくのが俺にも感じ取れた。こういうのがプログラマー冥利に尽きる、ということだろう。俺もいつかこういう仕事ができたらと思う。そう、俺は派手な仕事がしたいんじゃない。こうやって依頼者の言葉にならない言葉に耳をかたむけ、何の憂いもなく第二の生を送れるようにさせる。そういうプログラマーこそ、俺の憧れであり、目指すところだ。俺は思わず言った。
「先輩は好奇心を矛にして依頼者を護ったんですね」
「お、うまいこと言うな。どうした」
「ボスが昨日言っていたことを考えてたんです。それと……」
「なんだ、今日の僕は機嫌がいい。ボスに掛け合って明日休みにしてやろうか」
「いえ、単純なことです」
俺は覚悟を決めた。馬鹿馬鹿しいといわれても構わない。これは今後の俺の人生を左右する大事な質問なのだ。間違って出したりしたら貴重なF4プログラマーを失うかもしれないのだ。確かめるなら今しかない。
「黒瀬先輩、紅茶が苦手なんですか」
息詰まるような間があって、いきなり睦朗がはじけたように笑い出した。黒瀬先輩もげらげらと足をばたつかせて盛大に笑っている。そんなおかしなことを訊ねただろうか。唖然とする俺をよそに、黒瀬先輩は身体をくの字に折って笑い続けていたが、やがて目に浮かんだ涙を拭いながら言った。
「まさか。コーヒーの次に好きだよ」
そう言って黒瀬先輩は身を乗り出してカーラジオをつけた。陽気な音楽が流れてくる。睦朗がボリュームのつまみをめいっぱい回す。俺は窓をあけた。軽快な音楽が風とダンスしはじめる。行き交う車がクラクションを鳴らすが構わず。何、俺たちは悪いことをしているわけじゃない。ひどく胸くそ悪いことがあったから、ちょっと陽気にふざけたくなっただけなのだ。そう、それだけなのだ。
この日、俺は睦朗とはじめて飲んだ。
想像よりずっと悪くない味だった。