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ずきずきと頭がまた痛み出したので、ここで少し休憩を入れた。給湯室の冷蔵庫を開けて麦茶を飲んでいれば、「まだ残ってたんだ」とマリ絵さんが顔を出した。「ほい、差しいれ」
投げ渡すようにしてマリ絵さんがくれた紙袋はずっしりと重かった。マリ絵さんが早く早くとやかましいので、俺は包装紙をびりびりと破いて開ける羽目となった。そんなに気になるなら自分で開ければいいのに、と俺は内心ぶちくさ言っていたが、中から出て来たのが轟堂のバームクーヘンだったので、文句をゴミ箱にダンクシュートした。
「どうしたんですか、これ」
「お客さんにもらったのを忘れてたの。田上さん帰っちゃったし、どーしようかと。このままガブガブ齧りつくわけにもいかないしさ」
「包丁の場所知らないんですか」
マリ絵さんは返事の代わりに俺の胸を軽く拳で叩いた。
「紅茶お願いねー」
「ティーバッグでいいですか」
「もちよ。大きめに切っといて」
田上さんが綺麗に片付けた給湯室を使うのは気が引けたが、マリ絵さんの指示には逆らえない。俺はマリ絵さんの弟子である睦朗をバームクーヘンの前に引っ張ってきて、「マリ絵さんの好みの大きさに切ってくれ」と頼んだ。
「とんでもない難問だね」
包丁を片手に睦朗が唸った。俺はマリ絵さんのマグカップにティーバッグを入れ、やかんを火にかける。
「おまえ弟子なんだろ」
「弟子は弟子だけど……、これ、僕当てたことないんだよね」
「経験済みかい」
「睦美が入る前からちょくちょくあってね。一番ヒドかったのは、子どもの誕生日に買ったホールケーキを持ってきたときだよ。あれはもう思い出したくない」
「……仕事かなんかで持って帰れなかったのか」
「そう。マリ絵さんがずいぶん前から注文していた気合いの入ったバースデーケーキだったけど、お客さんとの義体調整が押しに押してね。監査官のチェックも込みで結局一ヶ月ずれ込んだんだ。挙げ句の果てに絶対この日に仕上げて、だ。マリ絵さんは毎日残業で頑張った。そしてどうにか接続日に間に合わせたんだよ。マリ絵さんのお子さんの誕生日の前日だったんだけど、電子脳も義体の作成もうちが手がけていたのもあって、一日あれば確実にリエゾンは終わると踏んでたんだ。なのに……」
睦朗は残念そうに左右に首を振った。
「顧客から物言いがついてね。正確には顧客の旦那から。私の妻はもっと美人だったと。だから義体を調整してくれ、とね」
「いやできないだろ、それは」
義体に反映させるのは義体化する依頼者の意見のみ、これは基本中の基本、鉄則である。ここはなかなか依頼者の親族や関係者に理解して貰えないところなのだが、他者の意見は参考にはしても、採用はしないのだ。でなければ親族や関係者が思い通りに依頼者を作り上げられることになってしまう。
「だからマリ絵さんは旦那を説得にかかった。リエゾンもあるのにね」
「もうお気の毒にも程があるな」
「マリ絵さんの熱心な説得によって旦那さんは納得したんだけど、そこからだよね。マリ絵さんがリエゾンをはじめたのは」
義体を作るのもたいそう手間がかかるが、それ以上に神経を使うのがリエゾンだ。リエゾンはプログラマー、アーティストの両名で行う電子脳と義体の接続作業で、デザイナーの加減一つで身体の動きが変わってくる。動きの滑らかさや加減といったものは、ある程度まではソフトで調整がつくそうだが、そこからの詰めはデザイナーの感覚だけが頼りである。だからこの調整はベテランのデザイナーでも十数時間はかかり、安全を優先して数日に分けて行うことすらあるのだが、そもそも義体作成で日が押していたせいでマリ絵さんは突貫工事でしなくてはならなかった。与えられた時間は十二時間。マリ絵さんはにっこり笑顔をたたえたまま神業的速度できっかり十二時間で終え、バースデーケーキ片手に朝日とともに事務所に戻ってきたらしい。
そして――。
「『んなんしるかァ!』ってマリ絵さんが爆発したんだ。超新星爆発規模だったよ」
俺はその場に居合わせなくてつくづく良かったと思った。
「それでバースデーケーキは事務所で、てか」
「持って帰るように所長は勧めたんだけどね、マリ絵さんも頑固だから、『もう過ぎちゃったんだもーん!』って大泣きして僕にケーキを押しつけてきたってわけ」
「そして難題、バースデーケーキの切り分けになる、と」
睦朗はバースデーケーキを人数分にきっかり割ったそうだが、マリ絵さんは気に入らなかったらしい。しかしその理由は「いちごの数が少ない」というものだったらしい。
「いちごって、上のか」
「いいや、挟まれているいちご。ほら、スポンジの間にあるスライスされたいちご」
俺は絶句した。絶句したところでケトルが笛を鳴らしたので俺は火を止めた。マグカップに湯を注ぐ。
「本物のデザイナーならスポンジ越しにもいちごの数だって見抜ける! ってすごい剣幕だったんだから。次は年輪の数で文句つけてくるのかな」
「どうやってだよ」
バームクーヘンは円形だ。カットすれば扇形になるが、年輪の数に差はない。
「大きめにって言ってたし、半分でいいんじゃないか」
「適当に言ってるでしょ」
「そりゃな」俺は小さく笑うとティーバッグを引き上げた。バームクーヘンのカットを迷う睦朗の脇腹を肘でつつく。しかし彼の手は動かなかった。よほどバースデーケーキ事件が堪えたらしい。仕方ない。俺はマグカップをトレーに乗せながら指示する。
「半分に切ってくれ。俺が持っていく」
「僕、知らないからね」
「責任は俺が取るって。そもそも俺の頼まれ事だし」
それにプログラマーだから、ヘンテコな因縁もつけられまい。俺はトレーを持ってマリ絵さんの執務室のドアをそっとノックした。
「おっ、半分もくれるの? あーりがと!」
ドアを開けたマリ絵さんはトレーのバームクーヘンを見てにっこり笑った。その笑い方は無邪気そのもので、怒りの予兆めいたものはなかった。
「ささ、こっちに置いちゃって」
マリ絵さんがドア脇にある丸テーブルの書類を床に払い落とした。埃が舞い上がらなかったのは、田上さんが毎日掃除しているからだろう。マリ絵さんはその辺に転がしていた椅子を持ってきて座ったので、俺はさっさと引き下がった。何事にも引き際というものがある。そこを見誤れば面倒なことに巻き込まれる。俺がこの事務所で学んだことのひとつだ。
俺が自分の執務室に戻ってくると、共同スペースにいた睦朗が目を丸くした。
「なんで怒られなかったの。ずるい」
「何がずるい、だ。怒られること前提かよ」俺はあきれかえったが、この睦朗にだって苦手なものがあるのだと分かっただけでも良しとせねばなるまい。睦朗は夜だからとノンカフェインのハーブティーをいれてくれていた。懐かしい香りに俺は思わず目を細めた。睦朗が孤児院でよくいれてくれたお茶だ。夜眠れない時なんかに睦朗と二人で屋根に登って飲みながら、星を飽きるまで眺めていたものだ。俺は最初の一口を堪能してから訊ねた。
「これ、どうしたんだ」
「久しぶりに飲みたくなってね、買ってきました。孤児院のより上等だよ」
「上等は余計だ」
孤児院では俺たちに与えられたスペースはとても小さいものだったけれど、庭だけはふんだんに与えられていて、そこで睦朗はハーブを育てていた。俺はあんまり良い育て手ではなくて、睦朗に誘われてはじめたものの、すぐに飽きて運動場で他の子ども達とサッカーに興じていたが、睦朗は観察日記をつけるまでの熱心さだった。睦朗はハーブ園を年々拡大させていっていたが、職員たちは特に何も言わなかった。なにせ土地だけはどっさりとあったからだ。≪落日≫から人口が減りに減り続けた結果、空き家が増え続け、孤児院に入るのを拒否した子ども達や、浮浪者のたまり場になり、さらに火事の原因にもなりかねないことから、政府が超法規的措置にて、空き家でかつ持ち主が行方不明の場合、相続を待たず建物を処分、更地にして国家預かりとすることとした。これには多くの批判があったが、迅速という観点からはこれより取る方法がなかったのだろう。それに政府の手が回ったのは大都市だけで、地方のそれこそ片田舎の空き家は放置されていた。放置された理由は至極簡単で、ライフラインすら死んでしまった片田舎に好んで住みたがるのはナチュラリストぐらいのものだったからだ。
こうやって俺たちは大都市にかき集められた。居住の自由は制限されていた。日本だけの話じゃない。日本政府のみならず、各国が緊急事態宣言を出し、人の確保に躍起になっていた。今もそれは変わっちゃいない。俺たちの暮らしは全て義体のためにあり、義体に関わる業界は大いに発展したが、その他の業界は衰退の一方だった。なぜか。簡単なことだ。根幹を支えていた技術者、労働者たちがインソムニアにて死んでしまったからだ。そして音楽や文学という文化は軒並み消えてしまった。予想もつかない大量死は暮らしから文化すら剥奪し、楽しむ余裕すら奪ってしまう。俺が子どもの頃耳にした音は、子どもの不満の声と、大人達の疲れ果てた希望の見えない声ばかりだったように思う。音楽をいいものだと思いだしたのは、中学生ぐらいのことだ。
睦朗はそんな生活をどう思っていたのか、正直なところ、俺には推し量ることすらできない。不満は他の子ども達と同様にあったとは思うが、微塵も表に出さなかったからだ。もし彼に不満の表明を見たとしたら、大人も舌を巻くまでに巨大化したハーブ園ぐらいだろう。
「あのハーブ園、どうなったんだろうな」
「引き継いでうまくやってくれてるみたい。どこにも緑の手を持つ子はいるものだよ」
「ふぅん、良かったな。森みたいだったからな」
「森は言い過ぎだよ」と睦朗はいったが、夏の盛りになるとハーブ迷路を作れるほどの規模である。この頃になると睦朗の手伝いをする同級生や後輩がいて、睦朗は嬉々として彼らに育て方を教えていた。俺は相変わらず手伝いはしなかったが、睦朗のいれるハーブティーを飲み続けていた。これといって断る理由がなかったからだ。
「合うかどうか悩んだけど、意外に合うもんだね。ハーブティーとバームクーヘン。このバームクーヘン、美味しすぎない? マリ絵さんが大きめって言うわけだ」
俺はもう少しでハーブティーを吹きだすところだった。どうにか飲み込めたのは轟堂のバームクーヘンを台無しにしたくなかった、それだけである。
「まさか、おまえ轟堂のバームクーヘン知らない……とか言うなよ」
「有名なの?」
俺は力を込めて大きく頷いた。睦朗は、「そうなんだ、知らなかった」と言って口にバームクーヘンを運ぶ。
「適当に食べるな、味わって食え」
と、睦朗と下らないことを喋りながら休憩を取っているうちに、長い時間を過ごしてしまった。目がすっかり重くなっている。最近、目の疲れがなかなか取れないのだ。こんなことをぽろっと言おうものなら、マリ絵さんがすっ飛んできて「目、変えちゃう? 変えちゃう? 今ならハーモニー社が安いよ?」と電卓を叩き出すのでまったく因果な商売である。しかし睦朗の滅多にない頼みである。俺は欠伸を噛み殺して記録を再び開いた。依頼者の聴取書に目を通した今、次に読むべきは両親が語った曽根紋香の経歴だった。これは軽くでいい。ぼんやりと表層だけをするりとなぞればいい。何にせよ余程の事がなければ参考程度までの経歴だ。親族・知人の語る依頼者なぞ、親族・知人の望む依頼者でしかなく、自分の意見をいれずに客観的に依頼者を語れる者なぞいたら、それこそ世界最高峰のプログラマーとなれるだろう。F5プログラマーとして名高く、ヴィルトゥオーソの肩書きさえ得た獅子王ですら至れないというその極み、俺はその頂を望むことすらできない。そこへ至る道筋すら見えていない。そんな俺が両親の語る経歴書を読もうとしているのは、単に依頼者の選任プログラマーではないからだ。曽根紋香のプログラマーは黒瀬先輩であるし、黒瀬先輩ならその辺の塩梅は知り尽くしている。
曽根紋香の両親は睦朗の問いかけに対して多く話した。睦朗が適切な舵取りをしなくてはいささか話しすぎるというぐらいに。でもどうしようもない部分もある。両親とも四十歳近くにもなって義体化していないというのに、愛娘がたった十歳で***陽性反応が出、インソムニアを発病したのだ。子どものインソムニアの進行はおそろしく早い。どんな病気であっても子どもには辛いものだが、インソムニアもその例にもれなかった。発病から昏睡まで僅か半年足らず。大人の倍だ。その間に曽根紋香は自分のことを全て語れたのだろうか。語れるはずがない。プログラミングの効率を上げるために、政府は日記をつけることを国民に推奨しているが、さて、毎日とは言わずとも、数日おきにでも、いやいや、何かしら出来事があったときでもつけている国民がどれほどいるか疑わしいものだ。かくいう俺もスケジュール帳に一、二行書くのがせいぜいといったところで、まめに書いている依頼者には尊敬の念すら抱いてしまう。
曽根紋香の両親はその俺の尊敬に値する日記をつけていた。紋香の記録をつぶさに書き続けていた。睦朗はそれらを曽根紋香の両親の長い話に加えて、丁寧にまとめ上げていた。紋香の記憶読み取りの阻害にならない程度に、しかし肉の温かみは失わない程度の距離を置いて。この感覚はプログラマー、デザイナーの双方がもっとも大事にしているところだ。依頼者に肩入れしすぎるのも、突き放しすぎるのもよくない。睦朗の聴取書はかなりよい出来だと俺は思ったが、黒瀬先輩の文字で『再考』の朱書きが入っていた。書き直しなら『訂正』と入るはずだ。『再考』……睦朗の考え方に問題があるのか、この聴取書の表現自体に問題があるのか、それともそもそも内容に問題があるのか。否、F4プログラマーでしか読めない不協和音を再考と評したのか。
睦朗にこの再考をどう思うか俺は訊ねようとしてやめた。デスクの時計は〇時を過ぎている。睦朗も帰っているだろう。俺は欠伸しながら立ち上がり、電気がついたままの隣のブースをのぞき込めば、亜麻色の髪が揺れているのが見えた。
「まだいたのか」
「読めた?」
「まあ一応は。どうすっかなあ……、泊まるかな」
「帰ろうよ。ここ、出るって言うし」
「子どもじゃねーんだぞ俺はもう」
「本当だって。マリ絵さんが見たって言ってたよ。まあ姐さんは追っ払ったって豪語していたけどね。ああ、だから大丈夫だ、うん、大丈夫」
やめてくれ。
反論する気が萎えるぐらい俺は幽霊って奴が世界で一等苦手なのだ。
「帰る」
「僕も帰ろうっと。いま切りよく終わったんだ」
「だったら最初からそう言え!」
俺は睦朗に記録を返し、事務所の戸締まりをした。他の部屋はすでに明かりが落ちていたが、マリ絵さんは部屋にマグカップも皿も放置していた。明日になれば出勤してきた田上さんが洗ってくれるだろうが、轟堂のバームクーヘンを三人で食べてしまったことへの後ろめたさもあって、俺が洗った。マリ絵さんもそうだが、ボスや黒瀬先輩がこんな時間まで残っていることはまずない。三人とも相当な売れっ子で、スケジュールは過密を超えてカオスに近いらしいが、ボスは毎日のように会合やお呼ばれに顔を出すし、黒瀬先輩は新地に飲みに行っているらしい。いつ仕事を行い、どんなテクニックを用いてスケジュール管理をしているのかを考えるのはナンセンスだろう。単に彼らはプログラミングが早い。ただそれだけなのだ。
「飲むのはやっぱり夜が最高なのかな」
「黒瀬さんはいつもそう言ってるね」
人の行き交いが途絶えない大通りから地下道へ降り、また地上に登って改札を抜ける。五分も待たず電車がやって来た。それほど人は乗っていない。疲れた身体を投げ出すようにして俺は座席に座り、人を吸ったり吐きだしたりしながら進む電車の窓から、ネオン輝く街並みを半ば閉じかけた目で眺めていた。俺が生まれる前、といっても五十年は前になるが、インソムニア・パンデミックの前は、夜は眠る時間として、多くの店は閉まっていたらしい。その光景を俺はいつも想像しようとしするが、今とあまりにかけ離れすぎていて、うまくいったためしがない。俺の知る街は、二十四時間、昼と夜の区別など忘れて人を目まぐるしく動かし続けるシステムなのだ。人は社会を動かすための血液である、と断言した学者がいたそうだが、俺はこの考え方が好きだった。都市というボディを動かすための人間、その人間を生かすための義体。都市が望んで義体を作らせているような錯覚を俺はときどき覚える。
「たぶんね、仕事疲れに飲むのがいいんだよ」
「じゃあ今は最高の飲み時ってヤツか」
「なあに、睦美は飲みに行きたかったの」
からかうような口ぶりに俺は目を閉じたまま小さく笑った。
「睦朗と飲んだことないなと思って。茶は飲むけど」
「ああ、そういうこと。なんだろうね、今度飲みにいこうか」
「金がかかる」
つっけんどんな返事に睦朗が肩を震わせる気配がした。俺は無視した。そのあと睦朗は何か話しかけてきたのだが、何と返答したのか覚えていない。その証拠に目覚めたら俺は見知らぬ天井を眺めていたからだ。
モビールがゆらゆらと揺れている。薄闇が壁に踊る。俺は目を開けたまましばらく硬直し、心臓を激しく波打たせていたが、
「昨日はカモミール、効いたみたいだね」
と言う睦朗の話し声が俺を跳ね起こさせた。
「悪い。すまん、この通りだ」
俺が拝む真似をすれば睦朗は笑い声を上げた。
「まあいいよ。ソファで寝るのも悪くない。ご飯は食べるよね」
「すいません」
平身低頭で俺は謝るしかなかった。訊くまでもない。俺は電車で寝落ちしたらしい。揺すっても頬を引っ張っても、睦朗が引き摺るようにして改札から出たときも、俺は目蓋を微動だにさせなかったらしい。ご飯と味噌汁、それに納豆という素晴らしき日本の朝食を食べながら睦朗はつらつらと語った。俺は肩を小さくして味噌汁をすすった。
「俺の家に転がしてくれてたらよかったのに」
「最初はそうしようと思ってた。でも気持ちよさそうに寝てたから気が咎めてきちゃって、ベッドを提供させていただきました。それに睦美のカバン、ぐちゃぐちゃでカギがどこにあるか分かんなかったんだよ」
返す言葉もない。なぜなら俺自身が毎日苦労しているからである。カギのいれ場所ぐらい決めろと思うが、決めた先から忘れるのだから手の施しようがない。睦朗が食器を洗うその後ろで俺は今日もカバンをひっくり返してカギを探していた。昨日の俺は財布にカギをしまったと思っていたが、出てきたのはスケジュール帳の後ろからだった。一昨日はデバイス収納ポケットからだった。いったい何を思ってこんな所にしまい込んだのか、俺にもさっぱり分からない。昨日と今日の俺は連綿と続く意識統合体なのだが、とプログラマーらしい考察をしつつ睦朗に礼を言って自分の部屋に戻った。戻るといっても隣の部屋である。今どき知人が固まって住むのは珍しくもなんともない。いつ自分がインソムニアとなるか分からないご時世だ。身内で固まっておけば、いざというとき色々便利なのだ。助け合い、というヤツである。
俺はシャワーを浴び、下だけ履いてベランダにでた。火照った肌に風が気持ちいい。見晴らしのいいベランダからは、大阪が一望できた。梅田のタワービルが朝日にまぶしい。
「きれいだね」
睦朗もいつの間にかベランダに出て来ていた。手にはなぜか味噌汁椀を持っていた。いちいち相手していられない。俺はタオルを首に掛けた。
「何時に出る」
「九時半だね」
了解と俺は手を挙げた。身支度にはそう時間はかからない。歯を磨いてスーツを着れば完了だ。少し時間があったので俺はカギにくっつけるのによさそうな物はないかと飾り気のない部屋を探し回った。カバンひとつ管理下におけないので、俺は部屋に極力ものを置かないようにしている。ベッドとデスク、それに本棚しかないから、睦朗には独房だの物置だの散々な言われようだったが、カバンの悲惨さをこの規模で繰り返したくない。大学時代の部屋は悲惨そのものだった。孤児院時代はまともだったが、同室の睦朗がまめに整理整頓やゴミ捨てをやってくれていただけである。さすがに社会人になってそこまで甘える気にはなれない。
「お、これでいいか」
黒瀬先輩が旅行先の静岡で買ってきたメンダコストラップを俺は冷蔵庫の中から発見した。もらったときはどうしようかと思ったが、意外なところで役に立つものだ。なぜ冷蔵庫にメンダコストラップが入っていたのかは考えないようにしよう。俺はカギにメンダコストラップをしっかりと結びつけた。なかなか愛らしいつぶらな目をしている。気に入った。これなら三日はカギ探しに悩まされずに済むだろう、きっと。
***
睦朗と待ち合わせて乗った電車は昨晩よりずっと混んでいた。この中にどれほど義体化した人がいるのかと思う。政府の発表では全人口の三分の一は義体化を済ませているらしいが、俺の事務所では田上さんだけだ。義体化しているか否かはプライベートなことで、訊ねたり探ったりするのは大変失礼なことだ。しかしながら、田上さんの場合は自ら話してきたのである。
『私はすでに義体化を済ませています』
入所したばかりの俺に事務所の決まりを教えた田上さんが、最後に俺のデスクを案内してから真顔でこう言った。俺が驚ききって返事できないでいるのに構わず田上さんは続けた。
『私は定期的に白波瀬先生とマリ絵先生に事務所にて検診を受けています。理由は、私の担当プログラマーが白波瀬先生であったからです。定期検査であれば病院にかかればいいのですが、諸事情により白波瀬先生以外のプログラマーの方では調整ができませんので、白波瀬先生に見ていただいております。特権のように聞こえると思われますが、実際その通りかと私も感じております。ですが、事情あってのことでして、その点はご了承下さいますようお願い致します。検診については事務所営業時間には行わないようにしておりますが、万が一もあります。そのことがあってからお伝えするのは不誠実に思われまして、先にお伝えした次第です』
俺は返事ができなかった。瞬き一つすることができなかった。義体化をしていることをこうやって赤裸々に話してくる人に会ったことがなかったからだ。それに田上さんは義体とは思えないほど自然な微笑を浮かべられるのだ。人間と義体でもっとも差がつくのは微細な表情変化である。義体化直後であっても、人間として基本的な生命活動は可能であって、生きる分には困らないのだが、何しろ新しい身体に乗りこんだのだ、加減というのが難しくなる。ボタンを留めようとして引きちぎってしまったり、グラスを持とうとして落としてしまったり、人体とは絶妙な加減でできているものだと俺はほとほと感心してしまう。
これらの問題は義体を使い込むことで解決していくのだが、そこをさっ引いても田上さんはとても義体に思われなかった。そんな顔をしていたのだろう。田上さんはグレーの事務ベストの胸ポケットから義体手帳を出して見せてくれた。確かに身分事項のページには田上さんの証明写真が貼られており、プログラマー名の欄には白波瀬シモン、デザイナーは村上蘭寿とサインされていた。田上さんは俺の顔色をうかがうでもなく義体手帳を胸ポケットにしまい、一礼して仕事に戻ってしまった。俺はそれからしばらく決まり悪くて、田上さんと目が合わせられなかったが、田上さん本人はそんな重大発表をしたのを忘れ去ったように、淡々と粛々と、時には叱責も含めて俺と接してくれたから、俺も徐々に慣れていったが、曽根紋香はどうするのだろうとふと思った。曽根紋香はまだ十一歳だ。田上さんのように学校で「私は義体になりました。リハビリ中ですから、迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」なんて言えると思えない。第一、自分の学生時代を思い返しても、義体化したと告白してきたクラスメイトはいなかった。それはそうだ。言わなければ分からない。自ら傷つけられる道に踏み込むヤツはまずいない。田上さんは職場で検診を受けるから告白したのだろうが、それにしたって、である。
「バレないといいな」
だからだろう。午後、睦朗の車の助手席に乗りこんだ俺が出し抜けにそう言ってしまったのは。カーナビに依頼者の住所を入力していた睦朗は問い直すこともなく、
「どうだろうね、勘づくだろうし」
と言った。そして俺に助手席に置いていたカバンを押しつけてきた。大事に持っておけ、ということらしい。俺はシートベルトをしてからそのカバンを膝に乗せた。
「なんだ重いな」
「大事な書類だから、しっかり持っててよ。紋香ちゃん、転校するかもね」
「かもな」
二十歳くらいになると、ぽつぽつと義体化しだすのだが、なぜ知れるのかといって、長期休学するからだ。ゼミの誰かが前触れもなく来なくなり、名簿に『休学』と記載される。休学の内容について訊ねる者はいなかったが、誰しもが察していた。義体化のための準備段階に入ったのだろう、と。
義体は作成に一年、電子脳もフォーマットするまでに平均その程度の時間を要する。ただ電子脳のほうは融通が利くので、義体に拘りがなければ数日から半年でも可能である。もっとも金はおそろしくかかってくるが。
ともかく義体という医療器具はできあがりまでに時間がかかるもので、義体化直前の半年間は本人が忙しくなる。義体化における各種申請手続き、プログラマーとデザイナーとの最後の詰めをしつつ、いつ昏睡状態になるか怯えながら過ごすことになる。とても勉学や仕事ができる精神状態ではない。ただ、中には異様にタフな人もいて、義体化直前まで平常通りの暮らしもしている人もいる。しかし何にせよ、ある程度弁えがつく年になれば、義体であるか否かなど訊ねたりしない。義体であるから得をすることは、もうインソムニアを発症しないことだけで、超人的な能力を得るわけでも、絶世の美形になるわけでもないのだ。
俺は目を窓の外へ投げた。俺が考えたところでどうしようもないことではある。依頼者に入れ込みすぎればプログラマーとしての寿命を縮めることになる。どれほど依頼者に親しみを抱かれようが、信頼されようが、甘えられようが、プログラマーは理解こそしても同情はしない。俺のこの思考の流れ方は同情だ。水が低きに流れるように、思考も考えるのが楽な方へ、楽な方へと流れていく。
睦朗はそんな俺を放っておいてくれた。彼はカーラジオをつけたが、聞いている様子はなかった。ラジオは似たり寄ったりのニュースを流し続けていて、興味を引かれはしなかったが、その声はのびのびとしていて悪くなかった。俺は耳にその声をいれることで、胸に渦巻くわだかまりを溶かしていた。カーナビは到着まで一時間だと示している。それまでに俺は心を平らかにして、その盤の上に依頼者の言葉を並べ文様を描き出さなくてはならないのだ。私情こそがプログラマーを目指した動機にも関わらず、しかしその動機を殺すのがプログラマーという矛盾を感じずにはいられない。
車は都会を離れ、空き地が目につくようになった。下草が生い茂っているところもあれば、土がまだ生々しく剥き出しになっているところもあった。雨だれの染みついたマンションには生気がない。住人はほとんど引っ越していなくなってしまっているのだろう。《落日》前はこんな郊外にまで人が住んでいたらしい。そんなに人がいた時代があったのだ。
「遠いんだな」
「不安になる?」
「まさか」子どもじゃあるまいし、と言いながらも俺は気分が重くなるのを感じていた。子どものころは人気のない所に行くのがこわかった。俺だけじゃない。孤児院にいる子どもたちの多くがそうだった。単に薄気味悪いだけではなかった。あの手の古びたビルには、インソムニアを発症しながらも、義体化を拒否し、自然死を求める人たちが転がっていることがよくあったのだ。一度でも目にしたら二度と入ろうとは思わないだろう。鼻をつく強烈な腐臭と死臭が立ちこめる薄闇に、そして虚ろでくぼんだ目が並び、釣り下がった無数のロープが光の帯のなかでゆらゆらと揺れている。見て気分のいい光景ではない。
「今日はしかし、なんでまた自宅へ」
「言ってなかったっけ。打ち合わせだよ。監査官のチェック前の」
「それは分かってる。事務所に来てもらうのが通例じゃないのかって俺は言いたかったんだ」
「ご両親が片時も我が子と離れたくないってね。これぐらいはサーヴィスのうちだよ」
「ならいいが。しかし自宅療養は苦労するだろうに」
「たっての希望でね」
それはどちらの希望だったのか、あえて睦朗は口にしなかった。俺は目を閉じて昨日読んだ記録を思い返してみた。最後の聴取書の日付はいつだったか……半年は前だったと思う。そこから曽根紋香の言葉は消え、両親の言葉だけが積み重なっていた。よくある記録だ。よくあることだ。しかし奇妙なひっかかりを俺は覚えていた。なんとも言葉にし難いのだが、紋香の両親は語りすぎている気がするのだ。人の記憶は生きている限り、永久に拡大を続けているが、実際に思い出せる部分は膨大な記憶の大地からすれば点にすぎない。その点と点を結び線として、一つの人格を織り上げるプログラマーからすれば、自分の記憶ですらこうも怪しいのに、他人の人生を密度高く語られてしまっては、その信憑性は疑わしいものになる。しかし紋香の両親であることを踏まえれば、それほどおかしな事でもない。語りすぎている、その直感だけが俺を胸をざわつかせている。
これが何か明確にとらえ、解決し、納められるようになったらプログラマーとして一人前なのだろう。黒瀬先輩はきっちりと赤を入れていたが、さて、どのような解決方法を取ったのか、俺はこの目で見られるのかもしれない。そう思うと気が進まなかったこの来訪も、とたん楽しく思えてくるのだから我ながら現金な性格だと思う。
やがて車は住宅街に入った。睦朗は速度を落とし、ゆっくりと進みながらカーナビが示す家の前で車を止めた。睦朗は路上駐車であることを気にしていたが、これほど明るい時間でも人どころか、車を見かけないのだ。問題ないだろう。
「ここ、人住んでるのか」
「人気エリアだよ。特にファミリーに」
俺は背伸びついでにあたりを見渡してみた。家は傷んでいないし、庭木や花壇にも適切な手入れがされているように見える。鳥の気持ちよくさえずる声が耳に心地よい。都会の喧噪さとは無縁の、落ち着いた暮らしがここには広がっているようだった。重いカバンさえなければ、少し見て回りたいほどだった。
「見て回るのはあとね」
「何も言ってないだろう」
睦朗はくつくつと笑ってからふっと力を抜いて顔を整えた。睦朗がこうして顔を整えるのを見るたび、睦朗は意識してあの微笑を顔に貼りつけているように思えてしかたない。誰だって自分に都合のよい顔をするものだが、睦朗は見事の一言だった。俺も軽く頬を叩き、表情を固めておいた。大事な話をするときにニヤニヤしていては信用されないものだ。
インターフォンを押してから応答までがひどく長く感じた。足の裏がムズムズと、ふわふわとする。胃が迫り上がって首がぞわぞわとした。睦朗はもっと緊張しているのだろう。用件を告げる声が微かに震えていた。インターフォンのマイクが野暮にも拾い上げないことを俺は願った。
――門扉が解錠される音がした。睦朗は門扉に手をかけ、そっと押し開いた。俺は彼に続いて中に入り、玄関で待っていた紋香の母親と挨拶をした。写真で見るよりずっと紋香の母親は若々しかった。肌は血色がよく、目鼻立ちはくっきりとしていた。身につけている洋服も夏を意識してか爽やかな色味だった。彼女が紋香に白いワンピースを着せた本人だろう。
「今日はこちらが無理を申して、すみませんでした。快く応じて下さり、ありがとうございます」
「いえいえ、紋香さんのご様子はいかがですか」と睦朗は訊ねた。紋香の母親は変わりないと言って、俺たちを客間に通した。そこには紋香の父親がすでにいて、俺たちを見かけるなり立ち上がり、深々と頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございます。この日を心待ちにしておりました」
「お父さん、頭を上げて下さいね。こちらこそ時間がかかってしまい、申し訳ありませんでした」
睦朗はそう言いながら上座に座り、恰幅の良い紋香の父親と他愛のないことを喋りながら、紋香の母親が来るまでの時間を温めていた。俺は邪魔にならないように相づちをうちながら、客間から望む庭を眺めていた。鮮やかな色合いの花々が咲き誇り、その間を蝶が舞い飛んでいる。雑草と思しきものはなく、芝生は丁寧に刈り込まれていて、夏には素晴らしい木陰を作りそうな木々もあった。さらにその近くにはハーブと思しき植え込みもあった。さながら美しい色水のたまりのよう。
「あら、すみません。おまたせしまして」
紋香の母親がきたのは、話題が尻すぼみになってきたきたころだった。テーブルに運んできた紅茶に焼き菓子を並べ、父親に急かされるようにして彼女はソファに座った。母親が加わったことで世間話がまた一周分繰り返されてしまったが、睦朗は嫌な顔一つしなかった。それどころか母親のいれた紅茶を褒めちぎり、焼き菓子はどこのものかと訊ねていた。母親は自作だと恐縮し、また紋香と作れるのを楽しみにしているのだとにこやかに語った。
「どのくらいでうちの娘は日常生活を送れるようになるのでしょう」
「リエゾンは数日で終わりますから、リハビリ次第ですね。あの年頃は適応が早いので一ヶ月もすればご自宅に戻ってこられますよ。その前に監査官のチェックがありまして、これが二週間かかりますから、二ヶ月は見ておいて下さい」
「二週間もチェックにかかるのですか」と父親が声を高くして言った。
「はい。待ち時間がほとんどですがね。それを含めてお気になるでしょうから、監査官のチェックの説明をさせていただきます――」
睦朗はそう言って脇に置いていた書類カバンを開いた。俺が持ってきたカバンである。中から辞書のように分厚い申請書を取りだし、両親をぎょっとさせた。
「こちらが本体ですが、中は義体の設計が殆どですから、気が向いたときに読んでいただければ結構ですよ。いまから私が重要なところを抜粋してご説明いたします」
睦朗はにっこりと笑い、ファイルを取りだした。さっきと比べると薄い。あの分厚い契約書の大半はプログラミングと義体の情報で埋まっているのだろう。睦朗は二人に見えるようにファイルを開き、説明しはじめた。