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昼飯を食って、ちょっとうとうとしてからが本番だと俺はいつも思う。重たい目から眠気の靄が取れて、でこぼことしていた思考が整地されて、何もかもがくっきりとクリアに見えるタイミング。俺はリーガルパッドに書き綴ったメモをダイアログに書き起こしながら指が踊る快感に酔っていた。淀みなく動く手に合わせて、脳は次々とぴったりと来るコードをチョイスしてくる。たまらない時間だ。
しかしそれはあえなく遮られた。
「睦美さん、お客様ですよ」
「へ、俺?」
秘書の西野さんが(早く!)と顔をしかめたので、しぶしぶ俺は客間に顔を出した。念のためジャケットは着ていたが、その必要はなかった。依頼者が変な顔をしたからだ。俺もちょっと変な顔をしたかもしれない。俺はつとめて落ち着いた声音で言った。
「私ではないですね。デザイナーの鈴木を呼んできます」
……うちの事務所は何がどうしてこうなったか、鈴木という名字が三人もいる。
別にうちのボスが狙って雇ったわけじゃないが、ややこしいことはややこしい。間違うのは分からんでもないが、かといってミスをしていいものでもない。俺が受付にいた西野さんに鈴木マリ絵さんの間違いだと言って執務スペースに引っ込んだら、すぐに田上さんがすっ飛んできた。
「先ほどは申し訳ありませんでした。西野にはよく言っておきます」
「頼むよ」
「はい、みっちり指導しておきます。それでは、お邪魔しました」
田上さんは顎で切りそろえた黒髪を揺らして深々と頭を下げ、猫のように足音を消して出て行った。ほっそりとした黒猫という表現がぴったりくる女性である。しかし彼女は猫のように気まぐれではない。そこらの猟犬が尻尾を巻いて逃げ出すぐらい誠実で有能である。スケジュールは全て頭に入っていて、電話応対は上品だし、接客も丁寧だし、その上経理もこなせてしまう。身につけている純白のブラウスには皺一つなく、グレイのベストにブラックのボックススカートという前時代の遺物のような野暮ったい服装も彼女にはよく似合っていた。まったく秘書として隙がない。プログラマーやデザイナーなんてものは基本どっか抜けてるもので、田上さんのように事務仕事をきっちりこなせる秘書は必要不可欠な存在だ。田上さんの働きぶりを見れば、ボスが独立の際、自分の前のボスと喧嘩してまで田上さんを引き抜いたのも分かるというものだ。彼女抜きでうちの事務所は回らないだろう。
俺のボスである白波瀬シモンが義体事務所を立ち上げて五年だが、はじめはそれこそボス一人だっただった事務所にもメンバーが増えて、今やプログラマー三人にデザイナー二人の体制である。仕事量も五倍どころか十倍ぐらいに増えたと思うのだが、田上さんは平然とした顔で仕事をしている。ボス一人だったときは掃除ばかりしていたと田上さんは言っていたから、いまぐらいが丁度いいのかもしれないが、それにしても田上さん一人に頼り切りはよくない、ということにうちのボスは事務所経営五年目にして気がついたらしい。これが早いのか遅いのかはさておき、俺が入所してから一ヶ月ぐらいして、新しく秘書を雇った。それがさっきの西野さんである。西野さんは入所してまだ二週間だし、うちの事務所のへんてこな事情も考えれば、別に西野さんが無能だと俺は思わない。どこにでもいる秘書だろう。田上さんが仕事ができすぎるのだ。なにせ田上さんは一度言ったことは忘れないし、間違えないという驚異的な記憶力と注意力を持っている。プログラマーの俺より記憶力は上なんじゃ、とすら思う。だから田上さんからすれば、何度教えても間違う相手というのは、未知の生命体そのものに違いない。俺もそのうちの一人に入っていそうで戦々恐々である。田上さんに嫌われたらまずこの事務所でやっていけないだろう。
「さて、と」
俺は気を取り直し、西野さんによって中断されたダイアログに再度取りかかった。黒瀬先輩から回されてくる仕事は受けてまだ一ヶ月だが、もうずいぶんと打ち込みが進んだ。黒瀬先輩は男前でしかも聞き上手だから、依頼者の女性も舞い上がって一気に喋ったに違いない。でなければ記録が厚さ五センチになるはずがない。この中には依頼者の日記や手紙なんかもあって、俺としては扱いに弱るのだけれども、仕事は仕事、淡々と俺はコードをPCで入力し続けていた。ひたすらひたすら。依頼者の年齢は三十歳。どっさりと溜まった記憶はあらかた睡眠中に電子脳に吸い出しているものの、それだけでは補えないのが、依頼者の主観による記憶――ダイアログ――だった。それは依頼者から聞き出すことでしか分からない優劣、拘り、偏見、思い入れだ。こればっかりは電子脳を見てもさっぱりで、本人の頭の中を見ても全体像を掴むのは困難である。そもそも人間の記憶保管庫なんてものは、編纂されていない辞書がどっさりと溜め込まれているようなものだ。その編纂を行うのが人格であり、その人格をデジタル化するのがプログラマーの仕事だ。そうはいっても俺はまだF1だから、人格に関わるプログラミングを任せてもらえるはずもなく、その下準備であるダイアログの下書き(そう、下準備の下書きだ)がせいぜいといったところだ。
リーガルパッドにして三枚分を入力したところで俺は手を止めた。コーヒーを薄暗い給湯室で入れる。西野さんに頼んでもいいのだが、パソコンの前でプログラムばかり打っていると身体がカチコチになってしまう。だが俺がやるのは決められた投入口に好みの豆を入れるだけだ。あとはコーヒーメーカーが勝手にやってくれる。
ミルの音を聞きながら俺は肩を回し、その場で屈伸をした。それから大きく伸びをして、なぜか給湯室に置かれている長椅子に横になった。ここに長椅子を置くことを提案したのはボスである。ナイスボス、俺は心でボスに喝采を送りながらうつらうつらしていると、目蓋の裏に光が差した。疎ましげに目を開ければ、よく知った顔が目に飛び込んできた。
「僕の分もお願いしていいかな」
「……電話、いっぱいかかってきていたみたいだぞ」
「見た見た。だからコーヒーのんで景気づけ」と、むっくりと起き上がった俺の前で鈴木――鈴木睦朗がにこっと笑った。俺はしっしと手で追い払う。睦朗がつけた電気で明るくなった給湯室で俺はマグカップを二つ出した。コーヒーを注いでいると、睦朗の声がかすかに聞こえてくる。相手が何を言っているのか、俺にはもちろん聞こえないのだが、睦朗の穏やかな声音には乱れはなかった。こんなに電話で人が穏やかに喋られるものかと常々俺は感心する。
「ほれ、ブラックだよな」
「ありがと。睦美はミルクコーヒーかな」
「うるせえ」
と言ったものの、コーヒーの匂いは好きだが飲むのはてんで苦手という、典型的お子ちゃま舌の俺に取っちゃこのミルクコーヒーが限界である。すまし顔でブラックコーヒーを飲む睦朗を睨めつけながら、俺はミルクコーヒーを飲んだ。……ちと苦い。砂糖をもっと入れた方がよかったか。
「なんだったの、電話」
「外見が気に入らないって。それでリテイクしますって五回も電話」と睦朗は俺にモニターを指さした。そこにはうり二つの成人男性の顔が並んでいた。
「これ、区別つかないんだけど。どこがダメなんだ」
「僕も自信あったんだけどね、やっぱりあの法律は微妙だよ」と睦朗は顔をしかめた。「第二の生ぐらい、ある程度自由に顔を作らせてあげるべきだって。デザイナーの反対運動すごかったのにね」
「でもそれで芸能人やらモデルが怒ってたんだろ」
「顔の良さだけでご飯を食べているわけでもないでしょう」
「顔はスタートラインだな。で、ある程度の修正はオッケーなんだっけ」
「まあね。プチ整形ぐらいならガイドラインで許可が出てる。その範囲で頑張ってみますか。コーヒーおかわり」
「俺は小間使いじゃねーんだけど」
「はい、これあげるから」
と、睦朗は俺の前にチケットを出した。俺は息を飲んだ。こんなのプログラマーなら誰だって息を飲むに決まっている。睦朗が何の気もなしに出してきたのは、国際義体展示会のチケットだった。国際義体展示会は義体関係者しか入れないのに、それでも倍率はとんでもないことになっている。俺も応募したがあえなく外れた。そのチケットを睦朗は指先でぴらぴらとさせたている。やめろ、プラチナチケットがどっかに行ったらどうするんだ!? 俺がすっと立ち上がって睦朗の手からチケットを奪い取ろうとすれば、さっとかわされた。睦朗は相変わらず微笑を浮かべている。俺は早口で訊いた。
「ど、どーしたんだよ!? これ、ボスでも確保できなかったのに!」
「繰り上げで当たったんだよ。行きたいよね?」
俺は大きく縦に二度頷いた。
ちなみにボスに譲ろうという頭はない。
なにせうちのボスはF5プログラマーだ。国際義体展示会なんてプログラマー身分証をその辺のスタッフに見れば喜んで入場させてくれる。望めば美人のコンパニオンだってつけてくれるだろう。俺も一緒に入れてくれと言いたい。しかしその辺は厳しくて、F5プログラマーであっても同伴者は不可である。昔は同行者三名まで可だったらしいが、それで色々トラブルがあったらしい。何となく察しはつくが、おかげで俺が迷惑を被っていたわけだが、睦朗のおかげで解決できた。ありがとう、睦朗! お前は俺の神様だよ、と抱きついてしまいそうになった。なんせ、中学生のころから行きたいと夢見ていた国際義体展示会だ。この国際義体展示会には世界中から最新のプログラム用語と義体がやって来るのだ。見たくない義体関係者なんていないだろう。だったら義体関係者は全員入場可にしてもらいたいものだが、警備上の都合というものらしい。
俺は鼻歌交じりでコーヒーを入れ、ついでに睦朗の大好物であるドーナッツをフロアに設置されている自販機で買ってつけてやった。抱きつかれるよりこっちのほうがいいだろう。
「お、ありがと。今日はサーヴィスがいいね」
「どーいたしまして。チケット譲ってくれるよな」
「睦美のためにもらってきたんだもの」と睦朗は微笑を深め、ドーナッツを食べ出した。よしよし食べたな、食べたから譲渡成立だ。俺はにやけるのを止められなかった。睦朗はごくんとドーナッツを飲み込んでから、
「その代わり」
と言いだした。まだ譲渡成立はしていなかったらしい。俺はやれやれと肩をすくめた。睦朗は笑顔で続けた。
「明日の午後からの仕事、一緒に来てよね。依頼者との打ち合わせがあるんだ。ICレコーダー持ってきておいてね。あと電子脳のチェックもあるんだ。簡単な接続エラーなら治せるんだよね、睦美でも」
「ほんっとーに単純なヤツならね。F1に人の頭いじらせるんもんじゃないですよ」
「でも明日はボスも黒瀬先輩も埋まっててね」
「だったらエラーコードを俺がコピーして持ち帰りでいいだろ」
「うん、それなら問題ないね」と嬉しげに睦朗は言った。「よろしく」
「はいはい」
プログラマーなりたての俺に顧客もいなければ、予定もない。それでも顧客のところに行くならボスに話を通すべきだろう。何かあったとき責任を問われるのはボスなのである。俺はボスの執務室をノックした。しかし顔を出したのは黒瀬先輩だった。今日もダークスーツが決まっている。
「どうしたんだい」
「明日、睦美さんと一緒に顧客のところに行くから、ボスにその許可をもらおうと思って来ました」
「ああ、そういうことか。夕方には戻ってくるよ。入力は順調かい」
「はい。あっ、経過をお見せします。すみません」
「十七時までに転送よろしく」
と、軽く手を上げて黒瀬先輩は部屋に引っ込んでいった。しまったと俺は席に戻ってからため息をついた。睦朗と同じ事務所になれたのは素直に嬉しいが、あいつと喋っているとついつい昔に戻った気になってしまう。ここは仕事をしに来ているのだ。俺は反省も込めて苦いコーヒーをすすり、黒瀬先輩へ送る前に再度ダイアログを見直しをはじめた。いくら見直したところで、黒瀬先輩の容赦ないチェックが入って真っ赤になり、バックされるのは分かり切っているのだけれども、だからといって手は抜くのは阿呆のすることだ。
コード辞書や文献を見い見いし、詰めの甘い部分や読み取りにくい部分、ダイアログとして相応しくないであろう表現をどんどん直していく。この表現の煮詰めともいえる修正作業は大変の一言だが、俺はひとつの事象に対して様々な角度から言葉を――いや、コードで切り込み、形作り、彩っていく作業は好きだった。好きというか、これっぽっちも飽きない。飽きないというのは好きということなのだろうか、と睦朗に以前訊ねてみたら「好き嫌いの範疇を超えていると思うな」と言われた。「それだけ一緒にいても飽きないなら、習慣だよ」とも。睦朗はときどき面白い事を言う。俺は悩んでいたコードの一部を習慣に変更し、ダイアログの収まりを見た。……悪くない。
俺は大きく息を吐いて黒瀬先輩のパーソナル・ボックスへダイアログ・ファイルを放り込んだ。放り込んでから俺は窓を見た。すっかり日が落ちてしまっている。ぱちぱちと手を叩く音がして、しょぼつく目を上げれば睦朗が俺に小さな拍手を送っていた。
「根詰めてたね。頭痛いんじゃない、今」
「なんで分かるんだよ」
「睦美はそうじゃん。根を詰めるとすぐ熱を出す。はい、これ」
「どーも……って、やべっ」
睦美から渡された額冷却剤をデスクに放り出し、俺はボスのデスクへ急いだ。ボス――白波瀬シモン所長はすでに帰ってきていた。トレードマークの丸黒眼鏡をかけ、デスクでゆったりとコーヒーを飲んでいる。きっと田上さんが入れた極上のコーヒーだろう。悪いタイミングに来てしまったものだ。
俺はボスに挨拶をしてから、明日の件を切り出した。ボスは強面の顔を微塵も動かさずに俺の話を聞いている。入所当初は俺の言っていることがあんまりにも馬鹿げているから、ボスは反応していないのだと思って気落ちしていたが、黒瀬先輩と話していても、田上さんと話していてもその調子で、ボスの癖なのだと知ってからは、少し落ち着いて話ができるようになった。けれども緊張しないわけではない。それでもどうにか俺が話し終えると、ボスは待っていたかのように口を開いた。
「是非行ってきたまえ。但し、F1プログラマーとしてできる範囲を逸脱しないように」
「はい、それは肝に銘じています」
ボスは大きく頷いた。「F1プログラマーとして許可されている領域を述べてみたまえ」
「カデンツァは全面禁止。プログラミング不可。コーディング不可。ダイアログの作成は可能。原則、上位ランクのプログラマーの指揮下に入る」
「その通りだ。私は学ぶのに貪欲な者は大歓迎だが――、好奇心を無謀に変えて、依頼者を苦しめるのはエゴでしかない。よい経験となるだろう。戻ってきたらレポートを出してくれたまえ。それと行く前に必ず記録に目を通しておくように」
「承知しました。許可して下さり、ありがとうございます」
俺は深々と礼をして執務室を出た。とたん肩が軽くなったのを感じる。鼻歌交じりで執務スペースに戻るなり睦朗から該当の記録を渡されて、思わず渋い顔となった。
「おまえ、こういうとこだぞ」
「なにがこういうとこ、なのかな」
見透かされてるというか――、読まれまくってるというか――、ボスや黒瀬先輩とはまた違う意味で睦朗はやりにくい相手だ。出会って十六年、腐れ縁でも今更ではあるが、睦朗の印象は孤児院で出会ったときから微塵も変わっていない。
「気が回りすぎるところ」
「そーでもないよ、僕は。睦美は嫌なの」
俺は互いのデスクの中央にある丸テーブルで記録を広げながら首を左右に振った。睦朗が椅子をこちらに寄せてくる気配がした。かまわず依頼者の経歴を開く。睦朗が依頼者の聞き取りを元に作った、生まれてからのこれまでの概要がびっしりと書き込まれていた。まずはざっくりと目を通すことにする。じっくり読むのは概要を掴んでからだ。
「嫌とか言ってないだろ。スゲーって思ってるんだよ」
俺だって人並みの同情心や親切心を持ち合わせているが、睦朗の場合はそれが万人に働く。平たく言うなら、困っている人を見ると睦朗は助けずにはいられないのだ。十歳で孤児院に入ることになった俺の面倒をよく見てくれたのは、二歳上の睦朗だけだった。睦朗は物心つく前に両親をインソムニア・パンデミックで亡くした生粋の孤児院育ちで、家庭の温かさを知らないはずだが、俺の不満を妬み、冷たい言葉で詰ることは一度もなかった。これだけでも驚異的だが、飯が不味い、どこにでも人がいてうるさい、部屋が狭い、布団が気に入らない、天井にクモが這っている、……不満、不満ばかりをぶつけてくる俺の不満のコアがどこにあるのか、睦朗は的確に見抜くことができた。睦朗は俺の我が儘や不満を我が儘だと一蹴せず、そこに潜む哀しみを決して馬鹿にしなかった。俺にとって孤児院という場所は、喪失の象徴であることを理解し、孤児院に馴染むことは、喪失を受け入れ認めることであることすら分かっていた。俺が孤児院で職員に反抗的な態度であるのは、この生活に馴染んでしまえば、元の暮らしに戻れなくなるから抵抗していたのだ、と。当時の俺は必死だった。孤児院での決まりを守らない俺は毎日のように職員に叱られ、怒られ、宥められていたが、それがますます俺を苛立たせていた。職員が手をつけられないと嘆く一方で、どうしてか睦朗はそんな俺の鬱憤をとらえて、互いに不平不満を言い合ったり、遊んだりして発散させてくれていた。俺だけでなく、他の奴にもうまかった。当時、俺には睦朗はもっと年上だと思っていた。彼は背が高く、声も落ち着いていて、喋り方もとても子どものそれじゃなかった。今でこそ釣り合いがとれているが、睦朗の年齢が精神にどうにかやっと追いついたというだけだ。そのお陰で俺は人付き合いを曲がりなりにも学べ、どうにか集団生活に溶け込めるようになった。それが俺にとってどれほど有り難かったか、言葉にするのは難しい。職員は孤児院を回すだけで手一杯で、とても親を失った子どもというデリケートな存在を相手にするには余裕がなかった。なさすぎたのだ。だから俺のいた孤児院だけでなく、どこの孤児院でも、睦朗のように早熟な子どもは自然とこういう役目をこなしていた。無論、職員だってこの状況をよくは思ってはもちろんいなかった。インソムニア・パンデミック後から生身の人間というのはとんでもなく貴重な存在になっていて、将来の担い手である子どもたちを無碍に扱うのは、政府の打ち出した方針と相反する。その上、いくら早熟といえども、子どもは子どもだ。職員に対して睦朗のような役目の子どもが不満を爆発させているのを、俺は幾度となく目撃している。彼らは口汚く罵ったり、暴れたりはしない。ただ淡々と問題点と自分の疲れを述べるだけなのだが、それが俺は怖かった。彼らの目は一様に曇っており、声は上から押しつけたみたいにひしゃげていて、みずみずしさというものを失った砂漠が人の形を取っているようだった。優しさというものは、果実から果汁を搾り出すように、自分を犠牲にすることでしか生み出せない。そう考える人は多いだろうし、俺もそう感じていたが、睦朗はそうではなかった。彼の優しさは、彼が何か損なって生み出されたものではなかった。俺はそれが不思議でしかたなく、意地の悪さのようなものも手伝って、睦朗を常に目で追いかけていた。
けれども分かったことは睦朗がおそろしく忍耐強く、自分という形を外に出すときにはひどく慎重な性格であることだけだった。それは心を開かないという単純なものではなかった。睦朗は自分が必要とされる形とタイミングを察することができ、その通りに自分を演じられる役者だった。いつぞや俺はそう結論づけた。俺が睦朗を疎ましげにしていても、結局のところ、俺が無意識下で睦朗を必要としているから、睦朗はこういう態度を取ってくるのだと。顧客に対してもこの能力は遺憾なく発揮されていて、つくづく、彼がプログラマーにならなかったことが惜しまれる。特に、こんな風に依頼者の言を最大限にプレーンに聴き取り、丁寧に構築された文章を読んでいるときには。
「なあ」
記録から目を上げれば、睦朗がにこにこと待ち構えていた。俺は居心地悪いものを感じながらも疑問を口にした。
「これ、俺を連れて行ってもどうにもならないと思う」
「でも参考になると思ったんだ」
「それは有り難いんだけどさ……」
俺は大きく息を吐き、痛むこめかみを押さえる。
「これはやりづらい」
睦朗が明日俺を連れて行くと宣言した案件は、子どもの義体化案件だった。今年で十歳、昏睡状態に陥って半年、電子脳作成は順調に進み、十一歳の誕生日に目を覚ますよう調整してもらいたいとの両親からの希望だった。
……子どもの義体化というのは、とかく難しい。
義体化商売に難易度はない、あるのは難度だけ、と義体業界者はよく冗談を飛ばすが、子どもに関する案件は冗談抜きに難度しかない。実は、と前置きするほどの隠し事でもないが、子どものインソムニア発症率はとてつもなく低く、まず手がけること自体がとても少ないのだ。それこそ十八歳を過ぎるまでは天文学的な確率で低い。しかし、天文学的な確率というのは、宝くじ一等前後賞に当選するような確率であって――、発病しないわけではないのだ。
「何をしに行くんだよ。調整って、接続調整か? この段階で俺が手を貸せるところなんてないぞ」
「まあ念のためだよ。僕は電子脳なんてさっぱりだし」
「嘘こけ。ま、睦朗のお手並み拝見だな。俺は荷物持ちに徹するよ」
外見カスタムの話なら、デザイナーの領分だ。プログラマーの俺に出る幕はない。けれども睦朗の言うとおり、彼の対応から学んだり、顧客の様子伺いという意味では一緒に行く価値は大いにあった。
「で、どこまで進んでいるんだ」
「こんなところだね」と睦朗はPC画面に映し出した。素っ裸の義体が一体寝転んでいる。天宮重工製の幼年期前半型だった。顔は出荷時にはのっぺらぼうであるのだが、睦朗の手によって人の顔に整えられていた。髪もしっかりと植えられ、各パーツとの肌の色の境もない。悪くない仕事ぶりだった。俺は記録にある写真と比べてみた。遜色ない。
「悪くないな。あとは細かい修正か」
「それがね、なかなか……」
「ふぅん。なんだ、機嫌でも損ねたのか」
睦朗は優しい目を細め、「いや、明確に損ねた、という感触はないのだけれども、なんだか響かないみたいなんだ。僕の説明が悪いのかもしれない。白波瀬所長や黒瀬さん、マリ絵さんにも録音は聞いてもらったのだけれども、首を捻ってる」
俺も首を捻った。
「これで気に入らない。そら難しい相手だな」
「そうはっきり言われたわけじゃないけどね。睦美はほら、勘がいいじゃない」
「なんじゃそら」
俺はじっくり読み込むために記録を持って立ち上がった。
「机で読むよ。おまえも詰めがあるんだろ、邪魔して悪かった」
そうして俺は経歴を頭から読み返した。
依頼者の名前は、曽根紋香。
依頼者の両親から提供された写真に写っている彼女の髪は短く、遠慮の無い笑顔は活発そうで、年にしてはずいぶん背が高く、手足も長かった。しかし貧弱な印象はない。身につけている服はだいたいジャージか、ジーンズにTシャツ、またはパーカーといったラフな服装で、何かの行事でもあったのか、一枚だけ麦わら帽子にワンピース姿のものがあった。浅黒い肌に飾り気のないノースリーブの白いワンピースはよく映えて、俺は悪くないと思った。彼女が目を覚ましたときに「あのワンピースは似合ってるよ」と声をかけたくなるぐらいに、曽根紋香ははにかんで、いっそむくれているようにすら見えたからだ。この服は私の好みではなくて、親の好みで着せられたのよと言わんばかりに。
俺は写真を二回ほど見てから、次に聴取書に移った。これは経歴書となる前の、生の依頼者の言葉だが、手で書いていては追いつかないので、ボイスレコーダーで取って、ソフトで文字に起こしてもらう。昔は手書きで取っていたし、今も手書きにこだわるプログラマーはいるが(うちのボスもそうだ)、録音のほうがメリットが多い。手で書くのに集中しすぎると、依頼者の微細な表情の変化や、声音の違い、手振り身振りなんてものをどうしても見落としてしまう。作るものが作るものだけに、依頼者との打ち合わせは逐一録画・録音するのだが、実際に目にするのと、映像で見るのとでは印象が異なることが多い。人間の印象というのは記録媒体を介することでさえ揺れ動いてしまうまでに脆い。人の形なんてものは、肉でこそ然りとあれど、精神の形ともなればあやふやで曖昧模糊と化す。そんなものをプログラマーは形にしようとするのだから、無謀そのもの。しかしそうしなければ、人類はインソムニアによって、文化、文明、科学、政治、経済、人類が生み出してきたありとあらゆるものを失うことになっていただろう。
『今日は来てくれてありがとう。会えて嬉しいよ。僕は『すずき ろくろう』と言います。紋香ちゃんのデザイナーに就きました。隣の彼は『くろせ はるみ』です。紋香ちゃんのプログラマーです。二人で紋香ちゃんを担当しますので、よろしくね』
『よろしくおねがいします』
ここでしばらく雑談が入る。黒瀬先輩は時折口を挟む程度で、睦朗に殆どを任せている。睦朗は紋香へ今日はどうやって来たのか、昨日は何をしていたのか、何を食べたのか……、答えやすい質問が紋香へと与えられたが、彼女からの回答は全て空白、つまり無かったということだ。睦朗はこのまま面談を進めて良いか迷ったのか、体調は悪くないかと訊ねたが、紋香は首を左右に振っている。こうなると雑談で濁すのも白々しく思われたのか、睦朗は紋香に好きなことを訊ねた。定番の質問だ。紋香はお菓子作りと言った。睦朗はその反応に光明を感じたのか、そこから掘り下げていっているのだが、紋香から返ってくる言葉は少なく、また具体性にひどく欠けていた。まるで睦朗の質問にどう答えれば正解なのか、頭を巡らせているように思えた。正解なんて存在しないのに、と俺は読みかけのページに指を挟み、両親との関係のページを開き斜め読みしたが、特に虐待の記述はなかった。読みかけのページに戻る。メモによれば、丸っこい目をせわしく左右に動かして、おどおどとした様子であったらしい。睦朗は慣れない環境で疲れたのだろうと一時間未満で面談を打ち切っている。
このような面談が数回続き、それまで口を閉ざしていた黒瀬先輩は紋香に向かってこう告げた。
『紋香ちゃん、ここではなんでも喋ってくれていいんだよ。本当になんでも、好きなように、気ままにね。我々は職業規定から、秘密は守ります。紋香ちゃんへのご両親へも見せないから安心してね』
これを聞くなり錆びついた窓のように重かった紋香の口が一気に軽くなって、どこに蓄えていたのだろうというぐらい喋りだした。睦朗はその波に乗って、紋香の今を彩る記憶を引き出していく。紋香は楽しそうに、打てば響く楽器のように言葉を奏でる。……学校は皆勤であること、運動会ではリレーの花形で、一等を何度も取ったこと、遠足が楽しかったこと、テストは嫌いだったこと、コーラが好きだがあんまり親が飲ませてくれないこと、クラスの男の子がちょっと気になっていること、……、俺は軽く目を閉じて写真の彼女を再生した。それから彼女の語る思い出にそって彼女を動かしてみる。彼女の伸びやかな手足が脈動し、トラックの先頭を走る姿がたやすく浮かぶ。ランプに火を点したときのような輝きが脳裏に宿った。
他人の記憶というのは、ぶ厚い本を暗闇で読まされるようなものだ。そこへ点される明かりは、本人が語る『色濃い思い出』だ。ここから作り上げるダイアログと電子ダイアログを組み合わせるためのカデンツァを作り出すのが、プログラマーの腕の見せどころだが、俺が手がけることになるのはもっと先の話だろう。道標を得た俺は、聴取書をテンポよく読み進めだした。曽根紋香は活発な少女であったらしく、語ることはそれこそ俺の少年時代とそう変わらない。読んでいて遙か昔から友だちであったような気さえした。紋香の写真の印象と、思い出の印象はほぼほぼ一致していた。子どもの頃、特にこのくらいの年齢だと齟齬がなくてありがたい。これが世間体を意識し出す年齢になると、『笑っているけど本当は嫌だった』、と表情と心との矛盾が大きくなってくる。しかもそれが人によってまちまちなのだからプログラマー泣かせである。
『今日はここまでにしましょうか。長い時間ありがとうございました。次は紋香ちゃんの好きなコーラを準備しておくね』
睦朗はこう言って二時間の聴き取りを切り上げた。
紋香ははにかんだ笑みを浮かべて、部屋を出て行ったらしい。聞き上手な上手なプログラマー、デザイナーはどれほど悲痛で苦しみに満ちた過去であっても、最後に依頼者を笑顔にして帰すのだ。どうしてそんなことができてしまうのだろう。睦朗だけでなく、黒瀬先輩もボスも、マリ絵さんだってそうだ。俺は自分が依頼者を前にして、冗談のひとつ飛ばせるとは思えなかったし、義体化に不安を持つ彼らの心理こそは学んでいても、どうすれば解きほぐせ、義体に移ってからの生活を楽しみにすらさせることが、できるようになるとは思えなかった。睦朗に訊けばいいのだろうが、安直な逃げを打つのが許せなくて、俺は訊けずじまいだ。しかし小さな意地を張っている場合ではないと俺はこの聴取書を読んで痛く感じた。俺は睦朗の会話術を解きほぐすことすらできないのだから。