下界そして出会い
今、武神タケミカヅチの目の前には広範囲に描かれた見たこともないような魔法陣が展開されている。
神であるタケミカヅチをもってしても、生で見るのは初めてだ。下界への道を開くための特別な魔法陣だ。縁がなくて当然と言えよう。
通常の属性魔法や無属性魔法の場合も魔法陣は出現するが、今目の前にある特異で複雑な魔法陣とは違い、一定の法則性を持った陣の描き方がなされている。
魔法を超越する神アドラテレスならば魔法の全ての理を理解しているだろうから、この特異な魔法陣の仕組みを知っているだろうけど、アドラテレスがどこにいるのか見つけるのは至難の業。出会えたらその一年は幸運に恵まれるなんていう話もあるくらいだ。
ではアドラテレス以外、誰ならば転生?転移?の特異魔法に詳しいかを考えると、タケミカズチの神下にいる魔導士アルミラがそれに当たると判断した。
「これ、なんか不安だな。本当に大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。私が保証します」
胸を張り、自信満々にアルミラは言った。
彼女は一級神下の魔導士で、奇怪な魔法をよく知っている。
タケミカヅチも一応武神であるからには、天上界に伝わるほぼ全ての魔法を知り尽くしているのだが、アルミラはそれに加えて武神の範疇を超えるウブスナが書き上げた神書やアドラテレスが唯一書き記した古い日記を読み漁っているのだ。
アドラテレスと同じようにウブスナも神である。ただ話したことがないのでどういう奴なのかはさっぱりわからない。知っている神から聞けば、皆口を揃えて、変わった奴だと言う。変神、奇神といったあだ名をつけて呼んでいる者もいた。
そしてアルミラがタケミカヅチの全く知らない魔法を使い、彼女の口からウブスナの神書に書いてあったと耳にする度に、他の神が口を揃えてあいつは変わっていると言っていたことがおおむね理解できた。一言で言えば・・・ヤバい。なんか毒々しい魔力を感じるし、黒魔術の一種なのではと疑ってかかっている。今のところ他者への被害はないし、大惨事も起きていないので何も規制はしていないが、タケミカズチは正直ちょっと心配していた。
何よりも現在進行形で構築されている魔法はウブスナが開発した魔法らしい。不気味な妖気を帯びているようで、喉をごくりと鳴らし、思わず引いてしまう。
だが、タケミカヅチの反応とは正反対にアルミラの顔は嬉々としている。それがまた恐怖を増長し、不安をかき立てた。
「大丈夫ですよ、タケミカヅチ様。もし失敗したとしても下界に行くのは器です。そこまで心配する必要はないですよ」
アルミラが毒気のない笑顔を浮かべて言った。
ものすごい危険な考えな気がする。問題発言だろ、今の。
「おいおい!器であったとしても俺に代わりはないんだぞ?それに俺の意識はどうなる?意識が彷徨って帰還できないなんて最悪があるかもしれんぞ。下界は未知の場所だからな?何が起きるか考えておくのも重要…………」
「うーん面倒くさいんで。病は気から、とも言いますし。歩き出さないと始まりませんよ?せ-の!それぇぇえ!!!」
アルミラはにこやかにそう告げてから、タケミカヅチのことを思いきり魔法陣の方へ押した。
「え、うそ」
魔法陣に足を踏み入れた瞬間にタケミカヅチの体はその場から転移?した。
「マジかよおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
目の前が黄金の光で満ち溢れ、続いて銀色の鈍光が絵の具を塗りたくったように視界に広がっていった。
しばらくすると見えてきたのは何もかもがぐにゃぐにゃに曲がりきった狭間の世界。視ているというか感じている。
視力は今働いていない気がする。いやそうでもない。
真ん中に自分がいる。タケミカズチがいる。正式に言うと自分じゃない。自分の器だ。神力で創った器。
「……俺が創った器か?」
独り言は誰にも届かない。しかしその器はこくんと一度頷いて、薄い笑みを浮かべた。
次の瞬間、視界が逆さまに反転し、真っ白になる。
…………………………
いつまでも、どこまでも続くトンネルを走る。
いつまでも、どこまでも続く螺旋階段を昇る。
いつまでも、どこまでも続く深海を潜る。
ぜえぜえと息も絶え絶えに、懸命に泥臭く、淡い光が輝きを放つ別世界に手を伸ばした。
気付けば視界が鮮明になっていた。辺りを見回すと木々が太陽の日差しを遮り、薄暗さがその場を支配している。茂みのなかから見慣れない小動物が現れて、落ちている木の実を拾い食いする光景はここが下界なのだと確信させるものだった。
木々の間から頬を撫でるような優しい風が吹き付ける。ガサガサと葉が擦れる音が重なりあって聞こえてくるのはとても心地が良く、不安も懸念も一瞬にして浄化してくれる。
噂には聞いていた日光の温もりがこんなにも気持ちの良いものだったなんて。
まずはどうすればいいんだ?
冷静に現状を見つめてみる。
心の準備をする間もなく、アルミラに押されてそのまま転移してしまった。というかもうちょっと準備してから行くつもりだったんだが。想定外の出立になってしまった。
天上界に帰還する方法はない、たぶん。タケミカズチが知らないだけかもしれないが。
たとえあったとしても今のこの姿は下界に対応した器だ。宿る神力は微々たるもので、もっと膨大な量を溜め込まないと神として何も行動できない。神力が体内に満ちるまで少なくとも一か月は掛かる、と思う。それも予想に過ぎないのでなんとも言えないが……
「……覚えてろよ?アルミラ」
アルミラのいたずらっ子のような笑みが容易に想像できる。
意味のない独り言を呟いてから頭を切り替えて、タケミカヅチは森の中をゆっくりと歩き始める。
初めて足を踏み入れる場所なので、もちろん警戒は怠らない。
道という道がないために、草を手で掻き分けて進み、倒木を乗り越えてはまた進んでいった。
日差しが直接降り注がないのは好都合で、体力が余分に削られることはなかった。
しかし歩いたことで空腹感を感じるようになってきて、その初めての感覚に興味深さを感じた。というのも天界で武神タケミカズチとして君臨している時は空腹という概念すらなかった。なので腹が減ってもう動けないという神下たちの感情をあまり理解できなかった。もちろん何かを食すことはよくしていたが、それが空腹を満たすための手段ではなかった。まあ、いわゆる暇潰しのようなものか。
今はまさに空腹との闘い。タケミカヅチは今、人族と何ら変わらない容姿、内臓の機能もすべて同じだ。ということは空腹で死ぬことすらあり得る。
餓死……
その凄惨な死に方を想像して、すぐに首を振った。それは何としても避けたいし、想像するだけで嫌悪の感情が芽生える。
物音を立てずに茂みに隠れ、動物が来るのをじっと待つ。野生の動物は探し回ったとしても見つかるわけがないし、仮に見つかったとしても捕まえられるほど甘くはないだろう。人族になりたてのタケミカズチでもそれは理解できる。
イノシシ、熊、鹿などが現れればラッキー。肉の少ない小動物なら少し物足りないかもしれない。
目を凝らしながら、眠気を感じつつもじっと待ち続ける。
その成果が現れたのはおよそ三十分後。
木陰から姿を見せたのは赤毛が逆立ち、血走った目を持つレッドベアだった。天界にも多く生息しており、脂身の少ない歯ごたえのある赤身肉が特徴だ。レッドベアの硬質な爪や牙は行商人に高く売れるとも聞いたことがある。タケミカズチは茂みから一切音を立てることなく、飛び出して今いる場所から最短経路でレッドベアに近付いた。
うん、大丈夫。
これならレッドベアにも気付かれることなく、先制攻撃ができるかもしれない。ただ何も持っていない素手の状態でどのようにして戦うのかは一切考えていなかった。天界と同じ戦闘力をこのひ弱な器でも出すことができるなら余裕だろうが、どうだろうか。
試しにそっとレッドベアに接近して、音もなくレッドベアの背中に掌底を叩き込んでみた。
スパァァァン!!!!!!
聞いたこともないような破裂音が鳴り響き、木々に止まっていた小鳥たちはほとんどが飛び出していった。
レッドベアはいとも簡単に吹き飛び、巨大な丸太にぶつかって絶命した。
タケミカヅチからしたら軽く、ほんのちょっと押しただけだ。その微小な感覚でさえ、魔物を殺す力になってしまった。自然と神力を解放していたようだ。
掌底を叩き込んだ後、背中に巨大な岩を背負っているかのような身体の重さを感じた。
「だるぅ」
これは神力のコントロールが上手くいっていない結果だろう。
怠さを我慢しながらレッドベアの死骸の場所に小走りで駆けていき、慎重に手刀で熊肉にしていく。
案の定、タケミカズチの手刀は切れ味鋭く、まるで本物の刃物を使用しているかのように肉の断面が美しかった。熊の鮮血が地面に付着し、獣臭さが鼻を刺激する。丸太に激突した衝撃で肉の状態が悪くなっているかもと思ったが、そんなことはなかったようだ。
こんな経験は一度もしたことがない。自分の神下のなかで元山賊のブロスとかは絶対に経験したことがあるだろう。ロノもよく魔物を殴り殺してたし、ありそうだ。
「これ生じゃ、さすがにやばいよな……」
綺麗な赤身だが、火を通さないと人族のこの体がちょっとだけ心配だ。
タケミカズチは指先に神力を込めるように意識を集中させる。ほんの少しだけ神力を感じ取り、それを全て指先に持っていく。すると仄かに温かさを感じ始め、炎という形となって世界に具現した。
チリチリと頭痛を感じはしたが、さっきよりも怠さはない。
小さな炎を近くの枯葉に点火し、種火をつくり、周りに落ちている乾いた枝を折ってはその種火に触れるようにそっと置いていく。息を吹きかける。神様だとは思えない新鮮な経験だ。
なかなか面白い。やってみるものだ。
タケミカズチは必死に息を吹きかけている。フーフーっと種火に風を送ると火花を散らせた種火は触れ合う枝に延焼しはじめる。
徐々に白い煙が空に向かっていく。ようやくレッドベアの肉を焼き始めることができた。
しばらくしないうちにじわじわと食欲をそそる匂いが香ってくると、反射で唾が溜まってきた。
何の調味料も泣いたため、一切の味付けはなし。ただの焼いた肉。しかし体全身を幸せにする香りが鼻から流れて体内を駆け巡っていく。幸福度は今まさにMAX状態だ。
タケミカズチはこんがりと焼けた肉をこれでもかというほど頬張り、その美味しさに舌鼓を打つ。
歯ごたえがあり、食べ応えがある。今はこういう肉を待っていた。
いろんな疑問が吹き飛ぶくらいに全ての意識が肉、肉、肉。食べることにしか今は目がいってなかった。そのせいで背後から接近してくる存在に気付くのが遅れてしまった。
透き通るように綺麗な生き物の存在感。
タケミカヅチは口の中を肉だらけにしながら素早く立ち上がり、距離を取る。自分の姿はさぞかし滑稽に写っているだろう。
そこにはエルフの女性が敵意などさらさら無く、少し険しい顔つきで立っていた。何故だか少し緊張していて、タケミカヅチは軽く首を捻る。
君は何者だ、と声を掛ける前にその女性は膝を地面につき、忠誠を誓うポーズを見せる。
何が何だかよく分からないが、ひとまず敵ではないのは確かなようで安心する。転移してすぐに下界の人間と戦闘になるなんて洒落にならないからな。
「驚かせてしまい申し訳ございません、タケミカズチ様。私はククノチ様の神下で、エルフ族のリリフ シルベルトと申します」
「ククノチの神下?……ってことは君も天界の?」
「はい。天界の者です」
「おお、そうか!……でも何でここに?」
仲間がこんなところに!という嬉しさからすぐに疑問が頭をもたげた。
当然だろう。興味本位で下界に行く奴なんていないし、何か神たちの間でタケミカヅチさえも知らない計画があるとでもいうのだろうか。そんな特殊な命を受けたのがこのエルフ族の女性という線はない、か……?
「ククノチ様の命を受けました。タケミカズチ様のサポートをするように、と。私は下界に何度か転移していますので」
「来たことがあるのか?下界に?しかも何度も?」
そりゃあ凄いことだ。一方通行じゃないのか?そうなるとタケミカズチがただ単純に天上界への帰り方を知らなかっただけとなる。どうやって帰還するのか話が落ち着いたら聞いてみよう。
「はい。ククノチ様は秘密裏に調査を行っていました。どうも下界に天界を脅かすような存在がいることを疑っていたようで」
純粋なる驚きがタケミカヅチを支配する。
ククノチが……あのじいちゃんがそんなことをしていたなんて。タケミカヅチの何倍、いや何十倍も頭の回転が早く、何もかもを知り尽くしている神であるのは重々承知していたが、想像を遥かに超える存在だったみたいだ。ククノチに対する評価を軌道修正する。だっていつも訪ねたら寝てるか、庭の手入れしかしていないし。
しかしこれはありがたい。ククノチに感謝だ。ククノチが喜ぶような何かしらの土産話を仕入れるのも忘れないようにしなければ。
「まぁ、とにかくありがとう。すまないな、力を貸してもらうことになると思うが、それでいいんだよな?」
タケミカヅチは安堵の表情を浮かべた。
「はい、どうぞ私のことは好き勝手に扱ってください」
いやその言い方だとなんか俺が理不尽な要求をする危険な奴みたいじゃない?いや結構自分で言うのもなんだけど優しいと思うよ?昔戦っている姿を見た少女が乱暴者だ!と泣き叫んだことがあって、それからひと月は魔物すら倒さなかったほど繊細なんだよ、武神タケミカズチは。
それからレッドベアの肉を時間を掛けて食べながらリリフの話を聞いた。彼女がどういう性格なのか知っておきたかった。まあこれから徐々に知っていくことになるだろうが。
ククノチの神下だと言っていたが、聞くところによると最上級神下らしい。しかもククノチは神下の数が極端に少ないことで有名で、最上級神下に至ってはリリフしかいないという。そんな彼女をサポートに寄越すなんて、本当にいいのだろうかと正直言って疑問を感じたが、ここはククノチの好意に甘えておくことにしよう。
天界には三本の世界樹が聳えており、その近辺にエルフ族が部族を構成し、生活をしている。
エルフは規律を守り抜き、高潔な精神を持つ種族で、神との交流も盛んに行っている。ククノチの最上級神下にリリフがいるのもその証拠。またタケミカヅチの神下にもゲイルという名の者がいるのだが、そいつもエルフ族だ。
その中の世界樹の一つであるユグドラシルの下に住まうのがリリフが属するエルフのスーナ族だ。天界でも知らない者がいないくらいの戦闘集団で、うちのゲイルもスーナ族だ。魔法や肉弾戦闘、弓術柔術、剣術……ありとあらゆる戦闘技術を日々磨いている部族である。
スーナ族ならばリリフの力もゲイルと同等と考えていいだろう。それならば実力は天界に住まう神下の中でも桁が違うだろう。下界でのタケミカヅチ自らの力がまだ未知数なのを考えると非常に心強い。
天界のトップクラスが下界でどれほど通用するのか見物でもある。
リリフとすっかり打ち解けた?ので、長話を切り上げてそろそろ移動しようとした。
気づけばレッドベアの肉をあらかた食い尽くしていた。人族の姿なのに胃袋は魔物並みだ。巨大な骨が規則性なく地面に散乱している。
「リリフ、まず聞きたいんだが、ここはどこなんだ?」
「ここはオーディンの森といってカロリーナの町の南端に位置する小さな森です」
何故ここに転移したのか、今更ながら疑問に思う。顔に出ていたか、そんなタケミカヅチの考えを察したようでリリフはその答えを口にする。
「このオーディンの森にはペテロスライムという魔物が潜んでいるのですが、それが原因とククノチ様が言っておりました。ペテロスライムはこの森固有の魔物で、特殊な念波を常時発しているらしく、その念波がウブスナの開発した下界転移魔法とリンクしたとのことです」
何故ウブスナの転移魔法とペテロスライムの念波が結びついたのかはククノチでも未だわからないらしい。
「よく調べてるんだな。ククノチが下界に詳しいなんて知らなかったよ」
ペテロスライムという名の魔物は聞いたことも見たこともない。少し興味があるけども、今は魔物探しをしている暇はない。
早くこの下界に慣れて二本の神槍を探し出さねばならない。
「ならまずはカロリーナの町に向かうのがいいってことか?」
「そうですね。それが最も得策だと思います」
どの方向に行けばカロリーナの町が全くわからない。ここはリリフの案内に任せよう。彼女の後をついていきながら森の中を進んでいく。鬱蒼としているが、今のところ凶悪な魔物と出くわすことなく先に進めている。
やがて色とりどりの花が咲き誇る花畑のような場所へと出た。仄かに甘い香りが周囲に漂っている。
「へぇー……綺麗な場所だな」
吹き付ける風も森の中とは比べられないくらいに優しいものでつい気持ち良く深呼吸してしまった。
下界がひどく荒んだ場所だと勝手に想像してしまっていたが、勘違だったみたいだ。こんなにも綺麗な場所があったとは。そよ風に揺れ動く花の群れにタケミカズチの口角は自然と上がっていた。
「はい。私も初めて見た時は驚きました。天界でも滅多に見られない景色ですよね」
リリフの言葉は風に乗って鼓膜に届く。どんな生き方をしてきた人間も同じ感想を抱くのは間違いない。
そんな鮮やかな光景の中に溶け込むように優しげな雰囲気を全身から醸し出した女性が籠に花を摘んでいた。とてもとても優しい笑顔で。まるで絵画のようなだった。
女性もタケミカヅチとリリフの存在に気付いたようで、一度頭を下げてきた。二人もあ、どうもという感じで頭を下げた。
「ここはよく人が来るところなのか?」
「いえ、今まで見たことはないですね。私も数回しか来ていないので確かなことは言えませんが……」
二人が話していると花を摘んでいた女性がこちらに近づいてきた。近くで見ると整った容姿がより鮮明に見えて、モテるだろうなと全く関係ないことを考えてしまう。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
女性のほうから挨拶されて、タケミカヅチも返すように挨拶をする。
「この花畑を見に来たんですか?」
「ああ。初めて見たよ、こんな綺麗な場所」
「ふふふ、そうですよね。私も……とても好きな場所なんです」
花畑をじっと見つめる横顔に薄っすらと陰りが見えたのは気のせいだろうか。
「ああ、すみません。名乗っていませんでしたね。私はシルビアと申します」
「俺はタケミカズチって名前。よろしく」
タケミカズチという名前を天上界で口にすれば恐れおののく者も多いが、ここは下界だ。なんか聞いたことのない変な名前だなと思われるくらいだろう。
「……リリフと申します。よろしくお願い致します」
シルビアはリリフの礼儀の作法に圧倒される。すごい彼女さんですね的な視線をバシバシと向けてきたのでタケミカヅチは苦笑しながら首を振って答える。
「ああ、この子は俺の彼女とかそういうのではないんだ」
「あ、ああ……そうでしたか、すみません、そんなつもりじゃなかったんですけど……」
少し気恥ずかしそうに俯くシルビア。タケミカヅチは自分の発言に申し訳なさを覚えた。でも一応勘違いは解いておいた方がいい。
「まあでも男女二人でこんな綺麗な花畑に来てるのを見たら、そりゃあ誤解するわな」
シルビアはタケミカズチの言葉に笑みを浮かべた。同時にその場の雰囲気も弛緩した。
「お二人とも、これからどうするんですか?」
「カロリーナに向かおうかと思ってる。ここから一番近い町だろ?」
「でしたらご案内しますよ。私、カロリーナに住んでるんです」
どうするといった感じでタケミカヅチはリリフの顔を見た。それは一瞬のことでシルビアにイエスの返事をした。
「じゃあお言葉に甘えて。頼むよ」
それから間もなくして、三人は花畑を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇
眩しい光が町の入り口にある大門を照らし、通りを行く人達の雑踏が聞こえてくる。そんな聞き心地の良い喧騒に引き寄せられるように三人は町に足を踏み入れた。
思ったよりも町が隆盛していて、少しだけ驚いた。これが初めての下界の町。活気がある。
レンガ調の家屋が立ち並び、色鮮やかな花々が花壇で咲き誇っている。
「ここがカロリーナです。どうですか?」
「いやー活気があるな。住みやすそうだ」
周囲の空気に呑まれそうになる。天界にはない客引きが存在している。その強引さはどんな荒々しい奴らも戸惑うほどの迫力があった。
知らないことが多い。いやむしろ何もかもが理解の範疇を超えている。天界で神として崇拝される自分がこの下界ではなんて矮小な存在なのかと思ってしまう。
でもそれも当たり前の話か。
下界の創造神であるアトゥムならばこの世界の理を全て理解しているだろうが、そのアトゥムが天界から謎の失踪を遂げてからはや1000年の時が過ぎている。つい最近のことのように思い出すが、もうそんな時間が経過しているのだ。
天界に寿命という概念はない。生あるものはいつか死す。それは下界にだけ存在する自然の摂理。どんな強者でさえも抗えない現実だ。そのことはもちろんタケミカズチの頭の中にも情報として入っている。が、やはり実感としては湧かないものだ。目の前に死という概念を提示されなければ、その時自分がどう思うのかは分からないだろう。人族の器を作成し、今こうして体を動かすことで人の生きる力を学んでいる最中だ。
ゆっくりと町中を歩きつつ、シルビアの笑顔や周囲の楽しげな空気感を肌で感じながらそんなことを考えていた。
「カロリーナはナバール連合に属する小さな商業の町なんです。昔から武具や服飾の商いがさかんなんですよ」
カロリーナに着く前に道中であまりこの周辺の地理や歴史に詳しくないことはシルビアに伝えておいたので、シルビアも親切に説明をしてくれる。尋ねたことに対しての回答に加えて、その補足もしてくれる。まだ若いのにとても知識があるし、何より優しい子だ。初めて出会った下界の人間が彼女でよかったと心から思った。
「だからこんなに商店が多いんだな。店を回るだけで楽しそうだ」
スペースが無いくらい所狭しと多種多様な商店が立ち並ぶ大通りから少し狭い横道に入っても変わらずに店が並んでいる。これは商業の町と言っても過言ではないだろう。
旅行会社のガイドのようにシルビアはタケミカヅチとリリフを様々な場所へと案内してくれた。果実酒専門の酒屋や焼き栗だけを売る奇抜な外装の店、森の奥深くに住まう部族が着用する幾何学模様が描かれた衣服を売る店など少々変わったところも含めて、本当に多くの商店を見て回った。
周り終えた感想としては予想以上に楽しかった。
新たな発見というか下界の文化、もちろんこのナバール連合周辺ではあるが、それが知れてよかった。今後役に立つ情報も何かあるかもしれない。
まずは下界について深く知ること。これに尽きる。
「どうでしたか?カロリーナのお店は」
「見てるだけで楽しいな。知らない食べ物も服もいっぱいあったし」
タケミカヅチの言葉に賛同するようにリリフも大きく頷く。
「それは良かったです。それで……これを二人にお渡ししたくて……受け取ってもらえますか?」
そう言ってシルビアが懐から出してきたのは腕輪。小さな水晶が散りばめられており、その中に数ミリサイズの小さな花がガラスケースに展示された花のように収納されている。これまた見たことのない代物だった。魔力が込められている物ではないみたいだ。おしゃれのための装飾品といったところか。タケミカズチには縁遠いものだ。
「え、これ……何で?」
「今日は久々に楽しかったので。お礼です」
「そう……うん、ありがとう。大切にするよ」
二コリと華やかな笑顔を向けるシルビアにタケミカズチも同じように笑顔で返す。楽しいことを提供した覚えはなかったが、これをもらってもいいのだろうかとほんのちょっとの遠慮を抱いたが、本人の意向だ。これを断った方が失礼かもしれない。結果的にタケミカズチは腕輪を頂くことにした。
リリフも表情は乏しかったが、内心は嬉しかったに違いない。まあこれは想像でしかないけれども。
「これから一緒にお食事なんてどうですか?おすすめのお店があるんです」
「お、そりゃあいいね。お言葉に甘えるよ」
初めての下界でのきちんとした食事だ。
シルビアに出会ったのはタケミカヅチにとってかなりの幸運だった。
リリフが下界に詳しいのは天界の住人のなかでは、という条件付きだ。なので地元の人の知識にはどうしても及ばない。こういうシルビアのような存在は現状では非常に価値がある。
シルビアが案内してくれたのは魔物肉を取り扱う小さなレストラン。
店の名前は「鶏の意志」。
魔物肉は天界でもポピュラーではあるが、庶民的なところが売りのため、位の高い者が口にするのは暗黙のうちに良くないこと、馬鹿にされることになっている。そういう事情で神下やその神の信者が神々に魔物肉を献上することは絶対にないので、タケミカヅチも食べた経験は正直ない。
大通りを離れて人通りがほとんどない廃れた道の途中にある店で、看板も少し錆び付いている。
店の入り口だと思われる木製の扉をシルビアは慣れた様子で開いた。扉に付いている鈴がカランカランと音を立てた。
「こんにちは」
「おおお、シルビアちゃん。昨日ぶりだね。いつもいつも通ってくれてありがとね。」
汚れが目立つタオルを頭に巻いた髭面のおじさんがシルビアを笑顔で迎え入れた。昨日ぶりってことはシルビアはこの店の常連って感じなのだろう。おじさんと親しい間柄だというのは接し方ですぐに分かる。
そのおじさんは後から入店してきた見知らぬ二人の存在に気付くと、ごほんと咳払いをしてから丁寧にいらっしゃいませと声を掛けた。声色にお客さんに対する敬意が含まれている。
「ビルさん、いつも頼んでいるものを三人分お願いします」
「おう、何だ?シルビアちゃんの知り合いだったのか?そうか、ゆっくりしてってくれ。よーし、こりゃあ腕によりをかけて作らないとな」
そう言うとビルと呼ばれた男は厨房の方へ引っ込んでいった。それと入れ替わるように今度は人当たりが良さそうな中年の女性が現れた。ふくよかな体だが、テーブルを拭く動作は機敏だ。
「あら?シルビアちゃん、こんにちは。そこの方々はお知り合い?」
シルビアはしっかりと挨拶をしてからタケミカヅチとリリフを紹介した。それに合わせて二人は軽く頭を下げる。いやこういう初対面、しかも自分を知らない人間と接することなんて初体験だ。なんだか不思議な気分だし、ちょっと緊張する。この女性の名前はシウラ。ビルの奥さんで、共にターキーウィルを切り盛りしている。
シウラはシルビアだけでなく、タケミカヅチとリリフにもとても友好的に接してくれた。飲み物を用意しなきゃね?と言って奥に下がっていくのを確認してからタケミカヅチは口を開く。
「二人とも、いい人だな」
率直な感想だ。表情や仕草でその人物の内面を多少は理解できる。シルビアとこの店の夫婦は少し似ているような気がした。
「はい。本当にお世話になってるんです。私が初めてここを訪れた時からずっと親切にしてもらってます」
「いつから来てるんだ?」
「子供の頃からです。たぶん六歳ぐらいの時に初めて来ました。母親と一緒に」
ふと思ったのがシルビアは一体何歳なのだろうということ。種族が人族であることを鑑みると、見た目からしておよそ二十五歳くらいか?女性に年齢を訪ねるのはマナー違反だと神下のラミアという天使族の女に言われたことを咄嗟に思い出して、喉まで出かかった言葉をそのまま何も無かったかのように飲み込んだ。
シウラが特性のお茶だと言って持ってきたのは魔素茶だった。天界でもお馴染みの魔力回復の効果を持つ結構値が張るお茶だった。お茶の色が透き通った深緑色、ってことは作り方にもこだわりがあるのだろう。魔素茶は入れ方が上手くないと濁りが強くなり、そのうえ渋みも増してしまう傾向がある。茶の入れ方ひとつで同じ茶葉を使った魔素茶でも味は天と地の差が出るのだ。
「いいのか?魔素茶……高いぞ、これ?」
「いいのよ、なんたってシルビアちゃんのお友達なんだから」
「なんかすまないな。ありがとう」
ご厚意に甘えよう。タケミカヅチは一口魔素茶を啜る。温かな湯気が香りと共に店内に広がっていき、自然と心が落ち着く。渋みは少ないし、後味がすっきりしていて飲みやすい。茶の入れ方は合格点を遥かに超えているようだ。
店内は明る過ぎず、暗すぎずの絶妙な光量で保たれている。お客さんの入りは頻繁ではないが、逆にそれが落ち着く結果をもたらしている。
リラックスを果たした二人を見計らったかのようにビルが両手に皿を持って近づいてきた。どんな料理だろうと目を凝らしてみるが、ここからではよく見えない。徐々に近づいてきて、全容が見えてきた。
肉だ。さっき食べたけど、肉ならいくらでも食えるからまあ、安心した。
肉といってもさっき食べたレッドベアの肉ではなく、キラーイーグルのモモ肉を使ったソテーのような料理。なんとも美味そうだった。
そんな美味そうという感情とは別に負の感情が芽生えてきた。
俺、金持ってない・・・・・・
いや気付くのが遅いと言われても、金なんて持ち歩いたことないし。そういう文化、というか決まりがあるのは知ってたけど。
そんな不安を取り除くようにリリフがそっと耳打ちしてきた。
「……大丈夫です、タケミカヅチ様。ククノチ様に言われ、下界の貨幣は私の方で用意しております」
「お、そうか?それは良かった」
ありがとう、ククノチ。さすが、ククノチ。ただお金の問題はこれから考えていかなければならない。
いい意味で追い打ちをかけるようにビルは胸を張り、ケタケタと笑いながら言った。
「この飯のお代はいらないからな。今日はサービスだ。三人ともたらふく食えよ!」
シルビアは遠慮しようとしたが、その言葉はビルに届くことなく、彼の笑い声にかき消された。
さっそく目の前に置かれたキラーイーグルの肉を食べ始める。
レッドべアと違って、肉質が柔らかい。何よりも味付けに深みがあり、味わい深い一品となっている。こんなにも美味い料理を出す店があるのなら常連になっても不思議ではない。
実質タダで飯を食べたタケミカヅチとリリフはシルビアに宿について尋ねた。彼女は一か所おすすめの場所があると言った。その宿の名前は御眠処スヤヤカ。なかなかユニークな名前だ。一泊の値段も比較的安価らしい。
シルビアがお勧めする場所に外れはないだろう。幸運なことにリリフはその宿屋を知っているようだった。シルビアもこれから予定があるということで案内ができないみたいだったのでちょうど良かった。
シルビアは自分の家の住所を書いたメモを何か困ったことがありましたらここまでと言って渡してきた。これは不注意で落としたら大問題になるやつだ。タケミカヅチはしっかりと握りしめる。記憶したらあとで紙を燃やして消滅させよう。
道を曲がるまで手を振り続けてくれたシルビアに有難さと愛らしさを覚えつつ、目的の宿屋へ向かった。
リリフもこのカロリーナに来た時に一度泊まったことがあるらしい。リリフ曰く、悪くないらしい。ってことは結構過ごしやすい宿屋なのだろう。
少しの期待と疲労を感じながらその宿屋に着いたときにはもう午後三時を回っていた。ターキーウィルで食事し終えたのが二時なので、おおよそ一時間の移動になった。
いまだに自分で創り上げた器に慣れていないタケミカヅチにとって一時間の移動はしんどいものだった。
宿屋の看板を見上げる。
………御眠処 スヤヤカ………と黒い筆文字で書かれている。外観からもどうやら衛生状況は悪くなさそうだ。
さっそく宿屋の中に足を踏み入れた。名前の割に至って普通の宿屋といった感じ。下界の宿屋はこんな感じだろうと想像した空間と全く一緒で逆に驚いたくらい。まあでも普通ってのが一番いいとも言うし。
看板娘といった感じの容姿の整った若い人族の娘がにこやかに何泊ですか?と聞いてくる。
「とりあえず二泊で」
「はい、かしこまりました。お湯は必要ですか?」
お湯?お湯って何に使うの?いきなりの理解不能な質問に戸惑う。助けを求めて、リリフの方を見た。彼女は了解しましたと無言で話を引き継いだ。
「お湯は二つで。桶の大きさは中でお願いします」
「はい・・・宿泊代と湯代合わせて、50シルクです」
リリフは下界の人間と遜色ない自然な動きで懐の巾着袋を取り出し、50シルクを払った。
さすが慣れてるな。これはもっと勉強せねばならない。そう決心した出来事でもあった。
鍵を貰い、階段を上って、部屋へと向かう。廊下の突き当りにある部屋の鍵を開けて入るとベッドが二つと机が一つ、椅子が二脚だけあるシンプルな部屋が広がっていた。
タケミカヅチは疲労の溜まった足でよろよろとベッドまで移動して、そのまま倒れこむ。
「いや~~~、疲れたな……さすがに」
そして気になることをリリフに聞いてみる。
「そういやリリフ、俺と同じ部屋でいいのか?俺、一応下界では男だぞ?」
天界では武神タケミカズチ。男神であるが、一般的な性別と一緒にすることはできない。
一方でこっち側では性別は男。器を男系で創り上げたためだ。
「タケミカズチ様と同じ部屋で時を過ごすなんて恐れ多いです。私は扉の前で見張りをしようと思っていたのですが……」
「おいおい、それは止めてくれ。すんげー目立つだろ、それ。普通にこの部屋で過ごしてくれ」
「かしこまりました。タケミカズチ様の要望とあれば」
なんだか不服そうなのは気のせい?いやまあ神として崇めてくれるのは嬉しいけどね。
コンコン。部屋のドアをノックする音が聞こえた。
リリフがドアを開くとそこには受付の娘がいた。台車の上には湯の張った桶が。
「お湯を持ってきました……す、すみません、お邪魔、でしたか?」
伺うような視線。あれ、完全に勘違いしているみたいだ……




