たった数分の出来事・・・
暗い鬱蒼とした森林を音を立てずに進んでいく。目的地ははっきりしている。急ぐ必要も、焦る必要もない。乱れ気味の息を深呼吸で整える。男は兵士の格好をしている。紛れもなくピッツバーグ王国の王国軍の軍服だ。お目当ての人物はロディバ山の麓にある宿に向かったと別の経路から近付いている同僚から連絡が入った。
ロストワール様への報告はどうするべきか。もう少し様子を見たほうがいいと思う反面、いつ気付かれてもおかしくない気がするので、早急に連絡するべきなのではとも思う。
意を決して男は懐に入れていた念動器を取り出し、耳に装着する。
軍の人間は全員この念動器を持っていて、この装置を通じて離れたところにいる仲間と連絡を取っている。充填された魔力が無くなれば使用はできず、代替となる魔力を充填するのにおよそ一時間ほどの時間が掛かってしまう。ここに来る前に念動器の魔力が満タンだったのを確認しているから魔力切れの心配はない。
男にとって国を出ての任務は初めてだった。国外が初めてというわけではなかったが、やはりロストワールの直属の部下として選ばれたのは非常に光栄なことだった。緊張感を抱きながらの国外初任務。そりゃあ昂ぶりを抑えろというのはどだい無理な話だ。
…………反応がない。念動器の調子がおかしいのだろうか。まさか魔力充填に失敗していたとか?
男はすかさず念動器の状態を確認しようして耳から取った。その時だった。一瞬にして念動器が凍り付いたのだ。真っ白な冷気を蓄えながら。
「つ、冷てぇ!!」
皮膚が焼けつく冷たさに男は思わず大きな声を出す。
自然に起こるような現象じゃない。これは誰かの手によって行使された魔法に違いない。
男はすぐに察して周囲の警戒をしたが、それはあまりにも遅すぎる行動だった。決しておの男は無能ではない。現にここまで音も立てずに接近できたのは彼の隠密スキルが高いからであろう。しかしそれは何の意味も為さない。
今まで感じたことのない睡魔に襲われる。それを感じた時にはもう遅い。男はその場にばたっと倒れ、瞼をゆっくりと閉じた。もう指先ひとつ動かす気にもならない。ただ単に眠い。この眠気に抗う術はない。男は願った。出来れば良い夢が見られますように、と。
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ざわざわと何かの虫が慌ただしく移動した。少し強い風が吹いたからかもしれない。暗闇にも慣れて、目の前の道程に困ることもない。男は低い姿勢を保ちつつ、木の後ろに身を隠しながら移動をしていた。同じように隠密の技術は相当のものだった。
男はロストワール直属の部下になってから数年が経っている古参だった。今回の遠征はいつもと違って少し変わった種類のものだという印象がしたが、難しいものではないだろうと予想していた。そしてある程度その予想は当たっていたかもしれない。
今のところは何の障害もなく、スムーズに任務を遂行できている。まあ目的の人物を探すのに苦労はしたが、困難と言えるほどのことでもなかったと個人的には思っている。ただロストワール様が焦っているような感じがしたため、そこは多少気になりはしたが、今は冷静さを取り戻しているように思う。
これは他の誰も気づいていなかっただろう。他の部下達はいつも通りのロストワール様だと感じていたであろう。長い付き合いであるからこそ分かる微かな違いがあったような気がした。もちろん言葉にできるほど明確ではない。漠然としたもやもやとしたものであったが、そう思ったのだ。
「……ふ、ちょろいもんだな」
男の探し当ててからの迅速な行動は自我自賛してもいいくらいの流れだった。
男は音を立てず、凄い速さで麓の宿へと接近していく。気付かれた様子はない。宿の明かりがうっすらと見えてきた。
ロストワール様からの指示では目的の人物達だった場合、早急に連絡するようにとのことだった。
やはり実際に姿を確認してからでないと確実に本人だと言い切ることはできないか。
男は望遠レンズを取り出し、宿の方を確認した。ぼんやりとした明かりが鮮明に見えるが、窓はカーテンに遮られて何も見えない。
「まあ、見えるわけないよな……」
「何者か知りませんが、下劣な人間ですね」
唐突に鼓膜を揺らした女性の声に男は体をびくっと震わせた。
恐る恐る背後を振り向いたが、すぐに頭に強い衝撃を感じて、視界は暗転した。
リリフは残りの数人も同じように気絶させた。それはもう鮮やかな動きで。
「これで本当にバレないと思っていたんでしょうか」
期待していたわけではなかったが、予想を遥かに下回る能力にリリフは思わずため息をつく。
戦闘力ではなく、注意力などその他のことでさえ散漫だった。ただそれはリリフの感覚から見てのこと。彼らは決して無能ではない。ミスらしいミスは一切しなかったが、それをも意味を為さないリリフの能力があったのが彼らの不運だった。
気絶させた男たちを集めて、ゲートを開き、一人残らず回収する。
リリフのゲートはどんな物質でも保管することができる無限の貯蔵庫になっている。この魔法は彼女だけが使える特別なものではない。下界では数少ないかもしれないが、天上界では結構な数がこれを使用できる。ただこの魔法の規模、ここでいうところの貯蔵限度は術者の魔力に左右される。魔本や魔道具を数個入れただけで限界に達するゲートもあれば町全体を飲み込んでもまだ空間に余裕があるゲートすらある。リリフのゲートは後者である。もちろん数人の男を入れるくらい余裕だ。
「お、戻ったみたいだな」
転移門が開き、リリフが姿を見せる。大量の魔力を消費する転移門を即座に出現させる力量はやはり圧巻だ。
リリフはタケミカヅチと視線を合わせると一度頭を下げた。
そしてゲートを開き、男達を乱暴に取り出した。もはや人の扱いではない。
「いち、に、さん……あれれ、結構いたんですね」
ミミは意外感を表す。実のところ、リリフも思った以上にこの宿に向かってきている人間の数が多いなとは感じていた。何者かの視線は感じ取っていたが、それがどのくらいの数でどこの誰かまで特定できる能力はさすがにリリフにもない。
「まあとにかく、こいつらが何者なのか知らないことには始まらないな」
リリフは気絶している一人の男に治癒の魔法をかける。それから数十秒後に男は目を覚ました。男がここはどこだという顔をしたが、無情にもすぐに表情は能面のように何の感情も映さなくなる。リリフのブレイン ウォッシュだ。洗脳の魔法だが、簡易で扱いやすい。魔法に強い適正を持っている人間には全く効かないくらい微弱な洗脳なので、終わった後の体に害がないのも非常に便利だ。下界に来てからリリフはよくこの魔法を多用している。
「あなたの名前は?」
「……エルボ ブラウン」
リリフの問いにぼーっとした様子の男は平坦な口調でそう答えた。
「エルボ、あなたはどこから来たの?」
「ピッツバーグ王国だ。王国軍の三等兵士」
タケミカヅチもミミもまだ聞いたことのない国だった。ただしリリフは違った。彼女は下界に来たのはこれが初めてじゃない。前回下界に降り立ったとき、ピッツバーグ王国に立ち寄った経験があった。
リリフの記憶によると確かあそこは国王が血縁で選ばれない特殊な国で、国王が戦闘狂と言われていたはずだ。その国の兵士ということは血の気が多いのは間違いなさそうだ。
「ピッツバーグ王国の人間が何故私達を探していたの?」
「カロリーナで起きた事件について調べていたら、あなた達のことがわかったからだ」
カロリーナの事件?三人は顔を見合わせる。三人の顔には何の話?と大きな文字で書かれているような表情が浮かんでいた。
リリフは男に向き直り、続けて聞く。
「カロリーナの事件とは何?」
「キマイラを倒した者がいる、と」
「それが事件なの?」
まあ確かにキマイラは天界でも少々厄介な敵であることに間違いはない。リリフも出会う機会もそんなに多くはなかったからカロリーナでの戦闘も苦労した。おまけに町に被害を出さないようにしなければならず、大変だった。だが、キマイラを倒すこと自体はそれほど難しいとは思わない。ミミもそんなリリフと同じ考えを持っていた。
下界にいる人間でもそれほど難しくはないと思っていたが、そんなこともないようだ。
「キマイラはS級冒険者が数人いなければ倒せない怪物。それを倒したことは事件なのだ」
「こういう奴らが押し寄せてきそうだ……」
タケミカヅチは面倒事が増えそうだと小さく呟いた。
「私達を排除しようとする者もこれから現れる可能性がありますね」
キマイラの討伐はそれくらい普通じゃないということか。自らに及ぶかもしれない危険な武力は早いうちに叩いておくのが最も有効であると信じて疑わない奴らも多いだろうし。
「ああ、やっぱりどこかに拠点を造ったほうがいいかもな。その方が旅をするよりもこの世界で生きるのが楽そうだ」
闇雲に神槍を探し出そうとするよりもどこかに腰を据えて情報を手に入れていく方が効率も良いだろうし、より良い情報を見つけられる気がする。というより何よりタケミカズチ達に必要なのはこの世界での立場だ。正式な立場。地位。
今のままでは誰も何も話を聞いてくれない。それはそうだ、なぜなら誰でもないから。どこの国の者でもなければ、冒険者として名声を得ているわけでもない。ただの旅人、みたいなもの。そうなれば得られる情報も限られてくるし、不必要な厄介事にも巻き込まれやすい。
うん、やはり拠点を造るべきだとタケミカズチは決心する。
「あ、そうだ!拠点をつくって、他の神下達を呼びましょうよ。その方が神槍探しもはかどりますよ、きっと」
ミミはただただ楽しそうだと内心ではそう思っているだけだ。賑やかな居場所が出来ればあちら側と変わらない安心感を得られるかもしれない。それはミミにとっても他の神下にとっても良いことだろう。
「リリフはどうする?ククノチに許可とかいるんじゃないか?」
「いえ、ククノチ様からは神槍が天界に戻るまでタケミカヅチ様のもとで勤めるようにとのことですので問題はありません」
「そうか、そりゃありがたいな。んじゃ、早速だがまずどこに造るかだな」
「ナバール連合のなかに造るのが一番だと思います。連合は多くの町が合わさって一つの国のような形を取っています。なので実質、高原や平原、森林などの所有権は誰にもないんです」
「共有財産みたいなもんか?そこの領有権を勝手に主張すれば俺のものになるってことか」
「不愉快に思う者はいるかと思いますし、具体的な行動に出る者もいるでしょう。ただそれは他の国でも同じことです。いえ、他の国で行う方が大きなリスクがあります。冒険者のレベルや軍隊が存在しないことを考えれば最も効率が良いと思います。もし何か邪魔をしてくる輩がいるほであれば始末すればいいだけのことなので」
リリフは物騒なことを言った。ミミと一緒に行動して血の気が移ったんじゃないか。
「まあそれに天上界の神達が何を思っても知ったこっちゃないしな。こっちだって無理矢理下界に来させられてんだから」
タケミカヅチ自身がじゃんけんで決めようといったのだから無理矢理とは少し違うが、当の本人の気持ちとしてはそれくらいの苦渋だった。
ちょっとくらい好き勝手にやってもいいかと、ここに来てその気持ちが強くなった気がする。
「やったあー!!じゃあ、じゃあ、チュチュを呼びましょう?」
「まず呼ぶのはあいつだよ。俺の神力不足をどうにかできるかもしれない存在だ。本当はあんまり呼びたくないけど、あいつの力を借りる必要がある」
「あいつ?ああ、あの変わり者ですね?あの人は天然でタケミカズチ様に対して失礼なことをするんで、少し苦手です。」
ミミは露骨に嫌な顔を見せた。そういえばミミとそいつは犬猿の仲だったか。まあミミが一方的に突っ慳貪な態度を取っているだけで、そいつはそれを面白がっているようだが。
「そういう奴は多いだろうな。まあでも俺にとってかけがえのない神下の一人に間違いはないよ、アルミラは」
「そうですね。能力は申し分ないですもんね」
タケミカズチとミミの会話を聞いていたリリフもアルミラの名前は耳にしたことがある。
タケミカズチ一級神下の一人で錬成黒魔術を唯一会得している魔導士だと聞いている。他の神々の神下にも知られているということは天界でも彼女が有名だという証だ。
二人の会話を聞いていると変人とのことだが、リリフも魔導士としてアルミラに会ってみたいと思った。
ピッツバーグ王国の兵士たちは未だに目を覚まさない。
「この兵士たちの処遇はどうしますか?」
「殺す必要もないし、デモテルに置いてくるか」
「了解しました。そうします」
「悪いな。リリフに頼りっきりで」
「いえ、滅相もございません。私などいくらでも使ってください」
「助かるよ」
そう言うとリリフはゲートに男たちを投げ込み、転移門を開いた。
「念のため記憶は消しておくので」
「ああ、その方がいいだろうな」
洗脳した状態だったために記憶はぼんやりとして曖昧なはずだが、覚えていたり、思い出したりしたらまずい。記憶の一部をそのまま消し去るのが無難だろう。
「明朝には出発しよう。行き先はそん時決めるわ」
「はーい」
「了解しました」
リリフは転移門を潜っていき、ミミはベッドに思いきりダイブし、タケミカズチは椅子に腰かけた。
夜の風が強く吹き始めた森林の奥から魔物の叫声が聞こえていたのがタケミカズチは少し気になった。