怒りの鉄拳
執拗に絡みつく、粘性の睡魔。
その源はこの世界への召喚時、精神の根底に刻印された霊術式にある。命運尽きた生を救う代償として、召喚主にただ一度のみ許された絶対的命令権の発露だった。
ケイトが切り札と認識したのもむべなるかな。如何にオショウといえど、自力のみでこれに抗い、打破するのは不可能である。
だが彼は聞いた。
深く深い泥めいた眠りのうちに、聞いたのだ。
「お願いします。オショウ様、テラのオショウ様。あのひとたちを助けてください。どうか、助けてあげてください」
ひどく小さな声だった。
けれど真摯な祈りであり、同時に幼子の歔欷めいてもいた。
それは、力なき己を嘆じる声だった。
違うのだ、とオショウは思う。
まだわずかに目覚めたままの意識の欠片で、彼は思う。
力の強弱は、善悪の領分ではない。
赤子のか弱きを、果たして咎める者があるだろうか。
時に蹂躙されようと善は変わらず善であり、時に栄華を誇ろうと悪は変わらず悪である。
非力を謗る時代こそが誤りであり、無力を罪と感じる世界こそが悲しい。
オショウたち従軍複製僧兵が偽りとはいえ幸福な記憶を転写されるのは、仏道が弱きを助く心を基盤とするが故である。他者との縁は、力なき衆生を救う力として自らを定義し、律する為に欠かせぬからだ。
もし己一個の強に溺れ他を顧みぬのなら、それは周囲一切を貪るばかりの天狗である。六道の何処にも魂魄の置き所なく魔道を彷徨い、やがて己自身をも喰らい尽くして後に無を残すのみであろう。
仏道とは衆生を救う道であり、世を救う道である。
その根幹を、決して忘却してはならぬのだ。
無論、世の全ての救済が叶うなどと盲信するではない。
座して救いを待つだけの者にまで手を伸べようとも思わない。
己の境遇のみを叫び、哀れを売り物に厚意を食い漁るなら、自らの足にて立つ意志を備えぬならば、それは施しを求めるばかりの餓鬼である。守るべき弱きではなく、正道を行く者の歩みを縛る邪魔でしかなかろう。
孤掌鳴らし難しという。
手のひらはひとつだけでは音を発しない。ふたつが打ち合って、初めてそこに響きが生まれる。
同様に、人は独りでは生きられない。
いずれかにて強たる者が、別のいずれかにて弱となる事がある。その逆もまた然り。
一人が何もかもをできる必要はなく、一人で何もかもができる道理はない。
手を引くのではなく手を引かれるのでもなく、手を取り合い歩む姿こそがきっと良い有り様なのだ。
総合戦闘術仏道は、人を五つの働きであると定義する。
ひとつは色。物質として、肉体として在るという事。
ひとつは受。己と己の他の色を知覚する事。
ひとつは想。知った色を心の内に取り込む事。
ひとつは行。心に生じた想いを行いとして表出する事。
ひとつは識。行いの過程と結果とを知る事。
拳がなければ拳は握れず、拳を向けうる対象がなくば殴打は叶わない。またそれらが在ろうとも、己独自の想念なくば力は働かず、行いを伴わない心は他者に伝わる事がない。故に実体験として過程を経る事も、行動の結果を見届ける事もできはしない。
何を用いて殴るのか、何を殴るのか、何を想って殴るのか、何を為そうと殴るのか、何が殴った後に生まれるのか。
これこそが人にも戦いにも欠かせぬ五蘊である。
五蘊なくして我はなく、我なくば他の全てはないのに等しい。
故に言う。
天の上天の下唯我のみが独り尊し、と。
それは己を至上とする言葉ではない。
我なくして他は在らず、他なくして我もまた無し。世界を観ずる我なくして世界は無い。しかし同時に、我の在り処たる世界なくしては我も在りえない。
世界とは無数の我と他の集合体であり、なればそれらひとつひとつが世界に等しい。
よって己を尊び慈しめと。
己にするが如く他を愛せと。
斯様に告げる慈愛の声音である。
だからこそ滅私して他を想うエイシズの声は、その慟哭の響きは、オショウの魂の奥深くへと差し込んだ。
けれど。
眠りの定めに抗わんとオショウの胸を掻き立てるのは、第二の天性として染み付いた仏道理念ばかりではなかった。
胸中に、ひとつの顔がある。
ケイト・ウィリアムズ。
彼の心に火をくべたのは彼女であった。
命の恩人であるという一点からしても、確かに彼女は特別だ。
結果として生まれ育った世界より遠く離れ、二度と帰参は叶わぬ身の上とはなった。だがあのままの死を望まなかった己にとって、報い得ぬ大恩である。
しかし、そればかりではないようだった。
オショウと同じく、彼女もまた戦争の道具、闘争の部品として育て上げられた存在である。
でありながら、彼女はこの上なく人だった。
──大好きで大切なものの為になら、わたくし、命懸けにだってなれるのですわ。
眩いものを胸に抱くその生き様に、目と心とを奪われた。
彼は、彼女を美しいと思った。
これは、煩悩であるのやもしれぬ。
悟りを妨げる愛劫であり、至ったと感じるこの境地は増上慢、ただの魔境であるのやもしれぬ。
だが信じた。
仏的証拠などありはしない。
だが彼は信じたのだ。
己の要たるものを、遂に見出したのだと。
俯瞰すれば、ひどくちっぽけな感情だった。天下国家にも通じず、世を動かすには程遠い。
けれど、その小さなものの中に、全てがあった。
一により十は作られ、百から千が成り立っていた。
億の中に万が含まれ、京は兆により象られていた。
無数の小があらゆる大を形成し、あらゆる大は小として、更に大きな大を構築していた。
一理は万理に通じ、やがて真理に至る。
即ち、曼荼羅である。
己に宿る炎を、オショウは感じた。
心が熱を発していた。自ら燃え上がるようだった。
それはかつてのように与えられた感情ではなく、手ずから得たものだった。刷り込まれた知識ではなく、温度を備えた自らの体験だった。
あの時、暗く冷たい宇宙で掴めなかったもの。
それはある。
ここに。この胸に。
自ら燃え盛るものが確とある。
内面の火に応ずるように、現実のオショウの肉体がわずかに動いた。
じりじり、じりじりともどかしいほどの時間をかけて指先が丸まり、それは拳を形作っていく。
霊術に携わる者ならば誰もが目を疑う光景だった。
召喚術式は徹底的に安全性を考慮された大規模儀式霊術である。世界にとっての危険物を喚び込まぬように、喚んだとしても必ず処理が叶うように、幾重にも幾重にも防御策が織り込まれている。
その最たるものこそが召喚主の絶対命令権だった。
召喚に応じた時点で、全てに優先して機能するよう設定されるこれを拒絶するのは、自らの存在そのものを書き換える行為に等しい。魚に空を飛べと、鳥に水を呼吸しろと命じるようなものだ。そのような振る舞いが叶うはずはない。
同様にオショウが動けるはずが、目覚めるはずがない。
その道理を、今、仏理が凌駕する。
ある哲学者はこう記した。「精神など肉体の奴隷に過ぎない」と。であればこれは、その逆転現象だったろう。
岩をも通す一念により駆動する仏。
世に言う念仏であった。
硬木製の扉が真っ二つに割れたのは、声を嗄らしたエイシズが諦念からうな垂れたまさにその時だった。
大型の獣を思わせるしなやかさで現れ出た巨体は、紛う事なきテラのオショウのものである。
驚きと共に振り仰ぐ少年の頬に、涙の跡があった。誰かを思い、誰かの為に流された涙だった。その想念の一途さ故に、彼の声はオショウへ届いた。
深く感謝を込めて、オショウはエイシズに合掌をする。
もし彼というきっかけなくば、自らの覚醒は、全てが手遅れになってからであったに相違ない。
「あ、あ……!」
言いたい事、伝えたい事が一時に溢れたのだろう。エイシズが意味を成さない音で口をぱくつかせる。
オショウの手がゆっくりと伸びて、落ち着かせるようにその肩をぽんと叩いた。
そして、
「うむ」
目を見つめたまま、ゆっくりと、ひとつ頷く。
少年の焦燥はやがて安堵の面持ちに変わり、笑顔を経て、再びくしゃくしゃと泣き顔になった。
籠手を装っていたので懸念をしたが、幸いケイトは導石を帯びたままのようである。ならば行くべき方角に迷いはない。
よって、オショウは駆け出した。
生物以外のあらゆる障害を霧でも突き抜けるかのように破砕しながら、文字通り一直線に、最短距離を最高速でただ駆けた。
不幸にもこの信じがたい道行きを目撃した歩哨は大慌てに報告をして頬を張られ、現場まで上官を引き摺って目に物見せてから頬を張り返したという。
*
斯くしてオショウはたどり着く。
災禍の中心に。魔皇の眼前に。そして、ケイトの傍らに。
間一髪、彼は間に合ったのだ。
放り捨てた蛇体が、粘塊に変じ揮発する。その様を横目に捉えながら、更にオショウが一歩を踏み出す。
あるはずがない。あるはずはないのだが、途端、石造りの魔城がびりびりと震えたように思われた。
「……オショウ、様」
諦念と絶望に絡め取られていた少女は、ただ呆然と彼を見る。
ここへ来てはならないと、自分は拒絶を示したはずだった。それはオショウにも確実に伝わったはずだった。
なのに。
「どうして、ここへ?」
「うむ」
微かな笑みでオショウは頷き、返答はそれだけだった。まるで問答になっていない。
だというのにケイトは、それですとんと納得してしまった。
不思議とただそれだけで、もう大丈夫だと思えてしまった。
本当に心の底から、ほっとしてしまったのだ。
体を支えていた緊張が途切れ、彼女はへたへたと座り込む。
「本当に──本当に困った方ですわね、オショウ様は」
ぽろりと涙が零れた。嬉しいのか悲しいのか、自分でもよくわからない。
ひとつだけ確かなのは、彼がこの世界の人々を救うべく駆けつけてくれた事、それだけだ。
そしてオショウが人類の守護者として参陣したのならば、自らが受けるべきは叱責である。
言い分はどうあれ、己を高く、魔皇を低く見誤り、独断で彼という戦力を殺いだ。その愚かな振る舞いで、人を存亡の淵に立たせた。どのような罵倒を浴びたとておかしくはない。
まだ半分は泣き顔のまま、覚悟を決めてケイトはオショウを振り仰ぐ。
ちょうど彼は、少し身を屈めたところだった。
「……あ」
伸ばしたその指先が、目元にそっと触れる。
左。右。順にゆっくりと拭われて、不意に言葉が頭を過ぎった。
──その涙を止める為に、おそらく俺は喚ばれたのだ。
急に、ひどく恥ずかしい振る舞いをされた心地になった。
状況も忘れて、かっと頬に血が昇る。
──か、勘違いですわ。ええ。これはきっと、わたくしの勘違いです!
そう、勘違いに決まっているのだ。
彼が自分の為に、ケイト・ウィリアムズの為だけにやって来てくれたようだなんて、思い上がりのはずなのだ。
でなければそれはまるで、恋物語の男女のように親密な──。
ふるふると首を振って雑念を追い払い、ケイトは「オショウ様!」と声を張り上げる。
「もう『どうして』は問いません。いらしてしまったものは仕方ありませんものね」
「うむ」
「ご助勢いただいたばかりなのに図々しいですけれど、わたくし、重ねて仏騒をお願いしてもよろしいですかしら?」
「うむ」
「では、オショウ様」
伸びたケイトの指先が、ぴしりと強く魔軍を示す。
「やっつけてちゃってくださいまし!」
「うむ」
応じてオショウはひとつ頷き、そして付け加えた。
「楽勝だ」
オショウの登場で完全に気を呑まれ呆けていた魔皇と魔軍とが、一指を受けて我に返る。
敵意と殺意とが蘇生し、それらを束ねるようにラーフラが紡いだ。
「テラのオショウ。君がそうか。つくづく、私の図面を打ち壊してくれるものだ」
苛立ちも露わな口調だった。
想定外の異物に必勝の局面を覆され、ラーフラはひどく波立っていた。
それ故だろう。
続く魔皇の采配が、ひどく警戒を欠いたのは。
「だが大言を吐いたな。この軍勢を前に、ただ一人の加勢でなんとする。悔いて死ね」
指を鳴らす。
意味するところはただ一つ。「殺せ」だ。
先陣を切り、四王の影が二人を襲う。
だがオショウは、これらを容易く殴り飛ばし蹴り飛ばし張り飛ばし投げ飛ばした。意気と出鼻をくじかれながら、それでも殺到する魔軍へ、彼は手を打ち鳴らしつつ合掌する。
次いで握り締めた両の拳を腰だめに落とし、体内の気を高速循環。急激な練気圧の変化により、彼を中心に竜巻めいた衝撃波が発生した。
金剛身法。
その颶風は、常よりも更に激しい。
地に打ち伏して堪えるもの、吹き倒され転がるもの、障壁により身を守るもの。個々の状況は様々なれど、魔軍の動きはこれにより大きく束縛される。
そして。
縁覚に至り一層純度を高めて練り上げられた気は、オショウの額、眉間のやや上の一点に収束。そこに生じた擬似白毫から、一万八千世界を照明する輝きが迸った。
放光一閃。
それは皇の間を横薙ぎに薙ぎ払い、風圧ならぬ気圧に封殺されていた魔軍のみを、一瞬のうちに跡形もなく消滅させる。文字通りの色即是空。強制的な成仏だった。
後に残るのはケイトを警戒し、彼女の霊術射程に収められぬよう徹底して距離を保っていた魔皇ばかりである。
戦場が、水を打ったように静まり返る。
その場を形容するものとして、此度の沈黙もまた雄弁だった。
「……お、おう」
「そんな、デタラメな……」
ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、セレストとカナタが、やっとそれだけを口に出す。
一方、してのけた当人と、悪い意味で慣れっこのケイトに一切の遅滞はない。
「ケイト」
「はいっ!」
名を呼ばれ、彼女は自らの足で立ち上がる。
行動は最早以心伝心。
オショウの練気のそのうちに、ケイトは自身に治癒霊術を施していた。軽やかとは言えぬ足取りだが、それでも動ける程度に回復した彼女は、セレストたちの下へと駆け寄る。
「もう大丈夫ですわ、皆様」
「……いやあのよ、大丈夫とかそういうのの前によ。一体全体何だ、ありゃあ……?」
「誰」ではなく「何」との言いが、セレストの心境を如実に物語っていた。
その心中を察しもせずに、ケイトはえへんと胸を張る。
「オショウ様です。わたくしの、オショウ様ですわ」
「ええと、味方、なのですよね?」
「はい!」
力強く頷いて、そのままミカエラたち負傷者の救護に当たろうとする彼女の肩を、大慌てにカナタが掴んだ。
「待ってください。それなら貴方は彼に加勢すべきです。魔皇の宣誓は解けそうもないけれど、でも貴方なら、ウィリアムズの──」
「いや、撤退だ」
言い募りかけたカナタを、セレストが遮る。
そこで初めて自分の言葉がケイトの死を求めるものであったと気がついて、カナタは恥じ入り目礼をした。
「すまねェが手を貸してくれ、ウィリアムズのお嬢ちゃん。怪我人どもを動けるようにして、一旦退きたい。再侵攻はその後、万全を期してからだ。アレとオレがいりゃ、魔軍を蹴散らすのに造作はねェ。カナタの回復を待って、次こそ聖剣でケリをつける」
「ええと」
オショウが魔皇に敵わぬのが前提の話運びに、ケイトは些か不満げにする。
人差し指を顎に当てて思案顔を作り、
「魔皇様の宣誓を、わたくし聞いてはおりませんけれど。でも、オショウ様ならなんとかしてしまうのではありませんかしら?」
「大雑把過ぎんだろう、お前!」
思わずセレストが声を荒らげた。
ミカエラが耳にすれば失笑間違いなしの文句だが、当人は必死である。戦力の無益な損耗は何が何でも回避したかった。
「セレストさん、ウィリアムズさん、とにかく今は治療を。オショウさんが時間を稼いでくれている間が勝負です」
切迫したカナタの言いに目をやれば、オショウとラーフラは互いに間合いを縮め、睨み合いの距離に至っていた。ケイトの参戦がないと見た魔皇は、厄介者を一騎打ちの形で排除せんと思い定めたのだ。
となれば、カナタが正しい。
セレストは即座に口論を打ち切り、ミカエラの施術へと移行する。魔皇の干渉拒絶が打ち破れぬ以上敗戦は時間の問題であり、それまでに何を為すかこそが肝心だ。
彼らの撤退準備を認識しながら、ラーフラは妨げもせず、意識の七割がたをオショウへと向けている。
それだけ、先ほどの白光は脅威だった。
オショウ一人がいるだけで、魔軍は意味を成さなくなる。巨象に蟻の群れをけしかけるようなものだ。いくら数を揃えようと、ただ蹴散らされるばかりであろう。
そうして量という盾を失えば、ケイト・ウィリアムズによって敗北を決定づけられる可能性は著しく高まってくる。
この男は、テラのオショウという存在は、何としてもこの場で抹消せねばならない。
よって危険度第一位たるケイトが他者の治療に当たる今こそが、魔皇にとって最大の好機だった。
「非礼を詫びよう、オショウ。私は君を見くびった。君の強さを見くびった」
歌うように告げながら、ラーフラはするすると間合いを詰める。
既に霊術の射程を割り込み、殴り合いの距離にまで到達していた。空気がきな臭く緊張を孕む。
「だがそれでも。君という個が如何に強大であろうとも、君は私に及ばない。今一度宣誓しよう。堅きもの、鋭きもの。熱きもの、冷たきもの。いずれに因ろうと無駄なのだ。女の腹よへぶっ!?」
一切の躊躇なく。
オショウの一撃が、無防備に接近した魔皇の頬げたを打ち抜いていた。
ラーフラを殴り飛ばし地に這わせたもの。
それはただの拳であった。
鋼のように硬くもなく、刃のように鋭くもない。
炎のように熱くもなく、氷のように冷たくもない。
培養槽から生まれ出た、従軍複製僧兵の拳骨であった。
「ばっ、馬鹿な!? 何故私に触れられる!?」
「知らぬ」
愕然と振り仰いだラーフラの逆頬を、再度オショウが打擲する。
半回転して床に伏し、物理面と精神面、双方の衝撃から魔皇の目の前が暗くなった。
「どうして私を傷つけられるのだ。君は、君のその拳は一体……!?」
「存ぜぬ」
オショウからすれば、ラーフラの驚愕になど興味はない。
殴り、近づき、また殴る。
問うも鉄拳制裁、問わぬも鉄拳制裁。正しく問答無用の所業である。
相手が悪い、と言う他になかった。
特殊にして強力な干渉拒絶を備えた代償として、魔皇ラーフラの身体能力は五王の数段上程度に留まっている。肉弾戦でオショウに抗うべくもない。
傲岸にして不遜、秀麗にして美麗であった魔王の顔は忽ちに腫れ上がった。右の頬を打ったならば左の頬も、とは総合戦闘術たる仏道の教えである。左右の拳がエンドレスに輪廻するのも致し方ない。
「……」
「……」
「オショウ様とお付き合いしていく上で大切な、ふたつの心構えをお伝えしますわね」
「一応、頼む」
「お願いできますか」
「世の中諦めが肝心という事。それから、人間何にだって慣れるという事。以上ですわ」
「おう……」
「……あ、はい」
得意満面なケイトへの返答は、当然ながら弱い。
だが無論、そのまま敗北に甘んじる魔皇ではなかった。
動揺から立ち直るなり即座に短距離を転移。オショウの手を逃れ、中空で体を立て直す。口元から滴る黒血を拭い、転瞬踏み込んで鋭く貫手を繰り出した。
聖剣をも斬り捨てた恐るべきその手刀は、しかしオショウの肌から数ミリの距離で停止する。彼の肉体を包む、見えざる硬気の働きだった。
自らの反攻が無効化されたと見るや、ラーフラは再度空間を渡る。
今度は先よりも長く距離を取り、手刀を床石へと突き立てた。積もり立ての新雪ででもあるかのように石材をすくい上げ、ふわりと前方に投じたそれをオショウ目掛けて蹴り砕く。
弾丸めいて撒き散らされた石片がオショウの全身に降り注ぎ、やはり傷一つつけられずに弾かれた。
彼の結界深度は、上位魔族の干渉拒絶さながらである。
硬きものも鋭きものも、オショウを害するは叶わない。
「おのれ……!」
歯噛みしながら、ラーフラはより大きく飛び退った。
眼前の敵は、得体が知れない。
その拳は人種に対する絶対防御たる干渉拒絶をやすやすと貫通し、その守りは魔皇の矛先の一切を受けつけぬほどの硬度を誇る。
危険度第一位を入れ替えて然るべき、凄まじい戦闘能力だった。
これは、単体で魔皇を殺しうる。
「ッ!」
弱気に傾く意識を嗅ぎつけたように、オショウが動いた。
怯みつつも魔皇は短距離転移。が、逃げ切れない。空間を渡ったその直後に、オショウはラーフラの転移先へと猛迫している。迦楼羅天秘法。砲弾の如き速力は、魔皇の想定を遥かに上回る。
鉄拳の間合いに捉われればどうなるか。それは既にして思い知った。
よってラーフラが選択したのは逃げの一手である。
ただ遁じるばかりの無策では無論ない。
尋常ならざるオショウの反応速度ゆえ追随を許してこそいるが、自在に空間を渡るラーフラの機動力は低からぬものだ。これを利して距離を得、アウトレンジよりの強力な霊術砲撃による決着を目論む闘争的奔逸である。
斯様な思惑から魔皇は逃れ、オショウが追う。
結果繰り広げられたのは、超高速の鬼事だった。
逃げて逃げて逃げて逃げる。
無様を繰り返し屈辱に満ちながら、それでもラーフラは足掻き続ける。自らの手のひらを指で裂き、オショウの移動経路へと黒血を散布。血は中空で泡立ち、不完全ながら形を成した数匹の魔がオショウへと手を伸ばす。
そこへ重ねて、魔皇は霊術を執行した。
詠唱棄却により構築されたのは極寒と停滞。
絶対零度の氷牢に作用範囲を投獄し抹殺する霊術式であるが、当然のようにオショウには通用しない。結界界面に霜を生む程度の結果に終わる。
だがオショウの体に接触していた──つまり霊術の効果圏内に存在していた魔族はそうもいかない。即死に近い被害を受けた彼らは、半粘液化したままに氷結。オショウの動きを封じる拘束具と化した。
氷縛は、しかしオショウの剛力により忽ちに粉砕される。
だがラーフラが欲したのは、まさにその一瞬であった。
「図に、乗るなぁぁぁぁ!」
魔皇の咆哮と共に、霊素が空間の一点へと収束を開始。強風を生じるほどに渦動しながら圧縮され、やがて一抱えの火球へと姿を転じる。
大気が熱を帯び、そして焼けた。
同時生成される多重積層型の隔離障壁に封じられてなお猛威を誇示するそれは虚無の顎、青褪めたる炎。真夜中の太陽である。
──オレの炎の禁呪は、オレと同量以上の霊素許容量がなけりゃ起動しない。
──他所様が詠唱構成文だけ丸暗記したって使いこなせるもんじゃねェ。
かつて、セレスト・クレイズはそう語った。
だが魔皇の霊素許容量は人のそれよりも桁外れて大きく、そして魔族間の思念伝播により、魔皇はこの霊術の詠唱構成を把握し、記憶していた。
これらの事実が可能としたのが、詠唱棄却による禁呪の執行である。
「避けろ! 影も残らねェぞ!」
現出した脅威を誰よりも知り尽くすセレストが、切迫した叫びを上げた。
真夜中の太陽は上位魔族を殺傷すべく編まれた霊術式である。人間程度は余波だけで喰らい尽くす破壊の権化だった。
だがオショウは動かない。動けない。その後背にはケイトたちの姿があった。もし彼が逃れれば、太陽は餌食として彼女らを貪るに相違ない。狡猾なる魔皇の位置取りである。
ラーフラの一指がオショウを示した。
灼熱は解き放たれ、過たず彼に着弾する。
「オショウ様!?」
炸裂する輝きに目を覆いながら、ケイトが高く叫んだ。
勝利を確信し、魔皇は唇を歪める。
五王六武すら干渉拒絶ごと焼き滅ぼす超高熱である。人間風情が耐え切れるはずもない。霊術本体の接触どころか、接近だけで全身に火脹れを生じ、火炎に近い空気の呼吸により喉を、肺を焼け爛れさせて絶命する事だろう。
それが、直撃である。
生死を改める必要すらあるまい。
「──三伏、門を閉ざし一衲を披る」
だが、声がした。
朗々たる声がした。
「兼ねて松竹の房廊に蔭をする無し。安禅、必ずしも山水を須いず」
ラーフラはそれを見た。
煮え滾る石の上、仁王立ちで太陽を受け止めるオショウの姿を。ただ、呆然と見た。
青白く燃える光の球の左右から、ぬう、と太い腕が出る。
「心頭滅却すらば、火、自ずから涼し」
心頭滅却。
結界による防御能力に秀でるが仏道である。熱きものも冷たきものも、彼を傷つけるは能わない。
双腕が、結界越しに禁呪を抱き締めた。抱擁により白熱の死神はみりみりとその直径を縮小。仏理的圧力に押し切られ、術式構成を完全解体されて消滅する。
直後、迦楼羅天秘法により宙を舞ったオショウの巨躯が、ずしりと魔皇の前に降り立った。
「ば、化物め!」
その姿が、どれほどに恐ろしく映ったのか。
ラーフラの悪罵は悲鳴のように上ずっていた。
「選べ」
蛇に睨まれた蛙、金縛りにあったように動けぬ鼻先に、巨きな拳が突きつけられる。
「仏の顔も砂──一度憤怒の相に至らば、菩薩に会おうと如来に会おうと、砂となるまで打ちのめす覚悟の境地を言う。以後の俺はこれに入る。故に今、選べ。降るか、続けるか」
それで、魔皇の心が折れた。
完全にへし折れた。
斯くして。
当代の皇禍は、人の側の勝利で幕を閉じた。
魔皇の無条件降伏は、人類史初の快挙である。