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リア住怒りの鉄拳 ~仏の顔もサンドバッグ~  作者: 鵜狩三善
ボーズ・ミーツ・ガール
8/62

entering heart of the maelstrom

 カナタの呼吸に混じるノイズが、ようやくに治まり始める。

 顔にもわずかに赤みが差し、熱を生み出す機能を喪失したように冷え切っていた体も、温度を取り戻してきている様子だ。ほっと胸をなで下ろして、イツォルは彼を抱き締める腕を少しだけ緩める。

 ナークーンを降した直後に倒れこみ、彼はそれきり意識を喪失したままだった。

 消耗が、著しく深い。

 ナークーンの闘志は最後まで衰える事なく、手負いの獣の如き凄まじさを見せつけ続けた。死闘の最中(さなか)に術式を維持し続けた負荷が、カナタの身を蝕んでいる。

 聖剣なくしては切り抜けられぬ死地だった。それだけに爪痕も凄絶だった。

 霊術による損耗ばかりではない。長時間に渡る戦闘は、二人の身には数多の傷を刻み込んでいた。

 特に、カナタの盾を務めたイツォルのものが手酷い。

 それでも彼女は、彼への治療霊術を優先した。自身の負傷には布を巻いて止血するだけに留め、残された力を隠行術の執行とその維持に振り当てている。

 何もかもが精一杯の窮状だった。

 それでもこうして隠れ続けていられれば、カナタが目覚めるまでの時間は稼げるはずだと考える。


 ──守るから。きみだけは、絶対に守るから。


 音にはせず、唇だけで決意を囁いた。

 僅かな間に痩けてしまった頬を撫で、イツォルは彼の頭を胸に抱き直す。

 ふたつの足音が耳に届いたのは、その時だ。

 一瞬だけ、イツォルの体を緊張が走る。だが彼女はすぐに警戒を解いた。この響きには、この歩き方の癖には、聞き覚えがある。


「クレイズさん、アンダーセンさん」


 姿を現し声を発したイツォルに、護符の反応を確かめていたセレストとミカエラの視線が集中する。「よう」と軽く杖を上げたセレストを見て、彼女は思わず息を飲んだ。


「腕……!」

「おう。敵さんがちょいとばかり硬くてな。仕方ねェから炎珠握り込んだ腕を食わせて、腹の中からふっ飛ばした」


 何事かを言いかけたミカエラを遮り、セレストが莞爾(かんじ)と笑う。 


「ま、そのうち生えてくんだろ」

「いくら君の性分が大雑把とはいえ、体までもがそれにそぐいはしないだろう」


 呆れて首を振りながら、ミカエラはイツォルの傍に膝を突いた。

 手早く二人の傷を検分し、正統詠唱からの治癒霊術を施す。その行為にぺこりと感謝を示してから、


「あの、ペトペちゃんは?」


 不安げな面持ちでイツォルが問うた。 


「ペト……?」

「安心したまえ。ネス君は無事だ。案じるような事は何もない」


 横からの回答に「ああ、ネス公か」とセレストは膝を打ち、仲間の姓すらうろ覚えのその様にミカエラが額を抑える。


「ただ、五王との戦闘で甲冑が半壊してしまってね。これ以上は無理だと説き伏せて、先に帰投してもらったよ」

「そう」


 素っ気ないような返答で、しかしイツォルは面持ちを緩める。

 誰も気づかぬうちにこの二人は、随分と親しんでいたものらしかった。


「我々の被害も相当だが、こちらも苦戦だったようだね?」

「ん。聖剣を詠唱なしに抜かなければならなくなって。それで……」


 イツォルが腕の中のカナタに目を落とし、一渡りの戦況を報告した。

 年長者の優しい目でミカエラがそれを(ねぎら)う。 


「しかし、気に入らねェな」


 吐き捨てたのは、一人仁王立ちで周囲を警戒しながら聞き終えたセレストだ。


「こんだけやりあってんだ、奥の魔皇様が戦闘の気配を感知しねェって事ァないだろう。だのに俺らにもこっちにも、追撃の一波もなしで傍観を決め込んでやがる」


 かつん、と杖の尻で石畳をひとつ打ち、彼は一同を振り返った。


「さて、どうするよ。俺らの戦力は想定以上に削り取られてる。おまけに状況を鑑みりゃ、あちらさんにはまだまだ企みがある気配だ。逃げを打つのが手かもしれねェぜ?」


 隻腕となった彼の目は、しかし闘志に満ち満ちている。もし撤退が決まれば、単身魔皇へ挑みかねない気迫だった。その性格を知悉するミカエラは、ただ短く「付き合おう」とだけ応じる。

 二人の視線がイツォルに向かい、


「わたし、は」

「……こう」

「カナタ!」

「行こう、イっちゃん」


 意識を取り戻したカナタの声は、渇いてひどく(しわが)れていた。イツォルが甲斐甲斐しく水を含ませる。 

 人心地をつけた彼はゆっくりと、けれど芯を取り戻した挙措で立ち上がった。


「五王六武も殆どを討ちました。魔皇は目と鼻の先です。こちらも満身創痍だけれど、喉元へは食らいつけているはずなんです」

「……わたしも、今攻めるのに賛成。最後の二王は、両方ともわたしの隠行術を見破ってた。もしそういう魔が増えたら、ここまでたどり着くのはずっと難しくなる」

「それにこれが誘いの隙だとしても、隙に違いありません。罠があるというのなら、それごと噛み破るまでです」


 勇ましく言ってのけてから、ぎょっとカナタは身を引いた。


「セレストさん、腕が!」

(おんな)じを反応するなァ、お前らは。ま、安心してくれ。ここにいるって事は、ちゃんと戦えるって事さ」


 セレストは小さく笑い、杖で皇の間へと続く扉を示す。


「じゃ、行くとするかね」


 そうして彼らは足を踏み入れた。

 皇禍の、その中心へと。




 *




 一昼夜は目覚めぬと、ケイト・ウィリアムズはそう告げた。

 テラのオショウの召喚者たる彼女の言いであるから、それは間違いのない話であるのだろう。

 魔族による飛空船襲撃と樹界からの脱出行、そしてこの祈祷拠点における六武との死闘。どれひとつとっても一生涯記憶に残る大難事を、オショウは全てわずか一日に成し遂げている。

 深い眠りに落ちるほどの疲弊もやむなしだとエイシズは思う。

 思いはしたが、けれどケイトを見送った後、彼はオショウの(もと)(おとな)わずにはいられなかった。


 魔族の脅威については語り聞いていた。この祈祷拠点に着任する前に学びもした。

 しかし直接に体験した上位魔族の圧は、如何なる伝聞も想像も飛び越えて凄まじかった。それは濃縮された死そのもののようで──だから、このままではいけないとエイシズは直感していた。

 涙の跡を残したる、ケイトの頬を思い出す。

 それでも浮かべた、あの透明な微笑を思い出す。

 彼女一人では駄目なのだ。 

 あのように心細げな背中を、独りきりで送り出してはならぬのだ。決して。


 炎のようなその一念を胸に走り出せたなら。

 剣を握り龍に跨り彼女を追う事ができたなら。

 自分がそのような英雄だったなら、よかった。

 だが違う。

 エイシズ・ターナーは己を知っている。加勢に赴くを望もうと、魔城にすらたどり着けず息絶えるのが精々だろう。現実の自分は非力で矮小(わいしょう)だ。笑みすら浮かべて艱難辛苦(かんなんしんく)を跳ね除ける、大英雄たちには程遠い。

 けれどこのままでは早晩、あの美しい人は失われてしまう。あの美しい人が失われてしまう。

 斯様(かよう)な未来を妨げんと欲するならば頼るべきは唯一であり、故に彼が訪れたのはその部屋の前だった。


「お休みのところ失礼します。オショウ様、貴方様を見込んで、不躾(ぶしつけ)ながらお願い申し上げます」

 

 頼るしかできない自分が嫌いだった。でも、何もしないよりはマシだと思った。 

 唇を引き結び、気息を整え、エイシズはドアを叩く。

 返答はない。

 室内には、物音ひとつも起こらない。 


「ケイト・ウィリアムズが行きました。我々の為に、魔皇を討ちに行きました」


 扉に両手を突き、額を押し当てる。

 そのまま、とつとつと告げた。飛び立つ前の彼女の言葉の全てを。死を覚悟してなお、凛と澄んだ横顔を。なのにどうしてか小さく、か弱く見えてしまった後ろ姿を。


 ターナーの家は裕福だ。お飾りとはいえ、息子を軍の指揮系統にねじ込める程度の政治力もある。またしても借り物の力であるけれど、もしオショウが戦後に権勢を欲するならば、自分はそれを提供する事ができる。

 当初はそうした類の甘言を(ろう)そうとも考えていた。

 けれど語り始めた途端、そんな打算は奔流めいた感情に押し流された。


 ケイトの孤影を見て、気づいてしまったのだ。

 ただ遠いものと、隔絶したものと思い込んでいた英雄たちが決して万能ではないのだと。

 全幅の信頼でオショウを見上げて微笑んでいた、少女らしいケイトの顔が思い浮かぶ。

 彼女だけではない。

 悠然と構えた霊術師も、参謀役の弓使いも、小さくて大人しい甲冑繰りも、穏やかな聖剣士も、それに寄り添う懐刀(ふところがたな)も。

 彼らの心は自分たちとなんら変わりがなくて、だから抱えていたに違いないのだ。不安も、(おそ)れも、苦しみも。

 それでも誰かの為に何かの為に、悪い夢に泣く子をあやす大人のように、素顔を隠し大丈夫を装って立っている。

 そんな人たちが不幸になるのは、絶対に間違った事のはずだった。

 万一を考えたケイトにより、扉は霊術的に施錠されていた。正当な開錠式を知る者以外は(ひら)けない。それでも声は届くはずだと、エイシズは思いの丈を振り絞る。


「お願いします。オショウ様、テラのオショウ様。あのひとたちを助けてください。どうか、助けてあげてください」


 自らの懇願がどういうものか、エイシズは理解していた。

 これは果てしのない矛盾だ。不幸になって欲しくない人をまた一人、死地へ送り込まんとする行為だ。「彼らを救う為に死ね」と頭を下げているのに等しい。

 理解してなお、縋る事をやめられなかった。

 眼裏(まなうら)にオショウの大きな背があった。合財(がっさい)の願いを背負って、大樹の如くしっかと(そび)える彼の背が。

 思ったのだ。思ってしまったのだ。この人ならばもしかしたら、と。

 嗚咽(おえつ)混じりの声に、しかし、(いら)えはない──。




 *




 扉を抜けた先のその部屋は、奇妙なまでにただ広かった。

 作りは至極単純で、入口側を短辺とした矩形(くけい)である。天井を支える柱も少なく調度の類も見当たらず、逆の短辺に位置する玉座は無為としか思えぬ空間でだけ飾り立てられていた。

 それでいて光明は数多で其処彼処(そこかしこ)に灯り、室内に影は薄く闇は少ない。まるで何らかの宴の為に、或いは戦闘の為だけに誂えられたような場だった。


「初めまして、諸君」


 一同を迎えたのは、朗々たる声音である。

 簡素な石造りながら、こればかりは細やかな文様が彫り込まれ磨き抜かれた皇の御座。その肘掛けに頬杖をつき、深くもたれてそれ(・・)はいた。


「私が当代の皇だ。名を、ラーフラという」


 燦然(さんぜん)と光を反射して煌く豪奢な金髪は、両肩に分かれて長く流れ、獅子のたてがみを思わせた。

 高く通った鼻梁(びりょう)。白く透き通るような肌。切れ長の緑の瞳は男女の別を越えて蠱惑(こわく)的に(つや)めいてた。

 彫像のように美しく、絵画のように麗しく、しかしどこか人とは決定的に異なるものを感じさせる。

 それは、そんな(かお)だった。


「ああ、君たちの名乗りは必要ない。一方的に見知らせてもらっている」


 魔皇が、ふわりと立ち上がる。

 どこか現実離れした、芝居の一景のようだった。釣鐘型に作られた彼の袖口、裾口が、動きに連れてゆらり揺らめく。


「アーダルの太陽」


 一歩進み出たかと思った直後、誰の反応も許さぬまま、その姿はセレストの眼前にあった。


「クランベルの聖剣。神眼の弓手。順風耳の影渡り」


 歌うような歩みの折々に魔皇の姿は消え、また現れる。

 一同の間を亡霊の如くすり抜ける終えると、ラーフラは玉座の前に戻り両手を広げた。


「カダインの甲冑繰りにアプサラスの巫覡、そしてテラのオショウ。足りぬ顔があるのは残念だが、いずれ劣らぬ英雄たちだ。私に挑むに相応しい。私が挑むに相応しい」

「……随分と大仰な物言いだがよ、魔皇様。一体全体、何を企んでんだ? 不自然な戦力の小出しだのなんだのと、どうにも魂胆が見えねェんだよな」


 セレストの言いに、ラーフラはゆったりと笑んで見せた。


「そんなもの、訊くまでもなかろう? 無論私の目的は我々の勝利だ。その為にはまず放たれる人類最精鋭を、人の側の希望を打ち砕く必要がある」

「確実に仕留められるように、僕たちをここへ誘い込んだって事ですか」

「然り。史書を紐解けば、軍を率いての衝突など些末事だと思い知らされるよ。君たちのような個、強烈無比の質こそが人の備える真正(しんしょう)の牙だ。まずそれをくぐり抜けなければ、それを刈り取らなければ勝負にならない。故に、」


 ぴたり、と。

 魔皇は差し伸べた腕で一同を一指する。


「時機を図らせてもらった。既に血は薄れ、聖剣に次代の継ぎ手はない。太陽を扱いうる器の創造には、素体選出時点からの困難が付きまとう。確定執行の直系男子は未だ幼く、子を成せるようになるまでに時を要する。もしその子をこの戦いに用いればウィリアムズの血統は絶えよう。つまるところ君たちの殲滅が叶えば、人が我々に反抗する術は久しく失われるというわけだ」


 カナタが喉を鳴らして唾を飲み、セレストがわずかに眉を寄せた。

 聖剣と太陽についての指摘は的を射ていた。確かにここで自分たちが一敗地に(まみ)れれば、形勢は人類に著しく不利となる。加えて、時は常に魔族の味方だ。


「上手くしてのけたと自画を自賛したいところだよ。撤退を選ばぬ程度に、決戦を望む程度に。君たちは実に都合よく削れてくれた。アプサラスの巫覡が不在の今、私に敗北要素は存在しない」

「威勢がいい。でもまだカナタの聖剣も、クレイズさんの太陽も失われてない」

「その通りだ。確かに我々は損耗している。してこそいるが、君の喉笛を噛み破るのが不可能とは思わないね」


 イツォルが絡め縄を取り出し、後を継いだミカエラが矢を錬成する。「ま、そういうこった」とセレストが杖を握り直し、魔王を()めてカナタが曲刀の鞘を払った。


「貴方も負けれないんでしょう。でも、こちらも同じです。善悪も理非も差し置いて、僕たちにも守りたいものがあります。だから──」

「委細承知だとも。最早口上は無粋でしかなかろう。来たまえ、人類。私はお前たちが恐ろしい。恐ろしくてたまらない。だから──」


 互いの死を(こいねが)う、不倶戴天の気が満ちた。

 張り詰めた場を切り裂いて戦端の嚆矢(こうし)となったのは、ミカエラの矢である。瞬きの間に番え、引き絞り、放たれた数条は、しかし魔皇に触れられずに中空で静止。速度と慣性を喪失して床に転がる。

 イツォルの投じた縄もまた同様であった。ラーフラの上体を狙う矢と合わせて低く飛んだそれもまた、絡みつく事なく力を失い(わだかま)る。僅かなりとも動きを封じられたナークーンとは、干渉拒絶の強度が違う。

 けれど、ここまでは予測の範疇(はんちゅう)だった。

 手槍を構え直したイツォルが即座に駆け出し、その援護として更に数条の矢が走る。

 だが、魔皇は動かない。

 やはり何の痛手も与えられずに矢は地に転げ、渾身の速度を込めた突撃もまた、その胸の前で静止してしまう。


「く……っ」


 急制動に振り回されてイツォルが体を崩す。追撃がなかったのは、間髪入れず魔皇へと放たれた矢のお陰ではないだろう。

 ラーフラは、ミカエラとイツォルの存在を意に介していない。先の会話においても徹頭徹尾、太陽と聖剣、そして確定執行への警戒しか口にしていない。

 まただ、とイツォルは思う。またしても自分は、カナタの力になれない。

 唇を噛みながら飛び退(すさ)り、幼馴染みの前方に陣取った。ミカエラも進み出て、セレストの盾となる位置取りをする。二人の正統詠唱が完成するまでを、我が身を呈してでも守る抜く構えだった。


 アーダルを襲撃した四武、ラーガムを攻めた二王、そしてアーンクとナークーンからの思考伝播により、ラーフラは知り及んでいる。

 弓師と槍使いの後背で紡がれる詠唱が、聖剣抜刀と真夜中の太陽(ラト・スール)のものである事を。双方の術式ともを、彼は一度ならずで見聞していた。

 しかし、魔皇は動かない。悠然と腕を組んだまま、術式の執行を妨げる素振りもない。

 不敵な微笑みを溜めたその眼前で完成したのは、太陽が先だった。

 刹那、皇の間の気温が上がる。

 多層積層型の障壁に隔離されてなお、現出した灼熱は青白く大気を焼き焦がす。


「余裕ぶっこいてんじゃねェぞ」


 セレストの杖が振るわれ、ラーフラを示した。煮え(たぎ)る虚無が魔皇を照準(ポイント)する。 


「燃えて、尽きろ──!」


 前衛の二人が、左右に飛び分かれて軌道を避けた。

 瞬間に液化した石畳を波打たせながら、太陽が飛翔する。宣誓を解いた上で用いれば、五王の命をも奪いうる強力無比の禁呪である。

 それでも、魔皇は動かなかった。

 動く必要がないのだと、口の()の笑みが告げていた。


 熱も炎も、魔皇に届く事はなかった。

 ラーフラに接近した光球に対して干渉拒絶が発動。真夜中の太陽(ラト・スール)はその術式構成を完全に棄却され、忽ちに崩壊して消失する。ロウソクの細い火を吹き消すが如き気安さだった。


「片腕を失い、霊体もまた()がれたのだ、太陽。君が十全であったなら、今少しは熱かったろう」


 ここまで完璧な無効化は想定していなかったのだろう。さしものセレストも二の句が継げない。

 その間隙で動いたのがカナタだった。

 熱された空気の生む陽炎を抜け、未だ余熱の残る床を駆け、恐るべき速度でラーフラへ肉迫。透明な黄金(こがね)の粒子を纏う刃を一閃させる。

 右肩から入って左脇腹に抜ける剣の軌道は、しかし途上に割り込んだ魔皇の腕一本に阻まれた。

 刃は薄皮一枚だけを切り裂いて停止。滞留し繰り返される斬撃もまた、それ以上の傷を負わせるには至らない。


「見事だ」


 自らの腕を伝う黒血を眺めつつ、満足の笑みで魔皇が囁く。


「流石はクランベルの聖剣。私を傷つけうるものだ。だが残念ながら、出力が足りぬようだな。──ナークーンの忠節を讃えよう」


 ラーフラの逆腕(さかうで)が手刀を作り、振るわれた。

 カナタが受ける。聖剣と魔手が衝突し、金属音にも似た甲高い響きが上がった。聖剣の滞留斬撃と魔皇の干渉拒絶、両者がせめぎ合っているのだ。

 そのまま数合を切り結び、追い込まれたのはカナタである。

 近接戦闘における技量のみを問うならば、おそらく彼はラーフラの上を行く。

 だが正統詠唱を経た抜刀とはいえ、聖剣の維持に枯渇しかけの体力が、生命力が根こそぎされているのだ。その状態で激しく立ち回ればどうなるか。結果は自明だった。


 彼の身が危ういと見るや、イツォルが無謀を承知でつっかける。

 雷速のその刺突を、しかし魔皇は片足だけで半歩下がり、身を開く事により回避。カナタの剣を片手であしらい、もう一方で槍の穂先を掴み引く。

 猛烈な力で引き寄せられたイツォルの腹に、ラーフラが拳を叩き込んだ。

 圧倒的な量の霊素を握り込み、半実体化させて打ち付けた一撃である。鈍い音とともに、彼女の体は放物線ではなく直線で壁まで飛び、激しく衝突して床に転げた。

 そのまま、立ち上がらない。糸の切れた人形めいて、力なく手足が投げ出されている。


「イっちゃん!?」


 思わず声を上げたカナタの膝に、魔皇の足刀が飛んだ。

 反射的に飛びさがってこれを避けるも、この状況で彼女の下へ駆け寄る事など到底できない。カナタはただ、気遣わしくイツォルを見やるばかりだ。


「咄嗟の判断といい、即席の連携といい、素晴らしいな。実に大した修練だ」


 皮肉ではなく、心底からの感嘆を込めてラーフラは言う。


心魂(しんこん)もまた、不撓(ふとう)にして不屈と見受ける。どの目も闘志を失っていない。だから、君たちは考えているのだろう? まだ勝機はある、と」


 聖剣を受けた腕を(ぬぐ)い、手のひらについた血を払う。そこにもう、傷痕(しょうこん)は見当たらなかった。


「宣誓を解けば魔皇の拒絶とても突破できるに違いない。太陽と聖剣ならば、そこから致命の一撃に至れるはずだ。そのように考えているのだろう? 嬲るのは本意ではない。故に私は告げる。堅きもの、鋭きもの。熱きもの、冷たきもの。いずれに()ろうと無駄なのだ。宣誓しよう。──女の腹より出でしものに、この身、傷つくる事能わず」


 訪れたのは沈黙であり、静けさは絶望の形容として雄弁だった。

 人類という種の構造上、これは解きえぬ難題である。当代の魔皇は、この上なく人との戦いに特化している。


 舌を打ちながら、セレストは思考を高速で巡らせた。

 最優先はカナタだ。

 自分の禁呪は及ばなかったが、あの聖剣は、それでも魔皇を傷つけた。彼を逃せばまた芽は残る。

 だが、この場からの離脱は不可能に近かった。奇しくもカナタ本人が口にした、「誘い込んだ」という言葉。それは全くに正しい。

 皇の間に出入り口はただ一箇所のみであり、一同はその対極に位置する玉座目掛けて、部屋の奥へと踏み込んでいる。つまり、唯一の脱出口から大きく遠ざかってしまっているのだ。

 もしも逃げの姿勢を見せれば、魔皇は即座に妨害に移るに違いなかった。先に見せた、亡霊の如き短距離転移。あれを以てすればこちらの移動を制するは容易い。

 では壁を掘削して、新たな逃げ道を切り開くか。

 有り体に言って、これもまた困難だった。

 ミカエラとイツォルは、そこまで高い破壊能力を持たない。カナタの聖剣は魔皇にこそ有効であるが、あくまでそれは剣でしかない。分厚い石の掘削には向かない。

 己の禁呪ならば、壁でも床でも溶解させる事が可能だろう。

 しかし事ここに至って、もう一度正統詠唱を通させてくれるほどラーフラが甘いとは思えなかった。


 ──参った。()がねェ。


 自らが語る通り、ラーフラの蜘蛛の巣は徹底している。自分たちは彼に踊らされ、少しずつ判断を誤った。いや、誤らされた。うかうかと虎穴の深くに陥ってしまった。

 それでも、とセレストは杖を握り締める。


「ミカ公」

「うん?」

「なんとかしてくれ」


 呆れ顔で片眉を上げ、相棒は肩を竦めて自身の懐に手を差し入れる。

 つまるところ、結論は同じのようだった。


「悪いな、カナタ。後に繋げる為だ。お前はここから逃げるのを最優先にしろ」

「セム君は引き受けた、と言いたいところだが、彼女どころか我が身の無事も保証もできない体たらくだ。情けない大人どもだと笑ってくれたまえ」


 カナタの返答を待たず、詠唱棄却で執行された炎珠が走る。当然ながら、それらは魔皇に何の影響も及ぼせずに無効化された。紙片につけた小さな火を、湖面に投げたようなものだった。

 だが(おびただ)しく起動した炎珠のひとつが、ラーフラの正面で着弾なしに爆裂。光と炎を吹き散らす。同時にミカエラが投じた小袋が残り火に投げ込まれて着火、猛烈な白煙を生じて魔皇の視界を妨げた。


「行けッ!」


 セレストの叱咤に、けれどカナタは動けない。状況はわかっている。どうするべきか理解もしている。それでも、見捨てられなかった。人間らしい感情が、甘い理想が、鎖のように彼の足に絡みつく。

 そしてその逡巡は、最悪の形で報われた。 


「もう君たちに出来る事はない。何ひとつとて。ただ、蹂躙されるがいい」


 言葉と共に、煙を貫いて何かが飛んだ。

 それは魔皇の指先に収束し、半実体化した霊素の弾丸である。反応したセレストが即座に障壁を展開、これを弾く。

 が、呪弾は一発二発では終わらなかった。

 魔皇の備える膨大な霊素許容量を背景に、恐るべき連射が継続される。点が連なって一筋の線となるように、途切れ目のない呪弾は呪線と化して負荷を加え続けた。

 無論、防ぎ切れるものではない。忽ちに障壁は破砕され、肩を貫かれたセレストが杖を取り落とす。もう一方の腕ばかりか、彼はそのまま命まで落としていた事だろう。


「ミカ公、お前……!」


 もしそこへ、ミカエラの体が割って入らなかったなら。


「やれやれ。やはり霊術では君に及ばないようだ。こちらの守りは、随分あっさり砕かれてしまったよ」


 呪弾に斬られた(・・・・)背なから血を飛沫(しぶ)き、ミカエラがくずおれる。

 その攻防の刹那を縫って、カナタは今度こそ駆け出していた。

 白煙を押し通り、ただ一直線に魔皇へと。

 依然聖剣は抜刀中だ。詠唱は必要ない。この一瞬、この一撃で魔皇を討てば。全霊の気迫に応じて、刃の纏う光の粒子が厚みと激しさとを増す。

 間合いに入る寸前、ぐっとカナタが身を沈めた。速度を緩めぬまま、前方へと跳ねる。切り込んだ後の形振(なりふ)りを構わない、ただ真っ向から両断する事だけを目的とした太刀筋だった。

 聖剣が、戦慄するほどに美しい弧を描く。

 拳が床を擦るほどにまで低く、カナタの両腕が振り抜かれた。


 ──両腕だけが、振り抜かれた。

 そこに握られた曲刀に、最早刀身は存在しない。

 左右から交差する形で迎え撃った魔皇の両手刀により、聖剣は敢え無く砕け散っていた。

 愕然とカナタが顔を上げる。その足を、ラーフラが無造作に払った。

 魔族の剛力によりカナタの体が宙に浮く。振り抜かれた魔皇の足は神速で翻り、踵へ引っ掛けるように再度カナタを直撃。踏み躙る格好で床へと踏み落とす。

 

「くぁっ!?」 


 血を吐き、それでもカナタはラーフラの足を掴む。だが全身の力を振り絞ろうと、魔皇は微動だにしない。

 それは一方的な戦闘だった。

 否。

 戦闘にすらなっていなかった。じゃれかかる子供を振り払うように、ラーフラは一行を打ち破り、地に這わせた。


「幕を引くとしよう」


 すい、と。

 魔皇の指先が、もがくカナタの額を照準する。霊素が収束する。呪弾が形作られる。必殺の意志に(のっと)って、破壊が解放される。

 だが放たれた一撃は、カナタの眼前に生じた霊術障壁により阻まれた。意図的に(はす)に展開されたそれは、呪弾を真っ向からは食い止めず、巧みに逸らし受け流す。

 そうして──凛と澄んだ声がした。


「まずは挨拶。そう、先走らずに挨拶ですわよね。遅参をお詫びしますわ、皆様。それから初めまして、魔皇様。宴席はもう終わってしまいましたかしら?」


 折れた聖剣、落ちた太陽から完全に目を切って、ラーフラは闖入者に視線を向ける。

 それは一人の少女だった。

 剣を帯び盾を装い鎧兜を身に纏い、栗色の髪をきゅっと後ろに束ねた少女だった。


「いいや、いいや。君という主賓の到着を心待ちにしていたところだ、アプサラスの巫女」

「それは光栄至極ですわね」


 応じながら、ラーフラは大きく玉座まで後退する。躊躇いのない足取りで、その分だけケイトが前に出た。

 ()くて、少女は魔王と対峙する。

 その身にも心にも、一筋の怯えすらないようだった。


「セレスト様」


 ラーフラを目の端に捉えたまま、娘はやわらかな瞳を霊術師へ向けた。

 利き手を開き、握り締めていたものを露わにする。


「こいつァ、ネス公の」

 

 手のひらにあったのは各々の居場所を知らせる為の、セレスト手製の護符だった。

 差し出してから霊術師の状態に気づき、ケイトは会釈して謝罪する。身を屈め、彼の足下にそれを置いた。


「道中でネスフィリナ様にお会いしましたの。お陰で迷わずここへ馳せ参じれましたし、状況も聞き及んでおりますわ」

 

 場にそぐわぬ、奇妙にふわりとした空気を漂わせる娘だった。

 だがラーフラの物言いが確かならば、この娘が、この娘こそがアプサラスの確定執行。魔王の馬鹿げた干渉拒絶を無効化し、ただ一撃に討滅できる人類の切り札なのだ。


「……お前が、あの(・・)ウィリアムズなのか?」


 セレストの確認に、少女は「あ」と手を口に当て、


「いけません。名乗りを忘れておりましたわね。はい、肯定ですわ、セレスト様。わたくしがその(・・)ウィリアムズです」

「そうか」


 複雑な感情が、彼の胸中で渦を巻く。

 これは確かに光明だった。自分たちが助かる為の、魔皇を討つ為の、人が勝利する為の。

 だがその光に縋るのは、この少女に死ねと命じるのと同義だった。

 しかし。


「ご安心くださいな」


 セレストの瞳から一切を汲み取って、ケイトはにかむように笑んだ。


「覚悟なら、もう随分と前に済ませております。わたくしには素敵な思い出がありますわ。その為になら、命だって惜しくはないのです。ええ。わたくし、ここへ死にに来ましたの」

「……」


 朗らかとも言える表情で告げられて、それ以上は何も言えなかった。

 そもそもこの場において、最早魔皇と戦いうる者は彼女の他にない。最初から、全てをこの少女に託すしか道はないのだ。

 セレストはただ唇を噛む。そこへ、黙していたラーフラが割って入った。


「ひとついいかな、ケイト・ウィリアムズ」

「なんですかしら、魔皇様」

「テラのオショウは、どうした?」

「置いてきましたわ。だってオショウ様はこの戦いに、この世界の戦いに、本来関わりのない人ですもの。わたくしが守るべき方ですもの」


 臆病にも似た細心からの問いへ、真っ正直にケイトが答える。

 魔皇は意外めいた表情になって顎を撫で、それから深く嘆息をした。


「なんと評したものか。己の不利を顧みずにここへ飛び込んできたのもそうだが、君は大分、正義感と直情径行が強いようだ」

「先走ってばかりですわ。お恥ずかしい」

「いや、賞賛のつもりだよ。私はそれを美しいと思う。君はいい目をしている。覚悟を決めた、実にいい目をしている。だが無駄だ。悲しいかな、無駄なのだ。君は私に届かない。何故ならば」


 直後魔皇はその爪で、自らの手首を縦に掻っ切った。

 滴り落ちた黒血は瞬く間に(かさ)を増し、床に血の池を形成。と見るや黒い水面(みなも)は不吉に泡立ち、そこより百鬼万怪が生まれ出る。忽ちに魔軍が、雲霞の如く皇の間にひしめいた。


「塞き止めていたのだ。全てはこの時の為に。ただ一時(いちどき)に、我が軍勢を解き放つ為に。数もまた力だ、ケイト・ウィリアムズ。君という質に、私は量で対抗しよう」


 ラーフラが、魔軍を用いての侵攻を行わなかった主たる理由がこれだった。

 確定執行のウィリアムズ。この一族が伝える必倒必滅の霊術は、魔皇にしてみれば最大の脅威である。しかしながらこれを執行しうるのは生涯にただ一度きりであり、対象もまた、ただ一体のみに限られていた。

 そこを突くならば、対応は不可能ではない。

 ウィリアムズという恐るべき個を、無量の群れですり潰してしまえばよいのだ。

 無論、ただ数に任せるでは駄目だ。広域殲滅能力を備える他の人類精鋭が、そのような仕業を許すまい。よってウィリアムズを一同から切り離し、孤立させる必要があった。

 アプサラスの王城を襲い出立を遅滞させのも、見定めに赴いたパエルに飛空船の撃墜を優先するよう命じたのも、(ひとえ)にケイトと他の合流を遅らせる為である。

 これらの策を全て覆してきた不確定因子こそがオショウだが、その姿は今、ここにない。

 そしてセレストたち一行は、既に戦力として数え得ぬほどに傷ついていた。

 状況は概ね、魔皇の掌上にある。


「卑劣な……!」


 どうにか身を起こしたカナタが、ラーフラを睨みつけて叫ぶ。幼く美しい正義感を抱く彼にとって、魔皇の振る舞いは到底捨て置けぬものだったのだろう。

 だがラーフラは、ただ呆れの素振りで肩を竦めた。


「必勝を求める戦に正々堂々など、愚か者の振る舞いだ」


 言い放たれて、カナタは唇を噛む。徹底して実利のみを追う魔皇の姿勢はひとつの真理だ。現状を顧みれば、その正しさに揺ぎはない。

 だが途切れた抗議の代わりのように、しゃらんとひとつの()が響いた。

 それはケイトの抜剣である。


「お詫び申し上げますわ、セレスト様、カナタ様、ミカエラ様、イツォル様。本当なら方々の治療に当たるつもりでいたのですけれど、どうやらそうはいかないようです。わたくし、これからあれを抜けなくてはなりませんの」


 掲げた剣先で無数たる魔軍を示し、ふんわりと娘は笑う。

 その姿はあまりに無力と見えた。

 だが彼女は、一瞬たりとも首を垂れはしなかった。


「万難を排して貴方にたどり着きましょう、魔皇様。こう見えてもわたくし、少々(たしな)んでおりますのよ?」


 言うなり、ケイトが駆けた。

 阻まんとまとわりつく小鬼の胴を圧縮詠唱による呪弾で撃ち抜き、振るわれた大鬼の拳を最小動作で避け切ると、すれ違いざまに刃を振るってその足の筋を切り裂く。

 一々止めを刺すような遅滞は犯さない。

 転げた小鬼は足下の障害として迫る隊伍を乱せるし、膝を突いた大鬼は後方からの射線を遮る壁として利用できる。機動力を軸とするオショウを参考にした、彼女なりの戦術だった。

 自身の速力強化のみではない。ケイトの武装は、いずれも微かに青く燐光を帯びている。聖剣抜刀には格段に劣るが、霊術強化により打撃力を、切断力を増しているのだ。女の細腕で大立ち回りが適う理由だった。


 そうして(はしこ)く、彼女は駆け続ける。

 大鰐の頭を踏み台に獣人の牙を躱し、奇岩兵の肩を蹴って更に跳躍。中空で身をひねりながら呪弾を掃射し、着地地点を確保しつつ(おの)が枝を投げ槍の如くに引き(つが)えた人樹を牽制する。

 おっとりとした見かけとは裏腹の、獅子奮迅の振る舞いだった。

 数ばかりの魔軍はこの機動に追随できない。

 ただ一人で軍勢をかき乱し、ケイトは魔皇までの(なか)ばを走破する。

 もし生み出された魔が有象無象ばかりであったなら、彼女は宣言通り、ラーフラに肉薄していた事だろう。

 だが、そうはならなかった。


 疾走するケイトの前に、五つの影が立ちはだかる。

 それは五指から刃の如き爪を伸ばした三面六臂であり、鋼鉄の如き鱗と毒牙を備えた大蛇であり、四足の獣の下半身に人の上半身を備えた半人半獣であり、不吉な赤色(せきしょく)紋を蠢かせる鉄塊であり、幾億本もの鋼線めいた毛髪から形成された人体の模倣であった。

 ナークーン。アーンク。パエル。ダーント。バール。

 魔城で、飛空船で、ラーガムの王都で。

 それはこれまでに屠られてきた五王の複製であった。

 無論体躯はふた回り以上も小さく、力量もまた落ちるのだろう。けれど単身のケイトにとって、それらは十二分過ぎる脅威だった。


 恐るべき速度で迫った半人半獣の横殴りの一撃が、ケイトの側頭部を襲う。強烈な打撃に兜が宙を飛ぶ。首が折れなかったのは僥倖(ぎょうこう)でしかない。

 跳ね飛ばされながらも、ケイトは勢いを利用して自ら床を数転。どうにか(たい)を立て直す。結わえ髪が解け、動きにつれて大きく広がった。

 その懐へごろりと転がり込んできたのが鉄塊だった。

 何の予備動作もなく、その随所から鋭い突起が槍の如く伸びる。咄嗟に受けた盾が、強化も虚しく粉砕された。刺突の威力はなお減ぜず、鎧を激しく打たれて彼女は大きく押し戻される。

 更に続いたのは三面六臂だった。暴風雨めいた三十爪が、ケイトの剣と鎧とをずたずたに斬壊していく。

 朱の舞う空間へ、人体模倣が加わった。自らの構成を解き上半身をひとうねりの太い縄に変じると、周囲の魔軍ごと彼女の胴を薙ぎ払う。

 障壁は間に合わず、また回避の(いとま)もなかった。

 小柄なケイトの体がふたつ折りになり、そのまま壁面へと打ち付けられた。衝撃に息が詰まる。無防備になった後頭部が叩きつけられ、一瞬とはいえ意識が飛んだ。

 反作用で跳ね返ったケイトは前のめりに倒れ伏し、彼女を中心とした半円を、十重二十重(とえはたえ)に魔軍が囲む。

 速度による攪乱(かくらん)で多対一の戦況をどうにか凌ぎ、誤魔化していたのだ。その足が止まればどうなるか。後の事は自明だった。


 彼女の窮地を認識しつつ、けれどセレストもカナタも動けない。

 魔軍はケイトのみならず、満身創痍の彼らへも群がっていた。自らと仲間たちへの爪牙を防ぐのが手一杯で、それ以上の動きがとれない。

 彼ら両名ともが、ケイトが即座に切り込んだ理由を理解していた。それが魔族の注意を引き付ける為の、自分たちを庇う為の行いだと把握していた。

 だからこそより一層に、内心の忸怩(じくじ)と絶望は深い。


「──まだですわ」


 それでも。

 それでも、ケイトは折れなかった。

 強がりでしかない言葉と共に、魔軍の先のラーフラを見る。

 床に手を突き身を起こし、しかし独力で立ち続けようとして果たせずに、よろめいて背を壁に預けた。

 それでも、自身に治癒を施さない。残る力のひと雫まで、前進の為に振り絞るつもりだった。魔皇を霊術の距離に捉えさえすれば、それで一切合切は決着するのだ。


「まだ、まだですわ!」


 徒手空拳のまま。

 自らを鼓舞し、震える足を叱咜し、ケイトは顔を上げた。血に(まみ)れ、傷に塗れ、それでもきっと瞳を据えた。

 気圧されたように、包囲の輪が半歩広がる。

 希望があるのでも、伏せ札があるのでもなかった。最後まで足掻いてやろうと、足掻き抜いてやろうと居直っただけの事だった。

 ほんの一瞬だけ、とても大きくて頼もしい人の顔が胸を過ぎる。

 なんだか、可笑(おか)しくなった。自分で置き去りにしてきたくせにここで思い浮かべるだなんて、どうにも都合のいい話だと思う。けれどそのお陰で、少しだけ心が軽くなった。

 我知らず彼女の口元に、年頃の微笑が浮かぶ。


 けれど、現実は無情だ。

 如何に崇高な信念も美しい理想も、望んだ結果を約束しはしない。

 直後、五王の影のひとつが動いた。

 忌まわしく体をうねくらせ、大きく(あぎと)を開いた蛇の狙う先は、白く細い首筋だった。

 その動きはケイトも知覚している。してはいるが、反応できない。最前のダメージが大きすぎた。体が頭についていかない。柔肌に毒牙を突き立てんと、足下(そっか)まで這い寄った蛇影が跳ねる。

 ケイトの命があわや風前の灯火と見えた、その時。


 ずん、と下腹に響く鈍い衝撃が走った。

 破砕音と同時に、ケイトが背にしていた壁から腕が突き出た。厚い石壁から生えたそれは、蛇の喉首をむんずとばかりに掴み止める。

 貫かれた箇所から放射状に、壁面を亀裂が駆けた。それは忽ちに拡大し、驚くほど他愛なく石造りは崩壊。皇の間に新たな出入り口が設けられる。


「何だ! 何が起きている!?」


 状況を終始(たなごころ)に収めていたラーフラが、初めて動揺と驚愕を漏らした。

 だが答える者はない。ありえぬ光景に、誰もが目と言葉とを奪われていた。


 もうもうと上がる粉塵。

 ぱらぱらと飛び散る砂礫(されき)

 それらを全く意に介さず、腕が動いた。ケイトを避けつつ縦横無尽に、捕らえたままの蛇体を振るう。

 本体より小型化しているとはいえ、この蛇は片手に収まりきる首回りをしていない。

 だが腕の(ぬし)は、まるで柔らかな果実であるかのように鋼の鱗へ指を沈ませ鷲掴(わしづか)む事でこの無法を可能とした。

 その上で掌握部位を握り潰してしまわぬよう力加減を(・・・・)しながら(・・・・)、五王の影を己が得物として、鞭の如くに取り回しているのである。


 周囲の魔軍は或いは硬質の蛇体に打たれて倒れ、或いは腕の暴虐に怯えて下がり、ケイトを中心とした空白が拡大する。

 のそりと、そこへ闖入者の大きな影が進み出た。

 絶息した蛇を投げ捨てる胸元に、導石(しるべいし)の光が揺れている。

 ──オショウであった。

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