陽はまた昇る
「僕らは、幸せのために必要なものを全部持っている。なのに幸せではない。何かが足りない」
――レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
翌朝。
ようやく明るくなり始めたアンダーセン邸の厨房で、ごそごそと活動するのはセレストである。
ミカエラの屋敷には、まだ破壊の痕が生々しい。それでも雨風を凌げる部屋は少なからず存在し、野宿やアーダル王城の一室を占拠するより大分に居心地がよい。
そうした次第で城攻めののち、セレストたちはここを一夜の宿に定めた。
到着ののちは軽く戦塵を払い、今後の方策について夜を通して議論している。
話し合いは未明まで続き、『ここしばらくごろごろしてただけのオレが見ておく。お前らはちょっとでも寝ろ』と不寝番を買って出たセレストの他は、まだ眠りのうちであろう。
セレストからすればこの夜警は、少しでも借りを返すべくの行為であった。
が、そう口に出すなり、『あら、先ほども申し上げましたわ、セレスト様。今回はわたくしたちが返したのです。それも、ほんのちょっぴりだけ』とケイトに窘められ、挙句はカナタとイツォルにまで、
『わたしも、同意見。少しでも恩返しができたなら嬉しい』
『今日貴方を救ったのは、今日まで貴方がしてきたことたちだと思います』
などと追撃され、珍しく閉口したものである。
「まったく、なんだってんだあのお人好しどもはよ」
嘯きつつも微笑して、セレストは肉、野菜を至極細かく刻んでゆく。シチュー作りの工程だった。具材を微塵にするのは、くたくたの渾然一体となるまで煮込むことで、子供に好き嫌いを言わせない工夫である。パンは、連中が起き出して来たらリベイクすればいいだろう。
味付けから何から見事なまでの男料理だが、現在、アンダーセン邸には使用人がいない。
屋敷の主であるミカエラにより、万一の事態に際した場合、逃げ散るよう彼らは訓練されている。主の声がかかり、安全が確認されるまで、屋敷に戻ることはない。よって、自前で賄いをせねばならないというわけだ。
ちなみに食材は全て、王城を撤収する際に掻っ攫ってきたものである。「実際、王様もお召し上がりになりやがるのだから構わねェだろ」とは、セレストの論法だ。
この思考からも知れる通り、現在アンダーセン邸にはセレスト、ミカエラ、ネスのアーダル組とオショウたちテトラクラム勢の他に、ナハトゥム・アーダル・ペトペも居合わせている。
我法が砕けた今、その効能がどこまで消え、どこまで残るか瞭然としない。王城に捨て置けば思わぬ恨みが蘇り、そのために害される可能性もある。
ネスの肉親がそのような最期を迎えるのは寝覚めが悪く、また当人がセレストに強く縋るのもあって同行の仕儀となった。
昨夜の議論において、最も長く取り沙汰されたのは彼女をどうするかである。
前述の如く、我法は壊れた。幸せへ導くはずの、幸福に至るための彼女の法は敗壊した。
万一、法の残滓が再燃することがあろうとも、ナハトゥムはもう思えまい。自らの我法が、自らに幸をもたらすなどと。
もし再び法を執行すればオショウが来ると、彼女はそう植えつけられている。文字通り叩き込まれてしまっている。ゆえに法は自己矛盾を孕み、二度と機能することはないだろう。
このことはナハトゥムの無害化を保障するものであるが、しかし彼女自身の安全を保障するものではない。
不意の怨讐が王を襲う可能性が否定できないこともまた、先述した通りだ。
結論から言うと、ナハトゥムはこのまま王座に据え置くこととなった。
まず後継の不在がある。
ナハトゥムは男ひとり、女三人を産んでいる。ネスフィリナ以外は同調能力を発現させなかったが、未だカダインの名に縛られた十二洞府洞主どもは、こぞってその子を欲した。
このためネスを除く三名全てが、俗世を離れて洞に尽くす、洞府の跡目として登録されてしまっていたのだ。
王権で洞のことへ干渉できないのは、アーダルという国家成立より明文化されたルールである。還俗棄却は本来職人の引き抜きを防ぐための処置であったが、思わぬ弊害を生んだ格好だった。
つまるところネスの兄姉が子を成さぬ限り、王位継承者はネスフィリナに限られるのだ。だがそうなるには、彼女はあまりに幼い。
これに加えて当然ながら、昨晩王城で起きた騒動の説明はせねばならない。なにせアーダルは一夜にして機械化歩兵らの兵装と新型甲冑という戦力を喪失しているのだから。
従って王がテトラクラムに無用のちょっかいをかけた点については、隠すところなく公表する方針となった。ナハトゥムの我法についても広く知らしめ、その上でこの法の影響下にあった者は無罪とする。
ただし法の砕けについては公布しない。
王はオショウに屈し、自ら執行した我法を解除した。魔皇の魔軍招聘と同様にこの異能はテトラクラムにより封じられ、彼女と彼女の関係者らは常に監視を受ける。
ナハトゥムには未だ我法が宿り、更に新進気鋭のテトラクラムが後ろ盾になるを知らしめる格好を整えたのだ。これにより安易に王の身柄、能力を狙う輩は失せよう。
また現在唯一の後継となるネスフィリナは、アーダルの旧弊から離れた教育を施すとの名目でミカエラと共にテトラクラムへ移住する手筈になっている。もちろん、彼女の身の安全を最優先に考慮した結果である。
そしてこの一件の賠償として、アーダルの全技術の貸与を決定事項とすることにした。
ナハトゥムの甲冑作成、心魂工房の人体改造技法、十二洞府をはじめとする全ての工房の秘匿技術開示という大鉈である。ネスの甲冑の修復と改良、ロードシルト文書の解読結果譲渡等もこれに含まれる。
無論、各洞府の反発と不満は凄まじかろう。
が、今回のことは技術者至上主義から生まれた弊害でもある。また秘密主義が今後の憂いの温床となりうるのは、小人閑居にして不善を為すとの言い通りだ。ならば協調しない洞籠もりどもには、少しばかり痛い目を見てもらう必要があろう。
小洞府はさておき、十二洞府は必ず泣かすというのがセレストの元よりの目論見だ。よって今後はセレストとオショウが各洞府へ挨拶へ訪れ、わかるまでわからせる腹積もりである。
『ってなわけだ。事が片付くまで、悪いがオショウさんを借りれるか?』
テトラクラムのトップであるカナタに求めれば、『了解しました』とすぐさまの首肯が返る。
『ただ申し訳ないのだけれど、ケイトさんは一緒に戻っていただけますか』
『オショウ様だけでなくケイトさんまでいないとなったら、きっとラーフラが生き生きとする。少し、萎れさせておかないと』
まるで手のかかる農作物にするかのような物言いだった。
オショウとラーフラの手綱を握る少女は、『承りましたわ!』と実に気安く頷いてから、傍らのオショウに向き直る。
『そういうことになりましたので、わたくしたち、しばらくは別行動です』
『うむ』
『生水には気をつけてくださいましね』
『うむ』
『知らない人についていくのも駄目ですわよ』
『うむ』
『それから、ええと、そうですわ。過度の夜更かしもいけません。今夜のことは特別です』
『うむ』
『案じすぎだろ。母親か』
『いいえ、女房気取りですわ!』
『心底強靭だなお前』
そうしたやり取りを、ナハトゥムは幾重にも毛布を重ねた椅子の上で聞いていた。
我法は砕け、これまで通り、影の暴君としての君臨は叶わない。
何より彼女は、自分で自分の新しいかたちを見出さねばならない。
一から生き直さねばならないのだ。
それでもナハトゥムの面持ちは、すっきりと憑きものが落ちたかのようだった。
凪めいたその穏やかさは、長らく欲してきた助けがその手の触れた感触からであったろうか。
尻具合に配慮して毛布を用意し、そこまで彼女の手を引いて座らせたのはネスである。王は隣に腰かけた娘と手を繋いだままでいる。
『ま、どんな悪事を働いたにせよ、だ。大抵の罪はミロクってのが、何年後かに許してくれるらしいぜ』
そんな親子を眺めやり、セレストは衒学めかして説いた。
『時間はかかる。が、時間をかけりゃ大体のことはどうにかなる。ただな、今日立たなかった人間が明日歩ける道理はねェ。だから精々励むこったな』
言われてナハトゥムとネスのふたりが、揃ってそっくりの仕草でこくこくと頷く。
弥勒菩薩下生が56億7千万年後だという都合の悪い事実は、おそらくこの男の頭から抜けている。
漏れ聞いてそう思いはしたものの、ミカエラは空気を読んで口を噤んだ。
*
無論、ただ一夜で練ったプランである。遺漏は当然多かろう。だがまあ、その辺りはフレキシブルに修正を加えていけばいい。計画は生き物だ。問題は出てから対処すればいい。おおよその方角が定まって、そこがブレないのなら問題はない。
ミカエラが聞けばまた大雑把と評するだろう思考を走らせつつ、セレストは煮込み具合と味見を実行。
こんなもんだろうと呟いてから、厨房の入り口へ声をかける。
「なんだネス公、早いお目覚めだな?」
「!」
煮炊きの匂いに釣られたものか、ひょっこり顔を覗かせていたのはネスである。
セレストの声を受け、 おはようございます、とばかりに彼女は両手を上げる。
「メシならまだだぞ……ってお前、用意のいいこったな」
セレストが言葉を切って呆れ顔をしたのは、上がったその手に櫛と香油瓶が握られるのを見て取ったからだ。
顔を洗い、平服に着替え、ネスはおおよその身づくろいを終えている。
ただしその長い髪だけは、くしゃくしゃと寝起きのままに乱れていた。疲れもあり、昨夜はまとめずに寝入ってしまったのだろう。平素から緩くウェーブのかかった髪はぶわっと膨らみ、ボリュームが大変なことになっている。これを自力で直すとしたら、要する手間と時間は甚だしい。
となれば両手に握られたふたつの物品は、「なんとかしてくれ」というセレストへの意思表示である。
つまるところこの娘は、母親にいい格好をしたいのだ。
侍女の手を借りずとも自分はちゃんと身支度ができるのだと、小さな見栄を張りたいのだろう。そうとわかれば微笑ましいものである。
「仕方ねェな、ちょっと待ってろ」
セレストは肩を竦めると、シチューの鍋を他所へ除けた。あとは余熱でいいだろう。
そののち別の鍋に水を注ぎ、入れ替わりに火にかける。次いで洗った手の水を拭き取ってから、厨房の椅子に腰かけたネスの梳りを開始した。
適量の油を用いながら、細い髪を引き切ってしまわないよう加減するセレストの手並みに淀みはない。
大雑把な気性にそぐわず細かい手業が巧みなのは、年嵩として長らく下の子らの世話を焼いてきた時間の賜物である。
「?」
機嫌よく足をぶらぶらさせていたネスが、思い出したように沸き始めた鍋を指した。
ほとんど朝食の支度が終わっているのに、何故まだ湯を沸かすのか。それが気になったのだろう。
「ああ、飴作ってんだよ、飴。お前にも時折くれてやってるだろ。あれだ」
「!」
「こら動くんじゃねェ。済むまでちゃんとじっとしてろ」
叱りつつも、セレストの眼差しはどこか優しい。
それは過ぎ去って戻らない、昔を顧みる折の優しさだった。
「実はこの飴な、魔女の婆さんが作ってた代物なんだぜ」
「!?」
「だから動くなっての」
ネスの頭の位置を強引に戻してから、セレストはひとり語りのように続ける。
「その婆さんな、ガキの相手が苦手だったんだ。おっかねェ悪人顔だったからな。無理もない。で、どうにか機嫌を取るためによ。相棒から飴作りを教わって、いつも懐にこいつを忍ばせてやがったのさ」
実際のところ、レライエ・キリの飴を好んだのは子供たちばかりではない。長期にわたる対獣戦や行軍に際し、携行に利便なそれは衛士たち皆に愛されてきた。
だからまだその味を覚えている連中は多くいて、飴を見るそのたびに、彼らはきっとキリを思い出すのだ。
――まったく、長生きな婆なこった。
直伝の飴の支度をしながら、セレストは静かに笑う。
その微笑から何かを察したものか、ネスがその服裾をくいくいと引いた。
「なんだ、どうした? ……あァ、作り方が知りたいのか?」
ぶんぶんと頷くネスの頭を、セレストは再度片手で固定する。
「そうだな。なんだって覚えとくのは悪かねェ。今度書き出しといてやる」
この飴は、ネスのためのものだった。
テトラクラムに行けば、言葉のない彼女は少しばかり苦労することだろう。そうした折に、特に同年代に溶け込まんとする際に、この種の付け届けは役に立つ。美味なるものが人類の心証に与える影響は甚大だ。
ネス自身がそれを作れるようになるのは、尚更に有効だろう。
「特別だなんだと大口叩いときながら、オレは全部を取り返してやれなかった。だから、せめてもの詫びさ」
ネスの言葉については、ナハトゥムを再度詰問している。
しかし回答は否定的なものだった。
『一度砕けた器を元の形に組み合わせたところで、その機能が復元することはない。それに水を注げば必ず漏れる。ネスフィリナの回復も同じだよ。それは不可能だ。それこそ奇跡でも起きない限り。そして奇跡とは、生じる可能性が無に等しいほど低いからそう呼ばれるんだ』
悔いの色を滲ませながら母親はそう告げて俯き、セレストもそれ以上を問えなかった。
ゆえに。
自分は何もしてやれていないとセレストは自嘲する。実にみっともない大人だ。
「だがまあ、そいつもそのうちなんとかするさ。なんたってオレは――」
「!!!!」
特別だからな、と続くであろうその言葉を、ネスは激しく首を横に振って遮った。
彼女は知っていた。
傲慢にすら聞こえるその言葉が、実際は彼を呪縛するものであることを。
自信に満ちたその笑みが、己の不出来を憎む泣きじゃくりであることを。
彼女の太陽が、自身を英雄のふりをする偽物だと信じ込んでいることを。
だから、そんな顔をさせたくなかった。そんなことはないと伝えたかった。
形がなくとも、目に見えなくとも、それはある。
彼と彼らが与えてくれたものが。
彼と彼らと紡いできたものが。
この心の中にちゃんとある。
だからネスは願った。
どうにかしてその厚意に報いたいと、強く祈った。
喉の奥に込み上げる熱いものを、渾身の力で織り上げる。
「セ、レ……!」
ぎゅっと両手で彼の手を掴み、呼んだ。
絞り出された精一杯の声に、セレストはただ目を瞠る。一瞬の驚愕ののち、くしゃりと泣き出しそうに破顔した。
「おい。おい、ネス公。ネス公、お前……!」
後は、言葉にならない涙声だった。
ネスを背中から抱き締めて、彼は整えたばかりの髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
――受けて継いで、渡していっておくれ。そうすりゃアタシもここで死なない。
前へ。先へ。
言われた通り、誓った通り、歯を食いしばってきた。
時に見失いかけ、時にへし折れそうになりながら、それでも歩き続けてきた。
所詮後悔の誤魔化しだと、この行為に意味などないと考えた夜もある。
だが、それらは決して無駄ではなかった。
腕の中の小さな温度が、そう教えてくれている。
全ては巡り、そしてここへと繋がった。
幾度沈めど、陽はまた昇る。
至極当然の顔をして。
それは奇跡などではないのだと、今、痛いほど思い知る。
――あの婆も。オレに、こんな光を見てくれたろうか。
願う。
せめて、そうであってくれと。
「! ! !」
前後にぐらぐらと揺さぶられつつ、むふー、とネスは満足の息を吐く。
自分はきっと失くしたままで、まだまだ足りないものだって多い。
けれど、それでも。
わたしは今日とて幸福なのだと、自信を持って胸を張れる。
そんなふたりのありさまを、こっそり覗き見る目があった。
早朝の鍛錬と行水を済ませたオショウとケイトである。
煮炊きのよい香りに惹かれて厨房まで来たものの、平素空気を読めない両名であるが、そんなふたりですら入るに入れなくなる空気だった。
結果としてオショウは戸惑いつつ、ケイトはわくわくと一部始終を窃視し、やがてオショウが小さく、「善哉」と頷いた。
人の心にいささか疎い彼の目とて、それは取り戻しえた幸せの景色なのだと理解できる。
だからオショウはそう誇りを抱く。微力ながら、自分もそのことへ貢献できたのだ、と。
感慨に耽るさまを敏く察したケイトが、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「うむ!」
寄り添って、密かに囁く。
それから、こまっしゃくれた合掌をした。
「――うむ」
応じて笑んで、オショウもまた両の手のひらを静かに合わせた。
ふたりの見守る先ではネスが、よしよしとあやすように、セレストの頭を撫でている。
これにて三部は完結です。
ここまでのお付き合い、誠にありがとうございました。




