我法砕き
ふむ、とひとつ息を吐き、オショウは蹲るナハトゥムを俯瞰する。
霊動甲冑より引き出してみたアーダル王は、二十前半と見える女だった。ネスフィリナを含めた一男三女を産んだと聞くが、にしては随分歳若い。
霊術を擁するこの世界においても出産が一大事であるのは、パケレパケレのお産を手伝っただけのオショウにもわかる。つまりそれは彼女の身に差した、過去の無体を連想させうるものだった。
王は、透き通るように白い肌をしていた。まるで生まれてから一度も日に当たったことがないような、それは病的な白さだった。
紅も差さぬのに赤い唇が、まるで異形の花のように息づいている。
纏うは豪奢ではなく、いっそ簡素な衣服である。行動の妨げとならぬことを第一に配慮したそれは、女官長として王に仕えるための装束なのであろう。
その下に隠れた四肢と腰とは折れそうに細く、それでいて胸元は扇情的に豊かだった。俯いた顔、泣き濡れた頬に手入れされた細い髪が纏いつき、ぞくりとするような色気を醸している。
ネスがそのまま成長したならと思わせる顔であったが、王の面にかの少女の純朴はない。むしろそれは、性質をさかしまにする種類の美貌だった。不健康で不健全で、けれどひどく退廃的に調和を保つ。脆く危うい、病的な美だ。
嗜虐の心を唆る艶姿は十二洞府に弄ばれた所以であり、同時に女の武器――彼らを魅惑し、我法の距離に捉えるべく研ぎ澄ました牙でもあったのだろう。
恐怖にびっしょりと汗をかきながら、彼女は誰の助けも求めずにいる。その唇は誰の名も紡がない。友どころか、親兄弟のものすらも。
そうした関係すら忘れ果てたのか。或いは心を許せる相手など最初から持たなかったのか。
真相は窺いしれない。が、観念したナハトゥムは先ほどまでの足掻きすら止め、ただ己の体を抱き締めるように丸くなっている。
つまりそれは、こうした危地へ手を伸べてくれる存在が、彼女にないことの証左だった。
そのことを感得し、オショウの中に少しばかり哀れみが湧く。決して、蹴るだけ蹴ってすっきりしたわけではない。
だがしかし、この女が巧みに我法を用い、悪意を以て謀略を紡いだは確かである。決して無垢な、同情すべきだけの存在ではない。ならば責を問われるべきであろう。
これをどう処すべきか。
腕を組んでしばし考え、オショウは複製された記憶の中から、ひとつの答えを発見した。
「うむ」
漏れた呟きに、王はびくりと身を震わせる。涙に濡れた瞳がオショウを見上げた。
被る危害を軽減すべくの手管であったが、オショウはこの種の惑を解さない、この上なき硬仏である。
そして何より僧兵は、既に降すべき処置を 胸三寸に決していた。
――これは童である。
誰からも向き合われず、誰とも関わらず、誰にも救われず、ここまで歳を重ねてしまった童である。そのように彼は思う。
ならば。
「ひぃぃぃぃ!!」
自らへと踏み出された一歩に反応し、ナハトゥムが身も世もない悲鳴を上げる。
が、逃げる間などありはしない。またしても腰帯を掴まれ、釣り上げられた。
オショウが見つけた回答とは、寺の障子を破って回った稚児への対応である。そう。悪さを為した幼子へ仕置など、古来より決まり切っているのだ。
「な、何をひぃぃぃぃん!?」
ばちぃん、と。凄まじい打撃音がした。
オショウが加えた一撃であるが、当然ながらそれは、ナハトゥムの肉体を打ち砕くためのものではない。十二分に手心を加えつつも容赦のない平手打ち、つまりは尻叩きである。
とはいえ、打擲を為すのは諸行を無常へ帰す僧兵だ。
ただひと打ちがもたらした途方もない激痛に、ナハトゥムはこれまで以上に叫喚するた。
だが足掻こうと藻掻こうと、オショウの腕は小揺るぎもしない。ゆうゆうと宙に彼女を固定したまま、ばしんばしんと平手が鳴る。
「ま、待って、本当に痛い、痛いから! ごめ、ごめんなさい! 悔い改めます。ボクが悪かったから。謝るから。ごめんなさい。何でもする、何でもしますから許――!?」
オショウの眉根が寄り、更に厳しくもう一打が加えられた。
王の言葉に反省がなく、ただこの場を逃れんとするだけのものと見て取ったからである。
詫びる先が違う。何より、何故己が詫びねばならぬかを理解していない。
何を咎められるか、それを自ら悟るまで続ける必要があると思った。
そしてオショウの眼力の通り、ナハトゥムは考えていた。
この責め苦、この状況さえ耐え抜けば、きっと挽回の目があると。
自分はこれまでだって乗り越えてきた。どんな屈辱も、恥辱も。好機は必ずまたやってくる。
この切所を抜けさえすれば、逃げて、隠れて、またやり直せる。だから、だから。
「ひいいいいいいん!?」
そんな甘い妄想で堪えられる折檻ではなかった。
叩かれた箇所が、火がついたように熱い。そしてその激痛はやはり火に似て、全身に燃え広がっていくのだ。
刺し貫くような鋭い痛みはじんじんと鈍いものへ変化して、いつまでも被打撃部に残留する。そしてそこから通念した気が、静電気のように全身を駆け巡り、そのたびにびりびりと皮膚も内臓も苛まれるのだ。
ただ一度でそのありさまなのに、テラのオショウは容赦を知らない。
与えられた痛苦が収まるを待たず、更に次の波を叩き込んでくる。
オショウからすれば、この行為は暴力ではない。己の罪を自覚させ、その上で悔い改め、以後の自戒とさせるためのものだ。言うなれば、冥府獄卒の責め苦と同質であるだ。
が、問答無用に尻を叩き、疾く罪を自覚し悔い改めよと迫るのは、正直無理無体の無理押しでしかない。
「なんで、なんで。ボクの言う通りにすれば、ボクに従えば、みんな幸せになれるのに!」
涙声で吐き出させられたのは、紛うことなき王の本音だ。
忘却とは福音である。嫌なこと、悲しいこと、苦しいこと。それらは全て忘れてしまえばいい。そうすれば、後に残るは幸せのみだ。傷もなく、悔いもない。あるのは完全なる満足ばかりだ。
なのに、どうしてこいつらはそうしない。わざわざ辛い道を選んで歩く。
「尊公は幸福を与えられぬ。また、至れぬ」
答えと同時に、ばちぃんと、凄まじい音がした。
「それは尊公が無価値だからでも、無能力だからでもない。幸福のかたちを知らぬからだ」
ばちぃんと、言葉の区切りごとに、また。
「そも、そのかたちとは各々が、各々の心にて定めるものだ。得て慈しみ、欠けて失い、それでも歩み、数知れぬ体験を積み上げたその先に見出すものだ。尊公はそれを得てはいまい」
一拍の間を置き、更にばちぃん。
「斯様に己のかたちすら知らぬ者が、他へそれを押しつけるなど言語道断」
「待って、許して、やめて。もう痛いの嫌だ。謝るから。ごめんなさい、ごめんなさい。もうしない。もうしません!」
ぎゃん泣きする成人女性の尻を、容赦なく叩き続けるむくつけき坊主。まさしく地獄絵図である。
そしてオショウの後を追っておっとり刀で駆けつけた駆けてたセレストと、別ルートから合流すべく馳せ参じたミカエラたちが目にしたのは、まさにその光景であった。
「これは……。いや……これ、は……」
「待て何してんだお前無敵かよ」
友人との再会の喜びもそこそこにミカエラは紡ぐ言葉を失くし、流石のセレストも天を仰いで額を抑えた。
「見ちゃ駄目。教育によくない」
「ええ……?」
すぐさまイツォルに目隠しされたのはカナタである。
背後から背伸びの格好で両目を塞がれ、少年は二重の意味で困惑を漏らす。
「もしかして、見たい?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、このまま」
「……はい」
一同、ただ混乱して立ち竦むばかりである。
「あら。お優しいですわね、オショウさま」
そこへまったく趣の異なる見解を述べたのは、ネスを連れ、共に遅れてやって来たケイトだった。
「おい待て正気か?」
予想外のひと言に、セレストが声を張り上げる。対してケイトは、きょとんと首を傾げた。
「確かに、しばらくは玉座に腰かけるのも大変になりそうですけれど」
「そういうことじゃねェ。そういうことじゃねェんだよ! いや……ねェよな?」
常識の平衡感覚が狂いかけたセレストが、つい思わずで自問する。
だがどう見たところであれは、力と言葉で教訓を叩き込む、とんだ体罰の現場である。
絵面だけですら途方もないが、更に言うならば今、目の前で実施されているのは我法砕きであるのだ。
我法使いとは、そのままでは決して救われない己の想念を解決すべく、法に至った者の総称である。
法の方向性はその人間性に応じて異なれど、それらは共通して世界を歪める。彼らにとっての現実で、あるべき現実を改変するのだ。
それほどに強い想念とは、つまり人の生き方、在り方そのもの。自分自身の基盤とすら言いえるものである。
が、時にその法が砕けることがある。
為せると思えば為り、為らぬと思えば為せぬが我法だ。傲慢に増長したその意識は、本来己の誤謬を認めない。歪んだ心根そのままに、周囲を同じく歪めていく。
ゆえに法の砕けとは、そんな自身の想念がどうしても叶わないと自覚した瞬間に訪れる。
よくある法例として、それは死者蘇生である。
愛した者との永訣に際し、道理を拒んでその帰還を願うは人の心の当然の働きだ。ゆえにこのような我法はしばしば現れ、そしてほぼ例外なく自壊する。
我法は、その法の圏内において、確かに黄泉路より還らざる者を呼び返す。
だが世界を塗り替えるほど深く慕い、強く再生を望んだ相手であるだけに、誰よりも我法使い自身が気づいてしまうのだ。
蘇った者の、その歪さに。
それは故人そのものではない。我法使いたる己が知る死者の一側面。ただの虚像であり、焼きついただけの残像であることに。
不可能を認識すれば我法は砕け、死者は死に戻る。そうして、法もまた失われる。
心を切り替えればよいと思う向きもあるだろう。が、やすやすと乗り換えられる程度の想いであれば、そもそも法へは至らない。
そして法の喪失とは、我法の砕けとは、即ち人格基盤へのひび割れである。
砕け散った幻想の欠片は、より手ひどく心を切り刻む。
自我の支えとしてきた精神基盤を打ち砕かれるに等しい出来事であり、それまでの人格を打ち壊すに十分な衝撃であるのだ。
一例を挙げるならば、それはラーフラだろう。
人類撲滅のために魔軍招聘の異能を備えた魔皇は、オショウという守護者が人類にあり、彼ある限りその想念は決して叶わぬと認識してしまった。
ラーフラがテトラウラムに属し、人に手を貸す格好へ収まったのは、異能を封じられたためならず。オショウに加えられたメンタルブロウの割合こそが大きい。
我法砕きとはこのように、強制的な自己変質である。
肉体的にも精神的にも、計り知れない痛みを伴うものだ。
己のかたちが溶け消えていく恐怖と不安はセレスト自身が味わったばかりであり、その折、心身が上げる悲鳴には理解がある。だからこそケイトの言葉に得心しかねたのだが、
「それにあれって、戦後処理の軟着陸にもなりますわよね? なりませんですかしら?」
そう続けられ、考えを改めた。
現状の哀れはさておき、ナハトゥムは我法を用いて国を恣とし、更にはその支配下にない都市へ喧嘩を売った。
今宵の事件をどう公にするかは未だ決定しかねるところであるが、どうあれこの責は必ず追及されるべきものである。しかしその折、王にのみ罰が及び、十二洞府どもが安穏と生き延びるのは業腹だった。
どうにか王のみならず、彼らへも罪を着せたい。
何よりセレストには、ナハトゥムに対する憐憫がある。「なんだかんだでネス公の親だ」と、彼はそう思っている。
全面的な和解は無理としても、まあ正面から喧嘩する余地くらいは用意しておいてやりたい。
そこらを勘案すると、この尻叩き、我法砕きは悪くないのだ。
――王は、一件を見事解決したテラのオショウにより既に制裁を受けている。
この強弁で追加の裁きを回避しうるからだ。
自身の鬱憤を誤魔化すように、セレストは顔の前に立てた人差し指を一回転、二回転。
王にくれてやる予定だった拳骨の代わりの、落としどころを腹に決める。そうして、声をかけた。
「そこまでだ、オショウさん」
「む?」
セレストに目を向けながら、またもばちぃん。この男、心底容赦がない様子である。
「そいつは一応ネス公の親だ。そこらで勘弁してやちゃあくれないか」
「うむ」
どう説得するか思案しつつの言葉であったが、オショウはすぐさま頷き、ナハトゥムを解放する。
オショウにしてみればこの戦はセレストに奉るものであり、元来からして助太刀である。当のセレストの意向を最優先にするは当然のことだ。
叩かれ続けたナハトゥムはひいひいと這いずって、セレストの陰に隠れた。救い主、唯一の庇護者とでも見えたのだろう。服裾に縋るその手を、セレストは邪険に振り払う。
そうしてから、しゃがみこんだ。ナハトゥムと目線を合わせる。
びくりと彼女が身を竦める。逃げ出したい。目を背けたい。でもそうしたら何をされるかわからない。そんな恐怖から、王は視線を逸らせない。
「なァ陛下。これで骨身に染みたろう?」
小さな子供にするように、セレストはにっこり微笑んだ。
親しい者ならば、続く罵詈雑言を直感するいい笑顔である。
「お前は幸せになれない。どれだけ策を弄そうと、我法に頼ろうと。お前は絶対幸せになれない」
予想通り、彼は断定的に呪いを吐いた。
尻叩きの激痛から逃れ、一瞬弛んだ心を刺し貫く言葉だった。
「な、なんで。やってみなくちゃ……」
たまらずナハトゥムが反論する。
それは至福の名を持つ、自身の我法に関わる言いなのだ。口を挟まずにはいられない。
が、その返しを待ち受けていたかのように、セレストが満面の笑みを浮かべる。
「いやだってよ、お前、オショウさんに見つかっちまったんだぜ? もし今後お前が何かしたら。実際は何もしていなくても、何かしたと思われたなら。その途端、これが飛んで来る」
告げながら、立てた親指がオショウを示した。
腕組みし、「うむ」と頷くオショウ。阿吽の呼吸である。
「やだぁぁぁぁぁぁ!?」
途端、死の恐怖が蘇った。
霊動甲冑の中で嗅いだ、鼻を突く、焦げた金属の匂い。
耳を襲う、装甲板の抉れる音。
そしてぬうと視界を埋めた、あの禿頭。
また、これが来る。やって来る。そうして情け容赦なく尻を叩かれるのだ。
わっと嫌な汗が噴き出した。項垂れ、全身から力が抜ける。
か細く歔欷を漏らしながら、やがて彼女は視線を一点へと向けた。そこにあるのは、ケイトと手を繋ぎ、ミカエラに労われるネスフィリナの姿だ。心やすい仲間たちに囲まれ、慈しまれるそのありさまだ。
昏く妬ましく。土に手を突いたまま、ナハトゥムは娘を睨め上げる。
「大方、思ってんだろ。『お前が幸せになるなんて許さない』なんてよ」
「ひっ!?」
不意に視線を遮られ、ナハトゥムはまた怯えの声を上げる。
図星を言い当てたセレストは、すいと目を細めた。
「馬鹿かお前。なんでネス公の生きざまに、お前の許しがいるんだよ」
「ボ、ボクはあれの母親で」
「なら当然、違う人間じゃねェか。ネス公がお前とは別の生き方をして、勝手に幸せンなるのは当たり前だ」
ずばりと切って捨てられて、ナハトゥムは絶句する。
彼女は未だ娘を、自分のものだと考えていた。十二洞府の洞主たちが、ナハトゥムをそのように思うのと同様に。
「だかな、勝手に幸せになれるってのは、お前にも言えたことだぜ、陛下」
「え?」
「これからお前は、お前のやらかしたことの責任を取らなきゃならねェ。境遇がどうあれ事情がどうあれ、決断して行動したのはお前だ。尻を持つのも当然お前だ。だから、お前が幸せになるのはその後だ」
「え……?」
目をぱちくりと瞬かせ、ナハトゥムは大いに戸惑う。
「またぞろ何か勘違いしてやがンな。いいんだよ、ガキは間違えても。それを嗜めてから許すのが大人だ。てなわけで、お前は縋れ。我法じゃなくて人を頼れ。どこにだって助けはいる。たとえばお前が心底からネス公に詫びて関係改善を図るなら、少なくともオレの助力がついてくる。そういうことだ」
ゆっくりと言葉を咀嚼してから、彼女はセレストを見上げた。
確かめるように、おずおずと尋ねる。
「助けてくれる、の?」
「当たり前だ。なんせオレは特別で、しかもお前はネス公の親だ」
ちらちらとこちらを窺うネスを手招きしてから、セレストは遠いものを見る目で続けた。
「覚えとけ。ガキが親を慕うのに理由はねェ。それからもこいつも覚えとけ。世界ってのはな、お前が頭ン中で思うより、ずっと優しくできてるんだぜ」
呼ばれて寄ってきたネスの背を押す。
勢いをもらった少女は母へと近づき、両膝を突いてその顔を見た。手巾を取り出し、その涙を優しく拭う。
「親子仲の取り持ちとは、いつもながらお優しいことだ、セレスト・クレイズ」
音を立てずにこそりと離れたセレストへ、気の知れた声がかかった。
「結構なご高説だが、私は思うよ。人を頼るのが下手なのは君もだとね」
「うるせェよ。正論馬鹿か」
たちまち返る減らず口に、ミカエラはお手上げとばかりに片目を瞑る。
「大体な、頼る相手がいたとしても、頼り切りってのは間違いだ。……ただまあ、だがまあ、今回に関してはアレだ。その……手間ァかけたな、相棒」
「何、いつものことさ」
双方ともに気の置けない笑みを浮かべ、高く上げた手を互いに打ち合わせた。
*
これより長く時を経たのちの、余談である。
各地で事績を称えられるテラのオショウであるが、駄々を言う児童に対する脅し言葉として、その名を用いる地方がアーダルには今も残る。
――オショウ様が来るよ。
――いい子にしないと、テラのオショウがおしりを叩きにやって来るよ。
それが何者であるか、おそらくは直感するのだろう。
言われた子は覿面に大人しくなるか、火がついたように激しく泣き出すかのどちらかになるという。




