ブッダカウント・スリー
荒い息が、暗く狭い供犠筒内に木霊する。
供犠筒とはナハトゥムが心血を注いで作り出した、彼女の叡智の結晶とも呼ぶべき機構だ。名に負う通りの金属筒は人体を内包するサイズを備え、祈祷塔の霊素賦活効能めいて、筒内に納めた人格の同調能力を拡大する。
強い同調能力を備えなかったナハトゥムが、甲冑繰りを行うのに必須の品であった。
加えて、現在彼女が納まる供犠筒は更なる特別製だ。新型甲冑群に逆同調を行い、遠隔からフィードバックなしにそれらを操縦することをも可能とする。
筒自体の強度も高く、甲冑自体の装甲と併せ、厚く搭乗者を防護する堅城と言えよう。
が、その供犠筒の中で、王は震える両手で自らの肩を抱いていた。
乱れた呼吸はまだ治まらない。
びっしょりと冷たい汗をかいている。ばくばくと、心臓が脈打っていた。
これほどの恐怖を覚えるのはいつ以来だろう。
ナハトゥムの生涯にはいくつもの恐怖と屈辱があった。
が、法に至って以降、それらは過去のものと成り果てた。
仮に一時退くことがあろうとも、必ず舞い戻って雪辱を遂げうる。それだけの力をナハトゥムは得たのだ。
ゆえに彼女は、久しくその味を忘れていた。
今夜、ついさっきまでは。
ナハトゥムを恐慌に陥れたのは言うまでもない。新型甲冑群最後の一体が最後の視界に映したもの――即ち、テラのオショウである。
あのような暴力は、見たことも聞いたこともなかった。
報仇雪恨を誓うどころではない。あれはただひたすらに逃げるしかない代物だと、遠隔視での対面からですら理解できた。何の力もなかったあの頃のように、見つからないことを祈って息を殺すのが正解としか思えない圧力だった。
筒内で、王は膝を抱え、体を丸くする。
特別製の供犠筒は、やはり特別に手をかけたカダイン製の大型甲冑に組み込まれている。彼女は最後に自らを守る砦として、従来のカダイン型甲冑を選択していた。
何種もの、何領もの新型甲冑をロールアウトさせつつ、ナハトゥムは捨てられなかったのだ。自分もカダインの甲冑繰りでありたいという願望を。そうなることで己が無価値ではないと、誰よりも自身に証明したいという拘泥を。
既存の甲冑とはいえ王の搭乗する機体である以上、十二分のバージョンアップ済みなのは先に特別と述した通りだ。
祈祷炉は改良、増設されて出力を増し、兵装も装甲もより進化を遂げ、洗練を重ねている。
けれどその堅固を以てしても、王の不安はなお拭えない。
新型甲冑群を繰るために、ナハトゥムは戦場に在る必要があった。
供犠筒の増幅があるとはいえ、操作対象との距離が広がれば広がるほど知覚共有は困難になり、連れて甲冑繰りも精度を欠く。だから彼女は常通り、安全な遠隔地に座したままではいられなかった。
それゆえナハトゥムは万一の自己防衛手段として、供犠筒を霊動甲冑に搭載した。更に陣図を重ね、徹底の隠蔽を施している。
そもそも見つかるはずがなく、また誰に居所を発見されようと、逃げるも逆捩じを食わすも自由自在。そのはずだった。
が。
王は思い出す。奇妙な掌印を結んだ、先のオショウの姿を。
またもナハトゥムの身を震えが襲い、がちがちと上下の歯がぶつかり合う。来迎印の意味するところはわからねど、僧兵の恐怖は骨の髄に染みていた。
あんなものと直接の顔を合わるなど絶対に御免蒙る。
だが。
――あれは、「来る」と言った。
いくら見つかるはずがないと否定しても、確信してしまう。
テラのオショウはきっとここを暴き立てる。必ずここへ現れる、と。
――逃げなくちゃ。そうだ、逃げなくちゃ。
恐怖に囚われた幼い思考が、ひとつの解に至った。熟慮もせず、その答えへ飛びつくような決断を王はする。
内蔵祈祷炉が、白く活性化した霊素を周囲に吐いた。
機体の両眼に光が灯り、片膝を突いた姿勢からゆっくりと立ち上がる。
封入式霊動甲冑、起動。
膨れ上がった霊術的圧力に圧し除けられ、隠蔽陣図の機能が崩壊する。機体の四肢と背部に設置された排霊孔が白く長く、炎のような霊素の尾を噴出。巨大な鉄の塊とは思えぬ速度で甲冑は疾走を開始する。
自分の居場所は、まだ特定されていないはずである。ならば発見されるその前に最大速力で逃亡し、姿を晦ませばよい。そうした心積もりだった。
しかし、ナハトゥムは失念している。
他者を侮り慣れた王は、自ら招き寄せたイツォル・セムの存在を忘れ果てている。
オショウという恐怖に目隠しをされ、イツォルの脅威を一切計算に入れていない。彼女の隣には城中を知り尽くす神眼、ミカエラ・アンダーセンまでもが控えるというのに。
或いは彼らが心魂工房洞主、ヨアヒム・セルズに打ち破られ、拿捕されているに違いないと、甘い確信を抱いていたのやもしれぬ。
真相はどうあれ、
「見つけた」
だからその時、彼方の位置で、千里眼がわずかに笑った。
「オショウ様の脅かしが効いたみたい。……出てこなければよかったのに」
幾分の同情を含みつつ、イツォルは素早く位置情報をオショウへ同期。
そして、どん、と。
腹に響く鈍い音が轟いた。
迦楼羅天秘法で宙を翔けるわずかな時間で、オショウは思う。
自身がナハトゥム・アーダル・ペトペへ向ける、強い忌避感。それは何処より発するものであろうかと。
己の内を探ってみれば、やはりその根は、かの王の執行する法にあろう。
導法・至福。
法名こそ知らぬものの、オショウはそれが人の記憶を弄るものだと聞き及んでいる。
そして記憶に関する強い想念がオショウにはあった。
彼は、従軍複製僧兵たちは、本体の記憶を複写されている。
守るべきものが何かをしかと認識し、己の心を奮い立たせるための処置だ。確固たる心の礎を持たない複製者の精神を、より安定させるための仕業でもある。
与えられる記憶は偽りではあるが、オショウらの礎でもあるのだ。
何を好み、何を嫌うか。何故愛し、何故憎むか。己の幸不幸の正体を定めるものがそこに根差しているからだ。
記憶とはつまり、人のかたちであろうとオショウは思う。
ゆえに。
真の生を経た人々の記憶は、模造品たる己のものより一層に尊い。
その人間が体感してきた、ふたつとない人生の、時間の結晶である。
培養槽を出でてのち――特にケイトに喚ばれこの地に生きてからの経験を顧みれば、尚更強く、そのように感じられる。
そうしたかけがえのないものを、己が恣意のままにする。どころかその振る舞いに、何の躊躇も覚えない。そのような王の在り方が、オショウには甚く癪であったのだ。
そしてアーダルの地を踏み、それだけではなくなった。
新型甲冑群の繰りに代表される、自身は安全圏にありながら、他者に命を擲たせようとする戦略。それは踏みつけるものの辛苦を想像だにせず、暖衣飽食を貪る行為としてオショウの目に映る。
伝聞と憶測から、ナハトゥムにも惨憺たる過去があろうとは察しがつく。
が、それは決して免罪符となるものではない。一度辛い思いをしたら、後は何をしても許される。そのようなことは断じてない。
むしろ昔日の悲嘆があればこそ、傷つく心に理解が及ぼう。それに寄り添う働きも、また出来ようというものではあるまいか。
少なくともセレスト・クレイズはそのようにする。他の戦友たちも、これまで見てきた善き人々も同じくであろう。
そして誰より、ケイト・ウィリアムズだ。
人類の未来を双肩に託され、自死を求められ、それでいてなお、「楽勝ですわ」と笑んで見せた娘の善性を思う。
つまるところ王の所業の悉くが、オショウの癇に障るものだった。
知者を気取るならば、まず想像力を鍛うべきなのだ。己の投じる石がどのような波紋を起こすか。それを微に入り細を穿って慮ってこそ賢者であろう。
他者に強く配慮と行動を求めるこの思考は、義憤ではなく私憤であると認めざるを得ない。
が、それでも唾棄すべきものとの感は変わらず、オショウの怒りのカウントがまたひとつ進む。
そして。
「ひいッ!?」
どすんとオショウ降り立った時。行く手を塞がれたその時。
機体の中で、ナハトゥムは恥も外聞もない悲鳴を上げた。
大きな鉄の塊と、小さな人の影。
どちらが優位か、どちらが強者か。最早語るまでもないことである。
城からはまだわずかも離れられておらず、逃亡の失敗は明らかだった。
それで王は、感情のままに甲冑の両腕を繰った。怯えた女子供が虫を叩き潰す勢いで、鋼の腕を振るった。
大気を圧し轟音を伴い、両の拳が上から迫る。
肉体をぺしゃんこに、形を失うまで叩き潰そうと、途方もない質量と速度とが炸裂する。
それをオショウは、事も無げに流した。
結界による防御ではない。わずかに力を加えることで柔らかにベクトルを逸らし、ただ無為に大地を打たせたのである。力任せの打撃は技に捌かれ、地を深々と穿つ。
つまりは瞬時にして、両腕を封じられた格好だった。
そこへ厚く鋭い呼気と共に、鉈のようなオショウの蹴りが閃く。
踏みこみつつ繰り出された右中段回し蹴りは美しい弧を描いて眼前の左拳を、霊動甲冑の装甲を、それが粘土か何かのように抉り飛ばす。
無論、ただの一打擲のみその動きが止まりはしない。
蹴り足を軸足に踏みかえ、次は左の後ろ回し蹴り。斧刃と化した踵に右前腕が消し飛ばされた。
もう一度蹴り足を軸足に踏みかえ、再び右回し蹴り。慌てて受けようとした右手が消失する。
オショウは更にもう一回転。次いで左前腕が、二の腕が蹴り飛ばされた。
それでもオショウは止まらない。彼の回転は迦楼羅天秘法により、加速し加速し加速し加速。蹴り足の唸りが、回転数が増し、その全てが真言蹴となって、幾重にも真言を誦す。
やがて左右の蹴りが描く弧が輪として繋がり、経文が響き渡るう中、オショウの体がふわりと浮いた。コマのように回りながら高度を上げ、残る霊動甲冑の巨体を削り取っていく。
丸鋸輪廻。
真言蹴と迦楼羅天秘法の複合仏技。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。六つの道を魂魄が輪廻転生し続けるさまにも似て、それは無限に回転する寂滅の具現だった。
右の頬を打ったなら、続けざまに左の頬も打ち抜くのが仏道である。ならばこの技はその体現と言えよう。
瞬く間に甲冑の両腕が消え失せた。
その肩口まで上昇していたオショウが高度を落とす。それは技の終了を意味するものではない。続けて左足が、右足が、つま先から抉られ、千切られ、宙を舞う。
幸いにもと言うべきか、カダイン型の同調機体であるから、ナハトゥムに痛みが伝達されることはない。
が、蹴られるたびに伝わる衝撃は、鳴り響く打撃音は、彼女の精神を切り刻むに十分なものだった。
供犠筒の中で、彼女は直感させられる。
死ぬ。殺される。このままでは甲冑と同じく、肉体を寸刻みにされてしまう。
「うわ、わあああああ……」
怯え果てて漏らした声も、悲鳴とすら呼べない呼気のようなものだ。
だが萎縮しきった脳が、ようやくひとつことを思い出す。
――そうだ、我法だ。ボクには幸福に至る方があるじゃあないか。
このような恐るべきものから、こうした絶望的な状況から逃れるために、彼女は法に至った。
忘れてしまえば、傷つかない。
忘れられてしまえば傷つけられない。
だが王の我法は対象との距離によってその性能が変質する。一方的な近接戦を受けるのが現状とはいえ、王が納まる機体胴部に損傷はなく、彼我の位置関係では法の間合いにまだ遠い。十全かつ高速な執行には、肉体的接触の必要がある。
――待て。待ってくれ。
そこまで思って、王は違う恐怖に身震いする。
――直接触れる? あれに? どうやって?
――赤熱する鉄のようなあの男に、どうすればこの手が届く?
不可能としか思えない話だった。
法すら彼女を、幸福へと導いてはくれない。
目を閉じ、顔を覆う。ぎゅっと身を小さく縮めた。
腹の中の赤子のようなその姿勢は、幼い頃から理不尽に晒されるたび取ってきたかたちだった
そのまま、どれほどが経ったろう。
ふと気づけば、静寂が落ちていた。破壊音は絶え、死の回転は停止したかに思われた。
恐る恐る体を伸ばし、目を開く。
すると、夜空が見えた。オショウの蹴りが胴部を破壊し、供犠筒を引き裂いていたのである。
しばし呆然と星を仰いだのち、王は詰めていた息を吐く。
「……助かった……?」
何らかの奇跡が働いたのだとしか思えない状況だった。
だがどういう作用が起きたのかを考えるのは後でいい。今は疾く、この場を逃げ去るべきだ。そうして隠れ去ろう。二度とテラのオショウには関わらぬよう、どこか僻地で生き延びよう。
そこまで考えたところで、ナハトゥムはふと気づいた。気づいてしまった。
供犠筒の破損部と夜の他にもうひとつ、新たに見えたものがある。
小さく視界に映り込んだのは、筒の裂け目にかかる巨きな指だ。爪の先まで鍛錬を詰め込んだ、それは従軍複製僧兵の指であった。
手がかりを掴んだ指先に、力が籠もる。それは供犠筒の外装をべりべりと引き剥がしす。まるで紙細工を引き裂くような気軽さだった。
「ひっ」
そして、ぬうっと坊主頭が顔を出す。
「ひいいいいっっ!!」
我法に適した至近距離での対面であったが、執行の余裕などナハトゥムにはない。狭い筒内に、最早逃げ隠れの場所もない。
無茶苦茶に腕を振り回したが、当然何の用も為さなかった。
伸びてきた太い腕に腰帯を握られ、吊り上げられる。人ひとりを軽々と手荷物にしたオショウは、次いでぽいとナハトゥムの体を筒外に投じた。
投げ出されて地べたを転がり、しかしナハトゥムは動転したまま立ちもできずない。ひいひいと泣きじゃくりながら、ただ手足をばたつかせるばかりだ。
逃げなければとの思いはする。だがその思念が強すぎて、何をどうすればいいのかまで頭が回らないのだ。結果肉体は統制を失い、四肢それぞれが各々ばらばらの方角に遠ざかろうと蠢くばかりになっている。
やがてずしりと大地が震え、彼女の動きがびくりと止まった。
地の震えと感得されたのは、僧兵の着地音だ。
それだけで肉体が全ての抵抗を断念してしまうほどに、王の心は折れていた。
足音が近づき、ナハトゥムは己の最期を悟る。
――ああ、死ぬ。
そう思った。